「アイ! スカッとしたぁ、いや、神じゃない?」
 チャイムがなってすぐ、後ろの席にいる友達──朱音(あかね)がつついてきた。途端、ぴしゃん! と乱暴に教室の前方のドアが閉まったのを聞いて、気まずげな雰囲気が教室を漂う。藍は小さくため息をもらした。全く、もう。
 ただでさえ朱音の声はよく通るのに、二列目の席からそんな大声で言ったら絶対に聞こえてしまう。
「ちょっと朱音。ちゃんといなくなってから言ってよ。私が言うのもなんだけど、可哀想じゃん」
「いやいや、あれはあいつが悪いでしょ! やばかった〜」
「一瞬ひやっとしたけどね。勇気ありすぎる」
 続々と一番前に座る藍の席に集まってくるクラスメイトたちが発する賞賛の声の原因は、藍の、先ほどの授業中の行動にある。
「理不尽すぎるし地雷わかんないから、嫌いだったんだよねあの先生」
「言い返してくれて助かった。ちょっとは大人しくなるよ」
 私的な──感情や好き嫌いなど──理由で尤もらしい口実をつけて理不尽に叱る先生に、藍が特大ブーメランを以って立ち向かったのだ。つまりまあ、言い返しまくった。
 ブーメランが見事に命中した瞬間、クラス中が一瞬沸いた。藍は普段、そういったことをしないタイプなので、余計、だ。
 う〜ん、スカッとしたのは否めない。
「だってさ、飼い犬が来たときとか覚えてる? あの機嫌の良さ。気味悪かった」
「ね。なのにさ、手を噛まれたとかいうときはさ、機嫌最悪だったし。ちょっとよそ見してたからって怒られてたもんね朱音。マジふざけんじゃねー」
「なつきだしたとか言ったときは勝手に笑わせようとして大いに滑ってめっちゃ怒るしさ〜」
「八つ当たりもいいとこよ」
 愚痴が止まらない。これはもはや陰口の領域になってしまうので正直もやもやしてしまうが、綺麗事ばかり言ってられない。
「いやいやいや待って。私だってあれ八つ当たりだから、蘭の分の。そんな褒められたら罪悪感で胸痛いって。くぅっ」
 芝居がかった仕草で胸を押さえ、苦しいふりをする。──あながち嘘ではない、藍の心情。
「まったまたもう。アイったら美人なんだから、さっさと忘れなよ。新しい人見つけてさ」
「そうそう。あの言い返したときの凛とした雰囲気ったらない。絶対鼻の下伸びた男子増えたから」
「てかクラス別れた途端振るとか、胸糞悪いのは私も一緒だけどね。あ、その意味では忘れられないかも」
「ね〜。お似合いだった分なんかムカつくよ」
 その無邪気な言葉たちは、ぐさぐさと藍の胸を滅多刺しにする。自覚はないだろうし、してほしくもない。そのために、藍は決して表情に出さない。
 自分から彼の話題を持ち出すことによって、蘭のことなんて引きずっていないですよ、全く引きずっていないから気にしないでね、と、さりげなくだがはっきりと喧伝しているのだ。効果はバツグン・・・・・・だが、自分のダメージが大きすぎる。
「失恋したんだし、髪の毛切ったりしないの?」
「いや、これ以上切ったらショートじゃん。あんまり似合わない気がするんだよね」
 セミロングの髪をくるくると指に巻き付ける。うまくかわせたらしく、皆はすぐに興味を失ったように次の話題に移った。
「私友達から聞いたんだけどさ、蘭、なんか早々にクラスの女子と連んでるらしいよ」
「っ・・・・・・ぅ」
 その言葉は、藍の、大量出血を繰り返しじくじくと痛む胸にとどめを刺す。声にならない呻き声は、折りよく上がったえぇ〜、という不満の声にかき消された。
「それはありえないわ」
「私、ちょっと嫌いになった」
「顔面偏差値は一位なんだけどなぁ」
「スカウトされたこともありそうだし」
「あいつならアイを預けてもまあ釣り合うよねって思ったのにさ〜」
 誰視点だよってツッコミが上がって、笑いが起きる。同調して笑うが、藍に言わせるとそれは逆だ。
 蘭は、イケメンであり、性格もよく、傲慢でもなくそして面白い、完璧な人だった。藍こそ釣り合う存在じゃない。少し優柔不断で優しすぎるところはあると思うが、そんなの真っ白な紙に針先で落とした黒い染みのようなもの。
「いや、でも、浮気者はちょっとねぇ」
「女遊び激しいのは、きついかも」
「イケメンだからなにしてもいいかっていうとさ」
「ちょっと違うよね」
 浮気とか、女遊びとか、そんなんじゃない。きっと彼は純粋に恋をしただけだ。運悪く、藍と付き合っていただけ。わかってる。
 それにしたって、藍は不満だった。なんで、言ってくれなかったんだろう。言ってくれたらよかったのに。なんで? なんで? なんで・・・・・・?
「そっ、そろそろチャイム鳴るんじゃない?」
 さすがにこれ以上は辛い。ちらりと時計に目を移して促すと、藍に群がっていた子たちは銘々自分の席へと踵を返し、藍に群がっていた塊は瓦解していく。
「・・・・・・アイ。本当に、さっさと忘れてもう一度好きな人見つけなよ」
 朱音の心配そうな声が、耳を通り抜けた。