怪我をした三毛の子猫は、深月にやすらぎを与えてくれた。
 世話をするようになって数日で傷は塞がり、用意されたエサもぺろりと平らげる元気いっぱいの女の子だった。
「その子のお世話をするようになって、前よりも表情が明るくなりましたわねぇ」
 朝、深月の髪を梳かしていた朋代が嬉しそうに言った。
「みゃあ〜」
 深月が応えるよりも先に、膝の上に座る子猫が返事をする。
 この人懐っこい子猫はまたたく間に特命部隊内に知れ渡り、深月だけではなく日頃の訓練にへとへとな隊員たちの癒やしにもなっていた。
 あくまで部隊内なので自由に遊ばせてあげることはできないが、子猫は深月と一緒にいるのを喜んでいるようだった。
「名前はお決めにならないのですか?」
「不知火さんが連れてきた子なので、わたしがつけるわけには……」
「あら、ではもうしばらくは『猫ちゃん』と呼ばなければいけませんね」
「にゃ」
 またしても子猫が返事をする。
 そんな子猫を見ている深月の口もとには、自然な笑みができあがっていた。
(この子、いい飼い主が見つかるといいけれど……)
 ずっと特命部隊で飼うわけにはいかないだろうし、不知火が戻れば引き渡す手はずになっている。それを想像すると寂しくなるが、自分のもとにいるうちは精一杯お世話したい。
「でも、おかしいですね。人好きで自分から寄っていくのに、羽鳥さんにだけは毛を逆立てるだなんて」
「本当に、どうしてでしょう」
「羽鳥さんは生粋の猫好きなのですが……まあ、相性の善し悪しはありますものね」
「にゃ〜」
 わかっているのかいないのか、子猫は無邪気に鳴くのだった。
 
 昼食後、暁は席をはずしており、深月は子猫と静かにたわむれていた。
「猫ちゃん、すっかり元気になったね」
「みゃあ」
 これまで動物の近くで過ごした経験はなかったけれど、今回の件でがらりと印象が変わった。こんなに可愛くてふわふわした生き物に好感を抱かないわけがない。深月はすっかり子猫の虜になっていた。
 そして思っていたより頭がいい。人の表情を読み取り、話し声に耳をすませて、なにかしらの反応をいつも返してくれるのだ。
 こんなにも無垢な生き物だからこそ、深月は不思議だった。
「猫ちゃん、どうして羽鳥さまには威嚇するの?」
「にゃ」
「暁さまのことは大好きみたいなのに」
 深月の質問に、子猫はぷいっと顔をそらしてしまう。
 あからさまな反応すら可愛らしくて笑みがこぼれる。
「でも、あなたが引っかこうとすると、羽鳥さまはすごく寂しそうにしていてね」
「みゃあ?」
「きっと悪い人ではないと思うの。あなたにも意地悪はしていないでしょう? だから、そんなに怖がらないで」
 深月のほうを見上げた子猫の頭を、指で優しく撫でる。
 子猫は気持ちよさそうに目を細め、深月は眉を下げてつぶやいた。
「なにもしていないはずなのに嫌われるのは、つらくて、悲しいから……」
 それは子猫を諭した言葉なのか、それとも深月の本心だったのかと言えば、おそらく両方だった。
「待たせた」
 深月が口を閉ざした直後、席をはずしていた暁が戻ってくる。背後には羽鳥の姿もあった。
「あ、お、おかえりなさいませ」
 深月は平静を装いながらふたりを出迎えた。
(よ、よかった。聞かれてはいなかったみたい……)
 彼らの表情を確かめ、普段と変わらない様子から聞かれていないだろうと安堵する。
 羽鳥の敵意の目に、いままでになかった後ろめたさが孕んでいたことにも、深月は気づかなかった。
 
 夜。眠っていた深月が目を覚ますと、部屋に子猫の姿はなかった。
(猫ちゃん……?)
 朋代が用意してくれた木箱にも、寝台の足もとにもいない。
 素早く視線をさまよわせ、扉に隙間ができているのが見えると、深月は寝台から飛び起きた。
(どこにいるの?)
