よくわからない事態は、立て続けに起こるものだ。
「わ、わたしには不相応な場所です……っ」
深月が夜会への出席を聞かされたのは、暁と中央区画に出かけた日から数日が過ぎた頃だった。
しかし、告げた暁本人も納得がいっていない様子で、深月は決して彼の意向ではないのだと悟った。
「実は、君をある人物に会わせろという指令があった」
(指令……?)
仰々しい単語に、深月は聞き返した。
「……ひとつ、お聞かせください。それは、誰のご指示なのですか」
部隊長である暁を御せる人間など限られてくる。
神妙な面持ちで視線を伏せた暁は、いまでにないくらい不安定な声音でつぶやいた。
「帝国軍参謀総長。俺の養父だ」
こうして深月は、意図が掴めないまま夜会へ参加することになった。
開催場所である華明館には馬車で向かい、正装服を着こなした暁も同乗していた。
彼の装いは、真夜中の色のような漆黒に近い暗青の上着と中着、共地の下穿き。同色の拝絹はなめらかな光沢があり、胸もとを飾る留め具や落ち着いた黒無地の靴など、全体的に品がありよく似合っていた。
整髪料が塗られた胡桃染の髪は、額から横にふわりと流されている。毛流れの些細な変化だというのに、それだけで特別感が増し、美丈夫に拍車がかかっていた。
(……本当に夜会へ行くだなんて)
暁の言葉が嘘だとは思わなかったが、正直いまも信じられない。
肌にまとわりつく薄藍色の洋装に息が詰まる。髪も化粧も『腕によりをかけなければ!』と張り切った朋代に整えられ、格好だけでいえば深月は西洋人となんら変わりなかった。
暁の養父――参謀総長は、いったい深月を誰に会わせたがっているのだろう。
まったく検討がつかない。
「……すまない」
小刻みに揺れる馬車の中、謝罪を述べた暁を凝視する。
「なぜ、暁さまが謝るのですか?」
夜会への出席が暁の意向ではないとわかっている。そしてうまく隠してはいるが、深月と同様に戸惑っているのは彼も同じだった。
参謀総長に不信感を持っていたとしても、暁にそれを向けるのはお門違いだ。
「君が部隊に身を置いてひと月近くになる。禾月の衝動もなく、人間性も鑑みて近いうちに軍から解放できる道もあると踏んではいたんだが」
(わたしはあなたの仇と同じ稀血なのに、そんなことを考えてくれていたの……?)
暁の思いを知り、深月の目がみるみると見開かれる。
危険性がなくても、治癒が扱えて、稀血の手がかりとなる深月を軍が手放すと考えるだろうか。
やはり彼は、最初から無慈悲な人間ではなかった。
だからこそ、心地のよさを感じてしまう。そして解放された自分を想像して、嬉しさよりも暁と離れることに一抹の寂しさが募っている。
(……わたし、いつの間にか暁さまをこんなにも信頼していたのね)
くすぶっていた感情の正体をようやく察した深月だが、それでもまだ腑に落ちない部分がある。それがまだ深月にはわからなかった。
「これまで暁さまは十分なほど誠実に接してくださいました。契約や花嫁候補だと聞いて、初めはもっと牢獄のような生活を想像していたので、とても感謝しているんです」
奉公の末に沈んでいた自分の感情について気づきを与えてくれたのも、彼である。だからきっとこの契約は、無駄ではなかった。
「君は……」
そうして浮かべた深月の表情に、暁は魅入ったように瞳を揺らした。
馬車が華明館に到着し、暁が差し出した手に自分の手を乗せ、深月は不慣れな動きで降りる。スカートの裾をたくし上げた瞬間、ふわりと花が咲くようにフリルが揺れた。
「…………」
「どうした?」
暁はふいに無言になった深月に尋ねる。
「いえ……こんなに綺麗な洋装なので、わたしで釣り合いがとれているのかが心配で」
