「ボーカルの池尻さんは、歌は素人の私からしてもすごく上手いんですが、少し言い方がきつい時があるなあとは感じてるんです。
だからより気弱な性格の畑さんが追い詰められてるんじゃないかって思うと」
「本人たちに訊けばいい」
「そういう簡単な問題じゃないんですよ。音楽の知識もないし正直どこまで首突っ込んでいいのやら」
顔面を両手で覆い情けない声を出した坂木は指先の隙間からちらりと音代をみる。
「音代先生、軽音学部にきてくれませんか、ほら、副顧問的な感じで」
「お断りします」
「ええ、そんな即答しなくてもいいじゃないですか。大体吹奏楽部も教えてないなら放課後とか暇でしょ、手伝ってくれたっていいじゃない」
「坂木先生」
「な、なんですか」
音代はじっと坂木を見つめる。
小声で話すため近寄っていた距離。
坂木は戸惑った。
音代は変人だが、顔はいい。その端正な顔が自分に向けられれば少しどきまぎしてしまう。
「その件については、前もお断りしました」
「気が変わったりとか」
「しません」
音代はため息混じりそう言う。
坂木は不貞腐れたように椅子に乗ったまま「悩んでるのに」とくるりと周る。
その放り出された足が音代当たり、ますます音代は呆れ顔になった。
「そもそもグループで音楽をすることは、楽しいことばかりじゃありません。そりゃあ上を目指せば目指すほどぶつかる」
「ぶつかるのは分かりますけど、1人だけ浮いてる感じになってる可能性があるかもって思ってて」
「それを言ったら俺はこの職員室の中で浮いているが、いじめになるのか」
「浮いてる自覚あるんですね音代先生」
「耳元でハードロック爆音で流して鼓膜崩壊させますよ」
「伝わりづらい嫌がらせやめてくれませんか」
「じゃあもう行きます」
「 ちょっと待って」と再び腕を掴まれそうになったがするりと避けて音代は資料を片手に職員室を出ていく。
音楽室に向かう途中の廊下で音代は再び先ほどの言葉をつぶやいた。
「正確に、忠実に、か」
気持ちは分からなくもない。
お手本となる音をこれでもかというほど耳に流し込み、自分の中に落とし込むことがどれほど大変なことか。
そして、それがどれだけ苦しいことかも音代には分かっていた。
チャイムが鳴る5分前に音代は音楽室についた。
ガラリと戸を開ければ生徒たちはまだ授業が始まっていないことをいいことに音楽室にある楽器を触ったり、机に座って談笑していたりと少ない休み時間を謳歌していた。
「あ、先生きた」
音代がピアノの方へ向かえばピアノの椅子に座っている女子生徒が立ち上がってそう言う。
「すいません、どうぞ」
女子生徒たちがピアノを囲んでいた。そして音代がきたことによって気まずそうに少し距離をとった。先程まで弾いて楽しんでいたのだろう。やはり入ってくるのを少し遅らせてくればよかった。と音代は思う。だが、坂木の話をあのままきき続けるのも音代には無理な話だ。「すまんな」と軽く謝って椅子に座った。
「先生って、楽器何が1番上手いの?」
席に戻っていない数人の中の1人の女子生徒が音代にそう問う。
「ひととおり楽器はできるが、ピアノが1番得意だな」
「そういえば先生のピアノ、伴奏でしか聴いたことないからガチのやつ弾いてよ」
ーーーーガチのやつってなんだ。
「先生といったら、ベートーヴェンの『ハンマークラヴィーア』だよね」
ピアノに1番近い席に座り頬杖をついているその声の主にピアノの周りにいる女子生徒や音代も顔を向ける。
「橋田くんなんでそんなこと知ってるの?てかなに、ハンバーグ?」
「ハンマークラヴィーアね、ベートーヴェンのピアノソナタ作品」
笑いながらそう言った橋田が、音代の方を見た。
「公の場で弾いたのそれが最後でしょ、先生」
「橋田」
「あれ、でも最後まで弾ききれなかったんだっけ」
音代だけに伝わる挑発。
周りは「えーどういうことー?」と首を傾げる中音代はふう、と息をはいた。落ち着け。安い挑発にのるほど落ちぶれていない。
「そうそう、先生はクラシックの他に映画音楽とかポップスとかの作曲もやってたんだよね」
「え!先生すごいじゃん!てか橋田くんなんでそんなこと知ってるの?」
「僕、先生のファンだからさ」
頬杖をついていた手のひらで口元を隠し目を細めてそう言った橋田。
「えー!ファンってなに?じゃあ音代先生ってすごい人なの?」と盛り上がっている中、音代は橋田をじっと見つめる。橋田が何を考えているのか、音代のなにを知っているのか、今聞いたところでどうにもならないことは分かっていた。
「そういえば橋田くんもピアノ上手だよね、コンクールとかにもでてるんでしょ?やっぱ練習量とかすごいの?」
1人の女子生徒が橋田にそうきく。
「いやいや、そんなにだよ。僕はお手本を聴きまくって覚えるタイプだから。音代先生もそうでしょ?」
橋田の問いかけに音代は、「ああ」と頷く。
挑発か、本当にそれがいいと思って音代と同じように真似ているだけなのか。
それがきっかけで音代がピアノから距離をおいたことを知っているのか、音代には分からなかったが、橋田は尊敬というまぶしさの裏に悪意を添えて言葉を放っている。
「きいて覚えられるなんて、やっぱり天才なんだね橋田くん、それに音代先生も!」
純粋にうけとった女子生徒が屈託ない笑顔でそう言う。
「天才ではないよ、ただお手本をきけばきくほど1音1音が際立ってきこえてくるんだ。それを自分に落とし込んでいく。そうして完成していくんだよ」
橋田の言葉に、周りが感嘆の声を上げた中、授業を告げるチャイムが鳴った。
「授業を始める。席に戻れ」
音代は安堵の息をはき、教卓に立った。