見知らぬ一室。暗がりの中、石油ランプの灯火が揺れている。
 深月は柔らかなソファに深く体を沈めており、こちらを覗く影に気づいて意識を取り戻した。
「ああ、起きたんだね、深月」
「あなた、は……」
 そこにいたのは、街中で出くわした蒼眼の青年だった。以前のように帽子は被っておらず、艶やかな白銀の髪が彼の動きに合わせて揺れている。
「手荒な真似をしてごめんね。ああでもしないと暁くんから君を離すのは難しかったから」
「誰、ですか……どうして、わたしを……」
 深月はかすかに痛む首裏に手をやりながら尋ね、相手は柔らかく笑んで答えた。
「僕は、白夜乃蒼(びゃくやのあ)。禾月の現首領だよ」
「禾月の首領……あなたが?」
「ふふ、そうだ。君をここに連れてきたのは、ある人から頼まれたというのもあるけど、僕自身が興味あってね。稀血である、君に」
 獲物を捕獲する獣の如く見据えた瞳が、うっすらと淡い輝きをまとう。
 金縛りのように手足の自由がきかなくなった深月は、されるがまま乃蒼に下あごをすくわれた。
「稀血というのはね、無限の可能性を秘めているんだ。通常の禾月以上の潜在能力を持ち、人間も禾月も屈服させ支配できる。禾月寄りの肉体かと思えば、流れる血は人間とは比べ物にならないほど芳しく、甘美」
 けれど、と一拍置き、乃蒼は続ける。
「稀血の生存は、本来不可能とされていた。たとえ生まれてきても寿命は短く、生まれてすぐに息絶えてしまう。なぜだと思う?」
「…………」
 深月の体がさらにこわばっていく。
 寿命が短いというのも、生きるのが困難だというのも、初めて耳にする事実ばかりだったからだ。
「それはね、お互いの本能が邪魔をし合うからだよ。人間の本能、禾月の本能。体内の中で衝突し合い、本能が混じり合う際には暴走を起こしてしまう。そして、周囲を巻き込みながら死に至る」
 それが稀血だ、とはっきりと告げられ、深月は恐ろしくなった。
「……あの人も親なんだね。息子にその役目を与えていたのに、やっぱり心配だったんだ。それで僕に回ってきた」
「なんの話、ですか」
 脈略のない発言に不安がよぎる。
 乃蒼は「うーん」と小首をひねり、そして深月をここに連れてきた本来の目的を明かした。
「いまから君に血を飲ませる。覚醒したとき暴走を起こせば、君には死んでもらわないといけない」
「えっ!?」
 とんでもない発言を軽い調子で言われ、深月は短く声をあげた。
「今夜は満月。一番血が昂揚する日だ。ねえ、君も感じていたんじゃない? 喉が干上がる感覚、どこからか流れ込んでくる蜜のように甘い香りを」
「ど、どうしてそれを」
「その反応を見れば十分だ。簡単な話、それが禾月の本能だからだよ」
 以降は言葉にする暇もなかった。
 乃蒼は背広の胸ポケットから赤い液体が入る小瓶を取り出す。ふたを開け、目にも留まらぬ早さで深月の口に流し込んだ。
「……ん、う……あっ、ああ……!」
 喉を潤す不思議な蜜。体温は沸騰するように熱くなり、頭のてっぺんから足の爪先まで、まさぐられるような感覚が貫いた。
「やだっ、なに、これ……嫌ああっ!!」
 拒絶の叫びがこだまする。
 深月は、自分の意思ではない別のなにかに支配されていった。
 
 ***
 
 いなくなった深月を捜すべく、暁は華明館の廊下を奔走していた。
(なにをやっていたんだ俺は)
 一瞬の出来事だった。暗闇の中で不意を突かれ、深月の腕から手を離してしまった。
 深月は何者かによって連れ去られ、残された暁はわずかな気配をたどって館の中を捜索していたのである。
 そして三階に移動したとき。
 一番奥の部屋から感じる妖力に暁は眉をひそめた。
(あの部屋か)
 この気配には覚えがある。狂人化し暴走した禾月と対峙したときの空気感と似ているのだ。
 しかし、これは桁違いである。
「失礼する!」
 扉を開けた暁は言葉を失った。
 室内にはふたり。ひとりは扉側に立ち、ひとりは窓際でうずくまっている。
 月明かりに照らされ呻吟する者が深月だと気づき、暁はすぐさま駆け寄ろうと動く。
 だが、青年によって制止された。
「人間の君が近づけばひとたまりもない。周りを見てみなよ、これはあの子が一瞬でやったことだ」
 青年の言葉に目を配る。
 壁際には家具や調度品が散乱しており、台風でも通ったような有りさまである。
「……白夜家当主。街で彼女に接触したのも貴殿だな」
「君のお父上に頼まれてね、暁くん。この小瓶、心あたりあるよね?」
 白夜家当主、現禾月の首領である乃蒼は、空になった小瓶を掲げた。
「……!」
 それは深月を特命部隊に置くと決めた際に、本部の参謀総長から届いていたものと同じだった。
 血を飲ませれば無理やりにでも覚醒を促せるかもしれないというのは、最初からわかっていた。
 しかしそれは強制的に自我を手放す行為であり、小瓶を使う日があるなら深月に見切りをつけたとき、またはいつまで経っても有益な情報を得られなかったときだと考えていた。
 深月は治癒の力を発揮してみせた。それは軍にとって有益な情報になり得るだろう。
 それに彼女は、稀血という未知の存在である自分に困惑していた。暁の大切な者たちを奪った殺戮者とは真逆の、悲しいくらいに自分の意思を封じられた人間だった。
 禾月の特性も出ず、暴走や昂揚といった覚醒、狂人化する予兆もなかった。
 だから、暁は渡された小瓶を使えずにいた。使う気もなかった。
 その結果が、これである。
 参謀総長――養父は、血を飲ませることで無理やり本能を引き出し、暴走する可能性がある深月の対処を禾月の首領に委ねたのだ。
「小瓶の血をすべて飲ませたんだな」
「ああ。そうしたらすぐに暴走してね。もともと無自覚だったけど求血衝動もあったようだし、これは手がつけられ――」
「退け」
 暁は乃蒼の横をすり抜け、深月のそばへ向かう。
「いやいや、なにしてるの。その子は暴走しているんだよ。普通の禾月が狂人化するのとはわけが違う。ああなったら、もう正気には――」
「誰が暴走しているだと?」
 暁は振り返り、乃蒼を一瞥した。
「暴走しているというなら、すでに俺は襲いかかられてもおかしくない」
 そう言った暁は、ゆっくりと深月に近づいていく。
「彼女はいままさに、両者の狭間でもがいている。身を削って理性を保とうとしている。必死に抗っているんだ」
 覚醒の影響だろうか。灰色に近い黒髪は星の粒を取り込んだように煌めき、鈍色の瞳が青紫に変わって淡く発光している。
 その姿は狂おしくも、寒さに耐え抜く花のような儚い美しさがあった。
「あ、うう……あああっ」
 肩を上下にしながら呼吸を繰り返し、床に爪を立てるさまは、怯えた猫のようにも見える。
「深月」
 その名を呼ぶ。自我を失いかけた瞳に、わずかな反応が浮かんだ。