この美しいドレスを含め、誰が見ても惚けるほどの夜会仕様となった暁に引け目を感じてしまう。彼の隣に立っても恥をかかせないでいられるだろうか。
朋代の準備は完璧だと思っているので、要するに深月の自信の問題だった。
「本当に、自覚がないのか……?」
自分のドレス姿を見下ろす深月に、暁は驚き入る。そして、掌に乗せた深月の手を引き、「君は綺麗だ」と短く答えた。
一拍遅れて心臓が大きく鳴り、深月はどぎまぎしながら歩みを進める。
ふと夜空から射し込む月の光に、動きを止めた。
(今夜は、満月なのね)
満月になると、悪鬼や自我の弱い禾月が理性を失いやすくなる。暁に負傷を負わせた禾月は、偃月であってもあの調子だった。
それ以上の光が今夜は地上に降り注ぐ。ゆえに、胸騒ぎがするのだろうか。
「……大丈夫か?」
「はい」
我に返った深月は、暁とともに華明館の扉をくぐる。
(緊張、しているみたい。当たり前よね、まさかわたしがこんな場所に来るなんて)
きっとそのせいだ。無性に喉が渇いて、仕方がないのは。
目の前に広がる絢爛豪華な光景に、深月は圧倒されていた。
天井に吊るされた大きなシャンデリア、音色を奏でる楽器隊、洗礼された身のこなしの給仕に、輝く銀色のカトラリー。
煌びやかな正装に袖を通す招待客らは、楽しげな様子で社交ダンスに興じている。
「あら、あちらは……朱凰暁さまでは?」
「あの若さで特命部隊隊長を務めるお方だわ」
「噂は耳にしていましたが、なんて麗しいお姿なの……」
「ところで、隣にいらっしゃる素敵な女性はどこの名家のご令嬢かしら」
大広間に足を踏み入れた深月と暁は、一斉に好奇の視線にさらされた。
暁の姿に頬を染める淑女がいる一方で、誰もが深月の存在を気にしている。
「……そういうことか」
大広間に入った瞬間、横に立つ暁の顔色が険しいものに変化した。とたんに腰を引き寄せられ、互いの息づかいがわかるほどに体が密着する。
「この夜会は、半数以上が禾月だ」
断言する暁に耳を疑った。
普通の人間と変わらない姿をしている参加者。深月には見分けがつかない。
有名な実業家や貿易商、由緒正しい旧華族や、新進気鋭の新華族など。顔ぶれはさまざまだった。
「禾月が、ここまで集うというのは……そうか、主催は――」
確か、主催者は不明と聞いていた。けれど暁は誰なのかを突き止めたらしく、周囲をくまなく警戒している。
「ここは禾月が多い。少し移動しよう」
一度、人が多い大広間から距離を取り、深月は赤々とした仕切りカーテンが吊るされた窓際のほうに近づいた。
「暁さま、ここの主催者がわかったのですか?」
「ああ、おそらくは――」
「深、月?」
暁がその名を言おうとしたところで、背後の丸テーブルに立って雑談していた女性が話しかけてきた。
振り返ると、豪奢な洋装を身にまとう麗子がそこにいた。
「どうして深月がここに……!?」
「麗子さん、こちらのお嬢さまはお知り合いですか?」
「え、ああ……」
敵意の炎を瞳に燃やしていた麗子だが、男性陣と談笑していたため、猫を被ったような微笑を作っていた。
「うちの女中でしたの。噂では縁談が白紙になって身を売ったと聞いていたのですけど」
麗子は扇子で顔半分を覆いながらころころと笑う。
深月の姿に気を取られていた男たちだが、その説明を聞くとまなざしがほんのり下賤なものに変わる。
「身売りとはかわいそうに」
「そのような方も華明館の敷居をまたげるとは驚きです」
「いやはや、それにしても身を売った女性を夜会のパートナーにする奇特な方と、ぜひお会いしたいものですね」
男たちの言葉の端々から嘲弄する意思が感じられる。
麗子と彼らの興味が、深月の後ろに向けられた。
どうやら仕切りカーテンが垂れていたせいで、誰も暁の顔を確認できていなかったらしい。こつこつと革靴の音を響かせながら、暁はカーテンの影から出てくる。
