都心から車で約九時間――堀田武は十八年振りに、故郷の村へと帰ってきた。
視界を遮るモノは何もない。まるで別の世界に来たかのように、辺り一面、緑の田んぼが広がり、窓を開ければ、ほのかに草の香りが鼻を掠める。季節によって表情をガラリと変えるこの道は、はるか先まで見渡すことができた。
運が良ければ、この村の住民とすれ違うこともある。が、陽の光が燦燦と照りつけるこの季節では、滅多にその光景も見かけることはない。
武は道の途中で車を停めると、付けていたラジオを切り、スマートフォンの音楽に切り替える。この辺りもラジオが入るには入るのだがノイズが酷く、聞くに堪えなかったからだ。
まさかこんな形で、故郷の田舎加減を知ることになるとは。口元も自然と緩む。
「それにしても、ここは何年経っても変わらないなあ」
この風景とは似ても似つかない音楽を流し、武は稲穂の緑を見ながら口にした。運転席の窓を開けると、蒸された風が車内へと流れ込む。普段なら嫌気が差すこの空気も、今はどこか懐かしい。噛み締めるように大きく息を吸い、肺の中に故郷を取り込んでいく。そして、都会の波で疲弊しきった身体の充電が完了したことを感じると窓を閉め、再び車を走らせた。
田んぼ道を抜け、山道を登っていく。舗装が不十分の道で、身体は左右だけでなく、上下にも揺さぶられる。もはや、無料のアトラクションと化していた。
カーブミラーのない交差点に差し掛かり、徐々に速度を落としていく。当然のルールとして左右の安全確認を行ったが、人影の一つ、見えることはなかった。ゆっくりとアクセルを踏み、ハンドルを左へと切る。
「今日も……そうだよなあ」
バックミラーには、一基の信号機が映し出されている。武は少しずつ離れていくその様を視界に捉えながらに呟いた。視線を進行方向へと戻し、これからのことを想像する。小さくなる信号機を想うと、次第に心臓の鼓動は速く、強さを増した。
『あれから今年で十八年。やっと俺らも三十六歳だ。今度の盆、こっちで待ってる』
同級生の和人からそんな連絡が来たのは、梅雨と呼べるのかもわからないほど晴れ間の続いた、七月中旬のことだった。
『みんなが集まったら、「あの信号機」のところに行こう』
その文字に、武はスマートフォンを持つ手を強めた。
「ちゃんと残してくれていたんだな」
『俺がここに居る限り、撤去なんてことは絶対にさせないさ。そもそも、こんな低予算の村で、そんな予算が組めるわけもないだろ』
和人は高校卒業後、地元の役所に勤めている。親のコネクションをフル活用しやがって、と就職活動の際は散々とからかったものだが、こうしてあの信号機を守ってくれている和人には頭が上がらなかった。
村を出てから十八年間振りの帰省となるが、武はこの日を忘れていたわけではない。むしろ、毎晩のようにこの日を思い描き、様々な想いを胸に過ごしてきた。
深く長い息を吐き、あの日の約束を想う。
両手で力強くハンドルを握ると、武は逸る気持ちを抑え、思いの丈を口にする。
「奈緒、帰って来たぞ――」
――十八年前。何もないこの村で、武は青春時代を駆け回っていた。
「あーあ。俺らもあと少しで卒業か」
気の抜けた和人の声が、背中越しに聞こえる。武は、そうだな、と返事をしようと振り返ったが、和人の全ての体重を、背もたれと後ろの二本の脚だけで支えている椅子が今にもひっくり返りそうで、その言葉を飲み込んでいた。
「和人。また後ろに倒れるよ?」
武の気持ちを代弁するように、眉根を寄せた愛佳が呆れるように言った。
「別に倒れたって死にゃしないって。俺自身が証明してきただろ? ……それより見ろ。今年は卒業式に桜が咲きそうだぜ」
そういうことじゃなくて、という言葉は聞きたくないとでも言うように、和人は窓の外を指差す。その先には、たくさんの蕾を付けた桜の木が並んでいる。
この村の桜は例年、入学式シーズンに一斉に花を咲かせていた。しかし、近年の地球温暖化の影響を受け、桜の開花は毎年のように早まり、今年は卒業式に花を咲かせてくれそうだった。
「またそうやって話を逸らして……でも本当だ。今年は私たちの門出を祝ってくれそうね。これで奈緒も来てくれれば、最高の卒業式になるんだけどなあ」
「大丈夫だって。綺麗な桜を見たら絶対、奈緒も元気になるさ」
武は自分にも言い聞かせるように、語尾を強めて言った。
和人、愛佳、それに奈緒。ここに武を含めた四人が、この学校の全校生徒だった。そして、この校舎は武たちが卒業した後、取り壊されることが決まっている。
「奈緒、早く良くならねーかな。最後の卒業生なんだぜ? お前も一緒に、卒業したいもんな?」
校舎に問いかけるように、和人は右足で床を二度叩く。
「そうだよね。最後はみんなで、一緒に卒業したいよね……」
消え入りそうな愛佳の声は、古びたチャイムの音にかき消された。
四人は物心がつく前から、いつも一緒だった。狭い村であるが故、当然とも言えることだが、互いの家も近所で、親同士は武の産まれる前から親交も深い。四人が産まれてからというもの、小さな赤ん坊を抱いたまま井戸端会議を開催するのが日課になったと、それぞれが互いの親から良く聞かされたものだった。