 冷たい床に素足を投げ出し、寝台横の洋燈をつけて部屋の中をもう一度念入りに確かめる。それでも子猫の姿は見つからない。
 焦りに顔をゆがめたとき、格子窓の先から猫同士の威嚇する鳴き声が耳をかすめた。
(やっぱり、外に……っ)
 猫同士で喧嘩をしているのだろうか。せっかく傷も治りかかっているというのに。
 また新たに怪我を作ってしまう前に連れ戻したいところだが……。
 いくら敷地内の行動範囲が広くなったとはいえ、夜中に無断で部屋の外に出るのは許されていない。
 そう考えている瞬間にも鳴き声は届いてくる。
 このまま放っておくことはできない。
「……っ」
 扉を引くと、足もとを冷気が吹き抜ける。抗うように足を前に動かした深月は、薄い夜着のまま部屋を飛び出した。
 二月下旬の真夜中は、肌を刺す冷気に包まれていた。
 夢中になって板の間を駆け抜け、階段を降りて一階にたどり着く。近くのサンルームの施錠をはずし、深月は置かれた外履きを借りて別邸の外までやってきた。
 外気に触れたとたん、肌がぶるりと粟立つ。口から出た白い吐息を視界の端に捉えながら、辺りを見渡した。
(あっちのほうから聞こえる)
 北風に運ばれて、ほんのわずかに猫の声がする。
 いまだに激しい威嚇が含まれた鳴き声なので、子猫のものか、はたまた別の猫のものかまでは判断が難しい。けれどその鳴き声を頼りに、深月は本邸に繋がる舗装路を進んだ。
 やがて舗装路にぼんやりとした明かりが転がっているのが見えた。
 曇った夜空が作り出す暗闇に、それは導のように輝いている。
 深月はその場で一度動きを止め、目を凝らした。
(よかった、いた……っ)
 道に転がる明かりの正体は、隊員たちが使用するカンテラだった。そのすぐ横で寄り添うように身をかがめた子猫の姿を発見し、ほっと胸を撫でおろす。
 深月は子猫のもとに駆け寄るが、その様子に首をかしげた。
「猫ちゃん……?」
 部屋からは猫同士の鳴き声が聞こえていたが、この場には子猫しかおらず、見る限り外傷もなさそうだった。
 ただ、ひどく怯えている。深月がそばにいることにも気づいていないようで、小さくうなり続けていた。
「外、寒かったでしょう。おいで」
 安心させるように声をかけながら、子猫に手を伸ばす。
 しかし、子猫は「シャーッ」と錯乱して深月の手に爪を立てた。
(……痛っ。ここでいったい、なにがあったの?)
 ほかの猫と喧嘩をして、その興奮が冷めきっていないだけならわかる。けれども、子猫は興奮していると言うには収まりきらないほど、なにかが妙だった。
「なんだぁ? この匂いは」
 ぞわりと、背筋に激しい悪寒が走る。声は深月のすぐ後ろからしていた。
(え……)
 振り向くと、そこには見覚えのない着流し姿の男が立っていた。それからすぐ飛び込んできた異様な光景に、深月は瞠目する。
 涼しい顔をした男の片手が掴んでいるのは、負傷した隊員だった。
(この人、暁さまに稽古をつけてもらっていた……)
 見覚えのある隊員と、かたやまったく知らない男。
 近づかれた気配どころか、音すらしなかったはずだ。なのに、その男は隊員の襟を後ろから鷲掴み、地面を引きずるようにして引っ張り上げている。
 そんな状態でなにも聞こえなかっただなんて、おかしな話だった。
「その人……どう、して……?」
 凍える寒さと恐怖が混じり合ってうまく声が出せない。それでもやっとの思いで絞り出した問いに、男は嘲笑った。
「ああ、こいつ? どうしてって、どうもしねーよ」
「あああああっ!!」
 隊員の叫びにさっと血の気が引いていく。
 あろうことかこの男は、反対の手に握っていた妖刀の先を、隊員の背中に突き刺したのである。
「や、やめ……っ」
「腹が立つだろ。脆弱な人間が一丁前に妖刀振り回して図に乗ってるんだぞ。まあ妖刀使ってもこのザマだけどなぁ!!」
 この感じを深月は知っている。
