ひと月後、深月は祝言の日を迎えた。
場所は一ノ宮家の別邸。一ノ宮家の使用人によって白無垢に身を包んだ深月は、婚儀の時刻まで別室で待機をしていた。
自分には不相応の豪華な衣装と施しが、重量以上に肩にのしかかってくる。
落ちついて座ることもできず所在なく立っていれば、背後から声がした。
「あら、見てくれだけは立派ね」
「……麗子さま」
振り返った先に見えたのは、珍しく機嫌のいい麗子の顔。
深月は口をつぐんだまま畳に目を落とした。
「あんたの顔を見に来てあげたのよ、深月。一ノ宮に嫁いだら、こうしてゆっくり話す機会もないからね」
そう言いながら、麗子は深月と相対する。
「もうすぐ祝言が始まるわね。ねえ、いまどんな気持ち?」
「…………」
「そう、言葉にできないほどうれしいのね」
ころんと鈴を転がすような笑い声。
初めから深月の言葉など待っていない麗子は、好き勝手に口を動かす。
「どうもありがとう、あたしの身代わりさん」
「……っ」
「あんな女性関係にだらしないおじさんに嫁ぐなんて、絶対に嫌だったもの」
ここに来てまで、まざまざと思い知らされる。気に入らなければ嫌だと突っぱねて選べる麗子と自分との差を。
なにも言葉が出てこないことに、もう一種の諦めすらあった。
そもそも奉公人と雇い主の娘という関係であるため、気軽に話してはいけなかったし、もとより深月を目の敵にしていた麗子と対等に話すなんてできなかった。
その理由も、けっきょくわからずじまいになりそうだが。
(……この嫌味も、今日まで)
いまは祝言だけに意識を集中させよう。
そう思って目線をあげた深月は、無言のまま麗子を見据えた。
普段はうつむくことを強いられ、ろくに顔を合わせられずにいたけれど、これでお別れなら、という気持ちで前を向く。
「深月……」
麗子の眉が、ぴくりと反応する。
諦めと決意の表れでの行動が、思いのほか麗子には気丈なさまに見えたのかもしれない。麗子はキッと目じりを吊りあげ、深月の懐に掴みかかってきた。
「あんたの、その顔が気に入らなかったって言っているのよ!」
衝撃を受け、末広が畳に落ちていく。慣れない正装に足をとられ、深月は滑るように背中から転倒してしまった。
「……っ」
小さな痛みに体が跳ねる。なんとか片手をついて体を支えたが、後ろに置かれた化粧棚の角に右腕を擦ってしまったらしい。
(いけない、打掛に血が!)
痛む箇所に目をやり、深月は自分の怪我はそっちのけで素早く手ぬぐいを取り出した。右腕から滲んだ血が、体を覆う羽織の袖に触れそうになっていたからだ。
「……ふん、せいぜい可愛がってもらえばいいわ」
汚してしまっては大変だと焦る深月の姿を見下ろし、麗子は興ざめした様子で部屋から出ていった。
嵐が去った心地で、深月は短く呼吸を繰り返す。
そのすぐあとに入れ替わりで一ノ宮家の使用人がやってきた。
「ご移動ください」
祝言の刻を報せる声は、あまりにも素っ気なかった。
気の利いた祝いの言葉も、めでたい空気も一切ない。
それだけで、結婚相手の誠太郎が使用人からどんな心象を抱かれているのか予想がつく。この婚儀がそれほど重要視されていないということも。
「はい、ただいま」
深月は怪我をした右腕に手ぬぐいを巻きつけ、腰をあげた。
(……目まぐるしくて、虚しい)
落とした末広を挿し直し、重い裾を引きずって、悪評だらけな男のもとに向かう。
手首の組紐をそっと撫で、歩いていく。
心に燻る憂いのすべてを、いつものように押し殺しながら。
腕に小さな傷を作ったものの、深月は無事に祝言を終える。
大々的でなければ参席者はごく少数の、つつましやかなものだった。
儀式自体も拍子抜けするほど簡易的なものであり、隣に座る誠太郎ともろくに会話がないまま、深月は別邸の離れに通された。
