二十一時、スマートフォンを片手に数時間前の彼女を思い出す。
目を瞑らなくても脳裏に浮かんでしまうほど、鮮明にその姿が残っている。
僕には好きな人がいた、生まれてから出逢った誰よりも可愛らしくて、守りたくなってしまうような儚さを待つ、隣の席のあの子。
その『あの子』が彼女になって、今日で二年が経つ。

「懐かしいな……」

 カメラロールを埋め尽くす写真を眺める。
あまり意識したことはなかったけれど、この二年で僕達は大人に近づいた。
身長の伸びが止まった彼女の背を僕が追い越したこと、互いの進路が決まり始めていること、将来の二人について以前より話をするようになったこと、何気ない日常を繰り返しながら僕達は変わっていく。

『お前、あいつのどこが好きなの』

 この二年で、僕が最も問われたことかもしれない。
彼らは冷ややかな目で彼女をみながら、僕に引き攣った笑みで言葉を投げる。
伝わらないことをわかっていながら、僕は彼女の素敵さを自分でも呆れてしまうくらいに並べた。案の定、呆れた顔で頷く彼らの表情に胸が痛んだ。
 僕の彼女は不器用で、時々危なっかしい。素直で、まっすぐな優しさを持っていて、僕に触れる手は暖かく柔らかい。そんな変わらない素敵さを持つ彼女が僕は好きだったりする。
彼女に欠けているところなどない、自然な優しさも、柔らかい表情も、違和感なく通る声も、全て。
ただ一つだけ、彼女に一つだけ、何を望むかと問われたら、僕の中でその答えは決まっている。
『彼女と同じ景色をみたい』迷わず、躊躇わず、僕はそう答えるだろう。だって、


 僕の彼女は、目が見えないから。


 入学して初めてのクラスで学級委員を任された僕は、彼女の隣の席だったことも相俟って行動を共にする場面が多くあった。
一緒に過ごす中で難しさを感じることも少なくなかったけれど、僕はその時間の中で彼女の繊細な優しさに惹かれていった。
初めて彼女をみた時、僕はどう言葉をかけるべきか正解を探し出せなかった。
目を布で覆っていた彼女の隣にぎこちなく座り、内容もわからない本を読んでいるフリをしていた僕の耳に、彼女の声が届いた。

『初めまして、私、アコっていうの。杏に心って書いて、杏心』

 新学期にありがちな言葉に、僕は名称のわからない感情を抱いた。
張り詰めた空気のない、彼女の柔らかく、不思議な雰囲気に心を奪われた。当時は気づかなかったけれど、それが僕の恋の始まり。

「蓮、言ってた時間より遅くなっちゃってごめんね」

「大丈夫、明日は休みだから時間にも余裕があるし、今からたくさん話せるよ」

 彼女からの着信で、僕達の通話は始まる。
これは僕と彼女が付き合って初めに決めたことで、曖昧だけど特別な想いがある。

「杏心、ちょっと前髪切った?」

「気付いてくれてたの!?昨日の夜お母さんに切ってもらったんだよね、どうかな……?」

「すごく可愛かったよ、前の長さも大人っぽくて好きだったけど、短めのも可愛らしさがあってすごく似合ってる」

「蓮にそう言ってもらえるなんて嬉しいな……ありがとう」

 彼女とはいつも質量のない会話が続く。無限に続く可愛いと、好きに結びつく言葉が並んでいく。
他愛もないことで馬鹿笑いして、終点もわからないまま違う話をする。
その繰り返しが、僕はたまらなく好きだ。

「ねぇ蓮」

「ん?」

「蓮はこの二年間、はやく感じた?それともゆっくりに感じた?」

「僕は……はやく感じたかな、でもちゃんと瞬間瞬間を覚えてる」

「よかった、私と一緒だ」

 最初は言葉すら上手に探せなかった。彼女の目がみえないという事実を前に、傷つけてしまうことが怖かった。
朝、僕が席に着くと彼女は必ず僕に『おはよう』と微笑むのだ。
きっと僕が言葉に詰まっていることを、どこか察していたのだろう。
彼女は目がみえない分、匂いや感触、声に敏感で僕や周りの変化によく気がつく。
僕はその気づきに彼女の最大限の努力と優しさ、際限のない愛を感じている。