ちなみに、「『まさか、同じタイミングで子どもが産まれるなんて』という言葉を、一日一回は耳にしていた」と父が嘆くように言っていたのを、武は今でもよく覚えている。こういった環境下で育ったことも相まって、子ども同士の仲が良くなるのも時間の問題だった。
言うまでもなく、四人は小中高と同じ学校に進学した。小学校の頃は武が一年生の時、六年生の子どもが三人居たので七人の学校だったが、その六年生の卒業以来、学校には常に四人しか生徒は居なかった。そのため、進級しても、進学しても、目に映る風景には何一つの変化も訪れない。そんな当たり前の日常が変わり始めたのは、高校生活も二年が終了する間際のことだった。
「え? 奈緒が入院した? ただの風邪じゃなくて?」
自宅に帰ると、唐突に母から聞かされた。武は鞄をおろしながら、母の言葉を急かすように見つめる。
「さっき奈緒ちゃんのお母さんから電話があってね……今は症状も落ち着いているみたいなんだけど、しばらくは学校もお休みするみたい」
昨日までの元気な姿を思い浮かべると、まさに青天の霹靂以外の何物でもなかった。ずっと我慢でもしてたのかな――そう思いながら、武は何気なしに確認する。
「でも、すぐ良くなるんだよね?」
母からは武の期待した返事はない。代わりに目元だけで作られた、力ない笑顔だけが向けられている。この時、武はようやく事の重大さに気が付いた。
知らせを聞いた翌日、武は和人と愛佳の三人で奈緒の入院する病院を訪ねた。受付で部屋の番号を聞くと、他に目を配ることもなく、真っすぐ病室に向かう。何がわかったでもないにもかかわらず、その足取りは重い。二人も同じ気持ちだったのか、病室に着くまで、誰も口を開くことはなかった。
病室の前に着くと、和人が勢いよく扉を開ける。
「やっほー、奈緒。調子はどう?」
先程までとは打って変わって、和人は明るい口調を投げかけた。その場違いな明るさは、武の気持ちをも軽くする。
「みんな、ごめんね。ビックリしたでしょ? でも全然大丈夫。しばらく入院したら、またすぐ学校に行けるから」
奈緒の見せる笑顔が、心の澱みを浄化していく。病院に来るのも、これが最初で最後かもしれないな――そう思えるほどだった。
「ビックリしたなんてもんじゃないよ。病院でこんなこと言っちゃいけないけど、本当に心臓が止まるかと思った。こんな野獣二人との学校生活なんて、考えられないもん」
「一番の野獣が何を言う」
「かーずーとー?」
愛佳は鋭い視線を和人に向け、和人がそれを嘲笑うような表情で返す。その光景に、奈緒は屈託のない笑みを浮かべていた。
「ははは。今日も二人は仲が良いね。なんだか元気貰っちゃった」
「「仲良くない」」
和人と愛佳が口を揃えて言うと、武と奈緒は視線を合わせ、声を出して笑い合いあう。和人と愛佳も釣られるように笑っていた。この時はここに居る誰もが、奈緒が良くなることを信じて疑わなかった。
しかし、卒業式を翌日に控えたこの日も、奈緒は病院のベッドの上に居た。それでも奈緒は明るく振舞っている。
「なーお。調子はどう?」
「ぼちぼちかな。あれ、今日は和人と愛佳は一緒じゃないの?」
「明日の準備だって。二人とも奈緒も来るからって張り切っちゃって」
「二人だけ? 武は張り切ってくれないの?」
「意地悪な言い方するなよ。俺だって明日早めに学校に行ってだな――」
そこまで口にしたところで、奈緒は言葉を遮るように「ごめん、ごめん」と手刀を切り、おどけた顔を見せた。
これなら明日は大丈夫――武は心から思い、そして願った。
「あ、またそれやってるんだ?」
武は親指と人差し指でペンを掴む形を作り、その場に描くような仕草をした。
「あぁ、これ? うん。何か一人の時間を持て余しちゃうからさ」
奈緒は入院してしばらくしてから、真っ白な画用紙に、色鉛筆を用いて絵を描いていた。それぞれの色鉛筆の長さを見ても、奈緒が相当数の絵を描いていることが窺える。
「昔から奈緒は上手だもんね。今日は何の絵?」
「今日はこれ」奈緒は画用紙を武に向けた。
そこに描かれていたのは、一つの信号機だった。その信号機は山頂付近、丁字路の正面に設置され、村全体を見渡せる場所で真っすぐと立っている。ちょうどこの病室の窓からも、薄っすらとその姿を確認することができた。
ただ一つ、武の目に映る実際の光景と違うのは、その信号機の赤信号部分に向かって、光が吸い込まれるように描かれていることだった。
「この信号機って、とっても不思議なの」
抱いた違和感を口にする前に、奈緒は言う。武が手元の絵から奈緒の元へと視線を移すと、奈緒はニコッと笑い、病室から外を覗くようにして続けた。
「あの信号機がね……点灯したんだ」
「信号機が……何だって?」
武は耳を疑った。この村に設置された、数少ない信号機。その中でも、あの信号機は昔から一切点灯のしない、不思議な信号機として有名だったからだ。
不思議な点は他にもある。これが故障だとするならば、どうして修理、撤去がなされないのか。そもそも、いつから不点灯なのか。丁字路だというのに、そこには何故、あの信号機しか設置されていないのか。それ以前に、車通りの少ないあの場所に、信号機など必要なのか……。
