どこまでも澄み渡った青い空に、カラフルな風船が飛んでいく。
「結婚おめでとう!」
純白の衣裳を身にまとった私たちを祝福する声が、あちこちから響く。
「ありがとう」
目の前には、父と母、それから久しぶりに見る友人たちの顔。みんな、笑顔にあふれている。
私は夫となるひとと微笑み合いながら、その祝福に礼を言う。
嬉しいような寂しいような、うまく形容できない、甘酸っぱい感情が私の胸を満たしていた。
滞りなく式が終わり、着替えのために控え室へ向かう。
着替えを済ませ、夫を呼びに行こうと立ち上がったときだった。頭上から、なにかがほろりと落ちた。
拾い上げてみると、それは春の名残り。
「桜の花びら……」
開け放たれた窓の向こうには、盛りを過ぎた桜が風に揺れていた。
とんとんと優しく扉を叩く音がして、はい、と返事をする。するとすぐに扉が開いて、ついさっき愛を誓い合った夫が顔を出した。
「陽毬。式お疲れ様」
「うん。歩人も」
「準備はできた? そろそろ帰ろうか」
「うん」
歩み寄ってきた歩人は、椅子に置いていた私の荷物を持って扉へ向かう。
「ねぇ、歩人」
歩人が振り返る。
「ん?」
「ちょっと、寄りたいところがあるの」
「寄りたいところ?」
「うん。まだ……結婚の報告をしてないひとがひとりいて」
「え、そうなの?」と、少しだけ驚いた顔をしながらも、歩人は優しく微笑み、頷いてくれた。
歩人に乗せていってもらったのは、小高い丘にある霊園。かなり広大な敷地のその霊園には、通路にたくさんの桜が植えられていて、霊園でありながらも春になると観光客がやってくるほどだ。
丘の中腹ほどで、歩人が路駐する。
「ここでいいの?」
「うん」と返事をしながら、シートベルトを外す。
「ひとりで行く?」
「……いやじゃなかったら、歩人にも来てほしいんだけど」
まっすぐに目を見て言うと、歩人は「もちろん」と、当たり前のように頷いてくれた。
桜吹雪の中、私はとある墓石の前で足を止めた。
「久しぶり、爽」
墓石へそっと声をかけてから、歩人へ視線を向ける。
「ここで眠ってるのはね、立花爽。私を、生き返らせてくれたひとなんだ」
「それってもしかして、初恋の?」
ゆっくりと頷く。
「私の姉が亡くなってることは知ってるでしょ?」
「うん。陽毬が高一のとき、事故で亡くなったって」
「そう。私、あの事故のあとね、ずっと塞ぎ込んでたんだ。姉の死を受け入れられなくて……ううん、違う。姉が死んだのは私のせい。家族をばらばらにしたのは私。だから、私は姉として生きなきゃいけないんだって、勝手にじぶんに言い聞かせてた」
今日、式に来てくれた父と母の姿を思い出しながら、小さく呟く。
「とにかく、生き方が分からなくなってたの。爽は、そんな私を今の私に導いてくれたひとなんだ」
落胆か、動揺か。歩人は小さく息を漏らすだけで、なにも言わない。
「……歩人からしたら、あまり気分のいい話じゃないかもしれない。……ごめん」
やっぱり、言うべきではなかっただろうか。ひとりで……来るべきだっただろうか。
でも、私は今、だれよりも歩人を愛している。だから、私自身のことを話したかったのだ。受け入れてほしかったのだ。これからも共に人生を歩んでいくと決めたから。
「……聞かせて」
沈黙を破ったのは、歩人だった。
歩人は私の頭を優しく撫でながら、微笑む。
「俺、陽毬のことならなんでも知りたい。どんな陽毬でも、まるごと抱き締めるって、付き合った日から決めてるから」
滲みそうになる視界をなんとかこらえて、私は歩人の手を握る。
「……ありがとう」
私は歩人から墓石へ視線を戻し、すぅっと澄んだ空気を肺に取り込む。
これは、私に生きる意味を教えてくれたひととの、儚い恋の物語。
***
姉の朱里が、事故で死んだ。
私が高校一年生のときのできごとだった。
甘い金木犀の香りをじわじわと覆い尽くすように、周囲に広がっていくガソリンの匂い。前方が無惨にひしゃげた車。ゆっくりとアスファルトを侵食していく赤黒い液体……。
毎晩目を閉じるたびに、昨日のことのように蘇る光景に、息を忘れる。朱里の虚ろな目が、じっと私を見ている。
紫色の唇が、ゆっくりと動く。
『――この人殺し』
あの日、私の心は死んだのだ。
爽と出会ったのは、朱里を失った二年後のこと。
椛が真っ赤に染まる秋だった。
季節外れの転校生として、私は実咲野高等学校三年一組の教壇に立っていた。
「宝生陽毬といいます。よろしくお願いします」
朱里の事故から二年が経った今、私は姉の朱里と暮らした東京を離れ、長野県の山間の街に移り住んだ。
理由は、両親が離婚したから。私は母に引き取られるかたちで、母方の実家があるこの長野県に引っ越してきた。
母は私に、父とは仕事の都合ですれ違ってしまったのだと言っていたけれど、おそらく違う。
両親の離婚は、朱里の死がきっかけだ。朱里が亡くなってから、うちは壊れてしまった。そしてその朱里の死は、他ならない私が原因。つまり結局は、私のせい。
私のせいで家族はばらばらになったのだ。
「卒業まであと半年足らずという短い時間だけど、みんな宝生さんと仲良くしてくださいね。席はえっと、どうしましょう……」
先生が教室内をきょろきょろと見回す。
「はーい、先生! ここ空いてるよ!」
窓際から二列目の席に座っていたひとりの男子生徒が、元気よく手を挙げた。
「立花くんのとなりか。うん、じゃあ立花くん、宝生さんにいろいろ教えてあげてくれる?」
「よっしゃあ! 俺、可愛い転校生に学校案内するの夢だったんだよ〜!」
クラス中がどっと笑いに包まれる。
人懐こい笑顔を私に向けたその男子生徒は、どうやら人気者のようだった。
「じゃあ宝生さん、立花くんのとなりの席について」
「はい」
私が席に着くと、その男子生徒――立花くんは、まっすぐに私を見つめて笑った。
「俺、立花爽。よろしく!」
近くで見ると、ずいぶんと色白な肌をしたその人は、明らかに地毛とは思えない栗色の髪をしていた。幼い顔つきのせいか、茶髪はあまり似合っていない気がする。黒髪ならきれいな顔がもっと目立っていただろうに、もったいない。
……まぁ、私には関係のないことだけれど。
カバンから教科書を取り出しながら、私は小さく会釈した。
「……よろしく、お願いします」
これが、私と立花爽との出会いだった。
立花くんは、不思議なひとだった。
自由奔放のようでいて、実は周りをよく見ている。だれかが落ち込んでいれば真っ先に声をかけ、いじめが始まりそうな予感があればしれっと間に入る。
おしゃべりで傍若無人。成績はあんまりのようだけど、だれかの悪口を言うこともなければ、否定もしない。
だから、クラスではとても人気者。いつだってクラスメイトたちに囲まれている。
立花くんは正に、死んだ姉の朱里だった。
転校して、約一ヶ月。
予想どおり、正義のひとらしい立花くんは、だれとも関わろうとしない私にまで積極的に話しかけてくる。
だから私は、私なんかのことをかまってくる立花くんのことが、あまり好きではない。
「ねぇ、宝生ってさ、いつもひとりで勉強してるよね。なんでなの?」
「……あなたこそ、なんで私のことなんてかまうの」
「え、なんでって……気になるからだけど?」
そう、立花くんはさらっと返しながら、自分の教科書を私の机にスライドさせてくる。
「ね、この問題教えてよ」
「…………」
「聞いたよ。宝生って、転入試験満点だったんでしょ? すごいじゃん!」
先生が噂してたの聞いちゃったんだ。そう、のんびりとした声で、立花くんは言った。