 強烈なまがまがしさの中に不気味さを含んだ、狂気そのもののような空気感。悪鬼に取り憑かれた誠太郎のときと似ていた。
 けれど、決定的な違いがあった。
「それより、おまえはなんだ?」
 興味のまなざしが深月を捉える。男には、誠太郎にはいっさいなかった会話をする意思と理性があったのだ。
(も、もしかして、この人……)
 ふたたび子猫が威嚇の鳴き声をあげる。深月ではなく、目の前の男に。
「ここの女中か? ちょうどいい、女の血のほうが飲みたいところだったんだ。いや、待てよ」
 男はすんと鼻を嗅ぐ。それからカンテラの淡い灯りに照らされた深月の手を一瞥し、にひるに笑みを浮かべた。
「この匂い……くっ、ははは!! まさかこんなところでお目にかかれるとは、今日はついてる!」
 男は軽々と隊員を放り投げ、妖刀を手にして一歩前に出る。
 風が吹き、ふいに深月の周囲に淡い光が注がれた。
 ふたでかぶせたように空を覆っていた雲が、隠れた月の姿をゆっくり暴いていく。
 今夜は、まぶしい偃月だった。
「おまえ、稀血だなぁ?」
 そう言いながら、男は妖刀に付着した血を舌で舐める。
 理性はありながらも高揚感を隠しきれずに呼吸は荒くなり、肩が上下に動く。血走った瞳が、妖光をたたえて不気味に細まった。
(悪鬼じゃない、この人は――)
「その血、よこせ!」
 反応する間もなかった。一瞬にして深月との距離を縮めた男は、深月の腕を狙うように妖刀で斬り込み……。
「……ぁっ」
 深月の夜着に薄い切れ目が入った瞬間、刀同士の交わる音が鳴り、妖刀は地面に払い落とされていた。
 ハッと顔を上げると、そこには暁の姿があった。
 男の前に立ち塞がった暁は、すんでのところで妖刀を落とし深月を助けたのである。
「ち、妖刀使いが!」
「あ、暁さ……っ」
 言いかけた深月の声が中途半端に途切れる。
 足もとに転がった妖刀、そして自分が履く外履きに、ぽたぽたと血がしたたっていた。それが暁の負傷によるものだとわかり深月の顔は青ざめた。
 なにも動きが見えなかった。けれど、男はいつの間にか妖刀の代わりに短刀を携えていた。その短刀が暁の首筋から肩口にかけて怪我を負わせたのである。
 しかし、負傷したにもかかわらず、暁は衰えのない機敏な動きを見せて男を拘束する。
「くそっ、離せ! 人間の分際で――ぐああ!!」
 地面に突っ伏した男の肩を暁が童天丸で突くと、抵抗していた男は眠るように気を失った。
 騒動から一変、辺りはしいんと静まり返る。
 暁は童天丸を納刀すると、舗装路のわきに飛ばされた隊員の安否を確認した。そして座り込んでいた深月のもとまで歩いてきてじっと姿を見下ろす。
「暁さま、怪我が……」
「それより、これで傷を」
 立ち上がろうとする深月を制して暁が差し出してきたのは手ぬぐいだった。
 深月の手の甲にある一本の引っかき傷。少し前に子猫にやられたものだ。
「は、はい」
 手ぬぐいを受け取った深月は、かじかんだ指先に力を込めた。
 なんとか手ぬぐいを巻いていれば、暁は自分の外套を深月の肩にかける。彼の温度の名残を感じて、ようやく手に血が通い始めた。
「少し汚れているが、部屋に戻るまでの辛抱だ」
「そんな……わたしが部屋を出たから怪我を」
 暁は片膝をつくと、おとなしやかに言葉を重ねる。
「傷は、その引っかき傷だけか」
「……だけ、です。猫ちゃんを怖がらせてしまって、それで」
「あの男には、なにもされていないか」
「されていない、です」
 駆けつけてくれた暁もわかっているはずだ。それでもあえて確認するのは、気が動転した深月の返答をあおぐことで呼吸を整えてくれたのだろう。
「君が無事でよかった」
 情け深い声音に深月は唇を噛みしめた。
 自分が部屋を出たから彼は怪我をしてしまったのに。咎める発言はいっさいせず、深月を心配し、安堵している。軍人とは、皆こんな人ばかりなのだろうか。
「……っ」
「暁さま……? 大丈夫ですか、暁さまっ」
