「は? 大神?」
朱音が怪訝そうな顔をした。彼女の手が止まる。お箸からぽろっと唐揚げが落ちた。
まあそうなる、よね。納得すぎる表情である。一言も喋っていない彼との交際は、寝耳に水にもほどがあるくらい突拍子もない出来事だ。藍にとってもだが、朱音はもっと意味がわからないだろう。
卵焼きをかじりながら、藍はおずおずとうなずく。報告があると、藍は昼休みになってすぐに朱音を呼び出したのだ。弁当とともに。
「う、うん・・・・・・大神桃真」
「大神くんて、全然アイの中の登場人物じゃなかった人でしょ」
その通りである。正直名前も怪しかった彼だ。相生という苗字でよかったと心底ほっとしたのを覚えている。
ちなみに、皆が蘭に倣ってあまりにもアイ、アイと呼ぶので、本名さえアイだと思われることが多い。その場合はアイオイアイという非常にややこしい字面になってしまうのだ。アイオイランだからね? ね!
「まあ、ね。クラス一緒になったの初めてだし。でも、一気に主役級だよ。ぶっ飛んでる。急に告白されたの」
「で、付き合うことに・・・・・・ぶっちゃけどう、好きなの?」
「ん〜・・・・・・、うん。好きだよ。真摯だし、なんか、そう。いいなっ・・・・・・て」
好き、というのは朱音に心配をかけないための方便だが、少なくとも嫌いだとは思わないし、友達としてなら仲良くしたいという気持ちもある。少しその関係が歪だと思えば悪くもないのかもしれない、と思い始めている自分もいた。
「そう。なら、いいけどさ」
「うん。そういうことだから。あんまり気にしないで」
「ラブラブ現場を見ちゃうこともあると?」
「いや、ないけど」
さすがに桃真も学校で迫ってくることはないだろう。学校外でも嫌だが。
「大丈夫大丈夫。ディープキスとか、私現場見たことないから。経験として悪くないからさ」
手繋ぎも壁ドンも頬にキスもぶっ飛ばしてディープキスする前提なのはやめてほしい。
「しないから!」
「はいはい。はいはいはい、わかってるわかってる」
なにをわかっているつもりなのか、にやにやしている朱音を軽く叩く。
「まあ、それならよかったよ。これからは無理して私たちに付き合わないでも、二人で手を繋いでうふふとか言いながら帰ったり、あーんするためにお弁当二人きりで食べたりしても全然いいからね」
「無理して付き合ってないし、──たくさんの人に囲まれるって確かに疲れるけど無理はしてないし、うふふなんてそんな笑い方しないし、あーんもしないから!」
「はいはい。・・・・・・ていうか、大神くんって琥珀ちゃんと付き合ってなかったんだねぇ」
ふとにやにやを途切れさせて、朱音が首を傾げた。琥珀、というのはどこかで聞いたような気もするがどうにも思い出せない、もやもやさせる名前だ。
「琥珀ちゃん?」
「ほら、あの、幼馴染の子。可愛い子よ。目の色がちょっと茶色っぽいさ、あの子。ハーフなんだっけ? どことどこだったか忘れたけど」
「ああ! あの子ね」
同じクラスの女の子だ。小柄な体つきに琥珀色の猫目で整った顔立ちをしており、引っ込み思案なのかあまり話す機会はないが可愛いと密かに話題の子である。桃真を唯一桃真と呼ぶ人でもある。どうやら幼馴染らしいのだ。
「どうなんだろ。琥珀ちゃんの話題は出てなかったけど。まあ別にいいかな」
「もし付き合ってたとしたら、あんた相当男運悪いよ」
「やめてよバカ」
とは言いながらも、別に桃真が琥珀と付き合っていても大して傷つきはしないだろうな、というのが今の心情だ。朱音たちに心配をかけてしまうのは困るが。
朱音が本気で悩み始めた。
「琥珀ちゃんと仲良くなりたいって思ってるのに、修羅場は困る。いっそアイと縁を切るか・・・・・・」
「ならないから! やめて? 私だって琥珀ちゃんに話しかけたいとは思うし」
恐ろしいことを口にする朱音に、藍は言い返す。朱音がはたとこちらを向いた。
「え、話しかけてきてよ。アイ可愛いから」
「その因果関係なによ」
「行ってきてよぉアイ」
わざわざ箸を置き、すりすりと猫のように体をこすりつけてくる。高校に入ってからの付き合いである。素早く藍は察した。
「修羅場になるの望んでる?」
「バレた」
「こら。てかなに、朱音は琥珀ちゃんに片想いなの?」
「いや、あの子化粧してないんだよ」
ぱっと朱音が離れてから、衝撃の事実を口にする。
「え? 嘘。あんなに可愛いのに?」
漆黒の髪の毛と真っ白な肌。長いまつ毛、整った眉、桃色の唇。あれで化粧なしは恐ろしい。
「そうそう。近くで見る機会があったんだけどさ」