誰もが各々疑問に思いながらも、誰もその答えを知らない。役所で勤務する和人の父親曰く、設置に関する情報は、役所にも何一つ残っていないのだという。
「まさか。あの信号機はもう壊れてるって聞いたよ? いつ撤去になってもおかしくないって……。俺もあの道を通るけど、点いているところなんて見たこともないし、もう何年も点灯していない信号機が、いきなり点灯なんてしないでしょ」
驚きのあまり、武は矢継ぎ早に言葉を重ねた。しかし、「それがね」と奈緒は武の話は意に介さずといった具合に、表情を崩すことなく話を続けていく。
「大きな満月が見えた日……覚えてる?」
「確か病室で和人が騒いでいた……俺は寝てたから見てないけど」
「そう、あの日の夜。三人が帰ったあと、比較的早くに私は寝たんだけど、ある時ふと、妙な胸騒ぎがして目が覚めたの。時間は深夜の二時近くだったかな。それで窓の外が気になって、そこのカーテンを開けたら――」奈緒はゆっくりと、武に視線を戻す。
「赤く点灯しているのが見えた」
病室に流れ込む風が、白いカーテンと奈緒の髪を揺らしていく。自然が魅せる柔らかさとは対照的に、瞳に宿る力には固い芯が通っている。その瞳からは、奈緒が嘘をついているとは到底思えなかった。
「あれはまるで、私を取り込もうとしているみたいだった……だからそのイメージを、この絵に込めたんだ」
その日を思い出しているのか、奈緒は優しく口元を緩ませる。
「取り込むって?」
「んー、なんて言えば良いんだろう……私にはね、あの光がこの村とどこかを繋いでいるように見えた。温かくて、とっても、とっても優しい光。だから不思議と怖いとか、そんな風には思わなくて」
奈緒は風に靡いた髪を耳に掛けると、再び風の入り込む方向へと視線を流した。
「その光を見て、昔おじいちゃんが言っていたことを思い出したの。この村の人たちはこの村を、そして村人を、死んだ後も見守ってくれているんだって。そうやって代々、村人が村を守っていくんだって。そのことが頭をよぎった時、もしかしたら、あの光がこの村のご先祖様たちの魂なのかもなって、そう思えた」
奈緒の柔らかな表情は、「私の勘違いであっても、そう信じていたい」と、武に語り掛けているようだった。
「それが本当だとしても、村の人は何で今まで誰も気が付かなかったんだ? そんなことってあるのかな?」
あの信号機に不思議な噂がある以上、奈緒の話が信じられないわけではなかった。しかし、なぜか認めてはいけない気がして、武は必死に思考を巡らせ言葉にした。
「この村って街灯もほとんどないから、あんな時間に外に出る人なんていないじゃない? だから今まで、誰にも気付かれなかったのかもしれない」
この村の人口や環境を鑑みると、それが真実であってもなんらおかしな話ではない。ただそれよりも、一貫して他人事のように淡々と思いを口にする奈緒に、武は口をつぐんでしまう。
嫌でも頭の中で、奈緒が口にした話が一つの物語を創り出す。もしも全てが、奈緒の話していた通りだとしたら、このままじゃ奈緒が――そんな色のない未来が、動き出そうとしているようだった。
「それでね。気になって、ちょっと調べてみたんだ」
「信号機のこと? 確かあの信号機のことは、役所にも資料が残っていないって」
「信号機じゃなくて、満月の方。この目で信号機が点灯しているのを見たと言っても、あれを見たのは後にも先にもこの時だけ。だとすると、その他に考えられる可能性は、あの満月なのかなって」
必死になって言葉を探す武には、生き生きとした顔で話す奈緒が眩しく映る。
「そ……それで? 何かわかったの?」
「それがね、どうやら私たちが産まれた今から十八年前と、更にその十八年前にも、大きな満月が村に急接近していたみたいなの」
「つまり――十八年周期に大きな満月が現れる?」
「うん。それも全部同じ日の八月十五日。私の誕生日と一緒なんだ。これは単なる偶然じゃないよ。それからね――」
奈緒の言葉が、頭の中に沈んでいく。全てを話し終えて向けられた奈緒の笑顔が、その言葉の入った頭の抽斗に鍵を掛ける。その時まで忘れないでね。そう言われた気がした。
武が黙って奈緒を見つめていると、病室の扉が開く。
「ごめーん、遅くなった。……どうしたの? 奈緒の顔、見つめちゃってさ」
「おい武。お前、俺らが居ない間に、奈緒に変なことしたんじゃないだろうな?」
「何もしてねーから」武は強くかぶりを振った。
和人と愛佳が武を挟むようにパイプ椅子に腰掛けると、奈緒は今までの会話の内容を二人に話していく。つい先程まで賑やかだった病室は一転して、神妙な雰囲気に包まれる。
「そんなこと……信じられるか?」
眉間に皺を寄せた和人は、吐き捨てるように言う。
「和人。あんた、奈緒が嘘をついてるって言いたいの? あの信号機は昔から変な噂ばっかりだったじゃない」
「嘘をついてるとは言ってないだろ。俺はただ、奈緒が『光が自分を取り込もうとしてる』なんて言うから――」
「あたしもそこは気になったけど……きっと、それこそ奈緒の勘違いよ。そうだよね、奈緒?」
奈緒は困惑した表情を浮かべている。おそらく、愛佳のことを思うと、同意も否定もできない、といったところなのだろう。