 暁の上体がわずかに傾き、深月はとっさに支えた。
 距離が近くなると、いままで抑えていたであろう苦しげな吐息が耳にかかる。
「朱凰隊長!!」
 ふたりのもとに遅れて羽鳥が到着した。そのすぐ後ろには本部にいるはずの不知火の姿があった。
「これは、そこの禾月に斬られたんだな?」
「俺よりも……先に、向こうにいる隊員を……」
「ああ、ちゃんと処置する。だがおまえの出血量も相当だぞ」
 首から肩にかけてある傷はかなり深く、不知火の止血も追いつかない状態だった。
「不知火さん。こちらは刺し傷ひとつ、多くあるのは擦り傷と打撲痕です」
 羽鳥はもうひとりの隊員の状態を口頭で知らせ、不知火の指示に従い処置を始める。
 その後、暁の処置の続きは室内に移動してからおこなわれることになった。
 羽鳥は負傷した隊員を、不知火は暁を抱えて近場の別邸に急ぐ。
「稀血ちゃん、ここを逃げ出すつもりがないなら、その治療箱を持ってきてくれないか」
「は、はい……」
 両手が塞がった不知火に言われ、深月は強くうなずいた。
 夜中に無断で部屋を出て、あげくには暁に怪我を負わせてしまった。この状況で現場にいた深月の逃亡を疑うのは当然の考えである。
 ここまでの経緯や弁明はあとでいい。いまはいち早く治療するのが最優先だ。
 深月は治療箱とカンテラ、すっかり警戒をといておとなしくなっていた子猫を抱える。それから足を止め、後ろを振り返った。
「そこにいる禾月は心配いりません。妖刀の力でしばらく意識は戻りませんから。本邸の隊員もそろそろ到着するのであとは彼らに任せます」
 羽鳥の説明が飛んできて、深月は切り替えるようにかぶりを振った。
 足取りがひどく重い。行きと違って随分と明るくなった道を進みながら、深月はいま起こったことを思い返す。
(あれが、禾月……)
 見た瞬間から悪鬼とは違った空気を感じていた。
 その理由は、男が禾月だからだった。
 人と同じ姿、意思疎通も可能な知能、血に対する高揚と執着。それはまさしく、人ならざるもの。
「みゃあ〜」
 深月の腕に収まった子猫が鳴き声をあげた。まるで外に出てしまった自分のおこないを悔いて謝罪するかのように、深月の胸にすり寄ってくる。
 温かいのに、寒い。子猫の温度も、暁がかけてくれた外套も冷えた体を包み温めてくれているのに、どんどん芯が凍っていく。
 自分が稀血と呼ばれる要因、自分の体の半分を占めるもの。
 なかった実感がようやく深月のもとへ降りてくる。
 人を傷つけ、血を前にして、笑いながら殺生もいとわない禾月の姿。
 そうなる可能性が深月にはある。化け物だと言われる厄介な特性が出るかもしれない。
 だからずっと、暁の花嫁候補を装ってまで特命部隊にいるのだ。
 わかってはいたはずなのに、地面に射す偃月の輝きが背中に当たって妙に落ち着かない。動揺から喉の奥が干上がっていくのがわかる。
「……わたし」
 深月はたまらなく、自分が怖くなった。
 
 次の日、聴取は羽鳥によっておこなわれた。
 ありのままの経緯を話す深月に、彼は堅苦しい表情を浮かべながら意外にも理解してくれた。
 本気で逃げる気があったのなら暁を置いてさっさと敷地を出ていただろうし、禾月に斬られそうになったというのも、皮肉にも信じるに値するものになったのかもしれない。
 あの着流しの男は特命部隊が拘束した禾月であり、本邸の留置場へ連行する際に隊員が誤って逃してしまったそうだ。
 深月の体感では億劫になるほど長かったあの瞬間も、実際は禾月の男が現れて助けられるまでほんの数分しか経っていなかった。だからこそ、深月の動向を察知した暁がどれだけ早く駆けつけてくれたのかがわかる。
 羽鳥が言うには、暁はまだ予断を許さない状態だという。
 斬られた傷だけならまだ違ったのだろうが、禾月の男が仕込んでいた短刀には毒が塗られていた。それが傷口から侵入してしまい回復を妨げているのである。
「わたしの、せいです……本当に申し訳ありません」