「僕ね、杏心の『おはよう』がすごく好きなんだよ」

「そうなの?」

「毎日少しずつ違う杏心からの『おはよう』が僕の楽しみなんだ」

「そんな風に思っててくれたなんて知らなかった……教えてくれてありがとう」

「こちらこそ毎朝ありがとう」

「あのね蓮」

「どうしたの?」

「私、蓮に出逢う前まで金曜日が大好きだったの。でも今は、金曜日が嫌いなんだ」

「金曜日が?」

「そう、金曜日。金曜日がすごく嫌い、どうしてかわかる?」

「……ちょっとわからないかも」

「蓮に二日間も会えないから、だから金曜日は嫌いなの、寂しくて」

 付き合って一年程経った頃、お互いの中学生時代について話をしたことがある。
そこで告げられたことは、彼女が別室登校という形で在学していたということ。
目や身体的な面から学校に慣れることが難しく、ずっと影に隠れた中学校生活を送っていたという話を聴いたことがある。
そんな彼女が登校日の最後である金曜日を嫌う理由に、僕は無意識に口角を上げてしまった。

「僕も金曜日は寂しいよ、でもだからこそ大切な日だと思ってる」

「大切な日……?」

「二日間会えないから、その分たくさん話をして、笑おうって思えるの」

「蓮のそういう考え、私はすごく好きだよ」

「好きって伝えてくれてありがとう。今だけじゃない、二年間ずっと好きでいてくれてありがとう」

「改めて言われると照れちゃうよ……私のこと、彼女にしれくれてありがとね」

「僕がもっとかっこよく告白できたらよかったんだけどね……」

「ううん、私は蓮が素直に想いを伝えてくれたことがすごく嬉しかったし、それがすごくかっこいいって思ったんだよ」

「あの時、僕が杏心に告白した後。何も言わず手を握ってくれたこと覚えてる?」

「忘れるわけないよ、あれが私の最大限の答えなんだから」

 彼女が声に敏感な分、僕もこの二年で声への神経が鋭くなった気がする。
安全面から屋外でのデートが難しい僕達は、こうして夜に通話をすることが多くある。
最初は画面越しの彼女の感情を読み取ることが難しく、話がすれ違ってしまうことも少なくなかった。
ただ彼女の声を聴いていく中で、彼女の表情が脳裏に浮かぶようになった。
その声、息一つで、僕と彼女は想いを交わす。

「ねぇ蓮」

「ん?」

「前に一回だけ、二人で浜辺を歩いたこと覚えてる?」

「覚えてるよ、夏の夜だったよね。杏心が『波の音を一緒に聴きたい』って言ったのが始まりだったよね」

「そうそう、私ね、あの日の全瞬間が今も恋しくてしかたないんだ」

「あれが初めての二人きりの外だったもんね」

「そうだよ、初めて、初めて夜に蓮の声を隣で聴けたの」

「……」

「私は、それがすごく嬉しかったんだ」

 彼女の目は生まれつきのものらしい。
彼女は生まれた瞬間から、色も光もない世界を生きてきた。
そんな彼女は時々僕に『いつかちゃんと蓮をみたい』と溢す。
切なすぎる言葉の中には、不思議なくらいの希望が含まれているような気がして、僕はその言葉が叶うまで、いつまでも隣で待っていたいと思ってしまう。