「まぁまぁ。二人とも、ちょっと落ち着けって。まだその可能性があるってだけの話だから」
武は奈緒に向けられた二人の強い視線を、一旦自分の元へと誘導しようと、二人の肩に手を置いて言う。二人は揃って目線を床へと落とした。
束の間の沈黙が流れた後、和人が「それなら」と口を開き、視線を上げる。
「十八年後の八月十五日。四人で確認しに行こうぜ。それで白黒はっきりするだろ」
和人は有無を言わさぬ暴力的な圧力をその視線に乗せ、一人一人に向けた。
「絶対だぞ」
――こうしてこの日、四人は「十八年後の約束」を交わしたのだった。
迎えた卒業式当日。卒業式は予定通り、滞りなく執り行われた。が、そこに奈緒が姿を見せることはなかった。
式の余韻を引きずることもなく、三人は卒業式終了とともに病院へと急ぐ。しかし、式の終了時刻とほぼ同時刻に容態が急変したらしく、奈緒は既に旅立っていた。
きっと奈緒も一緒にここで、卒業式に出ていたんだよな――そう思いながら、武は奈緒の卒業証書を、そっと枕元に置いた。
車を止め、武は運転席から屈むように外に出る。辺りはすっかり暗くなっていた。
「やっと来たか。おせーぞ、武」
腕を組みながらそう言う和人の隣で、愛佳が小さく手を振っている。武も軽く手を挙げて応えた。
「ここまで何時間掛かったと思ってんだ。車で九時間だぞ? それなのに、集合場所がお前ん家って……一体、どういうことだ?」
互いに言葉を掛け合い、しばらく見つめ合う。そして、二人はどちらとも言わずに吹き出し、笑顔で拳を合わせた。
「久しぶり! 元気にしてたか?」
「お前こそ、元気そうで何よりだ。さ、早く家に入れ。話したいことがたくさんある」
「男子のノリって、やっぱり変だよ」
そんな愛佳の皮肉さえ、武は心地よく聞こえた。
昔話には大きな花が咲いた。学校でのこと、仕事のこと、奈緒のこと。次から次へと出てくる思い出たちは、どれも時を感じさせないほどに色濃く、記憶も鮮明だった。自然と笑顔も溢れていく。
あっという間に日付は変わり、時計の針は深夜一時三十分を指していた。時計を確認した愛佳が和人に視線を送ると、和人は一つ咳払いをし、真剣な顔で話し始める。
「そろそろ……あの約束を果たしに行かないとな」
「十八年……今思うと早かったな。あの頃はいつの話って思っていたのに」
「そうだね。奈緒は約束……覚えてくれているかな?」
愛佳が床に向かって言葉を漏らす。この十八年間、心のどこかに突っかかりを感じていた。それは和人も愛佳も同じだったのだろうと、武は二人の表情を見て思った。
「大丈夫。奈緒はきっと覚えているよ……さぁ、行こう」
武の言葉が合図となり、三人はゆっくりと腰を上げる。外に出ると、今にも落ちそうなほど大きな満月が、山の上からこちらを見ていた。
「外を見ないようにして正解だったな。驚きと感動が半端じゃない」
「ちょっと怖いくらい大きいね」
街灯のない薄暗い山道を、用意していた懐中電灯で照らしながら真っすぐ進んでいく。先程までの盛り上がりが嘘のように、誰一人として口を開くことはない。一歩、また一歩と、約束の場所へと足を運んでいく。
時刻は奈緒の言っていた、深夜二時に迫っていた。
信号機に続く最後の交差点を左へと曲がると、ぼんやりと月明かりに照らされた、山道の一角が視界に映る。その光に吸い寄せられるように進み、三人は奈緒の描いた、あの信号機の前で立ち止まった。
「やっぱり……壊れたままだね」
ため息交じりに愛佳は呟く。
「そんなに上手いこと、いくわけないか……」
和人もそれに続くように、言葉を重ねた。落胆の表情を見せる二人を横目に、武は時計を確認しようと、ポケットに入れたスマートフォンへと手を伸ばす。すると、それを見計らったかのようにスマートフォンが一瞬、小さく振動する。
慌てて視線を上げると、二人のスマートフォンも振動したのか、和人と愛佳の視線とぶつかった。
「もしかして……二人も?」
「うん。震えた気がした」
「あたしも」
全員が再びスマートフォンに視線を落とした。……その時だった。
バチ、バチッ。頭上から、電気の流れる音が聞こえる。武が音の鳴る方へ顔を上げると、目の前に立つ「約束の信号機」は、じんわりと光を灯らせていく。
「奈緒……」
武は思わず口にしていた。
「あ、〝青〟が点いた……青だ! 青に灯りやがった!」
「本当だ! きっと奈緒よ! 奈緒もここに来てくれ――」
愛佳は全てを言い切ることなく、両手で顔を覆った。武は和人を見て頷くと、二人は震える愛佳の肩に手を回した。
涙に滲んだ瞳で三人が信号機を見上げると、信号機は三人の行先を照らすように、美しい青色をその身に纏わせていた。それはまるで、信号機が微笑んでいるかのようだった。
「また十八年後……〝四人で〟ここに来ような」
和人の言葉に、武は無言のまま頷いた。
――あの日、病室で奈緒は言った。
「あの夜は赤く点灯していたけど、私だったら〝青〟にするだろうな」
「青に? どうして?」
吹き抜ける風が、二人の間に温もりと静寂を運ぶ。
「だって……」
奈緒は口元を緩ませたまま、視線を武へと向けた。そして、ゆっくりと口にする。
「みんなには、前へ進んでほしいから」