「べつに、なにもすごくない」
「そんなことないよ! 俺には絶対無理だもん!」
「…………」
まっすぐな眼差しから逃げるように、私は立花くんから視線を逸らした。机に向かったまま、ぽそりと言う。
「私は、勉強していい大学に行かなきゃいけないって決められてるから。そのために必要な勉強をしてるだけ」
「……もしかして、親が厳しいの?」
立花くんが心配そうな顔をして訊ねてくる。
「……そうじゃないけど……でも、私はもっと立派にならないといけないの。そのためには、今のままじゃだめ。もっともっと勉強しないと」
自分自身に言い聞かせるように呟きながら、私は再び机に向き合う。
「ふぅん……なんかよくわかんないけどさ、勉強ばっかりじゃ息が詰まらない? 勉強するのはえらいことだけどさ、息抜きも大事だよ? ちゃんとしてる?」
「……それは、限界まで勉強した人が言う言葉でしょ。あなたこそ息抜きばかりでそんなに努力してなさそうだけど」
「おっと、ツッコミ鋭っ!」
「…………はぁ」
からからと笑う立花くんに呆れ顔を返す。すると、立花くんはどことなく気まずそうに苦笑した。
「冗談だって! もう、そんな怖い顔しないでよ」
「……べつに、怖い顔なんてしてない」
「そ?」
「…………」
「あっ! いいこと考えた!」
……いやな予感がする。
「ねぇ! 今日放課後、デートしようよ!」
「…………」
やっぱり。
どういう思考回路を辿ればそういう言葉が出てくるんだろう。
「あれ? 聞こえなかった? デートだよ、デート!」
「……聞こえてるってば」
本当に気ままなひとだ。私がやんわり拒絶していることに気付いていないのだろうか。
どちらにせよ、私の答えは決まっている。
「悪いけど、テストも近いし、勉強しないといけないから」
私はそう返すと、再び机に向かった。
「え〜、そんなつれないこと言うなよ〜。ちょっとでいいからさぁ」
私には、友達を作る暇なんてない。だれかと遊ぶ暇なんてもっとない。だって私は、『朱里』の代わりなのだから。
「なぁ、行こ?」
「行かない」
「行こーよー!!」
「行かない!」
あぁ、もう面倒くさい。
私は嘆息しながら、心の中で思った。
早く席替えして、このひとと離れないかな、と。
彼はどうやら、しつこいタイプらしかった。
放課後、立花くんは帰り支度を済ませると、となりの席から私をじっと見つめてくる。
まるで、飼い主の指示を待つ忠犬のように。
彼にしっぽがあれば、たぶんはち切れんばかりにぶんぶん振っていることだろう。
散歩はまだですか!? 彼から湧き出た吹き出しに文字を付けるなら、そんな感じだ。
「……騒がしい」
「まだなにも言ってないよ!?」
「……なにか用?」
「なにか用? じゃないでしょ、宝生さん! 早くデート行こーよ。俺、君待ちだよ!」
「……断ったはずなんだけど?」
「でも、俺は行きたいんだけど?」
立花くんは、ぽかんとした顔でそう返してくる。
「そんなこと言われても……私は勉強が」
困惑する私のことなんておかまいなしという顔で、立花くんは私の手を取って立ち上がった。
「ちょっ……!」
指先から、ぽろっとシャーペンが落ちる。
「ペンばっか持ってたら体力なくなるぞ! たまには太陽の下を歩こう! ほら行こう!」
ぐっと手を引かれ、強引に教室から連れ出される。
彼に手を引かれながら歩く渡り廊下は、まるで人工物まで紅葉したかのように、淡い色に色付いていた。視界の端で、中庭の椛が風に揺れていた。
立花くんが向かったのは、学校のすぐ近くにある下町の商店街だった。
アーケードの下で、私はぽかんとした顔をする。
「…………なに? ここ」
デートだなんて言うから、てっきりオシャレなカフェとかを期待していたんだけど。いや、期待はしていないか。想像していたのだけど。
それなのに、古びた商店街ってなに? 騙された気分だ。
思わずムッとして立花くんを見ると、満面の笑顔が返ってきた。
「ここ、俺ん家!」
「……は?」
……俺ん家? この、さびれた商店街が?
「この商店街の中にある立花精肉店っていうのが家なの! コロッケが名物なんだぜ!」
「……そうですか」
「なぜ敬語?」
「……べつに」
「ま、いいや。さっ、息抜き息抜き。行こーぜ」
前を歩く立花くんを追って、私は仕方なく足を踏み出す。
商店街の中は、案外外から見るより活気づいていた。古びてはいるけれど、昔ながらの趣ある様々な店が軒を連ねている。
「おぉ、爽。高校終わったのか、おかえりー」
「ただいまー!」
「あらあら爽ちゃん、今帰り? 今日も抜群にかっこいいねぇ」
「だろ〜? 俺イケメンだからさ、学校で結構モテるんだよねぇ。困っちゃう!」
「あらあら爽ちゃんったら」
あれは、田野豆腐屋のたーじいだよ。あっちは代々木青果店のみーちゃん。
立花くんは歩きながら、商店街の店をあれこれ説明してくれる。
……興味ないんだけど。
「おや爽ちゃん、おかえり」
三矢生花店というファンシーな看板の下からひょっと顔を出したのは、恰幅のいいおばちゃん。
「あのひとは、うちのお母さんの同級生で三矢生花店の店長さん! 昔は可愛かったらしいんだけど最近ちょっと甘い物食べすぎて太っちゃったんだって!」
「ふぅん……」
まるで愛おしい家族の話をするときのような優しい顔をして、立花くんは商店街を歩いていく。そしてそれは、彼を迎え入れる商店街のひとたちも同様だった。
店のあちこちから、立花くんを呼ぶ声がする。
古着屋さんに靴屋さん。それから本屋さんにアイスクリーム屋さん。
まるで、商店街全体が彼の帰りを待つ大きな家のようだ。
歩いていると、途中開けた場所に出た。中央には、屋根付きの広いステージが見える。
立ち止まって見ていると、いつの間にかとなりに立花くんがいた。
「あーここね、俺が産まれる前はすごいおっきいビルがあって、結構賑わってたらしいんだ。けど、不況で潰れちゃったんだって。今は更地にして、イベントとかで使う用の広場になってるんだ」
「ふぅん……」
立花くんは、じっと広場を見つめている。
「ここ見てると、ちょっと寂しくなる。あのときの活気が、恋しくなるときがあるっていうか」
「あのときの活気が……って、あなたその頃まだ生まれてないでしょ」
「ははっ! そうでした! さっ、次行こ次!」
立花くんはからからと笑って、再び歩き出した。
「まだ行くの?」
「この先に美味しいクレープ屋があるんだよ!」
「私べつにクレープなんて……」
「いいからいいから! 本当にもうすぐそこなんだ」
広場を抜けて細い裏路地を歩いていると、突然ボンバーヘッドの背の高い男性が、ピンク色の建物からにょっと出てきた。
「わっ」
ぎょっとして、私は思わず立花くんの影に隠れるように数歩後退る。
すると、男性と目が合った。そのまま、男性の視線が私の前にいた立花くんに流れる。男性は立花くんを見るなり、パッと笑顔になった。
「おっ! 爽じゃねーか! 今帰りか?」
「あ、みっちーただいま〜! 今日はみっちーのクレープ食べにきたんだよ!」
「おぉ! そうか!」
ガタイのいいこのひとこそが、どうやら立花くんが言っていたクレープ屋の店長さんらしい。
「なににする? いつもの?」
「うーん……そうだなぁ」
立花くんはメニューとにらめっこをしている。
べつにいつでも食べられるんだから、そんなに悩まなくてもいいだろうに、と思っていると、
「新作の試作クレープでもいいぞ!」
と、店長さんはさらに立花くんを惑わせるワードを放った。
「新作!? なにそれ!?」
案の定、立花くんの瞳がきらんと輝いた。
