どこか遠いところで、藍、と躊躇いがちに名前を呼ばれた。どこかに沈んでいた意識がふっ、と上昇する。続いて、ふふ、と脳裏に自分の笑う声が響く。
「恥ずかしいね。初めて下の名前で呼んでもらうって」
横でもっと恥ずかしがっている蘭に言うと、彼はふぅーっと大きく息を吐き出して「うん」と言った。
「なんか、自分も、らん、だから変な感じする」
「好きな呼び方でいいよ、別に」
本当は、藍って呼んでほしかった。けれど、確かにややこしいので、そうやって提案しようと決めた。笑って言うと、蘭はう〜んとしばらくうなって顔を上げる。
「アイ、とかどう?」
「アイ?」
愛という字が浮かんでしまった自分に少し呆れて、そして幸せだと感じたのを覚えている。
「うん。藍、って漢字、藍色の藍でしょ?」
「よく知ってるね」
「え?」
らん、という呼び名を聞いてまず思うのは、彼の名でもある花の蘭という字だろうに、漢字まで知ってくれていることに、少しだけ嬉しく思う。
そんな藍の横で、指摘を受けた蘭が固まって、それから真っ赤になった。
「うっ・・・・・・その、別に、そんな、眺めてたとかじゃ」
「・・・・・・え? 墓穴掘ってるよ?」
なるほど眺められていたのか、と思うとまた恥ずかしさが押し寄せてくる。幸い藍は、恥ずかしくてもあまり顔は赤くならない性質だ。それでも自分の表情に変化がないかと言われると不安だったので、照れ隠しにからかうと、蘭はもっと赤くなった。
「うわぁあっ、最悪だ。恥ずかしい、変態みたいだ・・・・・・いや、変態だ」
頭を抱え、肩を落として絵に描いたように落ち込む蘭に、また柔らかな笑みがこぼれる。
「気にしないでよ。・・・・・・嬉しくなくもない? って感じ」
「嬉しくなくもない? 嬉しく、なく、もな──」
「言わないで! そんな真面目に分析しないで、やめてっ!」
次は藍が顔を覆って悶える番だった。顔こそあまり赤くはならないものの、恥ずかしいという感情は人並みに持っている。
蘭の優しく細められた目が、指の間からこぼれるように見えてふわりと心が温かくなる。
ひたすら幸せだった頃の幻は、額の鈍い痛みに断ち切られた。
「痛っ」
何事かと前を向くと、電柱が目の前に仁王立ちしていた。これに額をぶつけたらしい。漫画じゃあるまいしなんてツッコむ元気はない。こいつヤバい、現実にいるなんて、という周りの視線を気にする余裕さえなかった。
いつも隣にあった、横顔。
整った、見惚れてしまうような横顔。
そしてとても、とても好きだった、横顔だ。
──別れよう、アイ。
藍の全てを拒み否定する、硬い声。ずっと耳の中で反響していて、たまらず叫び出したくなるのを寸前でこらえる。
なんでだろう、と思う。クラスが分かれたから? 分かれて、新しいクラスで、──好きな子ができたからなのかな。
それはいやだ、と、一際激しい感情があふれ出そうになる。
彼が誰を好きになろうと、誰を嫌いになろうと、誰と付き合おうと誰を振ろうと。それは私には手の届かない部分なのに。
「ぁあ、ダメだ・・・・・・」
懸命におさえていたはずの涙がぼろぼろと目からこぼれ出てきて、藍は慌てて目元を拭った。悲しくて、寂しくて悔しくてもどかしくて。
人前で泣いたのなんて初めてで、失恋が人類に及ぼす多大なる影響力に少し驚きながらも──、涙は止まらなかった。
「アイ! スカッとしたぁ、いや、神じゃない?」
チャイムがなってすぐ、後ろの席にいる友達──朱音がつついてきた。途端、ぴしゃん! と乱暴に教室の前方のドアが閉まったのを聞いて、気まずげな雰囲気が教室を漂う。藍は小さくため息をもらした。全く、もう。
ただでさえ朱音の声はよく通るのに、二列目の席からそんな大声で言ったら絶対に聞こえてしまう。
「ちょっと朱音。ちゃんといなくなってから言ってよ。私が言うのもなんだけど、可哀想じゃん」
「いやいや、あれはあいつが悪いでしょ! やばかった〜」
「一瞬ひやっとしたけどね。勇気ありすぎる」
続々と一番前に座る藍の席に集まってくるクラスメイトたちが発する賞賛の声の原因は、藍の、先ほどの授業中の行動にある。
「理不尽すぎるし地雷わかんないから、嫌いだったんだよねあの先生」
「言い返してくれて助かった。ちょっとは大人しくなるよ」
私的な──感情や好き嫌いなど──理由で尤もらしい口実をつけて理不尽に叱る先生に、藍が特大ブーメランを以って立ち向かったのだ。つまりまあ、言い返しまくった。
ブーメランが見事に命中した瞬間、クラス中が一瞬沸いた。藍は普段、そういったことをしないタイプなので、余計、だ。
う〜ん、スカッとしたのは否めない。
「だってさ、飼い犬が来たときとか覚えてる? あの機嫌の良さ。気味悪かった」
「ね。なのにさ、手を噛まれたとかいうときはさ、機嫌最悪だったし。ちょっとよそ見してたからって怒られてたもんね朱音。マジふざけんじゃねー」
「なつきだしたとか言ったときは勝手に笑わせようとして大いに滑ってめっちゃ怒るしさ〜」
「八つ当たりもいいとこよ」
愚痴が止まらない。これはもはや陰口の領域になってしまうので正直もやもやしてしまうが、綺麗事ばかり言ってられない。