人気のない板の間を進み、指定された部屋の襖を開ける。
薄暗い照明や敷かれた布団を目前にして、深月は呆然と立ち尽くしてしまった。
(そ、そう……だよね)
日はとおに沈んでいる。
肌襦袢だけになった自分がこれからなにをするのかを考えて、未知の行為に足がすくみそうになった。
(あの人が、わたしの旦那さま)
祝言ではじめて対面した誠太郎の姿を思い出す。
歳は四十代後半、上背は深月より少し高いくらい。脂が浮いた肌と汗でくっついた髪が記憶に残る男性だった。
彼は麗子に一目惚れをしていたという話だが、祝言では深月を見てにこにこと上機嫌に笑っていた。麗子が相手ではないことも承知しているようだった。
こんな自分が気に入られるなど、どう考えてもあるはずがないのに、心底疑問である。
「待たせたな」
後ろの襖が開かれて誠太郎が姿を現した。湯浴みは済ませているようだが、やはり少し頬が皮脂で光っていた。
誠太郎はにやりと笑い、硬直した深月に歩み寄ってくる。
「だ、旦那さ――」
瞬間、深月の体が大きく後退した。
なにが起こったのかわからず一拍ほど思考が真っ白になったが、すぐに理解する。
布団の上に、押し倒されたのだ。
「深月……ふう、麗子も美しかったが、おまえには底知れぬ色気がある。おまえでもいいと了承して正解だったなぁ」
鼻息を荒くした誠太郎が、着物をはだけさせながらにじり寄ってくる。ようやく深月は、すでに初夜が始まっているのだと悟った。
「ひっ……」
組み敷かれ、小さく声が漏れる。
我慢しなければと唇をきつく引き結べば、誠太郎が興奮した様子でにやついた。
「いいぞ、いいぞっ。私は恥じらう女を鳴かせるのが好きで堪らんのだ」
饒舌な語りは一つも頭に入らず、深月はただ耐え忍んで息を止めた。
(動いてはだめ、逆らってはだめ、逃げてはだめ)
硬直した深月を満足そうに見下ろした誠太郎は、舌なめずりをしながら言う。
「ほらほら。観念して私に体を……」
そうして深月の右手首を、誠太郎が強く引っ張り上げた直後――、ブチッ、という音が耳に届いた。
(……え)
音がしてすぐ、胸元に降ってきたのは、深月の組紐だった。
おそらく誠太郎の指が引っかかり、切れてしまったのだろう。
「そんな……っ」
我に返り、意識がそれた深月の体から強張りが解けていく。
深月は急いで身を起こし、自由が効くもう片方の手でちぎれた組紐を掴んだ。
古いものだが、これまで一度も切れたことがなかった組紐。まさか自分の一番大切にしていたものが、いまこの状況で壊れてしまうとは思わず驚きを隠せない。
(……?)
そこで、気づく。散々聞こえていた誠太郎の声が、一切しなくなったということに。
だというのに、まだ、右手首は彼によってきつく掴まれたままだ。
深月はハッとして、急ぎ頭をさげた。
「……も、申し訳ございませんっ」
すかさず初夜を中断してしまっていたことのお詫びを告げる。
それから顔を見上げ、視界に入った誠太郎に深月は目を見張った。
「……旦那、さま?」
まず見えたのは、血走った眼に口端から伝う唾液。
誠太郎は沈黙を貫きながら、とんでもない形相で深月の腕を凝視していた。
(わ、わたしの腕になにが……あ)
手ぬぐいを巻いていた腕を確認する。
襦袢の袖がめくれあがり見えた白地の手ぬぐいには、雨粒を一つ落としたような赤が滲んでいた。
誠太郎はそこばかりを注視していたのだ。徐々に荒くなっていく息づかいは、組み敷かれたときとなにかが違う。
言いようのない嫌な予感が、深月の胸中をよぎったとき。
「……血だぁ」
不穏めいた空気が、そのひと言で確たるものになった。
「はあ、はあ、血のにおい、はあ、いいにおいだ。このにおい、そうだこの血だ、ははははは!」
突然、誠太郎は高笑いを始めた。
(どうしたというの、旦那さまの様子が……っ)
