琥珀とともに、名も知らぬ神様すみませんと頭を下げて、稲荷神社の本殿に腰掛けさせてもらう。
 この前は気にならなかったが、いや、気にする余裕がなかったが、雑草や鳥居の傾ぎ具合に対して立派な本殿は、やたらと清潔に保たれていた。
「誰か掃除してるのかなぁ。あ、御供物も。お饅頭だ」
 無礼を承知でそっと中をのぞくが、やっぱり床板が腐っていたりすることはなかった。
「あ〜、私と、桃真が」
「え? なんで? 神主さんの家系なの?」
 自分で言いながら、ああそういう可能性もあるのだと理解する。神職同士で互いに幼馴染とか。ただ、お守りやおみくじを売っているような社務所は見当たらない。
「いや、神主さんは別にいるんですけど。他の神社と掛け持ちで」
「掛け持ち?」
 まるで部活のような言い方である。神社を掛け持ちって、初めて聞いた。
「ええ。神主の数に対して神社が圧倒的に多いので自然と二、三個神社を掛け持ちに──」
「あ、ごめん、話逸らした。違うならいいんだ」
 藍としては、自分で話を持ちかけておきながらだが早く核心を知りたい、というのが本音だ。つい説明を遮ってしまう。
「すみません。そうでしたね」
「えっと、その・・・・・・もしかしたら、うまく受け入れられないかもしれない」
 藍はまだまだ子供で、世間知らずだ。些細なことでも感情が揺れる。必死で表情に出ないように努力はするが、それでももしかしたら冷静な対処ができないかもしれない。それを伝えておかなければならない。もしその上でカミングアウトを取りやめる、というのならしょうがないことだ。
「いいえ。ただ、信じては、ほしいです」
 願うようなその目は切実な光が宿っていた。
 信じる。琥珀の気持ちを、ということだろうか。
 うまく直視できずに、視線を下へ逸らす。琥珀を傷つけないように、懸命に言葉を紡いだ。
「信じることは、できると思う。ただ、その──あの、うまく言えないかもしれないけど、それでも、っ・・・・・・え?」
 ぱっと視線を上げた藍の瞳に映ったのは、立ち上がった琥珀の、姿。
「え? え? え・・・・・・? 琥珀ちゃん?」
「はい」
 これは、果たして琥珀なのか? それにしては、早変わりすぎないか?
 戸惑いを隠せない藍を見て、困ったように眉尻を下げる琥珀。そして、ちょいちょい、と引っ張った──彼女の黒髪からのぞく、猫耳を。
 猫。
 猫のような耳が。
「・・・・・・・・・・・・え?」
「信じられないかもしれないけど、こういうことなんです」
「猫・・・・・・?」
 ひょこりとのぞく、真っ白の耳。制服のスカートの下から垂れる、二股に分かれた尻尾。
「正確に言うと猫又、っていう種になるんですけど」
「ね、ねこまた?」
 もしや、からかわれているのだろうか? 琥珀には、そういう趣味があるのだろうか。
「あの、今日一日で信じろとは言いません。ただ、今は、そうですね。自分がファンタジー小説に入ったと思ってこれからの話を聞いてほしいんです」
「・・・・・・これってなにかの冗談?」
「じゃないです。触りますか? 耳。尻尾も」
 尻尾が上がって、スカートが際どい位置まで捲れた。偽の、付ける尻尾は、こんなに精密に動くだろうか? さすがに尻尾は申し訳ない気がしたので、ちょっと背伸びして耳をそっと触ってみる。
 琥珀は少しくすぐったそうに体を縮めたが、すぐに取り繕うように背筋を伸ばした。
「多少は引っ張ってもらってもいいですよ。痛くない程度なら」
「本物、なの?」
「です」
 藍の言葉に、琥珀自身、とても困っているような顔つきだ。どうしたら信じてもらえるんだろう、とでも言いたげなほどに。
「じゃあ、・・・・・・ひとまず。話、続けてほしい。琥珀ちゃんのこと・・・・・・桃真のことも、なのかな」
「あいつは妖狐なんですけど」