「いやいやいや待って。私だってあれ八つ当たりだから、蘭の分の。そんな褒められたら罪悪感で胸痛いって。くぅっ」
芝居がかった仕草で胸を押さえ、苦しいふりをする。──あながち嘘ではない、藍の心情。
「まったまたもう。アイったら美人なんだから、さっさと忘れなよ。新しい人見つけてさ」
「そうそう。あの言い返したときの凛とした雰囲気ったらない。絶対鼻の下伸びた男子増えたから」
「てかクラス別れた途端振るとか、胸糞悪いのは私も一緒だけどね。あ、その意味では忘れられないかも」
「ね〜。お似合いだった分なんかムカつくよ」
その無邪気な言葉たちは、ぐさぐさと藍の胸を滅多刺しにする。自覚はないだろうし、してほしくもない。そのために、藍は決して表情に出さない。
自分から彼の話題を持ち出すことによって、蘭のことなんて引きずっていないですよ、全く引きずっていないから気にしないでね、と、さりげなくだがはっきりと喧伝しているのだ。効果はバツグン・・・・・・だが、自分のダメージが大きすぎる。
「失恋したんだし、髪の毛切ったりしないの?」
「いや、これ以上切ったらショートじゃん。あんまり似合わない気がするんだよね」
セミロングの髪をくるくると指に巻き付ける。うまくかわせたらしく、皆はすぐに興味を失ったように次の話題に移った。
「私友達から聞いたんだけどさ、蘭、なんか早々にクラスの女子と連んでるらしいよ」
「っ・・・・・・ぅ」
その言葉は、藍の、大量出血を繰り返しじくじくと痛む胸にとどめを刺す。声にならない呻き声は、折りよく上がったえぇ〜、という不満の声にかき消された。
「それはありえないわ」
「私、ちょっと嫌いになった」
「顔面偏差値は一位なんだけどなぁ」
「スカウトされたこともありそうだし」
「あいつならアイを預けてもまあ釣り合うよねって思ったのにさ〜」
誰視点だよってツッコミが上がって、笑いが起きる。同調して笑うが、藍に言わせるとそれは逆だ。
蘭は、イケメンであり、性格もよく、傲慢でもなくそして面白い、完璧な人だった。藍こそ釣り合う存在じゃない。少し優柔不断で優しすぎるところはあると思うが、そんなの真っ白な紙に針先で落とした黒い染みのようなもの。
「いや、でも、浮気者はちょっとねぇ」
「女遊び激しいのは、きついかも」
「イケメンだからなにしてもいいかっていうとさ」
「ちょっと違うよね」
浮気とか、女遊びとか、そんなんじゃない。きっと彼は純粋に恋をしただけだ。運悪く、藍と付き合っていただけ。わかってる。
それにしたって、藍は不満だった。なんで、言ってくれなかったんだろう。言ってくれたらよかったのに。なんで? なんで? なんで・・・・・・?
「そっ、そろそろチャイム鳴るんじゃない?」
さすがにこれ以上は辛い。ちらりと時計に目を移して促すと、藍に群がっていた子たちは銘々自分の席へと踵を返し、藍に群がっていた塊は瓦解していく。
「・・・・・・アイ。本当に、さっさと忘れてもう一度好きな人見つけなよ」
朱音の心配そうな声が、耳を通り抜けた。
桜ももう散る季節。藍は一人で、中庭の隅に座り昼食を摂っていた。
──アイ、桜。ついてるよ?
そっと優しく、指先で自分の髪に引っかかった花びらをつまむ。あの日の思い出を、潰さないように。
──蘭もついてるって。似合うね、さすがイケメン。
──やめてってば。どうせなら蘭が似合うって言われたいし。
──え。藍?
──あっ、違うそっちじゃない! いや、そっちもだけど! 花の方ね? 花の方! 名前だからさ。大体、アイって呼ぶから!
──そこまで否定されるとなぁ〜・・・・・・。
太陽に翳した花びら越しに、あのときの慌てた蘭の顔が見えた気がした途端、視界が霞む。
そんな回想を断ち切るように、私、ちょっと嫌いになったという声が耳の中に蘇った。
藍のせいだ。蘭をさんざん自らいじったせいで、友達を優先させたせいで、蘭から離れる人が増えてしまった。もし彼と今同じクラスの人にも伝わってしまえば。
蘭の周りから、人は消えるだろう。
申し訳なさに心が塞がった。彼に関わる全ての人に、弁解をしに行きたい。だが、そんなことをしたら確実に藍への、周りの認識はクラスのちょっとした人気者からイタい彼女へと転落する。
「あ〜、最悪」
どうしようもない。動けば動くほど、もがけばもがくほど、事態は悪化する。
最近、朝の情報番組で発表される運勢は悪さ続き。占いなんて不確定なもの信じないつもりだったけど、あの日から十位以内に入ったことはないので、ここまで来ると案外当たってるのかもなんて思い始めていた。
「えーっと、アネモネ、だっけ」
見つけたら運勢上がる的な。ちょうど咲いてる時期らしいけど。きょろきょろとあたりを見回すが、こっそりスマホで調べた、あの可愛らしく華やかな花は見つからなかった。
そのとき、がさがさとそばのしげみが鳴った。この場所は、ちょうど人の少ない穴場のはずだ。一週間に一度ほど、一人で昼食を摂ることを習慣としている藍の憩いの場所。びっくりしてそっちを見るけど、その音を鳴らしたような人影はなかった。
・・・・・・いやいや怖いんだけど。
もしや幽霊? 幽霊って全てのものを通り抜けるイメージがあるんだけど。新種? 新手の幽霊ですか?
