それは、ある日の昼下がりのことである。
 律動的(リズミカル)にドアベルが鳴り響いた時、喫茶店の店内には二人の店員がいた。
 ひとりは店長の四季(よつき)ゲンイチロウ、歳は四十四。はちきれんばかりの厚い胸板、半袖のポロシャツから伸びる上腕も、これまた隆々として逞しい。髪は長めでオールバックにして、うなじ辺りで無造作に纏められている。見た感じ豪腕で、頭を使うタイプではないように感じられる。顔貌は巌のように厳しいが、鋭い目元の奥には、深い情愛に満ちた包み込むような優しさを見る者に感じさせる。
 もうひとりは店員の冬木(ふゆき)シオリ、十六歳。髪に赤・黄・青のメッシュを入れているが、いわゆる一昔前の不良少女という評価は当たらない。暴力を振るうのも、恐喝するのも、いわんや万引きするのも、また、集団で群れるのも、キライであった。正義感からではなくモノの道理をわきまえない行為が許せないのである。メッシュはある理由で入れたのだが、いまでは自己表現の一環となっていた。目元は涼やかで、悪ぶってはいるが、どうにも演じているように感じられる。笑うと左頬にだけえくぼができる、優しげな眼差しが印象的な少女であった。
 シオリは実質的には喫茶店のマスコットなのだが、その短絡的表現を嫌っていた。置物(オーナメント)飾り物(デコレイション)偶像(アイドル)としての役にしか立っていないように受け取られるのは心外であった。いてもいなくてもかまわないと思えるからである。それに、マスコットでありながら、馴染みの客が一人もいないという現実は、マスコット失格の烙印を押されているように感じられて、耐えられないのである。なので、時には少々背伸びしたりもする。たまに失敗するが、ご愛嬌である。
「おはよう」
 店に入ってきた人物が親しげに挨拶した。その人物は客ではない。喫茶店『四季(しき)』のもうひとつの顔、探偵事務所『四季(しき)』の一員であった。そのために、顔を合わせた時の挨拶は夜であろうと「おはよう」なのである。
「ああ、おはよう」
 ゲンイチロウががっかりしたように返事をした。
「おはよう」
 シオリの声は、多分に喜びの感情が含まれていた。その理由が、店内に入ってきた人物にはわからなかった。
 入店してきた男は、迷いのない足取りでカウンター席に腰を下ろした。そこが定位置ででもあるかのように。
 男の名前は夏目(なつめ)ナオト、年齢は二十一歳。通っていた大学を休学して『四季』で働いている。髪は目に掛かるくらいに長く、鬱陶しいことこの上ないのは本人も自覚しているのだが、短くする気は毛頭ない。容貌はいたって普通、取り立てて特筆するべきところはなにもない。優しさがなによりの売りの訳でもない。多少柔軟な思考を備えているが、それだけに惹かれる女性はいないだろう。箸にも棒にもかからない取り柄の無いように感じさせる男であった。
「アイスコーヒーを貰えるかな」
「はーい」
 ナオトの注文に元気良く返事をしたのはシオリであった。グラスに氷を入れ、ドリッパーを載せ、深煎の豆を挽いた粉を入れ、熱いお湯を小さく中心に「の」の字を描くように回し注ぐ。抽出される間にカウンターにコースターを置き、ガムシロップとミルクの容器を置く。鼻歌交じりのシオリは、頃合いを見計らってドリッパーをどけて、グラスをコースターの上に置いた。手慣れた手際である。
「ありがとう、シオリ」
 こんな台詞をナオトは無意識にしてしまう。シオリは嬉しそうで、今にもスキップでもしそうである。
 ナオトは微笑みながらゲンイチロウに目を向けた。
「マスター、キョウジは?」
「仕事中だ」
「ヘルプは必要が無いって言っていたが、本当にそれでいいのか?」
 ゲンイチロウは首筋に手をあてた。
「大人数は必要の無い案件だ。ナオトにはなにか障害が発生した時に備えて待機してもらっている。そう言ったろう」
 ナオトはかすかに笑った。
「何かやっていないと落ち着かなくてな。根っからの貧乏性かな?」
 ゲンイチロウは太い腕を組んだ。
「それがわかっているのならば改めることだ」
 やらなければならないことがわかっているのであれば、迷わずにやればいい。人生は思いの外長い。いつでも始めても遅すぎるということはない。ゲンイチロウはぶっきらぼうに諭した。年長者の義務であろうか。
「はいはい、気が向いたらそうするよ」
 ナオトは気分を変えるためにグラスを傾けた。
「サンドウィッチでも食べる?」
 シオリが尋ねてきた。ナオトは首を横に振った。
「いや、昼飯は食べてきたんだ」
「そうなんだ」
 シオリの声の調子(トーン)が沈んだ。ナオトは取り繕った。
「またの機会に頼むよ」
「うん。わかった」
 シオリは嬉しそうに相好を崩した。
「それにしても、シオリには商才があるようだな。そちら様とは大違いだ」
 ゲンイチロウに目を向けると、思わぬ形でしっぺい返しをくらわされた。
「お前さんが悪態をつくごとに、給金が百円ずつ減っていくことを忘れるなよ」
「そんな横暴が許されてもいいのか? ブラックだって吹聴しまくるぞ」
 ゲンイチロウがにたりと笑った。
「ふっ、冗談を真に受けるな」
「マスターもな」
 ナオトとゲンイチロウは目を見交わして笑った。
 平和な午後のひと時であった。

 ナオトはもうひとつの気になったことを尋ねた。
「カナタはどうしてる? 相変わらずこもっているのか?」
 ナオトが店の奥に目を向けた。ゲンイチロウが言いにくそうに応じた。