「聞いて驚け。次の新作は……イチゴアスパラクレープだっ!」
店長さんはドヤ顔で言った。
「…………」
正直、まずそう。
「うん、新作はやめとく!」
立花くんは笑顔で拒否すると、私を見る。
「宝生はなににする? オススメは、アイスキャラメルバナナだよ!」
「私はなんでも……」
ぼんやりとメニューを眺めていると、店長さんが私を見て声を上げた。
「おっ!」
店長さんはにやにやしながら、立花くんの方肩に手を回す。
「なんだいなんだい、爽! この子、ずいぶんと美少女じゃねーか! もしかして彼女か? 爽ったら高校生のくせに色気付きやがってこの〜」
店長さんは立花くんの肩を抱きながら、くりくりとほっぺをつついている。
「いや、違うし……っていうか高校生なんだから、彼女くらいいてもいいだろ!」
「ん〜そうかそうか」
「な、なんだよその顔〜!」
抵抗する立花くんは、顔を真っ赤にしていた。
「そんでお嬢さん。名前は?」
店長さんはくるっと振り向くと、私に訊く。
「あ、えっと……宝生陽毬といいます。立花くんとはクラスメイトで……」
「クラスメイト!? くぁーっ、青春かコノヤロウ!」
立花くんは店長さんを無理やり引き剥がすと、私の腕を掴み、私を店長さんの前に突き出した。
「実は宝生はね、最近うちの高校に転校してきたんだ」
「ほぉ」
「友達も作らないで、いつもひとりで勉強ばっかしてるから、となりの席の俺が代表して学校から連れ出してきたってわけ! だって毎日机にかじりついてるんだよ、めちゃくちゃ健康に悪いでしょ!」
「学生としては立派だが、まぁ……そうだなぁ?」
……余計なお世話なんだが。
「がりんちょだし、なにか食べさせてやんねーと死んじゃうって思ってさ!」
……と、立花くんはなぜか得意げに言う。すると、店長さんはからからと笑った。
「そういうことならちょっと待ってな! すぐクレープ作ってやるから! ふたりとも、アイスキャラメルバナナでいいか?」
「おう!」
立花くんが元気よく頷く。
「いいよな、宝生?」
「う、うん」
クレープができるまでのあいだ、店の前で佇んでいると、生地が焼ける匂いがしてきた。
……いい匂い。
クレープなんて、いつぶりだろう……。
考えるまでもなく、あの頃以来だ。
クレープは朱里が好きだったから、東京ではふたりでよく食べに行った。けれど……朱里がいなくなってからは、一度も行っていない。
あれから、もう二年も経つのか……。
ついこの間、この匂いを朱里と嗅いだ気がするのに。
月日が過ぎるのはあまりにも早く、あと半月もすれば私は朱里が死んだ歳に並ぶ。
ふと視線を感じてパッと顔を向けると、すぐ真横で立花くんが私を見ていた。
「わっ……え、な、なに?」
「……ね、宝生ってクレープ好き?」
「え? ……うん。好きだけど」
「そっか、よかった! 甘いもの苦手なひとも結構いるからさ」
ホッとしたような立花くんの表情を見て、ようやく気付く。彼なりに、気を遣ってくれていたのかもしれないと。
立花くんといると、こちらまで優しい気持ちになれる気がする。
「……クレープ、好きだよ、大丈夫」
「うん」
立花くんはほんの少し、照れたように笑った。
少し気まずさを感じたとき、タイミング良くクレープができあがった。
「へいお待ち!」
「へいお待ちって……寿司屋かここは」
「細かいことは気にすんなって! はい、陽毬ちゃんも!」
できたてのクレープを受け取りながら、私は店長さんを見上げる。
「あ、ありがとうございます。えと、お金は……」
「いいんだよ、これはサービスなんだからさ!」
「でも……」
「早くしないとアイス溶けるぞ?」
タダでもらうなんて本当にいいのだろうかと思いながらとなりを見ると、立花くんは当たり前のようにクレープにかじりついていた。
「あっ、それならいいこと思いついたよ」
「なんですか?」
「お代は、これからも爽と仲良くすること! どうだ、できるか?」
静かに頷く。
「じゃあ、いただきます……」
どきどきしながら、久しぶりのクレープを頬張る。
「……美味しい」
「だろっ!?」
自分が作ったわけでもないのに、なぜだか嬉しそうな立花くん。
「……なんで立花くんが得意げなの」
「この店はうちの家族みたいなもんだからさ! 家族が褒められたら嬉しいだろ!」
「……家族」
「ははっ! 家族かぁ。爽、イケてること言うじゃねーか」
「だろ〜?」
……家族……。
アイスが臓器を冷やしたのか、体温が下がったような気がした。
「あ〜美味かった〜! みっちー、クレープごちそうさま! よし! 次行くよ、宝生!」
突然立花くんに腕を引かれたせいでバランスを崩し、思わずよろける。
「えっ? ちょっ……あ、クレープごちそうさまでした!」
私は慌てて店長さんに礼を言って、立花くんのあとを追った。
「お〜! ふたりとも仲良くな〜!」
クレープを食べたあとは、本屋に行って雑誌を立ち読みしたり、ブティックで服を試着してみたり、本当の恋人同士のような時間を過ごした。
立花くんは楽しそうにしていたけれど、私は、立花くんと楽しい時間を過ごせば過ごすほど、虚しさが募っていくようだった。
まるで、友達と遊んだあとのひとりぼっちの帰り道のような感覚だ。
ぬくもりは、危うい。だって、ぬくもりを知ってしまったら、失くしたとき息の仕方を忘れるくらいに絶望してしまう。
「私そろそろ帰る。門限もあるし……」
気が付いたら、そう言っていた。限界だったのだ。精神的に。
立花くんは商店街の広場の時計を見て、少し残念そうに瞬きをする。
「あー……もう七時かぁ。そだ、それなら家まで送るからさ、その前にあと一箇所だけ、付き合って」
「え……?」
立花くんが最後に行ったのは、彼の実家である立花精肉店だった。
看板には、『タチバナ』とカタカナで表記されている。
「ちょっとだけ待ってて! すぐ来るから」
そう言って、立花くんは店の奥へと消えていった。戻ってきた立花くんは、両手にコロッケと、にこにこ顔のご両親を連れていた。
「!?」
「あー……宝生おまたせ。ごめん、バレないようにコロッケ持ってくるつもりだったんだけど、このとおり捕まっちゃって」
と、立花くんは引きつった笑みを浮かべて言った。
「これ、よかったら。うちのコロッケなんだけど……」
立花くんが私にコロッケを差し出した直後、うしろにいた、お母さんらしき女性がぐいっと私の前に来た。
「まぁまぁまぁ! あなたが陽毬ちゃんね!? 爽の話のとおり、可愛いわぁ」
立花くんのお母さんは私を見るなり、瞳をキラキラさせて抱きついてきた。
「うんうん。やっぱり女の子はいいなぁ」
「ねぇ、爽とは付き合ってるの? いつから?」
「い、いえ、私は……」
「まったく爽ってば、こんな可愛い子を彼女にするなんてどんなマジック使ったんだ?」
「えっ!? いや、だから……」
戸惑いがちに女性を見上げると、間に立花くんが入ってきた。
「ちょっと、ふたりとも違うから! 宝生はただのクラスメイトだって言ってるだろ!」
「でも、好きなんでしょ? 爽が女の子の話するなんて初めてだもの」
「だっ……お母さん!! なんでそういうことを本人の前で言うんだよ!」
「…………」
……眩暈がする。
私は、ここにいていいのだろうか。聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がするのだが。
「ほら、もう! 宝生が困ってるだろ。こういうのはね、繊細なの。明日から宝生が話してくれなくなったら、お父さんとお母さんのせいだからな!」