「やめてください。原因がなんであれ僕に頭を下げるのはお門違いです」
 慰めはしないが批難を向ける様子もなく、羽鳥は素っ気なく深月から視線をそらした。そしりを受けるのも覚悟していたのに、むしろいつもより彼は冷静だった。
「……あの、暁さまにお会いすることは、できますか」
「会ったところで話せる状態ではないかと」
「そう、なのですが……」
 もっともな返答に深月はうつむいて押し黙る。
 いま感情的になっているのは深月のほうだった。
 自分のせいで誰かが大怪我をし、想像を絶する苦しみに耐えている。そんな状態でなにか役に立てることがあるとは思っていない。でも、ただひと目だけでも会いたい。
 いつまでも消えない罪悪感が、差し出がましい頼みを口にしてしまった。
(……会わせてもらえるわけ、ない)
 そう思いながら手首をぎゅっと握り込む。つけ直した組紐の感触が、深月の背を押してくれた気がした。
「どうか、お願いします」
 羽鳥を見据えれば、彼はわずかに動揺を示した。
「いいじゃねーか、羽鳥。見舞いぐらい行かせてやれよ」
 そのとき、部屋に不知火が入ってきた。
「……不知火さん、声かけもなく勝手に入らないでください」
 羽鳥は会話を盗み聞いていた彼を横目で軽く睨んだ。
 それをまったく意に介さず、不知火はふたたび口を開く。
「まあまあ。久しぶりだな、稀血ちゃん。その猫、あんたが世話してくれていたって聞いたぜ。なら、今回は俺にも責任がある。逃げ出したそいつを、あんたは探しに出てくれたんだ。つーわけで、ほら、アキの部屋に行くぞ」
「ちょ、不知火さん!」
 不知火の援護もあり、深月は見舞いに行かせてもらえることになったのだった。
 
 深月の部屋を出るとすぐ目の前には吹き抜けの階段がある。
 暁の部屋があるのは、その吹き抜け階段の向こう側。手すりに沿ってぐるりと回った場所にあった。
(気づかなかった。ここが暁さまのお部屋だったのね……)
 なにか問題が起きたときを考慮し、部屋が近いに越したことはなかったのだろうけれど。こんなに近い位置にあったとは知らず深月は密かに驚愕していた。
「アキ、入るぞ。つってもいまは聞こえないか……」
 まずは先頭の不知火が声をかけながら扉を開け、そのあとを深月が続くようにして入る。深月の後ろには監視役の羽鳥もいた。暁が床に伏せているうちは、彼がお目付け役となっているのだ。
「……失礼します」
 部屋の造りは深月が借りている一室とそこまで大差なかった。
 深みのある色で統一された調度品の数々、寄木細工の床や大きな格子窓など。見慣れた洋室だが、置かれた私物でそこはかとなく和の空気が融合した空間になっている。客室用ではなく無駄なものを取り除いた簡素さと、きちんと整理が行き届いているのがなんだか彼らしくもあった。
(暁さま……)
 彼が眠る寝台まで促された深月は、その姿を目にして胸が締めつけられる。
 寝巻き姿で横たわる暁は、荒い呼吸を繰り返し苦悶の表情を浮かべていた。
 額や頬ににじんだ汗、大量の出血で青くなった肌の色だけでも、怪我の程度がどれほどなのかわかる。
「……ごめんなさい」
 心もとなくつぶやかれた声が届くことはない。羽鳥から聞いていたとおり、深くやられた短刀の傷と合わせて毒の効果がさらなる激痛を誘発させているようだった。
 不知火ができる範囲の解毒を済ませてくれたので、あとは暁の気力と体力を信じるしかないようだが、この苦しむさまを前に不安な想像ばかりしてしまう。
『稀血の子か』
 突然、ふわふわした音域の声がして、深月は弾かれたように視線を斜め前に動かした。そこには鞘に納まった刀――童天丸が壁に立てかけるようにして置いてある。
『人の世で生きながらえている稀血とは、何度見ても希少な』
「え、え……?」
 話しかける声がしているのは、間違いなく童天丸からだった。
 驚いて言葉を忘れていると、その声はよりはっきりと愉快そうに響く。