誠太郎は深月に狙いを定め、なにかを再確認するように、鼻から深く空気を吸うと――。
「はやくおまえの血をよこせ‼」
その叫びとともに、誠太郎は布団の端に置かれた護身用の短刀に手をかけ、深月に向かって容赦なく振り回した。
身の危険を感じた深月は、なんとか立ち上がり刃から逃れるように動く。しかし、そこまで広くもない室内に逃げ場はなく、あっという間に距離を詰められてしまった。
(……ああ)
足はもつれ、よろけて、倒れそうになる。ここまでかと観念した。
体勢を立て直す暇も与えず、誠太郎の短刀が深月に振り下ろされようとした、そのとき。
誰かが、後ろから力強く深月の体を抱き支えた。
「悪鬼よ、眠れ」
静寂を連れた声が頭上から降り、鼓膜を震わせる。
背中に伝わる確かな人のぬくもり。肩に添えられた大きな手は、危険から庇おうとする意思が感じられ、深月の体をさらに引き寄せた。
「がああっ!」
前を見据えると、暴れていた誠太郎の肩口に、妖しい輝きを放つ刀剣が深く突き刺さっているのが確認できる。
やがて誠太郎は魂が抜けたように膝から崩れ落ち、倒れ込んで意識を失った。
(なにが、起きたの……?)
刺された誠太郎を目のあたりにし、深月は動揺を隠しきれずその場にへたり込んでしまう。
そんな深月の前には、二十代半ばらしきひとりの青年の姿があった。
「討伐、完了」
生々しい音を立て、青年は誠太郎から刀を容赦なく引き抜く。その場で刀身を振ると、畳や壁にぴしゃりと鮮血が散った。
「……あ」
深月の唇からは、空気を含んだ短い声がこぼれる。
いまになってようやく、自分は間一髪のところを助けてもらったのだと理解した。そして全開になった襖を一瞥したあとで、視線を青年のほうに戻す。
(帝国軍の、制服……)
月明かりに照らされ佇むのは、軍服を身に纏う秀麗な青年だった。
ほのかに漂う血のかおりに、目眩がしそうになる。
ゆえに目もおかしくなってしまったのだろうか。青年の握るその刀が、なんとも不思議なことに薄ら赤い光を纏っている気がした。
「あなた、は……」
頭が混乱して、続く言葉が見つからない。誠太郎が部屋に入ってきてからいままでのことは、すべて夢なのではないか。
そう考えそうになるけれど、外から吹き込む凍てついた冷気が、ここは確かな現実なのだと教えてくれていた。
深月はもう一度その立ち姿を目に焼きつけた。
すると、青年が口を開く。
「君は……」
流れ込んだ夜風が、すっくと立つ青年の胡桃染の髪をなびかせた。目深にかぶった軍帽の奥からは、満月を彷彿とさせる淡黄の瞳が覗いている。
「なに!?」
青年の視線が、一瞬だけ深月から自身の刀身に移った。
確かめるように動いたまなざしが深月のほうへ戻ったとき、激しく意表を突かれた表情に変わっていた。驚愕と渇望が一緒くたに表れたような顔で深月に見入っている。
「……ようやく、見つけた」
凛とした声が耳朶を打つ。
「この日がくるのを、待っていた。ずっと探していた、君を」
まるで戯曲の台詞を朗読されているかのようだった。
羅列だけを耳にするなら、愛や恋を語る大衆小説の一文にも思える。
だが、そんなに甘く呑気なものとは違う。この瞬間にも刀の切っ先は、深月の喉元に寸分の狂いなく向けられていたのだから。
(この人は、何者なの)
助けられたのだと思っていた。それなのに今度はこの青年が深月に刃を突きつけている。
なりを潜めていた焦りと恐怖の感情が、またも鎌首をもたげた。
「君は人間か、それとも……禾月か」
それがなにを意味するのかわからない。はじめて聞く言葉だった。
「か、げつ……」
つぶやいた自分の声が段々と遠のいて、体の自由が利かなくなる。
これまでのことが、すべて夢ならどんなによかっただろう。
薄れる意識で誰かの体温を感じながら、深月はそう願わずにはいられなかった。