「だって、ママはてっきり、彼女を紹介しに来たのかと思ったんだもの。……残念だわ」
「爽の片想いか……うん。まぁ、こんな可愛いんだし仕方ないな。諦めずに頑張れよ、爽! 父さんも昔はなぁ……」
「だから違うってば!!」
立花くんのご両親と立花くんの間に挟まれた私は、ただただ気配を消して小さくなっていた。
「あーもう! 宝生! 行こっ!」
「わっ!」
ぐいっと腕を引かれ、つんのめる。
「あっ……あの、お邪魔しました! コロッケもごちそうさまです」
私は立花くんのご両親に小さく頭を下げてから、慌てて立花くんを追いかけたのだった。
歩きながら、前を歩く立花くんの背中をぼんやりと眺める。
今日、放課後をずっと一緒に過ごしてみて思ったけれど……。
立花くんは、本当に明るいひとだ。純粋で、まっすぐで、どこまでも眩しくて……少し、羨ましい。
「……というか、いつまで繋いでるの?」
「え?」
「手」
「あ……いや?」
うかがうように、立花くんが私を見る。私は、サッと目を逸らした。
「いや……っていうか、だって私たち、べつに付き合ってないのに」
「まぁ……そうだけどさ」
パッと手が離れる。離れていく手をぼんやりと眺めていると、立花くんが私の顔を覗き込んだ。
「……ねぇ、宝生はさ、そんなに勉強してなにになりたいの?」
「え?」
「目標があるんだろ? 毎日、あんなに勉強してるんだから」
「目標……なんてない」
強いて言えば、私はただ、
「立派になりたいから」
「立派? ……それ、どういう意味?」
首を傾げる立花くんを視界に映しながら、私は鞄を持つ手に力を込める。
「……そのままの意味だよ。私は生きてるから、だからだれより頑張らなくちゃいけないの」
「……生きてるから……? どういうこと?」
私はその問いには答えずに、駅に入った。
改札前で立ち止まり、立花くんを見る。
「ここまででいい。今日はいろいろありがとう。それじゃ」
私は目を合わせないまま、逃げるように改札を抜けた。
***
それから、立花くんは今まで以上に私に絡んでくるようになった。
私のどこを気に入ったのか分からないけれど、彼の態度は、明らかに好きな異性に対するもので。
鈍い私ですら、彼が私に恋愛感情を抱いていることに気付いてしまった。
そして、その純粋な好意に私も惹かれつつあった。だれかに愛されるという感覚があまりにも心地よくて、私は自分の罪も忘れて……浮かれていた。
――立花くんに告白されたのは、朱里が死んだ日だった。
なんだかんだ立花くんの押しに負けて、放課後は一緒に過ごすようになっていた私たち。
周りには既に、私たちは付き合っているのだと誤解されるくらいの距離感になっていた。
「宝生〜、そろそろ帰ろ!」
その日も放課後になると、立花くんはいつものように私に声をかけてきた。けれど、今日だけは一緒に帰ることはできない。
「今日はごめん。寄るところがあるから」
今日は、朱里の命日。お墓参りにいかないといけないのだ。
「どこか行くの?」
「うん。ごめんね」
詳しいことは言わずに、私は曖昧に微笑みを作る。すると、立花くんはそれ以上はなにも聞かず、笑顔になった。
「……分かった! じゃ、また明日な!」
「うん。またね」
何気なく手を振り返す。立花くんが教室から出ていくと、途端にその手がずっしりと重くなったような気がした。
『また明日』
――なんて、絶望的な響きなんだろう。
放課後、私は朱里が眠る墓地に来ていた。仏花を買い、墓石へ向かうと、先客がいた。
見覚えのある横顔。母だ。母は墓石に縋り付くようにして、まるで子どものように声を上げて泣いていた。
「朱里……ごめんね……痛かったよね、苦しかったよね……守ってあげられなくて、ごめんね……」
母の中で朱里の死は、まだ受け入れられていない。消化されていないのだ。
私は手に持っていた花を手向けることなく、静かに墓地を出た。
家に帰る気にならず、私は近くの公園に入ると、小さなゾウの遊具に座り込んだ。
母の泣き顔によって、浮かれていた心が地の底に落ちたようだった。
「……そうだった……私、人殺しなんだった」
ぽつりと呟くと、どこか遠くでカラスが同意するかのように一度鳴いた。
なにを浮かれていたんだろう。なに、当たり前のような生活をしようとしていたんだろう。
犯した罪を忘れて、私だけのうのうと人生を楽しむなんて……そんなの、絶対に許されないのに。
ぽろっと涙が落ちる。両手で拭っても、ぜんぜん涙はおさまらない。
声を殺して泣いていた、そのときだった。
「……あれ、宝生?」
ふと、声が聞こえた。
よりにもよって、一番聞きたくなかった声――立花くんだ。
「なにしてんだよ、こんなとこで。今日はなにか用事があるって……」
振り向かずにいると、ぽんと軽く肩を叩かれた。
「もう、無視すんなって……」
後ろから顔を覗き込まれて、目が合った。私が泣いていることに気付くと、立花くんは一瞬驚いたような顔をして、口を噤む。
「宝生……なんで、泣いて……」
「っ……」
立花くんの顔を見た瞬間、さらに涙があふれて、視界が滲んだ。
「えっ? ちょっ、宝生? えぇ……っと、よしよし、泣くなよもう、大丈夫だから」
立花くんはおろおろとしながらも、私が泣き止むまで静かに背中をさすり続けてくれた。
「――それってさ、仏花……だよな?」
泣き止んだものの、遊具に座ったまま黙り込んでいる私に、立花くんが控えめに訊いた。
「……うん」
小さく返事をしてから、「さっきはいきなり泣いてごめん。もう大丈夫だから」と謝る。
「……ねぇ。泣いてた理由、聞いてもいい?」
「……どうして?」
「宝生のこと、もっと知りたいから」
立花くんは控えめだけど、まっすぐに目を見て言う。その純粋な眼差しから、私は目を逸らして答える。
「……聞いたって、楽しい話じゃないよ」
「それでもいいから話してよ」
「…………」
少し黙り込んでから、私は口を開いた。
「……今日は朱里の……姉の命日だったんだ」
「え……」
予想外の内容だったのか、立花くんは驚いた顔のまま、固まった。
「東京に住んでた頃、ふたつ上の姉がいたの。朱里って言うんだけど……朱里は優しくてきれいで……大学も、有名な国立大を狙えちゃうくらい頭良くて。……でも、二年前事故でね……。長野に引っ越してきたのは、朱里のお墓があるからっていうのと、母方の実家があるから。朱里が死んで、うち離婚したんだ」
「……そうだったんだ」
立花くんは目を伏せた。
「……辛かったね」
ぶんぶんと首を振る。
「辛かったのは、両親と朱里。だって朱里は――私が殺したんだもの」
「え……」
となりで、ひゅっと息を呑む音がした。
「私、朱里がいた頃はちょっとやさぐれてたっていうか……とにかくいい子じゃなかったんだ。優秀な朱里といつも比べられてたから、両親にも反抗的で。朱里にもいやな態度ばかりとってたと思う。それでも朱里は、昔から私のことをよくかまってくれてたんだ」
今思えば、私のことを本当に理解してくれていたのは、朱里だけだった。それなのに、私は……いちばん大切なひとを、自分のせいで失った。
「二年前の今日、私は学校に行かないで街をふらふらしてた。そうしたら、朱里がわざわざ学校を早退して迎えに来て……。信号待ちしてた私は、朱里に気付いて咄嗟に逃げようとしたの。そうしたら、朱里が慌てて追いかけてきて……」
赤信号にも関わらず、横断歩道に飛び出してしまったのだ。
その事故は一瞬で、私の大切なひとを奪っていった。
あの日から、耳の奥ではずっとトラックの急ブレーキの音とクラクションが鳴り続けている。