『禾月混じりのくせに本気で驚いてるぜ』
「あ、あなたは……どうして、話せて……?」
 おそるおそると口を開いた。
 そんな深月の様子を、少し後ろに立っていた不知火と羽鳥が奇妙な面持ちで見つめている。どうやらふたりには童天丸の声が届いていないようだった。
『なにを言ってやがんだ。いつもはこいつのせいで勝手ができないが、俺様はしゃべるのが大好きなんだぞ。それにおまえとも話してみたいと思っていたところだ。都合よくこいつがしくじったおかげで、いま自由にしゃべれるってわけだな』
 刀に表情はない。けれど、童天丸が楽しそうなのは声の調子で丸わかりだった。
 少し乱暴な口調で、主である暁がこんな状態でも我関せずとしている。
「稀血ちゃん、どうかしたのか?」
 尋ねた不知火の視線が深月と童天丸のあいだを交互に動く。本当にこの声は自分にしか聞こえていないのだろう。
「……あの、暁さまの刀から、声がしていて」
「童天丸が? いま話してるってのか!?」
「そう、みたいです」
 深月は曖昧にうなずき、再度童天丸を見た。
『こいつもまだまだ未熟だよなぁ。おまえを間一髪で助けたはいいけどよ、足もとの獣に気を取られ立ち位置を変えたくらいで遅れをとるとは。俺様を使っているってのになんて醜態だ』
 一度、禾月の男の攻撃を捉えた暁がやられてしまったのは、子猫を踏みつけまいとした結果だったのだろう。童天丸は無遠慮に意見しているが、深月はさすがに聞き捨てならなかった。
「そんなふうに言わないでください。わたしがいけなかったんです。眠る前に扉の確認をしていなかったから、わたしなんかをかばったから……」
 どんな理由があろうと、自分のせいであることには変わらない。後悔したところで時間が巻き戻るわけでもないのに、昨夜の出来事を考えると自責の念にさいなまれる。
 童天丸は『ふうん』と軽い相槌を打って続けた。
『おまえは稀血なのに卑屈すぎるな。本来ならほかのやつらを屈服させるのも造作ないくせして。そら、いい情報を教えてやる。稀血の子、こいつの状態を治したくはないか?』
「どういう、意味ですか……?」
『なんだ、治したくはなかったか』
「……っ、治せるのなら、治したいです」
 強く断言する深月だが、もちろん好都合に降ってくる奇跡などない。だからこそ最初の問いを訝しげに返したのに、童天丸はまるでなにか手があるのだと言いたげな口ぶりだった。
「本当に、治す方法が?」
『あるぞ』
 童天丸はもったいぶらずにその方法を告げた。
『傷口におまえの唾液をつければいい。驚異的な回復力は禾月がもつ特性だが、稀血のおまえは妖力を使って治癒と浄化を他者にほどこせるってわけだ。どうだ、すごいだろ?』
「……本当にそんなことが?」
 できると言われても、はいそうですかと素直に受け入れられない。稀血である自分の唾液で怪我が治るなんて、常識から逸脱している。
「よ、妖力が、わたしにあるんですか? それで本当に治るだなんて……」
『俺様の話が信じられないってか? 禾月の血が入ってるんだ、妖力くらいある。人間の枠組みで考えたら非常識なんだろうが、稀血のおまえには関係ないだろ』
「……っ」
 まるで自分はもう人間じゃないと告げられている気分だった。
 稀血だと教えられてはいても、だからといって深月は自分を人間ではないと思ったことはない。それなのに童天丸はたやすく曖昧だった境目に亀裂を入れてくる。
 この刀にとって深月は稀血であり、もはや人間としては見ていないのだ。
(だけど本当に、怪我を治せるのなら……)
 いまは思い煩うより、暁の怪我をどうにかしたい。
 その想いが強くあった。
「……傷口に唾液って、つまり、舐めるということですか」
『いまにも死にそうってなら舐めてもいいが、舌で湿らせた口をつけるのでも効くだろ。要は唾液が触れりゃいいって話だよ。それを介しておまえの妖力がこいつの体に浸透し、浄化されて傷も塞がる』
「わかりました……」