と思いながらまさかねと興味本位でしげみを覗き込むと、なにか、ふわふわの尾のようなものが遠くで揺れて消えた気がした。
野良犬かな? 猫はもう少し細い気がするから、きっと犬だろう。いや、野良ならば長年毛を刈っていなかったらあれほどまでになるのだろうか?
動物に詳しくない藍には見当がつきかねる情報量だ。あんなにもふもふのしっぽ、触りたいな・・・・・・とは思うが、さすがに追うのは無理。
ふと視線を下へ落とすと、白い紙が落ちているのに気づく。土の上に、だ。折り畳まれており、中にはなにかが書かれているらしい。
「あのわんちゃんが持ってきたのかなぁ。いたずら好きなのかも」
少々微笑ましい気持ちになりながら、なんの遠慮もせずに開く。
別に、いいよね。犬の手が届く範囲に置いてるって相当雑だし。どうせ課題のプリントとかじゃないの? 持ち主絶対喜んでるって。消えましたとか意味わかんない理由で課題は未提出になるけどさ。
しかし、そこに書かれていたのは、数式でも漢字でも英語でも、なんでもない。ほとんどが余白で、文字は真ん中に少し書かれている分だけ。
一番に目に飛び込んできたのは、自分の名前、だった。
「はぁあ?」
予想だにしない単語を見つけた藍は、どんどん読み進める。怖い怖い怖い。ストーカー? 動物使いのストーカー? 新手すぎる。おかしいって!
『相生藍へ。放課後、稲荷神社にて待つ』
果し状が。
来てしまったと、藍は戦慄した。あの先生かもしれない。確か、犬を飼っているのではなかったか。犬種は忘れたが、あまたいる犬種にあれくらい尻尾が太いやつがいてもおかしくはない。・・・・・・知らんけど。
いやいやいや! 真面目に、これはヤバいのではないか? 説教の場所が稲荷神社とは、なかなか新しい・・・・・・いや、古いのかわからないが、面倒なことになったのは事実である。もしや殴られる? 蹴られる、ワンチャン殺されるかも。
そう思えば、この文が犯行予告にも見えてきた。でも、気になるし・・・・・・っ。
ふと湧いてきた恐怖と元来の好奇心が葛藤して、行く行かぬの問答が心の中で巻き起こっている。
先ほどまでの感傷的な気持ちは遠くに飛ばされていた。
「っし!」
行くぞ、と心の中で気合を入れる。
昼休みから始まった物思いの結論は受けてたつ、である。所詮一時的な感情である恐怖に、生まれたときからの性格が勝利したのだ。
静かでありながら優しく流れていく風に背中を押されて、一つお辞儀をし若干傾いだ鳥居をくぐる。
だいぶ昔、中学校に通い始める頃しばらくは、この静寂な空気が好きで何度か通い、お参りをしていた。人付き合いに疲れたりしたらお参りしながらも愚痴を吐いたし、一段と難しくなった勉強に集中できなくなればここで気を落ちつかせた。時には涙をこぼすこともあった。
中学入学からしばらくして、自分の表情の扱い方を覚えてからは来なくなった、懐かしい場所だ。
実は、近所にはもう一つ、大きな神社がある。藍含む住民は、夏祭りや初詣などはそちらで済ませるのが一般だ。
つまり、この稲荷神社に来る人は滅多にいない。そのせいか荒れ放題だった。ますます暴力的な線が濃くなる。さすがにそこまで人間として終わってはいないと信じたい。仮にも教師なんだから。
・・・・・・逃げた方が、いいんだろうか。
ここで今更ながら気持ちが揺らぎ始めた。
だが。
「っ・・・・・・?」
地面に落とした視線に、人間の足らしきものが入った。遅かったらしい。ああ、好奇心のために身を滅ぼしてしまうのだろうか。
いや、ここは先手必勝だ。
「あのっ、えっとその節はまことに申し訳ございませんでしたーっ」
「え?」
「ごめんなさい! さすがに今の八つ当たりじゃないのって思って言い返しちゃっただけなんです!」
いや待て。これも機嫌を損ねる気がする。
自分の考えを変えるのは最悪極まりない行動だけど、命と比べれば!
「ううん違う! あなたの言うことは全て正しかっt」
「待て待て、なにが?」
「えっ? あっ、先生じゃない・・・・・・」
男子生徒だ。長く伸びた黒髪と見覚えのある顔。記憶が正しければ、クラスメイトだ。目元は前髪で隠れているけど、見覚えのある姿だった。
と、いうことは。
「殺されない? よかったぁ」
「殺され、って」
あ、絶対ヤバいやつだと思われた。
一瞬で確信した藍は、慌てて柔和な笑みを浮かべた。
「あ、いやいやごめん。で、えぇと、・・・・・・大神くん? だよね?」
クラス替えから一ヶ月弱、あまり接点はないけれど、出席番号の近さから名前を覚えていたことが幸いした。
「桃真」
「え?」
「桃真」
少ない、圧倒的に口数が少ない。警戒心を顕に彼を見つめた藍は、わずかに手が震えているのを見つけ、緊張してるのかもと見当をつける。
とうま、って確か大神くんの下の名前じゃなかったかな。大神くんの幼馴染的な人が、桃真って呼んでた気がする。
「え? 桃真、って呼べってこと?」
こくり、とうなずく。稲荷神社に呼び出し、名前呼び要請。どういうこと?