「誰のパートナーが、身を売った女性だと?」
麗子はその圧倒的な佇まいにごくりと息を呑む。
とたんに男たちの反応ががらりと変わった。
「え……朱凰暁さま……?」
「わたしをご存知でしたか」
暁はよそ行きの対応をしながら男たちを順に確認する。
「す、朱凰家……参謀総長のご子息です、よね?」
「ええ。もしや、軍関係者でしたか。よければお名前を」
暁が唇に薄い笑みをたたえると、男性陣の顔がいっせいに引きつった。
「あはは、そ、そんな畏れ多いです! 麗子さん、僕は急用を思い出したのでこれで」
「わたしも!」
「僕もです!」
暁の指摘は図星だったようだ。男たちは蜘蛛の子を散らすようその場からいなくなり、ぽかんと口を開けた麗子だけが残った。
けれどすぐに猫撫で声で暁に近づき、どんと深月の肩を押しのける。
「朱凰暁さま……お噂はかねがね。特命部隊隊長として帝都の治安維持に貢献する素晴らしい人だと。それなのに、なぜあなたのような方がこの下劣な子と一緒にいるんですか? 知っていますか、この子はうちの父が借金の肩代わりをしたにもかかわらず、父が用意した縁談を白紙にさせ実家に泥を塗った、恩を仇で返すような子なんですよ」
麗子は嬉々として深月を貶める言葉を並べる。
「……不愉快極まりないな」
そんな戯言に暁が相手をするわけもなく、彼は深月の肩を引き寄せた。
「俺の花嫁を侮辱することは許さない」
「暁さま……」
驚愕した深月の消え入りそうな声がその場に溶けて消えていく。
胸が震え、全身が痺れるような心地がした。顔を険しくゆがめた暁からは、物静かな振る舞いの中に確かな怒りが感じられる。
「……、……は、なに? ええ? はな、よめ?」
あまりの仰天に声が出せない麗子を置き去りにし、暁は深月をこの場から連れ出した。
「すまない、候補だった。言い忘れた」
放心したように彼を見つめる深月に、暁は気まずそうにした。照れ隠しなのか、肩を抱いて歩みを進める深月の顔をかたくなに見ない。
「君がうつむく必要はないからな」
麗子に心ない言葉を浴びせられ、また落ち込んでいると心配してくれたのだろうか。
暁は自分の大胆発言に動揺している。だからきっと、気づいていないのだろう。うつむいてなんかいない、深月は彼を見上げているのだから。
(わたしは、何度この優しい手に救われたんだろう)
肩に伝わるぬくもりを感じながら、深月は密かに思うのだった。
ふたりは大広間のほうへ戻ってきた。
麗子のそばにいるよりはいいが、ワルツを嗜む男女によって広間は先ほどよりも人口密度が高くなっている。
(……っ、どうしてこんなときに、動悸が)
華明館の扉をくぐったときよりもあきらかに強くなっていく渇求。心音も激しく刻まれていく。全身を脈打つ感覚が気持ち悪かった。
麗子を前にした緊張感が遅れて出てしまったのだろうか。
それでも周囲に醜態は見せられないと、深月は気取られずに背筋を伸ばして優雅に佇んだ。
異変が起こったのは、弦楽器の音が消える刹那のこと。
「きゃあああ!」
前触れもなく大広間の照明がすべて落ち、辺りは暗闇に包まれた。
突然の事態に騒ぎはどんどん大きくなり、入口めがけて人が押し寄せていく。
その波に揉まれて深月はよろけてしまうが、力強く暁が腕を掴んでくれた。
「俺はここにいる」
「はい」
安心したときだった。
「おいで、君を待っていたんだよ」
そのささやきは、深月に向けられる。
どこかで聞いた青年の声だった。
「暁さっ――」
「強引で申し訳ないけど、僕と一緒に来てくれる?」
最悪の状況が背後に迫っていると予感したとき、深月の首裏に冷たい手が下ろされる。
自分の意思に反して体の力が抜けていくのを感じながら、深月の瞳は重く閉じられていった。