 深月は気持ちを固めるようにまぶたを閉じ、くるりと振り返った。蚊帳の外になっていた不知火と羽鳥に、これまでのやりとりの説明をするために。
「稀血ちゃん、童天丸の声が本当に聞こえているんだな? いったいなにを話していたんだ?」
 童天丸を一瞥し、不知火は個人的な興味を抑えながら詳細を求めた。
「……わたしには、治癒と浄化の力があるといわれました。暁さまの怪我も、残った毒もそれで治せると」
「おいおい、なんだって!?」
「治癒に浄化……そんな力が稀血にあるとは記録にもありませんでしたが」
 不知火同様に初めて聞く事実だったようで、羽鳥は眉根を寄せていた。
「それは本当に事実なのか、稀血ちゃん。童天丸は稀血について詳しくは知らなかったと、だいぶ前にアキが言っていたんだが……」
『俺様は知っているかと聞かれたから、さあどうだろうなと返しただけだ。知らないなんてひと言も口にしてない』
 童天丸は屁理屈をこねている。
 ありのままを不知火に伝えると、やはり「なんつー屁理屈だ、下衆妖刀!」と叫んだ。羽鳥も同意するように「これだからあやかしは油断できないんですよ!」と怒っている。
『ふん、なんとでも言え。そもそもあのとき知りたがっていたのは、稀血は稀血でも、こいつの仇のことだろ。どちらにせよ知らないってんだ』
「……仇?」
 深月がぴくりと反応する。
 声は思いのほか小さく、ほとんど口の中で発せられたため不知火と羽鳥には聞かれなかったが、童天丸はくつくつと笑っていた。
『その反応、おまえ知らなかったのか。ははは、傑作だ。まさか仇と同じ稀血に治されたって知ったら、こいつどんな顔すっかな』
 心臓の動きが早くなる。
 どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。深月には区別がつかないけれど、とんでもない事情を耳にしたのは間違いない。
(稀血が、暁さまの仇……?)
 思いもしない雑念が深月を取り巻いていく。しかしそんなこととは露ほどにも思っていない不知火が、気を取り直した様子で考え込む。
「にしても治癒能力か。それはどれほどのもんなのか、代わりに寿命を失うってからくりじゃないよな」
『そんなわけあるか阿呆め』
「あ……刀は、それはないと言っています」
「……代償もなくできるってのか」
 不知火は判断を決めかねている。
 妖刀――あやかしものの言葉を本当に鵜呑みにしていいのか。医者としては患者の体になにが起こるかわからないのだから当然の迷いだろう。
 だが、こうしているうちにも暁の押し殺したうめきが聞こえてくる。
『君が無事でよかった』
 その言葉がふいに頭をよぎり、深月は不知火に向き直った。
「わたしにやらせてはいただけないでしょうか」
「うん?」
「なにか手立てがあるなら、試したいです。暁さまは、わたしを助けてくれました。方法があるかもしれないのに苦しませたままでいるのは……嫌、です」
 自分の意見を言葉にするのはとても難しい。
 少し前の自分からは考えられない発言で、生意気と捉えられるかもしれない。だけど、取り消すつもりは毛頭なかった。
(稀血が仇。詳しくはわからないけれど、いまは全部あと回し。暁さまの命が先よ)
 生死の境をさまよっている人を前にして、誠実に向き合う以外の思考はいったんしまわなければ。深月は動揺を振り切り、暁の怪我が治ることだけを考える。
 半ば押し切る形で許可を得た深月は、暁に近づくと寝台に身を乗り出した。
(唇を湿らせて、傷口に触れる……)
 彼の寝巻きの襟に触れ、ゆっくりとめくり上げる。血のにじんだ包帯があらわになり、深月は冷静に努めながらその包帯をずらして傷口を確認した。
 それから短く呼吸を整えると、唇を傷に這わせた。
『ああ? そうか、忘れていた。世話がやけるな』
 童天丸がなにか言っていた気がしたが、まったく耳には入らなかった。しかしこのときの深月には、体をなにかがすり抜けていくような不思議な感覚があった。