「え〜と・・・・・・それで、どうしたの?」
正直面倒なことになってしまったという気持ちが強い。必死に表情を作る。
「お前のそんな顔、なくしてやるから付き合え」
真正面から睨むように言われて、一拍反応が遅れた。
「・・・・・・っは? え? な、え? もう一度?」
「だからっ・・・・・・付き合え、って・・・・・・」
「えっと、え?」
真っ赤な顔をして、大神くん改め桃真は、蚊の鳴くような声で再びその言葉を繰り返した。もう一度言ってもらって悪いが、正直二度とも聞こえていた。
「ごめん、なんて?」
その上で三度目を言わせようとしたら、さすがに気づかれた。
「聞こえてんだろ」
「実は聞こえてた」
「なんでだよ」
「意味わからないもん」
「そのままの意味だ」
「それがわからないってば」
「ややこしく考えるな」
「考えちゃう言葉でしょ」
ぱしんぱしんと打ち返す。
自分が口下手だと、知っているのかもしれない。藍の言葉に桃真は少し考え込んでから、なにを思ったのかもじもじしたり赤くなったり自分に自分で怒ったりしていたが、やがて顔を上げた。
「だからぁ・・・・・・そ、その、すっ好き、だから・・・・・・付き合ってって」
最初の傲慢さはどこへ行ったのかと思うくらいの小さな声だ。
「君・・・・・・が? 私を? す・・・・・・?」
「・・・・・・ん」
顔が、熱い。
「それは・・・・・・その、そういう意味?」
「以外、ない、だろ」
それは、知ってる。知ってるけど、頭がついていかないのだ。
「ぃや、私・・・・・・君のこと、あんまり知らないし」
「じゃあひとまず、付き合わないか?」
「いやそれ、ひとまずで済ますことじゃないからね? 人生において、すごく重要な出来事だからね?」
「今流行りの契約婚ってやつだ。頼む」
「いや、流行ってないよ?」
流行ってない流行ってない。全くもって流行ってない。それは小説とか漫画とかの世界だ。
「え、婚て結婚するつもりなの?」
「あっ、ミスった」
重大なミスすぎる。
「トライアル! トライアルでいいから」
「それって惚れさせてやるよってっこと?」
「っあ、そういうべきだったのか?」
しまった! とでも言いたげに、桃真は顔をしかめた。単純。
「いや、私は別に・・・・・・強心臓だし、簡単にノックアウトはされないけどさ」
蘭の美貌を見慣れた藍である。
ただ、よく見れば桃真もなかなかの美形で長身。ルックスは悪くないのだ。先ほどちらりと見えた瞳も切長で涼しげだ。蘭の、くるりと大きな瞳とは対照的に映る。目があったらちょっと笑って見せるとか、優しく話しかけるとか、そういう女子を喜ばせるノウハウを身につければ、大きな武器になるだろう。ただ、いかんせん前髪が長い。
「お願いだ。頼む」
土下座しかねない勢いで頼み込んでくる。珍しい肉食系もいたものである。
でも、なあ。
ここで、彼の提案に乗るのもそこまで悪くはない気がする。一際仲の良い朱音には心配をかけている事実があるし、会話のテンポ感も悪くないし。ただ、いきなり付き合うのはちょっと変だしなぁ・・・・・・。
「わかった。でも、まずは友達か、らっ・・・・・・⁉︎」
「本当か? ありがとう!」
藍の条件提示は、未遂に終わった。桃真が、大胆にも抱きついてきたからだ。
「えぇええ・・・・・・」
これは絶対に後半聞いてないだろうなと思いながらも彼を受け止める藍。
横で、一輪の赤いアネモネが揺れていた。
「は? 大神?」
朱音が怪訝そうな顔をした。彼女の手が止まる。お箸からぽろっと唐揚げが落ちた。
まあそうなる、よね。納得すぎる表情である。一言も喋っていない彼との交際は、寝耳に水にもほどがあるくらい突拍子もない出来事だ。藍にとってもだが、朱音はもっと意味がわからないだろう。
卵焼きをかじりながら、藍はおずおずとうなずく。報告があると、藍は昼休みになってすぐに朱音を呼び出したのだ。弁当とともに。
「う、うん・・・・・・大神桃真」
「大神くんて、全然アイの中の登場人物じゃなかった人でしょ」
その通りである。正直名前も怪しかった彼だ。相生という苗字でよかったと心底ほっとしたのを覚えている。
ちなみに、皆が蘭に倣ってあまりにもアイ、アイと呼ぶので、本名さえアイだと思われることが多い。その場合はアイオイアイという非常にややこしい字面になってしまうのだ。アイオイランだからね? ね!
