都心から車で約九時間。 
 まるで別の世界に来たかのように、窓を開ければほのかに草の匂いの香る田んぼ道。季節によって表情をガラリと変えるこの道は、はるか先まで見渡すことが出来る。時折、この村の住民とすれ違うこともあるが、陽の光が燦燦(さんさん)と照りつけるこの季節では、滅多にその光景も見かけることはない。
 堀田武(ほったたけし)は会社の夏季休暇を利用して、十八年振りにこの村に帰って来た。
 先程まで付けていたラジオはとうの昔に切り、今はスマートフォンから音楽を流している。この辺りもラジオが入るには入るのだが、ノイズが酷く、聞くに堪えないからだ。
「ここは何年経っても変わらないなぁ」
 当たり前のように音楽に切り替えた武は、稲穂の緑を見ながら呟いた。
 運転席の窓を開けると、生暖かい風が車内へと流れ込む。
 その空気を懐かしみながら肺いっぱいに取り入れると、武は再び窓を閉めた。
 田んぼ道を抜け、車は山道を登っていく。舗装が不十分の道に、身体は左右だけでなく、上下にも揺さぶられた。
 カーブミラーがない交差点に差し掛かり、武は速度を落とす。
 左右の安全確認をした後、ゆっくりとアクセルを踏み、ハンドルを左に切っていく。
「今日も……、そうだよなぁ」
 武はバックミラー越しに映し出された信号を見て呟いた。
 少しの緊張を胸に、これからのことを想像する。
『あれから今年で十八年。やっと俺らも三十六歳だ。今度の盆、こっちで待ってる』
 和人(かずと)からそんな連絡が来たのは、梅雨と呼べるのかもわからない程に晴れ間の続いた、七月の中旬だった。
『みんなが集まったら、あの『信号機』のところに行こう』
 その文字に、武はスマートフォンを持つ手を強めた。
「ちゃんと残してくれていたんだな……」
『俺がここに居る限り、撤去なんてことは絶対にさせないさ。それに、こんな低予算の村で、そもそもそんな予算が組めるわけもないだろ』
 和人は高校卒業後、地元の役所に勤めている。
 親のコネクションをフル活用しやがって、と就職活動の際は散々とからかったものだが、こうしてあの信号機を守ってくれている和人には、頭が上がらなかった。
 十八年間振りの帰省となるが、決して忘れていたわけではない。
 この十八年、武は様々な想いを胸に過ごしてきた。
 深く長い息を吐きながら思い返す。
 両手で力強くハンドルを握り、武は呟く。
奈緒(なお)、帰って来たぞ――」

 ――十八年前、何もないこの村で、武は青春時代を駆け回っていた。
「あーあ、俺らもあと少しで卒業か」
 和人が腕を頭の後ろに組みながら言った。
 武は「そうだな」と返事をしようとしたが、和人の体重を背もたれと後ろの脚だけで支えている椅子が今にもひっくり返りそうで、言葉が喉に詰まっていた。
「和人。また後ろに倒れるよ?」
 眉根を寄せ、呆れたように武の気持ちを言葉にしたのは愛佳(あいか)だ。
「別に倒れたって死にゃしないよ。それより見ろ。今年は卒業式に桜が咲きそうだぜ」
 和人が指差す先には、たくさんの蕾を付けた桜の木が並んでいる。この村の桜は例年、入学式シーズンに一斉に花を咲かせていた。しかし、近年の地球温暖化の影響を受け桜の開花は毎年のように早まり、今年は卒業式に花を咲かせてくれそうだった。
「またそうやって話を逸らして……、でも本当だ。今年は私たちの門出を祝ってくれそう。これで奈緒も来てくれれば、最高の卒業式になるんだけどなぁ」
「大丈夫だって。綺麗な桜を見たら絶対、奈緒も元気になるさ」
 武は自分にも言い聞かせるように、語尾を強めていった。和人、愛佳、それに奈緒。武を含めた四人が、この学校の全校生徒だった。そして、この校舎は武たちが卒業した後、取り壊されることが決まっている。
「早く良くならねーかな、奈緒。お前も一緒に卒業したいもんな?」
 校舎に問いかけるように、和人は右足で床を二度叩いた。
「最後はみんなで、一緒に卒業したいよね……」
 愛佳の言葉は、古びたチャイムの音にかき消された。