 ぎゅっと目をつむって数秒間、そのままの状態で待つ。
 深月の髪の毛先が暁の体に流れると、その些細な感触に肩が小さく跳ねた。
「……とんでもないな、稀血の力は」
 不知火の唖然とした声がする。結果は火を見るよりもあきらかだった。
 唇を離して立ち上がり確認すると、童天丸が言ったとおり暁の怪我の傷は綺麗に塞がっていた。呼吸も安定しはじめ、表情も幾分穏やかになってきている。
(……本当、だったんだ)
 口もとに血がついているからと、不知火が渡してくれた手ぬぐいで唇を拭きながら深月はぼんやりと思う。なんだかどっと力が抜けたような疲労感があった。
「あ……っ」
「ちょっと!」
 一瞬、足もとがおぼつかなくなり倒れそうになったところを、背後に控えていた羽鳥が支えてくれた。
 治癒の力を目のあたりにした羽鳥は、なんとも言いがたい表情をしながら深月に言葉をかける。
「稀血に治癒と浄化の力があるというのは、本当だったみたいですね。ところで童天丸はまだなにか話していますか」
「いえ、じつはさっきから静かで……」
「そうですか。おそらく朱凰隊長が持ち直したので制御がかかったのでしょう」
「世の中なにが起きるかわからんな。まさかこの目で神の御業のような光景を見られるとは。恐れ入ったぜ」
 不知火は起こった奇跡に肝を潰していたが、暁の容態を確認すると肩の力を抜いた。
「……暁さまは、どうですか」
「呼吸も脈も問題ない。とはいっても出血量は変わらない、しばらくは体がふらつくだろうし、絶対安静だ」
 それでも命に別条はないようで、深月はほっと息を吐いた。
「で、あんたのほうはどうだ」
「わたし、ですか?」
「いまも足もとがふらついていただろ? おそらくそれは妖力が体から抜けた影響だ。あまり激しく動かないほうがいい」
「……そうですか、わかりました」
 暁の怪我が治ったのは、心の底からよかったと思う。その気持ちに偽りはない。だけど……。
(わたしには……妖力が、あるのね)
 複雑な心地だった。発揮された治癒の力は、裏を返すと自分がただの人間ではないことを決定づけるものになってしまったから。
 一難去ったいまならばと、暁を流し見たあとに深月はそっとふたりを窺う。
「……あの。童天丸が言っていました。稀血は、暁さまの仇であると」
 そう言った瞬間、ふたりの顔色が変わった。特に羽鳥はわかりやすく、童天丸のほうに鋭い視線を向けている。
「暁さまは、稀血に誰かを殺されたのですか?」
「……そうだな」
「不知火さん、言うんですか?」
 半ばあきらめたように肯定の意を見せた不知火の横で、羽鳥が難色を示した。
「その下衆妖刀が稀血は仇だって言っちまったんだ。もうほとんど知ったも同然だろ」
「それでは、本当に誰かを亡くして……?」
 出会い頭のひどく冷酷な面差しと、ここで過ごすようになり始めて感じた些細な気遣い。どうしてだろうと不思議で、暁のことを知りたいと思った。軍人としてではなく、生真面目で真っすぐな言葉をかけてくれる、この人自身を。
 そうして、不知火が続ける。
「家族、親しかった存在。殺されたのは、大切な人間すべて」
「すべて……」
 深月の肩に見えない重りがのしかかる。正体不明のそれは深月の内側に流れる血を思い出させ、動揺を誘った。
「だからいまも、アキは仇を探してる」
 すとん、と曖昧にあったものがようやく腑に落ちた。
『ようやく、見つけた』
『この日が来るのを、待っていた』
 月に照らされた暁の冷ややかな様相と、焦がれつぶやかれた言葉。
 どうしてあんなことを言ったのか。その言葉の奥にあった根本的な部分は不鮮明なままだった。
 それが、やっと知れた。
 彼はずっと、稀血を探していた。
 そして唯一の手がかりになるかもしれない、同じ稀血の存在を見つけた。
 仇と同じ自分を前にしながら、あのときの彼は、これまでの彼は、どんな気持ちでいたのだろう。