奈緒は今までで一番、美しい顔をしていた。
視界を遮るモノは何もない。まるで別の世界に来たかのように、辺り一面、緑の田んぼが広がり、窓を開ければ、ほのかに草の香りが鼻を掠める。季節によって表情をガラリと変えるこの道は、はるか先まで見渡すことができた。
運が良ければ、この村の住民とすれ違うこともある。が、陽の光が燦燦と照りつけるこの季節では、滅多にその光景も見かけることはない。
武は道の途中で車を停めると、付けていたラジオを切り、スマートフォンの音楽に切り替える。この辺りもラジオが入るには入るのだがノイズが酷く、聞くに堪えなかったからだ。
まさかこんな形で、故郷の田舎加減を知ることになるとは。口元も自然と緩む。
「それにしても、ここは何年経っても変わらないなあ」
この風景とは似ても似つかない音楽を流し、武は稲穂の緑を見ながら口にした。運転席の窓を開けると、蒸された風が車内へと流れ込む。普段なら嫌気が差すこの空気も、今はどこか懐かしい。噛み締めるように大きく息を吸い、肺の中に故郷を取り込んでいく。そして、都会の波で疲弊しきった身体の充電が完了したことを感じると窓を閉め、再び車を走らせた。
田んぼ道を抜け、山道を登っていく。舗装が不十分の道で、身体は左右だけでなく、上下にも揺さぶられる。もはや、無料のアトラクションと化していた。
カーブミラーのない交差点に差し掛かり、徐々に速度を落としていく。当然のルールとして左右の安全確認を行ったが、人影の一つ、見えることはなかった。ゆっくりとアクセルを踏み、ハンドルを左へと切る。
「今日も……そうだよなあ」
バックミラーには、一基の信号機が映し出されている。武は少しずつ離れていくその様を視界に捉えながらに呟いた。視線を進行方向へと戻し、これからのことを想像する。小さくなる信号機を想うと、次第に心臓の鼓動は速く、強さを増した。
『あれから今年で十八年。やっと俺らも三十六歳だ。今度の盆、こっちで待ってる』
同級生の和人からそんな連絡が来たのは、梅雨と呼べるのかもわからないほど晴れ間の続いた、七月中旬のことだった。
『みんなが集まったら、「あの信号機」のところに行こう』
その文字に、武はスマートフォンを持つ手を強めた。
「ちゃんと残してくれていたんだな」
『俺がここに居る限り、撤去なんてことは絶対にさせないさ。そもそも、こんな低予算の村で、そんな予算が組めるわけもないだろ』
和人は高校卒業後、地元の役所に勤めている。親のコネクションをフル活用しやがって、と就職活動の際は散々とからかったものだが、こうしてあの信号機を守ってくれている和人には頭が上がらなかった。
村を出てから十八年間振りの帰省となるが、武はこの日を忘れていたわけではない。むしろ、毎晩のようにこの日を思い描き、様々な想いを胸に過ごしてきた。
深く長い息を吐き、あの日の約束を想う。
両手で力強くハンドルを握ると、武は逸る気持ちを抑え、思いの丈を口にする。
「奈緒、帰って来たぞ――」
――十八年前。何もないこの村で、武は青春時代を駆け回っていた。
「あーあ。俺らもあと少しで卒業か」
気の抜けた和人の声が、背中越しに聞こえる。武は、そうだな、と返事をしようと振り返ったが、和人の全ての体重を、背もたれと後ろの二本の脚だけで支えている椅子が今にもひっくり返りそうで、その言葉を飲み込んでいた。
「和人。また後ろに倒れるよ?」
武の気持ちを代弁するように、眉根を寄せた愛佳が呆れるように言った。
「別に倒れたって死にゃしないって。俺自身が証明してきただろ? ……それより見ろ。今年は卒業式に桜が咲きそうだぜ」
そういうことじゃなくて、という言葉は聞きたくないとでも言うように、和人は窓の外を指差す。その先には、たくさんの蕾を付けた桜の木が並んでいる。
この村の桜は例年、入学式シーズンに一斉に花を咲かせていた。しかし、近年の地球温暖化の影響を受け、桜の開花は毎年のように早まり、今年は卒業式に花を咲かせてくれそうだった。
「またそうやって話を逸らして……でも本当だ。今年は私たちの門出を祝ってくれそうね。これで奈緒も来てくれれば、最高の卒業式になるんだけどなあ」
「大丈夫だって。綺麗な桜を見たら絶対、奈緒も元気になるさ」
武は自分にも言い聞かせるように、語尾を強めて言った。
和人、愛佳、それに奈緒。ここに武を含めた四人が、この学校の全校生徒だった。そして、この校舎は武たちが卒業した後、取り壊されることが決まっている。
「奈緒、早く良くならねーかな。最後の卒業生なんだぜ? お前も一緒に、卒業したいもんな?」
校舎に問いかけるように、和人は右足で床を二度叩く。
「そうだよね。最後はみんなで、一緒に卒業したいよね……」
消え入りそうな愛佳の声は、古びたチャイムの音にかき消された。
四人は物心がつく前から、いつも一緒だった。狭い村であるが故、当然とも言えることだが、互いの家も近所で、親同士は武の産まれる前から親交も深い。四人が産まれてからというもの、小さな赤ん坊を抱いたまま井戸端会議を開催するのが日課になったと、それぞれが互いの親から良く聞かされたものだった。