「学校へ行っている」
「そうか」
 ナオトは複雑な表情を見せた。アイスコーヒーで喉を潤しながらシオリに目を向けた。しばらく言い淀んだすえに、意を決して尋ねた。
「シオリ、は、学校はいいのか?」
「大丈夫、昨日行ったから」
 怖いほど落ち着いてシオリが応えた。ナオトは眉間にしわを寄せた。昨日行って、今日は行っていない。それって、大丈夫と表しても良いのだろうか。ナオトの表情を読み取ったシオリが、機先を制した。
「お説教なら聞かないわよ」
「うーん」
 低く唸ってから、ナオトは首筋に手を当てて、少しの間、天井を眺めた。
「おれには説教する資格はないよ。休学中なんだから」
 今度はシオリが複雑な表情を見せた。
「休学って、いつまでなの?」
「一応二年間って届けたから、後一年くらいは残っているけれど」
「けれど?」
「その前に復学もありえるかもしれない。それが通るなら、だけれどね」
「そう、なんだ」
 シオリは寂しそうに呟いた。
「まあでも、復学してもこっちの手伝いはできると思うんだ。単位取って、課題提出して、まだ先のことだけれど、卒論を提出して、それでおしまい。三六五日勉強ってわけじゃないし、息抜きも必要だしね」
「息抜きで探偵なんて務まるか、バカタレ」
 ナオトはお盆(トレンチ)で軽く頭を叩かれてしまった。
「冗談を真に受けないでくれ」
 しばらく談笑が続いた。小一時間経った頃であろうか、ゲンイチロウの目があるものを捉えた。
「ん?」
「どうした? マスター」
 怪訝な表情のゲンイチロウに気づいてナオトは振り返ろうとした。
「動くな、ナオト」
 あまりにも真剣な目つきと口ぶりであったので、ナオトは軽口を封印して囁いた。
「どうしたんだ?」
「店内を覗いている。シオリも動くなよ」
「どんなヤツだ?」
 ナオトが問うと、ゲンイチロウの口から意外な答が帰ってきた。
「子供だ。小学生の三年生くらいだろう。野球帽をかぶっている。男の子だな」
 シオリは麗しい瞳だけを動かして、窓に沿って対象を探った。店長のいう通りであった。シオリにも相手は小学生の男の子に見えた。
「おれがさり気なく外へ出てみるか?」
 ナオトの提案をゲンイチロウは渋い顔で聞き流した。
「あたしが行ってくる。男の子なら女が適任よ」
 言うが早いか、シオリは年長者二人の返事を待たずにカウンターから出ると、無造作に店内を歩いて行き、ドアを開けて外へ出て行った。ナオトは椅子を回転させて、窓外へ目を向けた。
 シオリが子供に声をかけている。子供はそれに気づいて逃げ出すかと思いきや、なにやらシオリとやり取りしている。
「害はないんじゃない?」
「だといいがな」
 ナオトの評価をゲンイチロウは留保した。
 しばらく、無声映画を鑑賞しているような気分であった。シオリは身振り手振りを交えて話をしているようである。すると、子供はシオリの横を通り過ぎると、シオリのスカートに手をかけ、やおらめくり上げた。そして、一目散に去っていった。
「なんてことを」
 ナオトは目を手で覆って天井に顔を向けた。

 律動的(リズミカル)にドアベルが鳴った。シオリが戻ってきたのであろう。ナオトは天井に顔を向けたまま、言葉を発さずに固まった。
「あんのエロガキ! 今度会ったらフルボッコにしてやる!」
 シオリの怒声がナオトの鼓膜を恐ろしげに震わせた。
「まあ、子供のやったことだし、そんなに目くじらを立てなくても」
 ナオトはシオリをなだめようとしたのだが、それが逆効果であることを思い知ることとなった。
「見たの?」
「なにを?」
「あたしのパンツ」
 ナオトは一瞬言葉を失った。目を覆っていた手をどけて、顔を下げてシオリの形相を見ると、名状しがたいが、明らかに機嫌が悪そうだ。ほのかに頬に朱がさしていた。
「見ていない見ていない」
 ナオトは激しく顔を左右に振りまくった。シオリはジトッとした冷めた目をナオトに向けている。
「ホントでしょうね」
 ナオトは激しく顔を上下に振りまくった。
「言葉で答えて」
 ナオトは頬を伝う汗が、非常に冷たいことに気づいた。
「なにも見ていません」
「なにも?」
 シオリが詰め寄ってきた。
「はい。パンツ、は、見ていません」
「ホ・ン・ト」
 ナオトはマスターに助けを求めることにした。
「なあ、マスター、見えなかったよな?」
 ゲンイチロウが居たであろう場所には、誰もいなかった。
「逃げやがった」
 頭の中でゲンイチロウをフルボッコにして、ナオトは一人でシオリに果敢に立ち向かった。
「角度的に、ここからは、見えませんでした。日差しもあったし」
「……」
 シオリの無言の圧力は凄まじいことを思い知った。ナオトは目を合わせないようにあらぬ方に視線を固定した。そんなナオトの顔に、シオリはじわりと顔を近づけてきた。ナオトは息を止めている。限界に達しようとした頃、ようやくシオリが頷いた。
「わかった、信じてあげる」
 ナオトは深く息を吸い込んだ。
「はい、ありがとうございます」
 ナオトは深々と頭を下げた。
「それにしても、シオリは女の子だろう。下着のことをパンツというのはどうなんだ?」
「じゃあ、なんて言えばいいのよ、教えて」
「それは」
 ナオトは口を開けたまま固まった。シオリの目が笑っていなかったのである。
「なんでもありません。ごめんなさい、失言でした」
「なんで敬語なのよ」
 今日はこのような感じで、喫茶店『四季』に充満する空気は、ものすごく重たかった。