「もし次、二人でどこかに出掛けられるとしたら杏心はどこに行きたい?」

「どこかな……夢がないって言われちゃうかもしれないけど、学校に行きたい」

「学校……どうして?」

「いつも隣の席にいる蓮をちゃんと感じながら、一日を過ごしてみたいの」

「そっか……素敵だね」

「蓮は?」

「え?」

「蓮はどこに行きたい?」

「僕は……あの浜辺にもう一度行きたい、そして今度は海の色、空の色をみて二人で話をしたい」

「海と空の色か……きっと綺麗なんだろうな……」

 少し寂しげなその声に、珍しく言葉が詰まる感覚を覚える。
きっと来るはずもない日々を語って願うことは、彼女にとって息が詰まることなのかもしれない。

「杏心」

「何?」

「僕が、杏心の目になるから」

「え……?」

「僕が杏心の目になる、色も光も表情も生きている全瞬間を使って、杏心に伝えたい」

「蓮……」

「僕じゃ……務まらないかな」

「そんなことない、逆に蓮以外は嫌だよ」

 離れているはずの彼女の温度を感じた、全身を包まれたような不思議な感覚。

「じゃあ一つ、蓮に我儘を言ってもいい?」

「なんでも聴くよ」

「あの浜辺に行きたい、一緒に行こう」

「約束する、いつか行こう、必ずね」

「違うよ」

「え……」

「今から行くの、今から私と蓮はあの浜辺に行く」

 予想すらしていない我儘が訪れた。
彼女の言葉は少し強引で、僕に断る隙は与えられていないような気がした。

「浜辺に行って、一緒に話をしようよ。蓮の家から少し遠いから、時間は少しでいいからさ」

「僕のことは大丈夫だけど……杏心に夜道を歩かせるのは危ないよ、また今度……明日のお昼でもいいよ、だから今日は」

「だめなの、今日じゃないとだめなんだ。私は本当に大丈夫、だから逢いたい」

「そう言われても……」

「お願い、今夜だけ、これが私からの最後のお願いでもいい」

 躊躇いながらも、通話を繋いだまま外へ出た。
通話越しに聞こえる扉の鍵を閉める金属音に胃のあたりが痛む、彼女の身体に傷がつくことはないか、あまり考えないようにしてきたけれど、目のみえない彼女が一人で歩いてくることができるのか、僕の頭にはどうしても否定的な結果が過ってしまう。

「僕は着いたよ」

「私ももう少しで着くよ、ごめんねすこし待っててね」

「急がなくて大丈夫だから、ゆっくり安全に来て」

 気を紛らわせるために見上げた夜空は、息を呑むほど綺麗だった。
あの日と同じ、夜の昏さを打ち消してしまうような月の光と、透明な海に反射する澄んだ景色。
波の揺れ動く音だけが響く静けさと、肌に触れる砂浜の感触、全人類が眠りについているような幸せな孤独が漂う雰囲気。
僕に視覚以外の感覚をくれたのが、他でもない彼女だということを思い出す。

「……蓮」

「どうしたの、杏心。もしかして何かあった?」

「違うの、もう一つお願い」

「え……?」

「すぐに着くから、ここからは通話を切ってほしいの」

「通話を切る……どうしてそんな危ないことを」

「大丈夫、私は安全に辿り着いてみせるから」

 有無を言わせないように彼女はそう言い残し、通話を切った。
胸の奥が五月蝿くなって、誰もいない浜辺に耐えられなくなりそうで。
僕は耳を手で塞ぎ、彼女の声を思い出す。わからなくて、彼女の本当の想いを知りたくて、ただただ数秒前の記憶を辿るけれど、それでも答えはわからなかった。
出逢った当時と同じ、答えはわからない感覚。

「蓮」

 塞いだはずの僕の耳に、彼女の声だけが響いた。
無意識に瞑っていた目を開け、彼女をみる。

「杏心……」

「よかった、いつもの蓮だ。心配掛けちゃってごめんね」

「いや、そんなこと……その前に、杏心どうして……」

 見間違えではない、僕の目に映る彼女の目に、布がない。
初めてみる綺麗な瞳と、優しく下がる目尻。それに右手にあるはずの白杖が見当たらない。
彼女の力だけで、僕へすこしずつ距離を縮めている。