ちなみに、「『まさか、同じタイミングで子どもが産まれるなんて』という言葉を、一日一回は耳にしていた」と父が嘆くように言っていたのを、武は今でもよく覚えている。こういった環境下で育ったことも相まって、子ども同士の仲が良くなるのも時間の問題だった。
言うまでもなく、四人は小中高と同じ学校に進学した。小学校の頃は武が一年生の時、六年生の子どもが三人居たので七人の学校だったが、その六年生の卒業以来、学校には常に四人しか生徒は居なかった。そのため、進級しても、進学しても、目に映る風景には何一つの変化も訪れない。そんな当たり前の日常が変わり始めたのは、高校生活も二年が終了する間際のことだった。
「え? 奈緒が入院した? ただの風邪じゃなくて?」
自宅に帰ると、唐突に母から聞かされた。武は鞄をおろしながら、母の言葉を急かすように見つめる。
「さっき奈緒ちゃんのお母さんから電話があってね……今は症状も落ち着いているみたいなんだけど、しばらくは学校もお休みするみたい」
昨日までの元気な姿を思い浮かべると、まさに青天の霹靂以外の何物でもなかった。ずっと我慢でもしてたのかな――そう思いながら、武は何気なしに確認する。
「でも、すぐ良くなるんだよね?」
母からは武の期待した返事はない。代わりに目元だけで作られた、力ない笑顔だけが向けられている。この時、武はようやく事の重大さに気が付いた。
知らせを聞いた翌日、武は和人と愛佳の三人で奈緒の入院する病院を訪ねた。受付で部屋の番号を聞くと、他に目を配ることもなく、真っすぐ病室に向かう。何がわかったでもないにもかかわらず、その足取りは重い。二人も同じ気持ちだったのか、病室に着くまで、誰も口を開くことはなかった。
病室の前に着くと、和人が勢いよく扉を開ける。
「やっほー、奈緒。調子はどう?」
先程までとは打って変わって、和人は明るい口調を投げかけた。その場違いな明るさは、武の気持ちをも軽くする。
「みんな、ごめんね。ビックリしたでしょ? でも全然大丈夫。しばらく入院したら、またすぐ学校に行けるから」
奈緒の見せる笑顔が、心の澱みを浄化していく。病院に来るのも、これが最初で最後かもしれないな――そう思えるほどだった。
「ビックリしたなんてもんじゃないよ。病院でこんなこと言っちゃいけないけど、本当に心臓が止まるかと思った。こんな野獣二人との学校生活なんて、考えられないもん」
「一番の野獣が何を言う」
「かーずーとー?」
愛佳は鋭い視線を和人に向け、和人がそれを嘲笑うような表情で返す。その光景に、奈緒は屈託のない笑みを浮かべていた。
「ははは。今日も二人は仲が良いね。なんだか元気貰っちゃった」
「「仲良くない」」
和人と愛佳が口を揃えて言うと、武と奈緒は視線を合わせ、声を出して笑い合いあう。和人と愛佳も釣られるように笑っていた。この時はここに居る誰もが、奈緒が良くなることを信じて疑わなかった。
しかし、卒業式を翌日に控えたこの日も、奈緒は病院のベッドの上に居た。それでも奈緒は明るく振舞っている。
「なーお。調子はどう?」
「ぼちぼちかな。あれ、今日は和人と愛佳は一緒じゃないの?」
「明日の準備だって。二人とも奈緒も来るからって張り切っちゃって」
「二人だけ? 武は張り切ってくれないの?」
「意地悪な言い方するなよ。俺だって明日早めに学校に行ってだな――」
そこまで口にしたところで、奈緒は言葉を遮るように「ごめん、ごめん」と手刀を切り、おどけた顔を見せた。
これなら明日は大丈夫――武は心から思い、そして願った。
「あ、またそれやってるんだ?」
武は親指と人差し指でペンを掴む形を作り、その場に描くような仕草をした。
「あぁ、これ? うん。何か一人の時間を持て余しちゃうからさ」
奈緒は入院してしばらくしてから、真っ白な画用紙に、色鉛筆を用いて絵を描いていた。それぞれの色鉛筆の長さを見ても、奈緒が相当数の絵を描いていることが窺える。
「昔から奈緒は上手だもんね。今日は何の絵?」
「今日はこれ」奈緒は画用紙を武に向けた。
そこに描かれていたのは、一つの信号機だった。その信号機は山頂付近、丁字路の正面に設置され、村全体を見渡せる場所で真っすぐと立っている。ちょうどこの病室の窓からも、薄っすらとその姿を確認することができた。
ただ一つ、武の目に映る実際の光景と違うのは、その信号機の赤信号部分に向かって、光が吸い込まれるように描かれていることだった。
「この信号機って、とっても不思議なの」
抱いた違和感を口にする前に、奈緒は言う。武が手元の絵から奈緒の元へと視線を移すと、奈緒はニコッと笑い、病室から外を覗くようにして続けた。
「あの信号機がね……点灯したんだ」
「信号機が……何だって?」
武は耳を疑った。この村に設置された、数少ない信号機。その中でも、あの信号機は昔から一切点灯のしない、不思議な信号機として有名だったからだ。
不思議な点は他にもある。これが故障だとするならば、どうして修理、撤去がなされないのか。そもそも、いつから不点灯なのか。丁字路だというのに、そこには何故、あの信号機しか設置されていないのか。それ以前に、車通りの少ないあの場所に、信号機など必要なのか……。