「まあ、ね。クラス一緒になったの初めてだし。でも、一気に主役級だよ。ぶっ飛んでる。急に告白されたの」
「で、付き合うことに・・・・・・ぶっちゃけどう、好きなの?」
「ん〜・・・・・・、うん。好きだよ。真摯だし、なんか、そう。いいなっ・・・・・・て」
好き、というのは朱音に心配をかけないための方便だが、少なくとも嫌いだとは思わないし、友達としてなら仲良くしたいという気持ちもある。少しその関係が歪だと思えば悪くもないのかもしれない、と思い始めている自分もいた。
「そう。なら、いいけどさ」
「うん。そういうことだから。あんまり気にしないで」
「ラブラブ現場を見ちゃうこともあると?」
「いや、ないけど」
さすがに桃真も学校で迫ってくることはないだろう。学校外でも嫌だが。
「大丈夫大丈夫。ディープキスとか、私現場見たことないから。経験として悪くないからさ」
手繋ぎも壁ドンも頬にキスもぶっ飛ばしてディープキスする前提なのはやめてほしい。
「しないから!」
「はいはい。はいはいはい、わかってるわかってる」
なにをわかっているつもりなのか、にやにやしている朱音を軽く叩く。
「まあ、それならよかったよ。これからは無理して私たちに付き合わないでも、二人で手を繋いでうふふとか言いながら帰ったり、あーんするためにお弁当二人きりで食べたりしても全然いいからね」
「無理して付き合ってないし、──たくさんの人に囲まれるって確かに疲れるけど無理はしてないし、うふふなんてそんな笑い方しないし、あーんもしないから!」
「はいはい。・・・・・・ていうか、大神くんって琥珀ちゃんと付き合ってなかったんだねぇ」
ふとにやにやを途切れさせて、朱音が首を傾げた。琥珀、というのはどこかで聞いたような気もするがどうにも思い出せない、もやもやさせる名前だ。
「琥珀ちゃん?」
「ほら、あの、幼馴染の子。可愛い子よ。目の色がちょっと茶色っぽいさ、あの子。ハーフなんだっけ? どことどこだったか忘れたけど」
「ああ! あの子ね」
同じクラスの女の子だ。小柄な体つきに琥珀色の猫目で整った顔立ちをしており、引っ込み思案なのかあまり話す機会はないが可愛いと密かに話題の子である。桃真を唯一桃真と呼ぶ人でもある。どうやら幼馴染らしいのだ。
「どうなんだろ。琥珀ちゃんの話題は出てなかったけど。まあ別にいいかな」
「もし付き合ってたとしたら、あんた相当男運悪いよ」
「やめてよバカ」
とは言いながらも、別に桃真が琥珀と付き合っていても大して傷つきはしないだろうな、というのが今の心情だ。朱音たちに心配をかけてしまうのは困るが。
朱音が本気で悩み始めた。
「琥珀ちゃんと仲良くなりたいって思ってるのに、修羅場は困る。いっそアイと縁を切るか・・・・・・」
「ならないから! やめて? 私だって琥珀ちゃんに話しかけたいとは思うし」
恐ろしいことを口にする朱音に、藍は言い返す。朱音がはたとこちらを向いた。
「え、話しかけてきてよ。アイ可愛いから」
「その因果関係なによ」
「行ってきてよぉアイ」
わざわざ箸を置き、すりすりと猫のように体をこすりつけてくる。高校に入ってからの付き合いである。素早く藍は察した。
「修羅場になるの望んでる?」
「バレた」
「こら。てかなに、朱音は琥珀ちゃんに片想いなの?」
「いや、あの子化粧してないんだよ」
ぱっと朱音が離れてから、衝撃の事実を口にする。
「え? 嘘。あんなに可愛いのに?」
漆黒の髪の毛と真っ白な肌。長いまつ毛、整った眉、桃色の唇。あれで化粧なしは恐ろしい。
「そうそう。近くで見る機会があったんだけどさ」
それはかなり特殊な機会である。どういう状況だったんだろう。
「多少手入れはしてるだろうけどすっぴんなんだよ。だから、化粧したらもっと可愛くなるじゃん。で、仲良くなりたい」
化粧がわかるかわからないか程度に、それでもその威力を十分に発揮する程度に。微妙な塩梅で施す化粧が得意な朱音。教えてあげたくてうずうずしているのだろう。
藍はうなずいた。
「なるほど」
「アイは?」
「単純に可愛いのと、名前」
「名前? 確かに琥珀って可愛いよね。目の色とリンクしててさ」
絶対親思いつかなかったんだよ、それで、目の色見てさ、あ、これだってなったんじゃない? と勝手な憶測を披露する朱音。
「まあそれはよくてさ。私の名前の由来知ってる?」
「知らない。藍色じゃないの?」
もごもごとおにぎりを噛みながら、いかにも興味なさそうに答える。
「違うよ。どこに藍色要素があるわけ」
目の色も髪も日本では一般的な、黒だ。自分の名前ということもあり確かに藍色に親近感寄りの好意は感じるが、それは先天的なものではない。
「え、・・・・・・気持ち? ブルーな? みたいな? あっはっは」
一人で意味のわからないことを言って笑っている。スルーだ。
「・・・・・・なんかさ、和名に藍って漢字のつく宝石があるんだって」
「む・・・・・・ていうか、宝石なんだ。初めて知ったよ」
お父さんが、お母さんに贈った指輪にはまっている宝石。ヨーロッパ・・・・・・ドイツだったかな。そこあたりのもので、とても貴重らしい。うん百万円するとかしないとか。
透き通った青色のそれは、机の引き出しに、リングケースとともに入っている。母から譲ってもらったのだ。
それらを伝えると、ふむふむと朱音はうなずきながら聞いてくれた。
「でさ、琥珀も宝石じゃん? だから、親近感」
「納得した。じゃあ、昼休み中に琥珀ちゃんに話しかけといてね。できなかったら今度アイス奢りね。ごちそうさま」
「・・・・・・は? えっちょっと!」
勝手な約束を取り付けて、朱音の背中は遠ざかっていく。
理不尽な条約改正のために、慌てて弁当の中身を掻き込んで包もうとし箸を落として、箸を拾おうとして弁当箱をぶちまけながらもなんとか片付けたときには、すでに彼女の姿はなかった。