 四人は物心がつく前から、いつも一緒だった。
 お互いの家も近所で、親同士は武の産まれる前から仲が良い。
 四人が産まれてからというもの、小さな赤ん坊を抱いたまま井戸端会議に参加するのが日課になったと、それぞれが親から良く聞かされたものだった。ちなみに、「『まさか同じタイミングで子供が産まれるなんて』という言葉を一日一回は耳にしていた」と父が嘆くように言っていたのを、今でもよく覚えている。
 何にせよ、人口も少なく狭い村で同年に産まれた子どもであれば、仲良くなるのは至極当然の話で、四人は当たり前のように小中高と同じ学校に進学した。
 小学校の際は武が一年生の時、六年生の子が三人いたので七人の学校だったが、六年生の卒業以来、学校には常に四人しか生徒はいなかった。そのため、進級しても進学しても、目に映る風景は何一つ変わることがなかった。
 そんないつもの日常が変わり始めたのは、武の高校生活も二年が終了する間際のことだった。
「え? 奈緒が入院した? ただの風邪じゃなくて?」
 自宅に帰ると、唐突に母から聞かされた。
 武は鞄をおろしながら、言葉を急かすように母を見つめる。
「さっき奈緒ちゃんのお母さんから電話があってね……。今は症状も落ち着いているみたいなんだけど、しばらく学校はお休みするみたい」
 昨日までの元気な姿を思い浮かべると、まさに青天の霹靂以外の何物でもなかった。武は何気なしに確認する。
「でもすぐ良くなるんだよね?」
 母からの返事はなく、力ない笑顔だけが脳裏に焼き付いていた。

 知らせを聞いた翌日、武は和人、愛佳と一緒に奈緒の病室に来ていた。
「やっほー、奈緒。調子はどう?」
 和人の場違いな明るさは、武の気持ちをも軽くする。
「みんなごめんね、ビックリしたでしょ? でも全然大丈夫。暫く入院したら、またすぐ学校に行けるから」
「ビックリしたなんてもんじゃないよ。病院でこんなこと言っちゃいけないけど、本当に心臓が止まるかと思った。こんな野獣二人との学校生活なんて、考えられないもん」
「一番の野獣が何を言う」
「かーずーとー?」
 愛佳は鋭い視線を和人に向けたが、その光景に奈緒は笑顔を見せた。
「ははは。今日も二人は仲が良いね。なんか元気貰っちゃった」
「「仲良くない」」
 和人と愛佳が揃って言うと、武と奈緒は声を出して笑った。
 ここにいる誰もが、奈緒が良くなることを信じて疑わなかった。
 