誰もが各々疑問に思いながらも、誰もその答えを知らない。役所で勤務する和人の父親曰く、設置に関する情報は、役所にも何一つ残っていないのだという。
「まさか。あの信号機はもう壊れてるって聞いたよ? いつ撤去になってもおかしくないって……。俺もあの道を通るけど、点いているところなんて見たこともないし、もう何年も点灯していない信号機が、いきなり点灯なんてしないでしょ」
驚きのあまり、武は矢継ぎ早に言葉を重ねた。しかし、「それがね」と奈緒は武の話は意に介さずといった具合に、表情を崩すことなく話を続けていく。
「大きな満月が見えた日……覚えてる?」
「確か病室で和人が騒いでいた……俺は寝てたから見てないけど」
「そう、あの日の夜。三人が帰ったあと、比較的早くに私は寝たんだけど、ある時ふと、妙な胸騒ぎがして目が覚めたの。時間は深夜の二時近くだったかな。それで窓の外が気になって、そこのカーテンを開けたら――」奈緒はゆっくりと、武に視線を戻す。
「赤く点灯しているのが見えた」
病室に流れ込む風が、白いカーテンと奈緒の髪を揺らしていく。自然が魅せる柔らかさとは対照的に、瞳に宿る力には固い芯が通っている。その瞳からは、奈緒が嘘をついているとは到底思えなかった。
「あれはまるで、私を取り込もうとしているみたいだった……だからそのイメージを、この絵に込めたんだ」
その日を思い出しているのか、奈緒は優しく口元を緩ませる。
「取り込むって?」
「んー、なんて言えば良いんだろう……私にはね、あの光がこの村とどこかを繋いでいるように見えた。温かくて、とっても、とっても優しい光。だから不思議と怖いとか、そんな風には思わなくて」
奈緒は風に靡いた髪を耳に掛けると、再び風の入り込む方向へと視線を流した。
「その光を見て、昔おじいちゃんが言っていたことを思い出したの。この村の人たちはこの村を、そして村人を、死んだ後も見守ってくれているんだって。そうやって代々、村人が村を守っていくんだって。そのことが頭をよぎった時、もしかしたら、あの光がこの村のご先祖様たちの魂なのかもなって、そう思えた」
奈緒の柔らかな表情は、「私の勘違いであっても、そう信じていたい」と、武に語り掛けているようだった。
「それが本当だとしても、村の人は何で今まで誰も気が付かなかったんだ? そんなことってあるのかな?」
あの信号機に不思議な噂がある以上、奈緒の話が信じられないわけではなかった。しかし、なぜか認めてはいけない気がして、武は必死に思考を巡らせ言葉にした。
「この村って街灯もほとんどないから、あんな時間に外に出る人なんていないじゃない? だから今まで、誰にも気付かれなかったのかもしれない」
この村の人口や環境を鑑みると、それが真実であってもなんらおかしな話ではない。ただそれよりも、一貫して他人事のように淡々と思いを口にする奈緒に、武は口をつぐんでしまう。
嫌でも頭の中で、奈緒が口にした話が一つの物語を創り出す。もしも全てが、奈緒の話していた通りだとしたら、このままじゃ奈緒が――そんな色のない未来が、動き出そうとしているようだった。
「それでね。気になって、ちょっと調べてみたんだ」
「信号機のこと? 確かあの信号機のことは、役所にも資料が残っていないって」
「信号機じゃなくて、満月の方。この目で信号機が点灯しているのを見たと言っても、あれを見たのは後にも先にもこの時だけ。だとすると、その他に考えられる可能性は、あの満月なのかなって」
必死になって言葉を探す武には、生き生きとした顔で話す奈緒が眩しく映る。
「そ……それで? 何かわかったの?」
「それがね、どうやら私たちが産まれた今から十八年前と、更にその十八年前にも、大きな満月が村に急接近していたみたいなの」
「つまり――十八年周期に大きな満月が現れる?」
「うん。それも全部同じ日の八月十五日。私の誕生日と一緒なんだ。これは単なる偶然じゃないよ。それからね――」
奈緒の言葉が、頭の中に沈んでいく。全てを話し終えて向けられた奈緒の笑顔が、その言葉の入った頭の抽斗に鍵を掛ける。その時まで忘れないでね。そう言われた気がした。
武が黙って奈緒を見つめていると、病室の扉が開く。
「ごめーん、遅くなった。……どうしたの? 奈緒の顔、見つめちゃってさ」
「おい武。お前、俺らが居ない間に、奈緒に変なことしたんじゃないだろうな?」
「何もしてねーから」武は強くかぶりを振った。
和人と愛佳が武を挟むようにパイプ椅子に腰掛けると、奈緒は今までの会話の内容を二人に話していく。つい先程まで賑やかだった病室は一転して、神妙な雰囲気に包まれる。
「そんなこと……信じられるか?」
眉間に皺を寄せた和人は、吐き捨てるように言う。
「和人。あんた、奈緒が嘘をついてるって言いたいの? あの信号機は昔から変な噂ばっかりだったじゃない」
「嘘をついてるとは言ってないだろ。俺はただ、奈緒が『光が自分を取り込もうとしてる』なんて言うから――」
「あたしもそこは気になったけど……きっと、それこそ奈緒の勘違いよ。そうだよね、奈緒?」
奈緒は困惑した表情を浮かべている。おそらく、愛佳のことを思うと、同意も否定もできない、といったところなのだろう。