それはかなり特殊な機会である。どういう状況だったんだろう。
「多少手入れはしてるだろうけどすっぴんなんだよ。だから、化粧したらもっと可愛くなるじゃん。で、仲良くなりたい」
化粧がわかるかわからないか程度に、それでもその威力を十分に発揮する程度に。微妙な塩梅で施す化粧が得意な朱音。教えてあげたくてうずうずしているのだろう。
藍はうなずいた。
「なるほど」
「アイは?」
「単純に可愛いのと、名前」
「名前? 確かに琥珀って可愛いよね。目の色とリンクしててさ」
絶対親思いつかなかったんだよ、それで、目の色見てさ、あ、これだってなったんじゃない? と勝手な憶測を披露する朱音。
「まあそれはよくてさ。私の名前の由来知ってる?」
「知らない。藍色じゃないの?」
もごもごとおにぎりを噛みながら、いかにも興味なさそうに答える。
「違うよ。どこに藍色要素があるわけ」
目の色も髪も日本では一般的な、黒だ。自分の名前ということもあり確かに藍色に親近感寄りの好意は感じるが、それは先天的なものではない。
「え、・・・・・・気持ち? ブルーな? みたいな? あっはっは」
一人で意味のわからないことを言って笑っている。スルーだ。
「・・・・・・なんかさ、和名に藍って漢字のつく宝石があるんだって」
「む・・・・・・ていうか、宝石なんだ。初めて知ったよ」
お父さんが、お母さんに贈った指輪にはまっている宝石。ヨーロッパ・・・・・・ドイツだったかな。そこあたりのもので、とても貴重らしい。うん百万円するとかしないとか。
透き通った青色のそれは、机の引き出しに、リングケースとともに入っている。母から譲ってもらったのだ。
それらを伝えると、ふむふむと朱音はうなずきながら聞いてくれた。
「でさ、琥珀も宝石じゃん? だから、親近感」
「納得した。じゃあ、昼休み中に琥珀ちゃんに話しかけといてね。できなかったら今度アイス奢りね。ごちそうさま」
「・・・・・・は? えっちょっと!」
勝手な約束を取り付けて、朱音の背中は遠ざかっていく。
理不尽な条約改正のために、慌てて弁当の中身を掻き込んで包もうとし箸を落として、箸を拾おうとして弁当箱をぶちまけながらもなんとか片付けたときには、すでに彼女の姿はなかった。
「そりゃそうだよね。くそ」
肩で息をしながら、藍は少々下品に悪態をついた。と、そのとき、ふと目に琥珀が映る。これを幸運と言わずしてなんと言おうか。
チャンス。藍は走り始めた。
「こっ、こ、琥珀ちゃん!」
「あっ、はい・・・・・・?」
腰までの黒髪を揺らして振り返る琥珀。可愛い、やっぱり可愛い。
「えーとあの、あっ私、相生藍です」
「はい、存じ上げております」
とても丁寧な口ぶりだ。桃真に対してはかなりざっかけない口調だったような気もするのだが。
かすかに浮かんだ微笑みがさながら天使。
だが、少し、距離を感じる。過剰なほどの敬語にも、どこか浮世離れした笑みにも。
「あーっと、えっと」
「はい?」
「・・・・・・あっ、大神くんとこのたび、付き合うことになりました」
いやっ、なに言ってんだ私。
共通の話題を探した途端に口走ってしまった交際報告。顔が、赤くはなっていないだろうが、ひたすら熱い。
すると、わずかに琥珀の猫目が鋭くなった気がした。
「それは、桃真から言い出したんですか?」
「あっ、はい・・・・・・その、ってえ⁉︎ あっ、琥珀ちゃーんっ?」
琥珀がくるりと踵を返して走り出した。去り際に、およそあの顔に似合わないほどに鋭い、チッという舌打ちと、アイツっ・・・・・・と、恨みの籠もった声が聞こえた気がした。
***
朱音が怪訝そうな顔をした。彼女の手が止まる。お箸からぽろっと唐揚げが落ちた。
まあそうなる、よね。納得すぎる表情である。一言も喋っていない彼との交際は、寝耳に水にもほどがあるくらい突拍子もない出来事だ。藍にとってもだが、朱音はもっと意味がわからないだろう。
卵焼きをかじりながら、藍はおずおずとうなずく。報告があると、藍は昼休みになってすぐに朱音を呼び出したのだ。弁当とともに。
「う、うん・・・・・・大神桃真」
「大神くんて、全然アイの中の登場人物じゃなかった人でしょ」
その通りである。正直名前も怪しかった彼だ。相生という苗字でよかったと心底ほっとしたのを覚えている。
ちなみに、皆が蘭に倣ってあまりにもアイ、アイと呼ぶので、本名さえアイだと思われることが多い。その場合はアイオイアイという非常にややこしい字面になってしまうのだ。アイオイランだからね? ね!