「そりゃそうだよね。くそ」
肩で息をしながら、藍は少々下品に悪態をついた。と、そのとき、ふと目に琥珀が映る。これを幸運と言わずしてなんと言おうか。
チャンス。藍は走り始めた。
「こっ、こ、琥珀ちゃん!」
「あっ、はい・・・・・・?」
腰までの黒髪を揺らして振り返る琥珀。可愛い、やっぱり可愛い。
「えーとあの、あっ私、相生藍です」
「はい、存じ上げております」
とても丁寧な口ぶりだ。桃真に対してはかなりざっかけない口調だったような気もするのだが。
かすかに浮かんだ微笑みがさながら天使。
だが、少し、距離を感じる。過剰なほどの敬語にも、どこか浮世離れした笑みにも。
「あーっと、えっと」
「はい?」
「・・・・・・あっ、大神くんとこのたび、付き合うことになりました」
いやっ、なに言ってんだ私。
共通の話題を探した途端に口走ってしまった交際報告。顔が、赤くはなっていないだろうが、ひたすら熱い。
すると、わずかに琥珀の猫目が鋭くなった気がした。
「それは、桃真から言い出したんですか?」
「あっ、はい・・・・・・その、ってえ⁉︎ あっ、琥珀ちゃーんっ?」
琥珀がくるりと踵を返して走り出した。去り際に、およそあの顔に似合わないほどに鋭い、チッという舌打ちと、アイツっ・・・・・・と、恨みの籠もった声が聞こえた気がした。
***
きらり、と宝石を通して伝わる光に、藍はため息をもらした。
「修羅場確定すぎる・・・・・・」
午前中の琥珀との会話一部始終を朱音に話したら、なんとか奢りは免れた。が、その代わりたっぷり修羅場になったときの心構え、ヒロインとしての振る舞いなどを叩き込まれた。
なんでお前はそんなことを知っているんだと怒鳴りたくなったが、他にもたくさん迷惑助言をしてくれる子が集まってきたのでやめておいた。一人一人に怒鳴っていたら体が保たない。まあ、大方ドラマや少女漫画の知識だろうと見当はつくが。当てにならなすぎる。
その場合絶対主人公は琥珀ちゃんだろ・・・・・・私はつまりライバル役ね、と自虐を交えてため息をついたりする。
スマホが震え、同時に通知音が鳴る。丁寧な手つきで指輪を引き出しに戻し、スマホを持ち上げた。
『相生さん、桃真です』
LINEだ。クラスのグループから友達追加したんだろう。アイコンはデフォルトで、名前は桃真だ。彼だとわかっても余るくらいわかる。
『知ってます』
『琥珀に話したんですか?』
『ごめん、言っちゃった。まずかったかな?』
やっぱりダメだったのかな。修羅場ありえる?
『まずくはないんですが、面倒なことにはなります』
ネット界でのがちがちの敬語が、現実とのギャップを際立たせる。思わず吹き出してしまう。
『敬語なんだね。面倒なことって? 聞かないほうがいいかな』
この言い方だと若干圧を感じるだろうか、と少し考えたが、できることなら話してほしいのでそのまま送信する。
『すみません。鋭意努力します。決して後ろ暗くはないんです』
『不審者が決して怪しくないって言ってる感じ?』
ついからかいたくなって聞き返す。敬語可愛い・・・・・・と笑い混じりに思いつつ。我ながら、母性爆発してるなぁ。
しばらくして、なかなかの長文が帰ってきた。
『すみません。本当にごめんなさい。俺と琥珀はそういう関係じゃないです。本気です。誤解させてすみません。ごめんなさい』
『わかったから、謝らないで。悪いことしてる気分になる』
『ごめんなさい』『あ』
二つ、連続してメッセージが来た。あわあわと焦る桃真が思い浮かんで、くすりと笑みを浮かべる。ネット、慣れてないんだろうなぁ。対して藍は、フリック入力の達人なのだった。
『いいよ。琥珀ちゃん、幼馴染なの?』
『そんな感じです』
『そういえばさ、君は私のこと好きなんだよね?』
ちょっと話を変えてみる。直球すぎるかな。
『はい』
少し間を置いて、返信。この間は恥じらいか、はたまたまずい! という狼狽か。
『どこが好きなの?』
『疑ってますか』
『疑ってるわけじゃない』
これは、若干嘘も混ざっている。
それに、一度も話したことがないのに好きだとか、正直わからなかったから。
『かっこいいなって。先生に言い返した相生さん』
『あ〜』
乾いた笑いが出そうになった。あ〜としか言いようがない。
先生に対する八つ当たりだったから、そこを誉められても反応に困る。
そこからは返信が途切れた。今日のやりとりとスクショして朱音に送ったら、黒確と返ってきた。
***
「やっぱり黒?」
翌朝、たまたまトイレで会った朱音に話を聞いてもらうことに。
聞くと、朱音は顎に手を当ててふむとうなずいた。名探偵の真似だ、多分。
「黒ですな」
「どうしようかな。振りたくはないんだよね」
「好きだから?」
うなずいてもよかったが、今回はれっきとした理由があるので、返事はむにゃむにゃと曖昧にして、ちゃんと話すことにした。
「う〜・・・・・・ん。なんか、振られるって悲しいじゃん」
一方通行の思いになったこと思い知らされる。それって、とても、悲しくて寂しいことだ。それも、ただの失恋じゃない。一度成就した恋が、割れるのだ。
朱音はなんとも腑に落ちないような表情をしている。
「彼から振ってもらうってこと? 好きなんじゃないの?」
「いや。ベストは話し合って別れる。一方的じゃなくて、双方で」
「ふぅん」
それでもやっぱり腑に落ちないらしい。前髪をいじりながら、釈然としない相槌を返してきた。
「え〜、朱音は? どうなの」
「別れないようにする」
「もういいよ」
真面目に答える気がないことを汲み取った藍はため息をついた。
「ごめんって。まあ、まずは琥珀ちゃんを攻めるべし。呼び出そうよ放課後」
「軽いいじめにならない?」
攻めるとか呼び出すとか。怖いんですけど。
桃真となんもないよね? はたまた、もちろん別れてくれるよね?