トラックに撥ねられた朱里は、即死だった。朱里は血溜まりの中で目を開けたまま、私がいくら呼びかけてもぴくりとも動かなかった。
「あのとき私は……朱里の小言を聞くのがいやで逃げた。優秀な朱里に私の気持ちなんて分からない。毎日比べられる私の気持ちなんて分からないんだから、放っておいて……って。今なら、何時間説教されたってかまわないのに……」
今さら願ったところで、朱里の声を聞くことはもう二度と叶わない。
「お母さんとお父さんは、私と違ってできのいい朱里のことをすごく可愛がってたんだ。朱里は頭がいいだけじゃなくて、器量が良くて、きれいで、優しかったから。ふたりにとって朱里は、自慢の娘だったんだと思う」
けれど、その自慢の娘は死に、代わりに残ったのは欠陥品の私だけ。
あの日から、家の中で会話がなくなった。ため息とか、喧嘩の声ばかり響くようになって、いつしかお父さんは、家に帰ってこなくなった。
「あの日死んだのが私なら、こんなことにはならなかった。事故で死んだのが陽毬のほうだったら、家族はばらばらにならずに済んだの。……だから、私は朱里になるの。たくさん勉強していい大学に行って、いつか私が自慢できるような娘になったら、ふたりはきっと笑ってくれる……またあの頃みたいに」
「ちょっと待てよ、なんでそーなるんだよ? お母さんとお父さんが宝生に姉の代わりになれって言ったのか? そうしたらまた戻ってきてやるって、お父さんが言ったのか?」
私は小さく首を振った。
「……でも、ふたりは朱里のことをすごく可愛がってたから。朱里が死んじゃったから、家族はバラバラになっちゃったの。朱里さえ戻ってくれば」
「それは、宝生の勝手な思い込みだろ? ふたりは、宝生のことだってきっと……」
「勝手なこと言わないで! なにも知らないくせに……お母さんもお父さんも口にしないだけで、死んだのが朱里じゃなくて私だったらって思ってるに決まってる! ……私が死んでれば……ふたりが別れるなんてことにもならなかったはずなの」
立花くんは思い切り私を抱き締めた。立花くんの胸に顔を押し付けられて、言葉が途切れる。
「もういい! ……宝生、もう話さなくていいから」
「…………」
私は立花くんにしがみつくようにして、声を噛み殺しながら泣いた。
「俺は、宝生に会えて本当に良かったと思ってる。だからさ、頼むから私が死んだらなんて……そんな悲しいこと言わないでよ」
しゃくり上げる私を抱き締めたまま、立花くんは悲しそうな声で言った。
しばらくして泣き止んだ私に、立花くんは言った。
「俺、宝生のことが好き。宝生が転校してきた日からずっと、好きだった」
立花くんのそのひとことは、からからになっていた私の心の奥深くに染みていった。
「俺と、付き合ってください」
思考回路がショートしたようになにも考えられなくなる。
「……ダ、ダメ……かな?」
呆然としたまま返事をしない私に、立花くんが不安そうに訊ねてくる。その顔を見てようやく、ハッとした。
「な、なによいきなり。そもそもどうして私なんか……可愛い子は、ほかにいくらでも」
「俺は、宝生がいいんだ。宝生の代わりはいないんだよ」
「私は……」
どこまでもまっすぐな瞳に、言葉が出てこない。
「きっとお姉さんは、とても宝生のことを愛してたんだね」
「そんなこと、どうして分かるの?」
「だって、お姉さんはいつも宝生をかまってたんだろ? きっと、宝生が寂しいって思ってたこと、お姉さんだけは気付いてたんだ。だから、だれより宝生のことをいちばんに考えてた。そんな優しいお姉さんが、宝生にじぶんの代わりになって生きてほしいなんて願うはずないじゃん」
「……っ」
あの頃私は……私に背を向ける両親になんとか振り向いてほしくて、わざと気を引くようなことをして悪ぶってた。ずっと、朱里だけは見ていてくれたのに。それなのに、私は朱里に背を向けて……。
今さら気が付くなんて……。
返事なんてものを返す余裕もなく、私はまた泣き出した。
一生分の涙を使い切ったんじゃないかというほど泣いいたあと、立花くんがそっと私の手を握った。
「……なに?」
「繋いでもいい?」
「もう繋いでるけど?」
「…………」
しゅんとした顔をして、立花くんは私の手を離した。
「え、なに。なんかいつもと違くない?」
「そ、そりゃ恋人同士なんだから、今までとちょっと意味合い違うじゃん」
「そうなの?」
「そうだよ!」
顔を真っ赤にする立花くんを見て、私は思わずくすりと笑う。
「……爽」
ぴく、と立花くんが肩を揺らす。
「……って、名前で呼んでもいい?」
「へ……」
「だって私たち、付き合ってるんでしょ?」
「あっ、う、うん。そう。じゃあ俺も、宝生のこと名前で呼ぶ」
「うん」
「えっと……陽毬……ちゃん?」
「陽毬でいいよ」
「……陽毬」
立花……くんじゃなかった、爽の顔がみるみる茹でダコのようになっていく。
「爽ってば、意識し過ぎ」
からかうように言うと、爽は耳まで真っ赤にして反論してきた。
「だ、だって初めての彼女なんだから仕方ないだろ! なんだよ、俺ばっかり……」
拗ねたように唇を歪ませる爽を見て、私はさらに笑う。
「ねぇ、爽」
「なんだよ!」
まだからかわれると思ったのか、爽は食い気味に振り向いた。まだほんのりと赤い顔をした爽のほっぺに、私は一瞬触れるだけのキスをして、微笑みかける。
「……ありがとう。私を選んでくれて」
こんな気持ちになれる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
朱里を死なせてしまった私は、一生この十字架を背負って、朱里の代わりに生きていかなきゃならないんだと思ってた。
「爽がいなかったら私、死んだままだったよ」
「…………」
爽はぽかんとしたまま、私の声に反応しない。
「……爽?」
おーい、と顔の前で手を振ると、ハッとした顔をした爽と目が合う。
「ちょっ……今、なにした!?」
「なにって、お礼を言ったんだけど……?」
「その前!」
「その前……は、キス?」
言葉にすると、爽はわなわなと唇を震わせた。
「な、なんでいきなりそんなことすんの……!?」
なんで、と言われても。
「したくなった……から?」
首を傾げつつ答えると、爽はその場に座り込んだ。
「えっ! ちょっと爽!?」
「陽毬のバカ……俺が先にしたかったのに」
「分かったよ。もうしないよ」
「それはやだ!」
爽は、若干食い気味に言った。
「どうすりゃいいのよ……」
爽は無言で立ち上がると、そっと私を腕を引いた。
「なに……」
顔に影が落ちたその一瞬。
唇に、柔らかいものが触れた。
「…………」
「唇は、俺が先!」
ふふん、と得意げな顔が目の前にある。一瞬放心した心が戻ってきてすぐ、私はバッと爽から離れた。
「いっ……いきなりなにするの!?」
「仕返しだバーカ」
さっきまでの動揺はどこへやら、爽はいたずらっ子のような笑みを浮かべて、私を見ていた。
「帰る!」
プリッと怒ったふりをして、私は公園を出る。
「ちょっ……え? ま、マジで怒ったの? ごめん、もうしないから怒んないで。マジでごめんってば」
慌てて私の機嫌をとろうとする爽がおかしくて、私はバレないように小さく肩を揺らした。
翌日、私は朱里の墓地に向かった。墓石の前に立ち、昨日渡せなかった花を手向ける。
「朱里……昨日、来れなくてごめんね」
返事はない。
「…………」
じんわりと視界が滲み出す。
奥歯を噛み、涙をこらえて私は朱里に話しかける。