「まあ、ね。クラス一緒になったの初めてだし。でも、一気に主役級だよ。ぶっ飛んでる。急に告白されたの」
「で、付き合うことに・・・・・・ぶっちゃけどう、好きなの?」
「ん〜・・・・・・、うん。好きだよ。真摯だし、なんか、そう。いいなっ・・・・・・て」
好き、というのは朱音に心配をかけないための方便だが、少なくとも嫌いだとは思わないし、友達としてなら仲良くしたいという気持ちもある。少しその関係が歪だと思えば悪くもないのかもしれない、と思い始めている自分もいた。
「そう。なら、いいけどさ」
「うん。そういうことだから。あんまり気にしないで」
「ラブラブ現場を見ちゃうこともあると?」
「いや、ないけど」
さすがに桃真も学校で迫ってくることはないだろう。学校外でも嫌だが。
「大丈夫大丈夫。ディープキスとか、私現場見たことないから。経験として悪くないからさ」
手繋ぎも壁ドンも頬にキスもぶっ飛ばしてディープキスする前提なのはやめてほしい。
「しないから!」
「はいはい。はいはいはい、わかってるわかってる」
なにをわかっているつもりなのか、にやにやしている朱音を軽く叩く。
「まあ、それならよかったよ。これからは無理して私たちに付き合わないでも、二人で手を繋いでうふふとか言いながら帰ったり、あーんするためにお弁当二人きりで食べたりしても全然いいからね」
「無理して付き合ってないし、──たくさんの人に囲まれるって確かに疲れるけど無理はしてないし、うふふなんてそんな笑い方しないし、あーんもしないから!」
「はいはい。・・・・・・ていうか、大神くんって琥珀ちゃんと付き合ってなかったんだねぇ」
ふとにやにやを途切れさせて、朱音が首を傾げた。琥珀、というのはどこかで聞いたような気もするがどうにも思い出せない、もやもやさせる名前だ。
「琥珀ちゃん?」
「ほら、あの、幼馴染の子。可愛い子よ。目の色がちょっと茶色っぽいさ、あの子。ハーフなんだっけ? どことどこだったか忘れたけど」
「ああ! あの子ね」
同じクラスの女の子だ。小柄な体つきに琥珀色の猫目で整った顔立ちをしており、引っ込み思案なのかあまり話す機会はないが可愛いと密かに話題の子である。桃真を唯一桃真と呼ぶ人でもある。どうやら幼馴染らしいのだ。
「どうなんだろ。琥珀ちゃんの話題は出てなかったけど。まあ別にいいかな」
「もし付き合ってたとしたら、あんた相当男運悪いよ」
「やめてよバカ」
とは言いながらも、別に桃真が琥珀と付き合っていても大して傷つきはしないだろうな、というのが今の心情だ。朱音たちに心配をかけてしまうのは困るが。
朱音が本気で悩み始めた。
「琥珀ちゃんと仲良くなりたいって思ってるのに、修羅場は困る。いっそアイと縁を切るか・・・・・・」
「ならないから! やめて? 私だって琥珀ちゃんに話しかけたいとは思うし」
恐ろしいことを口にする朱音に、藍は言い返す。朱音がはたとこちらを向いた。
「え、話しかけてきてよ。アイ可愛いから」
「その因果関係なによ」
「行ってきてよぉアイ」
わざわざ箸を置き、すりすりと猫のように体をこすりつけてくる。高校に入ってからの付き合いである。素早く藍は察した。
「修羅場になるの望んでる?」
「バレた」
「こら。てかなに、朱音は琥珀ちゃんに片想いなの?」
「いや、あの子化粧してないんだよ」
ぱっと朱音が離れてから、衝撃の事実を口にする。
「え? 嘘。あんなに可愛いのに?」
漆黒の髪の毛と真っ白な肌。長いまつ毛、整った眉、桃色の唇。あれで化粧なしは恐ろしい。
「そうそう。近くで見る機会があったんだけどさ」
それはかなり特殊な機会である。どういう状況だったんだろう。