脳裏に浮かんだ、体育館裏で詰め寄る自分と朱音の姿がドラマで見たいじめっ子に重なってゾクっとする。まさか自分がそっち側に行くなんて。
もっての外だ。
朱音も同じらしく、眉根をぐっと寄せて聞き返してきた。
「そんな陰湿なことするやつに見える?」
「女子って相場そうじゃん」
「うわー心外だわ。それに、ジェンダーレスの時代にそういうのほんとダメだと思うよ」
「言い換える。人間って相場そうじゃん」
確かにそれもそうかと言い直すが、それでも納得しない、というかしたくなさそうな朱音は少し黙ってから口を開いた。
「・・・・・・自然との共生のこの世でそういうのほんとダメだと思うよ」
「なんなのよ」
「冗談冗談。いじめなんてしないよ。そんなやつに見えないでしょ。うん、見えない。朱音ちゃんは素晴らしい人だな」
一人で自画自賛して笑う朱音。はたから見ればかなりヤバいやつだ。はたから見なくてもヤバいやつだ。
ただ、本心で言えば藍も朱音がそんな性格には見えないので、ひとまず彼女の言葉を信じて琥珀とゆっくり話す機会を持てたらいいと思う。
「あ、アイじゃ〜ん。朱音も。教室行ってもいないと思ったら。なにやってんの」
今年に入りクラスの別れてしまった友達が、トイレの鏡にひょいっと映り込んだ。
「あ〜、修羅場について議論してた」
「大神くん?」
どうやら他のクラスにまで知られているらしい。早い・・・・・・悪事千里を走る、じゃなくて人の口に戸は立てられぬ、だ。
「ぴんぽ〜ん。面白いことになってきてんの」
朱音が悪い顔をして聞いて聞いてとばかりに身を乗り出すから、言ってやった。
「人の恋を面白いとか言うの、ほんとダメだと思うよ」
「そういえばさ、あいつ! 相生藍」
けたたましい笑い声と、自分の名前が聞こえた気がして、足が止まった。
隣のクラスの教室だ。放課後に残った人たちが、話している、らしい。部活動を終えたところなので、下校時刻の少し前だろう。
「本当さ〜、あいつダサいよね!」
ダサい、って。
「フラれたからって、やばすぎ」
ヤバいって、
「恥ずかしくないのかな、マジで」
恥ずかしいって。
どういうこと?
なんとなく言われていることがわかるのに、思考が真っ白になって止まってしまい、うまく息ができない。
「いくらさ〜蘭くんにフラれてもさぁ」
鼓動が急に重く、早くなってずきん、と胸が疼き出した。
「てか男癖悪すぎ」
「ありえね〜だってさ、全然イケメンじゃないじゃん」
そこで一回、笑い声が起こる。イケメンじゃないって、誰のこと?
「プライドないのかな」
「そもそも蘭くんとも釣り合ってなかったし〜」
「あ、逆に今カレと釣り合ってる説?」
悪口か。なるほど、と思う。なるほどって、納得した。納得したんだと思う。なのに、頭はうまく受け入れなかった。
藍は急に我に返って、足早に廊下を歩いた。あの笑い声を振り払うように、足はどんどん速くなる。校門を出る頃には、ほとんど走っていた。
そっか、私ってダサいんだ。ヤバいんだ、恥ずかしいことしてるんだ。
男癖悪い、って、思われてたんだ。
泣きそうになって必死に押さえて、うまく引っ込んだと思ったときに肩を叩かれた。
「わっ・・・・・・」
「相生さん? ・・・・・・こっちだっけ、通学路」
立っていたのは、制服姿で立つ桃真だった。驚いたような顔をして藍の肩に手を乗せていたが、はっと気づいて慌てて下ろした。
「えっ・・・・・・? なんで、ここに」
「俺は、家が近いから・・・・・・相生さんは?」
ここはどこだろうときょろきょろとあたりを見回すと、ちょうどあの稲荷神社に繋がる道だった。通学路ではない。必死で心を誤魔化しているうちに、周りが見えなくなって違う道に入ったらしい。
「あ〜、間違えたっぽい。ごめん。君は? 部活、なんか入ってたっけ」
確か、帰宅部だったような。若干の気まずさが滲み出てしまったが、桃真が変に訝しむそぶりはなかった。
「いや、え〜と、図書館で勉強、してたから」
桃真は桃真で別の気まずさを持っているらしい。いや、羞恥心、だろうか。
なにを話せばいいのか少し迷って、とんでもないことを聞いてしまった。
「・・・・・・成績悪いの?」
「えっそれ、答えなきゃダメか? できれば言いたくない」
ふっと微笑みがもれた。
「別にいいよ、それが答えだから」
「あっ、えっ、そうなっちゃうのか」
がっくりと桃真が肩を落とした。その仕草が面白くて、また笑ってしまう。彼は表情や言葉こそ乏しいけれど、リアクションや体の動きは大きく、わかりやすい。
「・・・・・・相生さん、なんか、悩んでない?」
「え?」
笑ったというのに、笑えたというのに、まさかそんな問いが投げられるとは。
それでもなんだか、先ほどまでのわだかまりは薄れた気がする。だから、藍は笑んで答えた。
「・・・・・・ううん、悩んでないよ?」
「そう? なら、いい」
桃真といたら、笑える。一緒にいて楽しいし、そこに愛はないけれど嫌悪もない。
それで、いいんじゃないの?