 ――しかし、卒業式を翌日に控えたこの日も、奈緒は病院のベッドの上にいた。
 それでも奈緒は明るく振舞っていた。
「なーお、調子はどう?」
「ぼちぼちかな。あれ、和人と愛佳は?」
「明日の準備だって。二人とも奈緒も来るからって張り切っちゃって」
「二人だけ? 武は張り切ってくれないの?」
「意地悪な言い方するなよ」
 片手を立てて「ごめん、ごめん」という奈緒の表情は明るかった。
 武は「これなら明日は大丈夫」と心から思い、願った。
「あ、またそれやってるんだ?」
 武はペンを掴み、その場に描くような仕草をした。
「あぁ、これ? うん。何か一人の時間を持て余しちゃうからさ」
 奈緒は真っ白な画用紙に、色鉛筆を用いて絵を描いていた。それぞれの色鉛筆の長さを見ても、奈緒が相当数の絵を描いていることが窺える。
「昔から奈緒は上手だもんね。今日は何の絵?」
「今日はこれ」
 そう言って奈緒は画用紙を武に向けた。周りを高い木々に囲まれながら、山頂付近、村全体を見渡せる場所に真っすぐと伸びた一つの信号機。ちょうどこの病室からも、薄っすらとその姿を確認することが出来る。
 ただ一つ、武の目に映る光景と違うのは、その信号機の一部分に向かって光が吸い込まれるように描かれていることだった。
「この信号機ってとっても不思議なの」
 武が奈緒の描いた絵から奈緒の元へと視線を移すと、奈緒はニコッと笑い、病室から外を覗くようにして続けた。
「あの信号機がね……、点灯したんだ」
「あの信号機が……何だって?」
 武は耳を疑った。
 この村に設置された数少ない信号機。その中でもあの信号機だけは、昔から不思議な信号機として有名だった。
 丁字路の正面に設置されているのだが、現在は故障しているのか、点灯はしていない。
 いつから不点灯なのか、どうして修理、撤去がなされないのか。
 丁字路には何故その信号機しか設置されていないのか。
 そもそも車通りの少ないあの場所に、何故信号機が必要なのか。
 誰もが疑問に思いながら、誰も答えを知らない。和人の父親曰く、設置に関する情報は、役所にも何一つ残っていないのだという。
「まさか。あの信号機はもう壊れているって聞いたよ? いつ撤去になってもおかしくないって……。俺もよくあの道を通るけど、点いているところなんて見たことないし、何年も点灯していない信号機が、いきなり点灯なんてしないでしょ」
「それがね」
 武の言葉など意に介さずといった具合に、奈緒は言った。
「大きな満月が見えた日……、覚えてる?」
「確か病室で和人が騒いでいた……、俺は寝てたから見ていないけど」
「そう、あの日の夜。もう二時近くだったかな。妙な胸騒ぎがして、目が覚めたの。それでそこのカーテンを開けたら……」
 ゆっくりと、奈緒は視線を武に戻す。
「赤く点灯しているのが見えた」
 病室に差し込む風に、白いカーテンと奈緒の髪が揺れる。その瞳が嘘をついているようには思えなかった。
「その光はね」と表情を変えることなく続けていく。
「まるで私を取り込もうとしているみたいだった……。だからそのイメージを、この絵に込めたの」
 他人事のように奈緒は話していた。
「取り込むって?」
「んー、なんて言えば良いんだろうな……。私にはね、あの光がこの村とどこかを繋いでいるように見えた。温かくて、とってもとっても優しい光。だから不思議と怖いとか、そんな風には思わなくて」
 奈緒は風に靡いた髪を耳に掛け、柔らかな表情を見せると、嬉しそうに言った。
「その光を見て、昔おじいちゃんが言っていたことを思い出したの。この村の人たちはこの村を、そして村人を死んでも見守ってくれているんだって。そうやって代々、村人が村を守っていくんだって。もしかしたら、あの光がこの村のご先祖様たちの魂なのかもなって、そう思えた」
 奈緒の表情は、「私の勘違いであってもそう信じたい」と武に語り掛けていた。
「それが本当だとしても、何で今まで誰も気が付かなかったんだ? そんなことってあるのかな?」
 あの信号機に不思議な噂がある以上、奈緒の話が信じられないわけではなかったが、どこか認めてはいけない気がして、武は必死に思考を巡らせ言葉にした。
「この村って街灯もほとんどないし、あんな時間に外に出る人なんていないじゃない? だから今まで気が付かれなかったのかもしれない」
 奈緒の言う通り、この村の人口や環境を鑑みると、なんらおかしくはない話だった。しかし、それよりも考えることもせず流れるように思いを口にする奈緒に、武は口をつぐんでしまった。
「それでね、気になってちょっと調べてみたんだ」
「信号機のこと? 確かあの信号機は役所にも資料が残っていないって」
「信号機じゃなくて、満月の方。確かに信号機が点灯しているのを見たけど、見たのは後にも先にもこの時だけ。だとすると、その他に考えられる可能性はあの満月なのかなって」
 言葉の詰まる武とは対照的に、奈緒は生き生きとした顔をしている。
「そ……、それで? 何かわかったの?」
「それがね、どうやら私たちが産まれた今から十八年前と、その十八年前にも大きな満月が村に急接近していたみたいなの」
「つまり……十八年周期に大きな満月が現れると?」
「うん。それも全部同じ日の八月十五日。私の誕生日と一緒なの。これは単なる偶然じゃないよ」
 興奮からか珍しく奈緒が声を上げた時、病室の扉が開いた。
「ごめーん、遅くなった。てかどうしたの? そんな大きな声出して」
「おい武。お前、俺らがいない間に奈緒に変なことしたんじゃないだろうな?」
「何もしてねーから」
 武と奈緒は、今までの会話の内容を二人に話した。つい先程まで賑やかだった病室は一転して神妙な雰囲気に包まれる――。

「そんなこと、信じられるか?」
 眉間に皺を寄せた和人は、吐き捨てるように言う。
「和人、奈緒が嘘ついてるって言いたいの? あの信号機は昔から変な噂ばっかりだったじゃない」
「嘘をついてるとは言ってないだろ。俺はただ、奈緒が『光は自分を取り込もうとしてる』なんて言うから……」
「……、あたしもそこは気になったけど……。きっとそれこそ奈緒の勘違いよ。そうだよね、奈緒?」
 奈緒は困惑した表情をしている。恐らく愛佳のことを思うと同意も否定も出来ない、といったところなのだろう。
「まぁまぁ、二人ともちょっと落ち着けって。まだその可能性があるってだけの話だから」
 武は奈緒に向けられた二人の視線を一旦自分の元へと誘導しようと、二人の肩に手を置いて言った。すると和人が「それなら」と口を開く。
「十八年後の八月十五日、四人で確認しに行こうぜ。それで白黒はっきりするだろ」