「多少手入れはしてるだろうけどすっぴんなんだよ。だから、化粧したらもっと可愛くなるじゃん。で、仲良くなりたい」
化粧がわかるかわからないか程度に、それでもその威力を十分に発揮する程度に。微妙な塩梅で施す化粧が得意な朱音。教えてあげたくてうずうずしているのだろう。
藍はうなずいた。
「なるほど」
「アイは?」
「単純に可愛いのと、名前」
「名前? 確かに琥珀って可愛いよね。目の色とリンクしててさ」
絶対親思いつかなかったんだよ、それで、目の色見てさ、あ、これだってなったんじゃない? と勝手な憶測を披露する朱音。
「まあそれはよくてさ。私の名前の由来知ってる?」
「知らない。藍色じゃないの?」
もごもごとおにぎりを噛みながら、いかにも興味なさそうに答える。
「違うよ。どこに藍色要素があるわけ」
目の色も髪も日本では一般的な、黒だ。自分の名前ということもあり確かに藍色に親近感寄りの好意は感じるが、それは先天的なものではない。
「え、・・・・・・気持ち? ブルーな? みたいな? あっはっは」
一人で意味のわからないことを言って笑っている。スルーだ。
「・・・・・・なんかさ、和名に藍って漢字のつく宝石があるんだって」
「む・・・・・・ていうか、宝石なんだ。初めて知ったよ」
お父さんが、お母さんに贈った指輪にはまっている宝石。ヨーロッパ・・・・・・ドイツだったかな。そこあたりのもので、とても貴重らしい。うん百万円するとかしないとか。
透き通った青色のそれは、机の引き出しに、リングケースとともに入っている。母から譲ってもらったのだ。
それらを伝えると、ふむふむと朱音はうなずきながら聞いてくれた。
「でさ、琥珀も宝石じゃん? だから、親近感」
「納得した。じゃあ、昼休み中に琥珀ちゃんに話しかけといてね。できなかったら今度アイス奢りね。ごちそうさま」
「・・・・・・は? えっちょっと!」
勝手な約束を取り付けて、朱音の背中は遠ざかっていく。
理不尽な条約改正のために、慌てて弁当の中身を掻き込んで包もうとし箸を落として、箸を拾おうとして弁当箱をぶちまけながらもなんとか片付けたときには、すでに彼女の姿はなかった。
「そりゃそうだよね。くそ」
肩で息をしながら、藍は少々下品に悪態をついた。と、そのとき、ふと目に琥珀が映る。これを幸運と言わずしてなんと言おうか。
チャンス。藍は走り始めた。
「こっ、こ、琥珀ちゃん!」
「あっ、はい・・・・・・?」
腰までの黒髪を揺らして振り返る琥珀。可愛い、やっぱり可愛い。
「えーとあの、あっ私、相生藍です」
「はい、存じ上げております」
とても丁寧な口ぶりだ。桃真に対してはかなりざっかけない口調だったような気もするのだが。
かすかに浮かんだ微笑みがさながら天使。
だが、少し、距離を感じる。過剰なほどの敬語にも、どこか浮世離れした笑みにも。
「あーっと、えっと」
「はい?」
「・・・・・・あっ、大神くんとこのたび、付き合うことになりました」
いやっ、なに言ってんだ私。
共通の話題を探した途端に口走ってしまった交際報告。顔が、赤くはなっていないだろうが、ひたすら熱い。
すると、わずかに琥珀の猫目が鋭くなった気がした。
「それは、桃真から言い出したんですか?」
「あっ、はい・・・・・・その、ってえ⁉︎ あっ、琥珀ちゃーんっ?」
琥珀がくるりと踵を返して走り出した。去り際に、およそあの顔に似合わないほどに鋭い、チッという舌打ちと、アイツっ・・・・・・と、恨みの籠もった声が聞こえた気がした。
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