たった一分。
なんとなく、心が軽くなった気がした。
***
相生さん、と呼ばれる。
藍は手元の図形問題にかかりっきりで、顔を上げないまま聞き返した。きりが悪いのだ。図形問題ってひらめきだし。忘れたくない。
「ん〜?」
「一緒に帰ってもいいか?」
「うん」
放課後の図書室で自習、というシチュエーション。これは一緒に下校というのが定石だろうとうなずく。
「えっマジで?」
「なに、嫌なの?」
ようやく桃真の顔を見ると、桃真はかすかだが笑みを浮かべていた。
「嫌じゃない」
「にやにやしないでよ」
「え・・・・・・笑ってた? 俺」
桃真は、自分で自分の頬をむにっと挟んだ。いつものポーカーフェイスが崩れて子供のような表情になり、ついふっと吐息がもれる。
「うん。でれでれのメロメロ。自覚なし? 末期」
にまにまと顔を崩す桃真を置いてノートを閉じ、カバンに詰め込みながらからかうと、彼の頬が膨れた。
「うるさい」
「帰るよ〜」
「おいおい、待てよ」
「早く! 置いてくよ・・・・・・ぉえぇえええ、マジか」
立ち上がった藍のカバンが盛大に開き、参考書たちが溢れ出た。チャックがまだ未確認だったらしい。
図書室に響いた、どさどさどさっという音とほぼ同時に帰り支度を終えた桃真が、無情にも図書室の入り口へと歩き出した。「置いてくよ」と言いながら。
小さな復讐のつもりなのだろう。
「ちょっと、バカっ! 彼氏なら拾ってよ」
「こんなときだけ彼女ヅラ・・・・・・」
図書室には、他に人はいない。桃真がぼそっと言った言葉が耳に入った。にやっと口角をあげて見返す。
「え? なになに、嫌なの? 彼女ヅラ。え? 桃真くん?」
「・・・・・・ずるい」
桃真が悔しそうに引き返してくる。舌打ちでもしそうなほどに歪められたその顔は真っ赤だ。夕陽の影になっている机の近くにきてなお、わかりやすく。
とんとん、とプリントを机で向きを揃えてから渡してくれる、そのさりげない優しさ。
こういうとこ。嫌いじゃない、と改めて思う。──友達として、欲しい人材だ。
「ありがと」
「ん・・・・・・」
「じゃ、置いてくよ」
さっと立ち上がり、一人で静かに照れる桃真を置いて図書室を出た。かすかに聞こえてくる吹奏楽部の音や、体育館から漏れ聞こえるボールの音に混ざって、桃真の明らかに慌てている足音が追いかけてくる。
「待てって、それはないだろ!」
燃えるような夕陽が、藍の体温を上げていく。
校門から出て駅へ歩いていると、ぽん、と背中を押される。不意の攻撃によろめいていると、自転車に乗った部活帰りの友達が横に並んだ。
「アイ〜、帰るの?」
「あ〜、うん」
体勢を整えて、カバンを揺すりあげながら、そっけなく答える。これは、来るな。いつもの流れ。
「愛しの彼氏と?」
「うん、やめてね?」
流れるようににっこりと笑顔で返す藍に対して、横を歩く桃真が悶絶した。
「っ・・・・・・うぅ」
からかわれた藍よりも桃真の方が顔が赤い。両手で頬を覆い、女子のような仕草で小刻みに首を振っている。こういう反応が面白いから、いろんな人からからかわれるのだ。
「ごめんって大神く〜ん。じゃね、アイ」
けらけらと笑いながら、自転車で追い越していく。照れから立ち直った桃真が見送りながら、つぶやいた。
「そういや、アイって呼ばれてるんだね。相生さん」
「あ──うん。そうそう! 元カレがさ! 蘭って名前だから。読み方一緒でしょ? ややこしいからって。あだ名、あだ名〜」
不意打ちだった。彼の話題を持ち出されるのは。
だから少し、繕い方が不自然だったかもしれない。桃真がたちまち申し訳なさそうな、後ろめたそうな顔になった。
「あ・・・・・・」
「やだ。気にしないでね。そういえば、桃真って桃の真実、って書くんだっけ。可愛いじゃん。桃」
可愛いと言われてまた照れたのか、桃真がぷいっとそっぽを向く。
「でも、花言葉は・・・・・・天下無敵とかチャーミングとか、あと・・・・・・」
「え?」
「いや、なんでもない。だから、全然似合わねーの」
なにかを言いかけて、引っ込めたような口籠もり方だったが、結局なんだったのかは言ってもらえなかった。あとで桃の花言葉を調べておこう。
「ふ〜ん。それは確かに。チャーミングの真反対にいるもんね」
アイドルみたいに皆に慕われていた蘭と違い、桃真は重度の無口で、お世辞にも社交的とはいえない。最近はクラスメイトと話すことも増えたようだが。
「それは悪口と受けとっていい?」
微妙な顔。
「重々しくてかっこいいって意味。ダンディー」
「嘘つけ」
横目でにらまれて、思わずあははっ、と声を立てて笑ってしまった藍であった。