「絶対だぞ」
 この日、武は十八年後の約束を交わした。

 そして迎えた卒業式当日――。
 三人の卒業式は滞りなく執り行われたが、奈緒が姿を見せることはなかった。
 終了直後に容態が急変し、武たちが病院に駆け付けた時には、奈緒は既に旅立っていた。
 武は奈緒の卒業証書を、そっと枕元に置いたのだった――。

 ◆

 車を止め、武は運転席から屈むように外に出る。辺りはすっかり暗くなっていた。
「やっと来たか。おせーぞ、武」
 腕を組みながらそう言う和人の隣で、愛佳が小さく手を振っている。武も軽く手を挙げて応えた。
「ここまで何時間掛かったと思ってんだ。車で九時間だぞ? それなのに集合場所がお前んちってどうゆうことだ?」
 お互いに言葉を掛け合い暫く見つめ合った後、二人は声を上げて笑い、拳を合わせた。
「久しぶり! 元気にしてたか?」
「お前らこそ、元気そうで何よりだ。さ、早く家に入れ。話したいことがたくさんある」
「男子のノリってやっぱり変だよ」
 そんな愛佳の皮肉さえ、武は心地よく聞こえた。
 昔話には大きな花が咲いた。学校でのこと、仕事のこと、そして奈緒のこと。次から次へと出てくる思い出たちは、とても生き生きとしていた。
 自然と笑顔が溢れていく。
 あっという間に日付は変わり、時計の針は深夜一時十五分を指している。時計を確認した愛佳が和人に視線を送ると、和人は一つ咳払いをし、話し始めた。
「ふう……、そろそろ、あの約束を果たしに行かないとな」
「十八年……、今思うと早かったな。あの頃はいつの話って思っていたのに」
「そうだね。約束、覚えてくれているかな」
 愛佳が床に向かって言葉を漏らす。
 この十八年間、心のどこかに突っかかりを感じていた。それは和人も愛佳も同じだったのだろうと、武は二人の表情を見て思った。
「大丈夫。奈緒はきっと覚えているよ……。さぁ、行こう」
 武の言葉が合図となり、三人は腰を上げた。三人が外に出ると、山の上から大きな満月がこちらを見ていた。
「外を見ないようにして正解だったな。驚きと感動が半端じゃない」
「ちょっと怖いくらい大きいね」
 街灯のない薄暗い山道を、用意していた懐中電灯で照らしながら真っすぐ進んでいく。先程までの盛り上がりが嘘のように、誰一人として口を開くことはなかった。一歩、また一歩と、約束の場所へと足を運ぶ。
 時刻は奈緒の言っていた深夜二時に迫っていた。
 信号機に続く最後の交差点を左へと曲がると、ぼんやりと月明かりに照らされた山道の一角が視界に映る。その光に吸い寄せられるように、三人はあの信号機の前に立った。
「やっぱり……、壊れたままだね」
「そんなに上手いこといくわけないか……」
 ため息交じりに愛佳が呟くと、和人も続くように言葉を重ねた。武は時計を確認しようと、ポケットに入れたスマートフォンに手を伸ばす。
 すると、スマートフォンが小さく振動した。
 慌てて視線を上げると、二人のスマートフォンも振動したのか、和人と愛佳の視線とぶつかった。
「もしかして、二人も?」
「うん。震えた気がした」
「あたしも」
 その時だった。
 バチ、バチという電気が流れるような音とともに、じんわりと光が灯っていく。
「奈緒……」
 武は思わず口にしていた。
「あ……、青になった。青だ! 青に灯りやがった!」
「本当だ! きっと奈緒よ! 奈緒もここに来てくれ……」
 愛佳は両手で顔を覆った。
 武は和人を見て頷くと、二人は震える愛佳の肩に手を回した。そして、三人は再び信号機へと視線を向ける。
 信号機は三人の行先を照らすように、美しい青色でこちらを照らしている。
 まるで、信号機が微笑んでいるかのようだった。
「また十八年後……、四人でここに来よう」
 和人の言葉に、武は無言のまま頷いた――。


 ――あの日、病室で奈緒は言った。
「あの夜は赤く点灯していたけど、私だったら青にするだろうな」
「青に? どうして?」
 奈緒は口元を緩ませ、窓の外へと視線を移す。
 静寂が二人を包み込む。
「だって……」
 視線はゆっくりと、武へと向けられていく。

「みんなには前へ進んでほしいから」

 奈緒は今までで一番美しい笑顔をしていた。