「まぁまぁ。二人とも、ちょっと落ち着けって。まだその可能性があるってだけの話だから」
武は奈緒に向けられた二人の強い視線を、一旦自分の元へと誘導しようと、二人の肩に手を置いて言う。二人は揃って目線を床へと落とした。
束の間の沈黙が流れた後、和人が「それなら」と口を開き、視線を上げる。
「十八年後の八月十五日。四人で確認しに行こうぜ。それで白黒はっきりするだろ」
和人は有無を言わさぬ暴力的な圧力をその視線に乗せ、一人一人に向けた。
「絶対だぞ」
――こうしてこの日、四人は「十八年後の約束」を交わしたのだった。
迎えた卒業式当日。卒業式は予定通り、滞りなく執り行われた。が、そこに奈緒が姿を見せることはなかった。
式の余韻を引きずることもなく、三人は卒業式終了とともに病院へと急ぐ。しかし、式の終了時刻とほぼ同時刻に容態が急変したらしく、奈緒は既に旅立っていた。
きっと奈緒も一緒にここで、卒業式に出ていたんだよな――そう思いながら、武は奈緒の卒業証書を、そっと枕元に置いた。
車を止め、武は運転席から屈むように外に出る。辺りはすっかり暗くなっていた。
「やっと来たか。おせーぞ、武」
腕を組みながらそう言う和人の隣で、愛佳が小さく手を振っている。武も軽く手を挙げて応えた。
「ここまで何時間掛かったと思ってんだ。車で九時間だぞ? それなのに、集合場所がお前ん家って……一体、どういうことだ?」
互いに言葉を掛け合い、しばらく見つめ合う。そして、二人はどちらとも言わずに吹き出し、笑顔で拳を合わせた。
「久しぶり! 元気にしてたか?」
「お前こそ、元気そうで何よりだ。さ、早く家に入れ。話したいことがたくさんある」
「男子のノリって、やっぱり変だよ」
そんな愛佳の皮肉さえ、武は心地よく聞こえた。
昔話には大きな花が咲いた。学校でのこと、仕事のこと、奈緒のこと。次から次へと出てくる思い出たちは、どれも時を感じさせないほどに色濃く、記憶も鮮明だった。自然と笑顔も溢れていく。
あっという間に日付は変わり、時計の針は深夜一時三十分を指していた。時計を確認した愛佳が和人に視線を送ると、和人は一つ咳払いをし、真剣な顔で話し始める。
「そろそろ……あの約束を果たしに行かないとな」
「十八年……今思うと早かったな。あの頃はいつの話って思っていたのに」
「そうだね。奈緒は約束……覚えてくれているかな?」
愛佳が床に向かって言葉を漏らす。この十八年間、心のどこかに突っかかりを感じていた。それは和人も愛佳も同じだったのだろうと、武は二人の表情を見て思った。
「大丈夫。奈緒はきっと覚えているよ……さぁ、行こう」
武の言葉が合図となり、三人はゆっくりと腰を上げる。外に出ると、今にも落ちそうなほど大きな満月が、山の上からこちらを見ていた。
「外を見ないようにして正解だったな。驚きと感動が半端じゃない」
「ちょっと怖いくらい大きいね」
街灯のない薄暗い山道を、用意していた懐中電灯で照らしながら真っすぐ進んでいく。先程までの盛り上がりが嘘のように、誰一人として口を開くことはない。一歩、また一歩と、約束の場所へと足を運んでいく。
時刻は奈緒の言っていた、深夜二時に迫っていた。
信号機に続く最後の交差点を左へと曲がると、ぼんやりと月明かりに照らされた、山道の一角が視界に映る。その光に吸い寄せられるように進み、三人は奈緒の描いた、あの信号機の前で立ち止まった。
「やっぱり……壊れたままだね」
ため息交じりに愛佳は呟く。
「そんなに上手いこと、いくわけないか……」
和人もそれに続くように、言葉を重ねた。落胆の表情を見せる二人を横目に、武は時計を確認しようと、ポケットに入れたスマートフォンへと手を伸ばす。すると、それを見計らったかのようにスマートフォンが一瞬、小さく振動する。
慌てて視線を上げると、二人のスマートフォンも振動したのか、和人と愛佳の視線とぶつかった。
「もしかして……二人も?」
「うん。震えた気がした」
「あたしも」
全員が再びスマートフォンに視線を落とした。……その時だった。
バチ、バチッ。頭上から、電気の流れる音が聞こえる。武が音の鳴る方へ顔を上げると、目の前に立つ「約束の信号機」は、じんわりと光を灯らせていく。
「奈緒……」
武は思わず口にしていた。
「あ、〝青〟が点いた……青だ! 青に灯りやがった!」
「本当だ! きっと奈緒よ! 奈緒もここに来てくれ――」
愛佳は全てを言い切ることなく、両手で顔を覆った。武は和人を見て頷くと、二人は震える愛佳の肩に手を回した。
涙に滲んだ瞳で三人が信号機を見上げると、信号機は三人の行先を照らすように、美しい青色をその身に纏わせていた。それはまるで、信号機が微笑んでいるかのようだった。
「また十八年後……〝四人で〟ここに来ような」
和人の言葉に、武は無言のまま頷いた。
――あの日、病室で奈緒は言った。
「あの夜は赤く点灯していたけど、私だったら〝青〟にするだろうな」
「青に? どうして?」
吹き抜ける風が、二人の間に温もりと静寂を運ぶ。
「だって……」
奈緒は口元を緩ませたまま、視線を武へと向けた。そして、ゆっくりと口にする。
「みんなには、前へ進んでほしいから」
奈緒は今までで一番、美しい顔をしていた。