「ずっと私のこと見ててくれたんだよね。お母さんとお父さんのぶんも、ずっと……」
制服の袖で涙を拭う。
「これからは、私がお母さんとお父さんのこと守っていくから。もう、心配しないでね」
もう、あの頃のようには戻れないかもしれないけれど。それでも、家族だから。
その瞬間、強い風が吹いた。
秋の少し冷たい風が髪をさらい、落ち葉が舞う。
前に垂れた髪を耳にかけながら、私は茜色の空を見上げた。
空に向かって、はっきりと告げる。
「私はもう、大丈夫だよ」
爽がいるから。爽が私の存在を見つけてくれたから。
運命なんて言葉、だいきらいだった。
だけど今は、この出会いが運命であってほしいと願っている。
幸せってこういうことなんだって信じたい。もっと、知りたい。
今はもう家族はばらばら。あなたがいなくなってしまった事実も変わらないけれど……。
……だけど、もう怖くない。寂しくもない。私がいつまでも泣いてたら、あなたが安心して眠れないもんね。
金木犀の香りがする空気を胸いっぱいに吸い込み、墓石を見る。
「また来るね、朱里」
これは、過去に背を向けたわけではない。ただ、今と向き合い始めたのだ。
――だけど。
神様は、そう簡単には私を許してはくれなかった。
爽と付き合い始めて数週間したある日、授業中に爽が倒れた。
体育の時間、マラソンで校庭を走っていたときに突然昏倒したらしい。
爽が倒れたと聞き、保健室に向かっていると、慌てた様子の先生に止められた。先生の表情は切羽詰まっていた。
授業は中断され、私たちクラスメイトは教室で一時待機するよう告げられた。
自習なんて言われても、勉強が手につくわけもない。もやもやと考え込んでいると、窓の外から救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
ハッと顔を上げる。
「爽……」
いやな予感が胸中に広がっていく。
自習が終わると、先生が教室に入ってきた。簡単に爽の容体が伝えられる。
案の定、私のいやな予感は的中していた。救急車で病院に運ばれたのは、やはり爽だった。
先生によると軽い熱中症で倒れたという話だったが、念の為病院で検査を受けるために救急車で運ばれたのだという。
先生は、それ以上はなにも言わなかった。爽が運ばれた病院先も、いつから爽が学校に来るのかも。かといって爽に連絡したところで、彼から返信があるわけもない。
私は、やきもきしながら数日を過ごした。
爽が倒れて五日が経った朝、学校に登校すると、当たり前のように爽がとなりの席に座っていた。
「あっ! おはよ、陽毬」
「え……?」
戸惑いを隠せないまま、私は爽に駆け寄る。
「爽!? どうして……?」
「どうしてって、なにが?」
爽はきょとんとした顔で私を見上げた。
「なにがじゃないよ! ぜんぜん連絡ないから、すごく心配したんだよ!」
「ごめんって! てか先生もお母さんたちも大袈裟過ぎるんだよ。ただの熱中症だし、ぜんぜん心配ないから安心して。ごめんね、連絡できなくて! 退院の手続きとかでいろいろドタバタしててさ」
「それはいいけど……本当に大丈夫なの? もう普通に学校通えるの?」
「うん、もちろん! ぜんぜん平気だよ」
その笑顔は、いつもの爽の弾けた笑顔とどこか違って見えて。口調も、いつもの爽らしくないように聞こえて。
「……本当に?」
「陽毬まで心配し過ぎだよ」
じゃあ、顔色が悪いのはどうして?
青白くて、今にも倒れてしまいそうだよ。唇も血色がないし、少しかさついているように見える。
「……ねぇ、爽。今日、一緒に帰れる?」
「おう」
放課後、公園に立ち寄った私は、爽にまっすぐに訊ねた。
うそはいや。私たちは恋人同士なんでしょ。なら、教えてよ。本当のこと、言ってよ。
爽の目をまっすぐに見て訴えると、爽は困ったように俯いた。
「参ったなぁ……陽毬には黙ってたかったんだけど」
「話してくれないなら、もう口聞かない」
不機嫌な声で言うと、爽はやれやれと苦笑した。
「それはやだな」
「じゃあ話して」
強気の口調で言うと、爽は少しの間沈黙した。
そして、真剣な顔で言った。
「……治らない持病を持ってる。余命宣告も、受けてる」
「え……」
爽の告白はとても信じられなかったけれど、その表情は冗談を言っているようには思えない。だからといって、簡単に受け入れることはできない内容だった。
「うそ……だよね?」
「残念ながら本当。たぶん俺、来年まで生きられないと思う」
「なにそれ……」
信じられない。だって、来年まであと二ヶ月もない。二ヶ月後には、爽はもう……?
目の前が真っ白になる。
「心臓に爆弾を持ってるんだ。この間倒れたのはそのせいで……次、発作を起こしたら助からないって主治医から言われてる」
「手術とかは……」
爽は静かに首を振る。
「もう身体が持たないんだって」
「でも、じゃあ薬で」
「もう試せるものがないんだって」
「そんな……うそ。絶対うそだよ、そんなの。だって爽、今、こんなに元気なんだよ? ぜんぜん、病気なんて」
こんなの、受け入れられない。なんで? せっかく前を向き始めたのに。なんで神様は、私の大切なものばかり奪っていくの……。
「生まれつき心臓が弱くてね……。陽毬と出会うずっと前から、もう長くないって言われてたんだ。むしろここまで生きてたことが奇跡って言われてたくらいなんだよ。だから家族で話し合って……もう治療はせずに残された人生を楽しもうってことで高校に入ったんだ」
意外だろ? と、爽はなんでもないことのように笑っている。私は信じられないものを見るように爽を見つめた。
なんでこの人は笑っているのだろう。ぜんぜん、笑えないのに。
「でも、高校に入って本当に良かったと思ってる。こうやって陽毬に出会えたからさ」
「……どうして」
爽は私の頭に手を置くと、優しく撫でた。その大きな手のひらは、悲しいくらいにあたたかい。
「俺、いろいろ制限された中で生きてきたからさ。恋なんて、俺にはまるっきり関係のないできごとだと思ってたんだけど。一目惚れって、マジでするもんなんだな」
「…………」
「友達と放課後買い食いとか、可愛い女の子が都会から転校してくるとか。しかも自分がその子と恋人同士になるなんて、夢にも思わなかった。なんだか、ドラマの主人公になった気分だったよ」
私なんかの、どこが。
容姿は人並み。特別目立つ個性もない。
「……私なんて、ただの一クラスメイトだよ」
「そんなことないよ。陽毬は、俺が今まで出会ってきた女の子の中でいちばん可愛いよ」
「……大袈裟」
「そんなことないよ。可愛くて、話しかけずにはいられなかったんだよ。それで、陽毬のことを知れば知るほど、陽毬っていつも泣きそうな顔してるなぁって気付いて」
「…………」
見上げると、爽はほんの少し寂しそうな顔をして私を見下ろしていた。
「どうにかこの子を笑わせられないかなって、ずっと思ってたんだ。初めて笑ってくれたときはめちゃくちゃ嬉しかったなぁ」
心底嬉しそうに表情を緩ませる爽から、私はふいっと視線を逸らした。
「……変な趣味」
ぼそりと言うと、爽は声を出さずに笑う。
「ひどいなぁ。陽毬だって俺のこと大好きなくせに」
じろっと爽を睨んでから、私はその手を取った。爽はなにも言わず、私の手を優しく握り返してくる。胸がぎゅっと締め付けられた。
「……あと一ヶ月って、本当なの?」
「……うん」
「なんとかならないの?」
「……なったらいいんだけどな」
それなら爽は、自分がもう長くないって分かってたのに、私と付き合ったの? なんのために?