 琥珀は御供物を盗んで食べながら、さらなる爆弾発言を落としていく。やってることもヤバいが、言ってることもヤバい。というか更に藍をどこか遠いところに連れていく言葉だ。
「・・・・・・え待って待って、桃真が? 彼がヨウコ? 妖狐って、妖狐? 狐の? 妖怪の?」
「はい。あの、信じてもらうの時間かかると思うんで、これも小説とかドラマとかの世界に入ったと思って聞いてください」
「わかった」
 これはなかなか無茶なことである。が、自分でそう努力しないと話が進まないのは承知しているので、無理矢理にでもそう思うことにした。
 桃真は妖狐、琥珀は猫又なんだ、と。私は今、その世界線に立っているんだと。
「妖狐には、段階があります」
「だ、段階?」
 面食らった様子の藍に対し、琥珀はうなずく。
「いわばレベルです。年齢や試験などによって昇格します。素行が悪ければ、格が下がってしまうらしいですけど」
「えぇ〜、めんどそう」
 英検とか漢検とかいう感じのものだろうか。つい顔をしかめると、琥珀も大いに同意した。
「はい。思います、私も。猫又にはそんなものないんで」
「ああ、自由人のイメージだもんね」
 猫=自由、というのは、よく忠実な犬と対比して使われる一般のイメージだろう。すると、琥珀はつんと澄ました顔になった。
「そうでもないですよ。私、真面目でしょ」
「確かに」
 よくテスト勉強に励む姿を見ている。大真面目に同意すると、琥珀がふっと微笑む。
「否定して欲しかったんですけどね。まあ、よくて。一番下が、野孤。普通にそこらへんに──はいないですけど、まあ、よく知られる狐です」
 笑った・・・・・・そして多分からかわれた・・・・・・うまくのれなかったけど、これは少しは距離が近づいたとみてもいいのかな?
「なるほど」
 つい彼女との距離の近さに急上昇していくテンションを押し下げて、ふわふわと頭に、動物番組などで出てくる可愛い狐を思い浮かべる。なるほど野孤というのか。
「その野孤の中でも、いい狐は善孤と呼ばれ、次の段階である気孤に上がれます。それから順々に、年齢と擦り合わせながら試験を受け、天狐、空孤、と行くんですけど」
「そうなんだね。なんかよくわかんないけど。それで、桃真は今?」
「気孤ですね。まだまだ青二才です」
 なかなか辛辣である。琥珀の口ぶりからすれば、一ランクアップした気孤もまだまだなのだろう。
「それで? ええと、次は」
「次、天狐ですね、天狐。天空の天に、狐。で、ここからが難しいんですよ」
「うん」
「野孤から気孤に──あ、空気の気に狐ですが──上がるのは、すごく簡単なんです。鼻で笑えます」
 だから、先ほど気孤の桃真を馬鹿にしたような口振りだったのだ。再び吐き出された痛烈な言葉に、つい藍は苦笑を浮かべた。
「本気なんですよこれが」
 確かに目はマジである。表情を変えないまま、琥珀はそう続けた。それから、ふっとため息をついて、前に出した右手と左手をぐっと上下に開いた。
「でも、気孤と天狐には大きな隔たりがあって」
 なるほど、と思う。そこにもまた試験があるんだ。鼻では笑えない、多分口でも肩でも笑えないレベルの。
「上がるのは難しいの?」
「はい。気孤はゆーて狐。多少特別な力を持つものもいますが、大抵は一般狐なんです。でも、天狐になると、神通力を与えられるんです」
「神通力・・・・・・って、超能力? 魔法?」
 スプーン曲げとか、ハンドパワーとか、テレパシーとか。未来予知とか、そういった類のものだろうか。聞くと、琥珀は困ったように首を振った。
「みたいなものですかね。ごめんなさい、詳しくは知らなくて」
「そっか。ちなみに、その試験の内容とかって知ってるの?」
 好奇心で聞いてみる。難しいってどんなことだろう。まさか勉強?