「どうして僕ってわかるの、僕の顔……一度もみたことないのに……」

「みたことないよ、でもわかる。蓮の声を溢れるほど聴いてきたのは、私のこの耳だもん。みえなくてもわかるんだ」

 まっすぐ、迷うことなく、彼女は僕の隣に腰を下ろした。
いつものように綺麗で端正な横顔に、鉱石の欠片を詰め込んだような瞳。隣に彼女がいることに改めて幸せを感じる。

「蓮は顔までかっこいいんだね」

「え……どうして……」

 手を後ろで組みながら、彼女は僕の前にしゃがむ。
すこし俯いた後、彼女は僕の顔を見上げる。
 

『やっと言えた……やっと、蓮の顔がわかった』

 
 彼女の言葉の意味もわからずに、僕は彼女の手に触れる。

「どうして、どうして杏心が……」

「ごめんね、ずっと。私、すこしだけなら目、みえてたんだ」

 すぐに頷くことはできなかった、頷くどころか瞬きすらできず、頼りなく固まるだけ。

「私ね、ずっとみえることを隠してきたんだ」

「どうして隠してたの……?」

「みえなくなることが、わかってたから」

「え……」

「生まれた時から極度に視力が悪かったの、それは本当のこと」

 彼女は冷静に、それでもすこし震えた声で僕に本当を伝える。
時々言葉を詰まらせながら、不器用になりながら、彼女自身の言葉を紡いでいく。

「幼稚園の頃までは布なんてつけてなかったんだ」

「そうなの?」

「そう、頑張ってみようとしてた。でもそんな私をみんなは煙たがるような目でみたの」

「煙たがるような目……」

「それまで優しさをくれた先生も、私が面倒なことをすると気分によって酷く怒鳴るんだ。『すこしくらいみえるんだから』って」

「……」

「だから、完全にみえないフリをしたの。最初から期待なんてされなければ、中途半端な優しさを掛けられることもないからね」

 その言葉で、彼女の繊細な優しさの奥にあるものがみえた気がする。
僕が想像していたより、遥かに残酷で傷の深いもの。そんな言葉を零す君は、みたこともないほど綺麗に笑っていた。

「それにね」

「……うん」

「私の目は、いつみえなくなるかわからないから」

「そうなの……?」

「みえるようになることは、生涯ないんだよね。悪くなる一方」

「……それならみえている間に、すこしでも……」

「違うよ、私の人生はみえない時間の方が遥かにながいの」

「それならどうして……」

「覚えていたいから、みえなくなっても大切なことを、他の感覚で覚えていたいから」

「……」

「声も、匂いも、雰囲気も、視覚意外の全ての感覚で、私は大切を抱き締めていたいの」

 彼女が途切れ途切れに連ねる言葉が、僕の中へ響く。
彼女と出逢ってからの全ての瞬間に、彼女の言葉が重なる。僕の声について話したあの日も、おたがいの匂いを確かめ合ったあの日も、すべての理由が今、明かされた気がする。

「私ね、明日本当にみえなくなるの」

「明日……?」

「明日の午前中に手術があるんだ、そこで私の視力はゼロになる」

「じゃあ……今日、この瞬間が最後になるの……?」

「そう、だから今日会いたかったんだ。みえなくなる日が明日なら、名残惜しいなんて言う暇も無いと思って」

「そんな悲しいこと言わないでよ……」

「ねぇ、蓮」

「何……?」

「明日から、私の目が本当にみえなくなっても私の隣にいてくれる?」

 彼女の問いへの答えは、僕の中で決まりきった一つしかない。
彼女の瞳をみつめながら、僕は口を開く。彼女が大好きな声で、愛を誓う。

「当たり前だよ、ずっとずっと隣にいるのは僕がいい」

「私の目になってくれるって言葉、私は忘れてないからね」

「僕も忘れてなんかないよ……」

 ふたりで浜辺に来て、僕は海と空の色の話をする未来をみていた。
それでも僕達が今みているのは、おたがいの表情と涙。
一夜限りの君の瞳に僕が反射するように、僕の目には美しすぎる彼女が映っている。
取り込むように瞬きをして、抱き締める。
この一瞬を、永遠に覚えていられるように、永遠より永い一瞬を噛み締めるように。