身勝手にもほどがある。
「……ぜんぶ分かってたなら、どうして付き合ったりなんかしたの」
責めるように言う私を、爽は悲しそうに見つめている。
「……ごめん」
「勝手過ぎるよ! 自分はさっさといなくなるくせに! 残された私のことは考えてくれなかったの!?」
「……ごめん」
違う。こんなことを言いたいわけじゃないのに……。
「爽のバカ! バカ!」
「ごめん。でも……」
爽が私の手を強く引く。
「離して!」
私はそれを、力の限り振り払った。ぱちん、と乾いた音がふたりの間に響く。
「陽毬……」
爽の体から、力が抜けていくのが見てわかった。
「……こんなことなら、会わなきゃよかった」
「陽毬」
「爽に会わなければ、こんな気持ちにならずに済んだのに! 爽なんて好きになるんじゃなかった!!」
これ以上爽の顔を見る勇気がなかった私は、その場から逃げ出した。
***
あれから、私は学校へ行かなくなった。
毎日制服を着て、校門の前までは行くけれど、どうしてもその先へ進めないのだ。
……爽に合わせる顔がないのだ。爽の運命を受け入れる勇気がないのだ。
顔を合わせたらきっと、泣いてしまう。爽を思い切り傷付けた私に、そんな資格はないのに。
まるで、二年前に戻ったような感覚だった。
「朱里……私は、どうしたらいいんだろう」
旋風が落ち葉を巻き上げる乾いた音だけが、私の耳を鳴らしている。
朱里が眠る墓地の前でうずくまっていると、ごろごろ、と遠くで雷の音がした。季節外れの夕立のようだ。
ほどなくして、しとしとと雨が降り始める。制服が濡れるのも気にしないで、私は灰色の空の下にうずくまっていた。
『こんなことなら、会わなきゃよかった』
なんてことを言ってしまったんだろう。
だれより爽がつらいはずなのに。
あんなの、完全に八つ当たりだ。
私はどこまで自分勝手な人間なんだろう……。
小さくため息をついた、そのときだった。
「あっ! 見つけた!」
爽の声がして、驚いて振り向くと、そこにはやはり爽がいる。
「陽毬!」
爽は肩で息をして、苦しそうに胸を押さえていた。私は弾かれたように立ち上がって、逃げようと背中を向ける。
「待てよ! 陽毬っ!」
背後から爽が叫ぶ。けれど、私はかまわず逃げる。走り出した直後、背後でべしゃっとなにかが地面に擦れる音がした。恐る恐る振り向くと、爽が倒れていた。
「爽っ!」
慌てて爽の元へ駆け寄る。抱き起こそうとしたとき、パッと腕を掴まれた。
「捕まえたっ!」
見ると、爽はイタズラが成功した子供のような顔で私を見上げている。
「陽毬! もう逃がさないぞ」
「も、もしかして、転んだの演技っ!?」
慌てて爽から手を離そうとすると、爽はにやっと笑って私を掴む手に力を込めた。してやられた。
「は、離して。帰る」
「ダメ! お願いだから話をさせてよ。俺、陽毬と喧嘩したまま死ぬのだけはいやなんだよ!」
「っ!」
息が詰まった。
「なんで……」
爽はいつだってまっすぐに、私に向き合おうとしてくれる。私が目を逸らしても、逃げようとしても許してくれない。
「私のことなんて忘れなよ……私なんて、爽を見捨てた最低な人間なんだから」
「なに言ってんの。陽毬はなにも悪くないよ。突然あんなこと言われて、受け入れられるわけないんだから」
そんなことを言われてしまったら、私はもう動けない。
「……爽は、なんでそんなに優しいの? 怒ればいいじゃない! 勝手に避けたのは私なんだから」
爽の手が、私を強く引き寄せる。気が付けば、私は爽の腕の中に収まっていた。
「怒るわけないだろ。陽毬は俺の好きなひとなんだから……。なにされたって怒らないし、陽毬が決めたことならなんだって受け入れる。だけどさ、一個だけいやなのは、陽毬にきらわれること」
「……意味分かんない」
「そっか。分かんないか……」
ははっと、寂しそうに爽は笑う。
「でもさ、俺、陽毬のこと本当に大好きなんだよ。どうしてもきらわれたくないんだ」
「……だから、なんで? 爽はクラスでも人気者で、私じゃなくたっていくらでも彼女作れるじゃん! なのに、なんで私なの」
「好きって感情に、理由なんてないよ。たぶん俺は、何度人生を繰り返しても、陽毬を好きになるよ。それくらい好きな自信ある」
「……じゃあ、なんで病気のこと黙ってたの?」
「それは……」
「私に言う必要がないと思ったからでしょ! 私のことなんて、その程度にしか好きじゃなかったから……」
「違うよ!」
爽が珍しく声を荒らげて私の声を遮る。爽の声に、私はびくりと肩を震わせて口を噤む。
「……違うよ、違う……。俺が陽毬に病気のことを言えなかったのは、怖かったからだ」
爽は私から体を離して、静かに目を伏せた。
「陽毬を傷つけるのが怖かった。……いや、違う。陽毬が、俺から離れていくんじゃないかって思ったんだ。だって俺が死ぬのはもう決まってたから。ずっと一緒にいられないのに、俺といる理由、陽毬にはないから」
ずきん、と脈が止まるんじゃないかと思うほど、心臓が痺れた。
「それはっ……」
「陽毬は俺を避けたでしょ。学校にも来なくなった」
なにも言い返せないまま、唇を引き結ぶ。
「やっぱり、言わなきゃ良かったって後悔した。ちゃんと向き合いたいと思ったから話したけど……関係が壊れるくらいなら、話さないまま死ねばよかった……っ!」
たまらず、爽を抱き締める。
「ごめん……っ! ごめん、爽! 私……、爽がいなくなるって思ったら悲しくて、怖くて……自分のことばかりで、爽のことぜんぜん考えてなかった。私が苦しいとき、爽はずっとそばにいてくれてたのに……」
爽の体は、頼りなげに震えている。そのぬくもりに、私は決意する。
「……私、悲しむのはもうやめる。だから、爽……」
もう一度、私と付き合ってください。
そう言うと、爽はくしゃくしゃな泣き顔で、私をぎゅっと抱き締めてくれた。
それからはふたりでいろんなことをした。たくさん会話をして、遊園地や映画館やショッピングデートをして、たくさんたくさん笑い合った。親の承諾の元、長野から少し離れたテーマパークへ旅行にも行った。
そして、翌年の初春。
桜が赤い蕾をつけ、私たちの卒業を祝福する春が来る少し前……爽はみんなに見守られて、安らかに眠りについた。
***
淡い桜色に色付いた春の中、私はほんのりと胸を刺す初恋の話を夫に話した。
「そうか……爽くんは、陽毬を導いてくれたひとなんだね」
「うん。間違いなく、私を私として認めてくれたひと。単純で、底抜けに明るくて、めちゃくちゃでたらめなひとなんだけどね」
爽は生命力にあふれていた。余命宣告は年末だったのに、その宣告より三ヶ月も長く生きたのだ。めちゃくちゃにもほどがある。
「敵わないなぁ」
歩人は私に微笑むと、墓石を見た。
「本当に」
爽が亡くなったあと、私はやっぱり落ち込んだ。
姉を失ったときと同じように、一心に勉強に励んだ。ずっと勉強していれば、余計なことを考えなくて済むから。
そして……大学の図書館で毎日勉強をしていた私に声をかけてきたのが、当時文学部二年だった歩人だった。
大学時代はお互い友人関係のまま、恋人同士になったのは、出会ってから三年が過ぎた初夏だった。
歩人は既に、長野県庁に勤務していた。
大学時代にも何度か告白されていたから彼の気持ちは知っていたけれど、私は爽のことが忘れられなくて、とてもほかのだれかと付き合う気にはなれずにいた。
大学三年も終わりを迎える春、私はここで、爽のお母さんからあるものをもらったのだ。
「私が歩人の告白に頷くことができたのはね、実は爽のおかげなんだよ」