 琥珀が勢いよく立ち上がり「それなんです!」と叫んだ。真っ白な猫耳がぴくぴくと引きつっている。
「うわぁっ、びっくりした、どうしたの? 座りなよ」
「ああ、すみません。そこなんです。率直に言います。桃真と別れてください」
 ここの言葉だけ聞いていれば、全て琥珀の嫉妬が吐き出した言葉とも取れる。だがその大きな目は変わらず真剣だし、なによりこのふさふさで柔らかそうな耳や尾から視線が離れない。
「どういうこと? 説明してほしい」
「ええ、もちろん」
 本人のいないところで秘密を打ち明けるのはちょっと・・・・・・なんて奥ゆかしい気後れは一切持っていないようだ。
「相生さんは──」
「藍って呼んで」
 ちゃっかり距離を縮めてみる。アイ、と言おうと思ったけど、言葉からこぼれたのは自分の本当の名前だった。
「藍さんは、狐の嫁入りって知ってますか?」
 どうやら、さん、は離れてくれなかったらしい。
「晴れてるのに、雨が降ってるやつ? 不思議だよね──あれ? 狐?」
「ええ。お察しの通りなんです」
 狐の嫁入り、という天気と妖狐が、関係しているということだろうか。
「どういうこと?」
「そもそも、なぜ天気雨を狐の嫁入りというのか。天気雨は化学的に証明されている部分もあって、大抵はそれなんですけど」
「あ、そうなんだね」
 すん、と現実に引き戻された気がした。が、琥珀はゆらゆらと尻尾を揺らしながら続ける。その動きが、また藍をファンタジーの世界へと連れていく。
「一部ですが深く、狐が関わっているんです」
 いわく、気孤から天狐に上がるときの試験は、『誰にも見られずに祝言をあげること』だそう。そこで考えたのは、元々幻術の力を持つ狐たちが人間の目をなくそうと、雨を降らせ家に追いやる策だった。
「だから、狐の嫁入り」
「幻術を持たない狐は、普通の雨の日に祝言を上げます。ですが、まれに生まれるんです、元来幻術の力の強い狐が。それで、たまに晴れの日に雨を降らせて、祝言を・・・・・・つまり、あなたは利用されてるんです!」
「あれ? ちょちょちょちょちょっ・・・・・・ちょっと待って」
 頭が整理されるにつれて、混乱し始める心。
「はい」
「祝言って結婚式?」
「ええ」
「結婚?」
「そうなんですよね」
 琥珀がうなずいた。
 結婚。
 かっと頬が熱く・・・・・・は、ならなかった。さっと心を染め上げたのは、深い失望だ。
 結婚。そんなにも大きなことだったのに、私にはなにも話してくれなかったのだ。では、・・・・・・藍を好きだという気持ちは、あの日のにやけは、あの赤い顔は、全て嘘だったというのか。
 頭を抱えたくなる。
 名俳優、すぎる。名俳優すぎるよ。
「・・・・・・私が、利用されてる、ってことなの?」
「はい。だから、別れてほしくて嫉妬に(まみ)れた女風につっけんどんに・・・・・・あの。怒ってます?」
「いや。どっちかといえば、ちゃんと話してほしかったな」
 また秘密にしたがるんだ。
 彼も、──そして、彼も。
 琥珀が、途端に気まずそうな顔になる。
「で、す、よ、ね。・・・・・・あ、桃真呼びますね。ちゃんと二人で話して、すっきり別れてください。雨、降りそうですしちゃっちゃと」
 確かに、走り梅雨という季節の今、天気がぐずつくことも多いが、って、えっ?
「あ、ちょっ!」
 止める間もなく琥珀はスマホを取り出すと、獣耳の方に当てた。
 不思議に思ってしばらくあとで聞いたら、人間の方の耳はつくりもので、多少は聞こえるけど不便なんだそう。猫耳の方が敏感でたくさんの音を掬えるらしい。
「あ、桃真? 今どこ? オッケー、じゃあ稲荷神社来て。え? あ、そうそう、例のこと全部言っといたから。うん。洗いざらい」
 琥珀がそこまで言ったとき、少し離れたところにいる藍の耳にも、『うわあああああっ』と雄叫びのような悲鳴が大音響で聞こえてきた。藍でうるさいと思ったのだから、琥珀の耳なんてもう、うるさいどころの騒ぎではない。琥珀が飛び上がった。
「いっ、うわっ、もう、うるさっ、ちょっと道端でそんなに叫んで大丈夫なわけ? まあ、いいや。待ってる」
 琥珀は一度切ろうとしたが、なにかを聞かれたらしく、再び耳元にスマホを近づける。
「え? なに、天狐になったら? 言ってるよ、神通力使えるって。え? その先? 知らん。じゃあね」
 とても砕けた口調。彼女との対話は、これが目標だと藍は密かに決意を固めるのだった。
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