「えっ、そうなの?」
歩人から五度目の告白をされた日、私はようやく頷いた。
理由は――。
「これだよ」
私はバッグから、一通の手紙を取り出す。
「手紙?」
これは、爽から私に宛てた手紙。私はそれを、歩人に差し出す。
「……読んでいいの?」
静かに頷く。
「読んでほしい。いいよね、爽」
私は爽に確認するように墓石を見る。
あたたかい風が吹いた。
歩人は丁寧に手紙を開き、読み始めた。読み始めてすぐ、歩人の瞳に涙の膜が張る。
手紙を読み終える頃には、泣きじゃくっていた。そんな優しい歩人を見て、私は笑いながらも一緒になって目元を拭う。
歩人は鼻をすすりながら言った。
「……陽毬が爽くんと出会ってくれてよかった。爽くんとの出会いがなかったら、きっと俺たちはこうして寄り添えていなかった」
「……うん。私も、そう思う。私たちが今こうしてそばにいられるのも、私がちゃんと顔を上げて生きる覚悟を持てているのも、爽のおかげ」
優しい陽だまりの中、私たちは爽の前で誓い合う。
「これからもよろしくな、陽毬」
「こちらこそよろしくね、歩人」
私は空を見上げる。青々とした空はいつの間にかじんわり滲んで、優しい春色をしている。
――爽、爽。
聞こえてるかな。
私今日、結婚したんだよ。
一生寄り添っていくひとを見つけたの。
きっと祝福してくれるよね。
だって、あなたが私に前を向けと言ってくれたんだもの。
世の中は理不尽で、面倒で、悲しいことばかりかもしれないけれど……。
それが生きることなんだって爽、言ってたもんね。
だから私は生きるよ。どんなに辛くても、惨めでも、無様でも、生きる。
そして、この世界を精一杯生き抜いたあと、いつか、あなたに会いに行くから。
そうしたらまた、一緒にたくさん笑い合おう。
手紙の返事代わりの、たくさんのお土産話を持って会いに行くから。
だからそれまで、そこからちゃんと見ていてよ。
私が顔を上げてるところ、ちゃんと。
***
――陽毬へ
手紙なんて、ぜんぜん書いたことないからちょっと緊張しちゃうけど……まぁ相手は陽毬だしな。
形式とかぐちゃぐちゃでも、許してよね。
この手紙は、俺が死んで三年以上経ってから渡してとお母さんに頼んであります。理由は、まぁ……三年くらいは俺のこと覚えててほしいから?
というのはまぁ半分冗談で、半分本気だったりする。
まぁ、のんびり聞いてよ。
俺は、幼い頃から心臓の病を患ってた。入退院なんて日常茶飯事で、手術も何度も繰り返したよ。
絶望なんて知らない。だって、希望を抱いたことすらなかったから。
不安定な生の中で、俺は必死に、一本の藁に縋り付くようにして生きてた。
同世代のみんなは太陽の下で元気に駆け回っているのに、俺はいつだって薬液の匂いに満たされた白い箱の中に押し込まれていて、あまりにも清潔過ぎるシーツに包まれて眠る毎日。
楽しいことなんて、なにもなかった。心が動くことなんて、まずなかった。
親の涙を見るたび、俺は一体、なんのために生まれてきたんだろうって思ってた。
十七歳の冬、とうとう余命宣告を受けた俺は、長く閉じ込められていた白い箱から初めて出ることを許された。
生まれてからずっと俺をがんじがらめにしていた縄は、皮肉にも俺の死が決定事項になった途端に俺を自由にしたんだ。笑っちゃうよね。
退院してからは、やけくそになって毎日遊んだ。
髪を染めて、着てみたかった高校の制服に袖を通して、当たり前のようにみんなと同じ学校生活を謳歌した。
そんなとき、陽毬――君に出会ったんだよ。
初めて陽毬を見たとき、胸がすごくざわめいたんだ。
たぶんこの感情は、みんなが当たり前にしてるもの。だけど、俺には絶対に許されないもの。
初恋だった。
友達もつくらず、バイトもせず、毎日飽きもせずにただひたすら勉強する陽毬を見て、最初は変わった女の子だなって思ってたんだ。
だけど同時に、すごく気になった。
君はまるで、入院中の俺のようだったから。
陽毬もまた見えないなにかに縛られて、身動きが取れなくなっているんじゃないかなって、直感的に気付いた。
陽毬に出会って、俺は確信したんだ。俺が生まれてきたのはきっと、この子を助けるためなんだって。
それからは、たくさん話しかけた。ウザがられてることは分かっていたけど、話しかけた。だって、もっと君のことが知りたかったから。
迷惑そうな顔も、困ったような顔も、戸惑う顔も、はにかんだ顔も……ぜんぶ可愛かった。
陽毬の過去を聞いたときは、どうしようもなく胸が苦しくなった。
あのときたぶん俺は、陽毬の気持ちに寄り添ったんじゃなくて、お姉さんの気持ちになってしまったんだと思う。
こんなに可愛い妹を置いていかなければならなかったお姉さんは、どんなに無念だっただろう。自分の存在のせいで、最愛の妹がこんなに苦しんでいるなんて知ったら、どんなに胸を痛めるだろうって。
……だってさ。
俺も、俺がいなくなったあと、お母さんとお父さんを落ち込ませちゃうんだろうなっていうことが、いちばん怖かったんだ。
案の定陽毬はお姉さんの死に縛られていて、窒息しかけてた。
陽毬。
陽毬は、陽毬だよ。
ほかのだれかになろうなんて思わなくていいんだ。生きてるだけでいいんだ。
お姉さんはそんなこと、絶対望んでない。
たとえ家族がばらばらになったって、家族が消えるわけじゃないんだよ。
離れていたって、家族は家族。
だからなにも怖くない。
陽毬が叫べば、きっとお父さんもお母さんも一目散に飛んできてくれるから。
俺だって、飛んでくから。
だから君は、どうか君のままでいて。
俺たちはどんなに頑張ったって、ほかのだれかになんてなれっこないんだ。
残された人間は、どんなに辛くても、惨めでも、無様でも、自分を生きるしかないんだよ。
俺は陽毬と出会ってから、陽毬の笑顔に何度も救われた。
陽毬が学校に来なくなって、めちゃくちゃ寂しかった。
残されるってこういうことなんだって、絶望ってこんなに苦しいんだって……初めて残される側の気持ちが分かったよ。
俺にいろんな感情を教えてくれてありがとう。本当に、ありがとう。
最後まで寄り添えないのに、好きになってごめん。悲しませてごめん。苦しませてごめん。
優しい陽毬のことだから、きっと俺が死んだらまた落ち込むよね。
落ち込んでくれるのは嬉しいけど、落ち込み過ぎはよくない。
だって、人生は一度きりなんだよ。
俺は俺の人生を精一杯生きたって、自信を持って言える。陽毬を愛せたし、家族にもちゃんとありがとうって言えた。
後悔がないわけじゃない。でもたぶん、生きるってそういうことだと思うんだ。
後悔があるからひとは成長できるんだ。優しくなれるんだ。
俺は、陽毬と出会えたことで自分の人生に意味があったってことが分かったよ。陽毬のおかげで、こんなにも幸せな最期を迎えられた。なんにも文句なんてない。
だからね、お願い。
俺がいなくなっても、あんまり悲しまないで。少しだけ悲しんだら、ちゃんと前を向いて生きて。陽毬は陽毬の人生を生きて。
顔を上げなきゃ、季節が過ぎるのなんてあっという間だよ。あっという間にしわしわのおばあちゃんになっちゃうんだから。
大丈夫。
なんにも怖くないよ。
顔を上げたら絶対、君を見つめてくれるひとがいるはずだから。
俺が保証するから。
これからの陽毬の未来がどうか、明るいものでありますように。
俺は一足先に神様になって、陽毬の幸せを祈っています。
またいつか会えたらそのときは、お互い笑顔で語り合えますように。
――立花爽