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 昼頃、深月は部屋の椅子に腰かけ、窓外の景色を眺めていた。
 膝の上には子猫が寝息を立てて眠っている。その柔らかい毛並みを撫でながら、深月はぼんやりと昨日のことを思い出していた。
(暁さまの大切な人たちが、稀血に殺されていただなんて)
 自分以外にも稀血がいるのだという驚きと、次にどんな顔をして暁に会えばいいのかという悩みが両方ともやってくる。
(……怖い)
 一昨日の夜に暴れた禾月のように、血を求めてしまう日が来るのだろうか。暁の大切な人を殺した稀血のように、誰かに手をかけてしまう日が来るのだろうか。
 どれもまったくない話じゃない。
 深月は体の中に漂っているという妖力を使って、暁の怪我を治癒した。妖力があるのなら、いつ禾月の特性が色濃く出たとしても不思議ではないのだ。
「失礼します」
 そのとき、部屋に羽鳥が入ってきた。
 昼食の時間にはまだ早い。
 暁が全快するまで執務室には行けないので、深月は日中を部屋で過ごしている。食事も部屋でとるようになり、朋代か羽鳥が運んでくれることになっていた。
 羽鳥の入室に、最初は昼食を持ってきてくれたのかと深月は思ったけれど、その手には盆がない。
「どうしましたか、まだ体調がすぐれませんか?」
 羽鳥はうなだれた様子の深月を目にすると、少し心配したように近寄ってくる。
「あ、いえ。ちょっと考え事をしていただけで……」
 そう話すと、羽鳥はほっと息をつく。
 暁を治癒したあと、妖力が抜けた影響でなかなか疲労感が取れなかった。
 ひと晩眠ってやっと疲れがとれてきたが、暁の部屋から自分の部屋に戻るまでの短い距離でも、羽鳥に補助してもらわないと歩けないほどだった。
 不知火が言うには、反動が来たのではという話である。
 要するに体の使っていなかった部位を酷使するとだるくなるように、これまで妖力を使ったことがない深月にも同じような症状が起こっているのかもしれない、という推測だった。
 多少の発熱もあったのだが、こちらも眠って起きるとすっかり下がっており、深月も反動の収まりを感じていた。
「体はもう大丈夫です。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「いえ……あの、こちらをお持ちしました」
 羽鳥はいそいそと深月の前に小冊子を差し出した。
 表紙に【第五章】と記されたそれに、深月は目を見開く。
「朱凰隊長からです。先ほど目を覚まされて、あなたが部屋にいるのなら、こちらを渡してほしいと」
「暁さま、お目覚めになったのですね……本当によかった」
 容態は安定していても意識は戻らなかったので心配していたけれど、目が覚めたのならひと安心である。
「こちらも、ありがとうございます。よければ、暁さまにもお伝えください」
 暁の気遣いに戸惑いを覚えながら、深月は小冊子を受け取った。
 暁と稀血の因縁を知ってしまったからか、落ち着いて羽鳥と顔を合わせるのもなんだか気まずい。
 彼が初対面から向けてきた敵意の理由も、暁の事情を知っていたからこそのものだったのだろう。違う稀血が起こした問題とはいえ、彼が警戒を強めるのも納得である。
(羽鳥さまが信じられないのも当然よ。わたしだって、自分自身を信じきれていないもの……)
 手にした小冊子にぎゅっと力を込める。
 黙思する深月に、羽鳥はためらいながら言った。
「僕は、あやかし全般が大嫌いです。卑劣で、狂暴で、罪のない人々を傷つけるから。いままでの僕にとって稀血は尊敬してやまない人の憎き仇でした。でも、あなたのような人もいるのだと初めて知った。隊長の怪我を治してくださってありがとうございます」
「だけど、もともとはわたしが……」
「そうだとしても、ご自分のことは顧みず行動を起こしてくださったじゃないですか。あんなにふらふらしてまで。だから、すみませんでした」
 羽鳥の謝罪に耳を疑った。角が取れたように丁寧な物腰になった彼に、深月は目をぱちぱちさせる。
「稀血だからといってひとくくりにするのは浅はかでした。これからは自分で見極めますので、よろしくお願いします」
 羽鳥は深くお辞儀をすると、そのまま部屋を出ていった。
 残された深月は、小冊子を胸に抱えてうつむく。
「わたしもどうなるのか、わかりません……」
 
 あの夜の禾月のように、自分がこの先々で誰かを傷つけてしまうかもしれないという可能性が消えたわけではない。だから、いつ理性を失って羽鳥が嫌悪する存在になるともわからないのに。
 妖力を使って人ならざる力を発揮したいまの深月には、絶対に狂暴にならないと断言できるだけの確証がなかった。
 人間と禾月のあいだにさいなまれながら、この日も時間があっという間に過ぎていく。置いてけぼりをくらったような、心細さが胸に募った。

 ***
 
 夜の帳が下りる頃、洋燈の明かりが暁の部屋をほんのりと照らしていた。
「明日には職務に復帰する。心配をかけたな、蘭士」
「明日からって、あれだけ血を流して倒れたっていうのに、元気になるのが早すぎだろ。本当に人間か?」
 昼間に目が覚めたばかりのはずだが、すでに暁は明日から職務に就くつもりだった。それを医者として見過ごすわけにはいかず、不知火は首を横に振った。
「却下だ。あと三日は休め」
「三日もだと?」
「も、じゃない。だけ、だ」
「しかし、俺が休んでいては隊員たちに示しが……」
 渋る様子の暁に、不知火はその心配はないと笑った。
「むしろあいつらは大歓迎だと言うさ。そもそもおまえは休みが少なすぎるんだ。いい機会だからこの三日ぐらいは非番にしとけ。本部にもそう報告済みだ」
 本人がどんなにごねても、医者の権限で隊員の非番申請を通すことができる。
 不知火は目覚めたあとの暁の考えを予想し、先に申請を入れていたようだ。
「わかった、三日だ」
 すでに報告されていては撤回するのも手間だと考え、暁は早々に折れた。
 それから傷が綺麗に消えた自分の体に目をやる。
「羽鳥から聞いた。俺の怪我は、彼女が治してくれたんだろう」
「ああ、世にも不思議な……いや、見事な稀血の力だったぜ」
 不知火の反応を確認し、暁の視線が壁に立てかけられた童天丸に移った。
「少し童天丸と話がしたい」
「……了解。そのあいだにおまえの薬湯を煎じてくる」
「ああ、頼む」
 部屋を出ていく不知火の背を見送ったあと、暁は改めて童天丸を見捉えた。
「童天丸」
『よう、生きながらえてよかったな』
 暁の呼び声に、刀を軽く振動させて童天丸が応えた。
「おまえは、なにを考えている」
『藪から棒になんだよ?』
「とぼけるな。治癒のことだ。稀血にそんな力があったと、おまえから聞いていない」
『当たり前だろ、言ってないんだからなぁ』
 けらけらと刀の中で笑っている童天丸に悪びれる様子はいっさいない。
 一瞬だけ暁の顔がぐっとゆがむ。しかし童天丸に腹を立てたところで気力の無駄だと知っている暁は、はあと嘆息を漏らした。
「おまえの声が聞こえたのは、彼女が稀血だからで間違いないか」
『ああ、そうだ。感謝しろよ、弱った宿主に見飽きた俺様のおかげで、おまえは稀血の子の治癒を受けられたんだ』
「おまえ、彼女になにをした」
 暁は低く声を響かせて問うた。そこには隠しきれない怒りが感じられる。
『なにがだ?』
「治癒は妖力の消費によって引き出されるものだと聞いた。だが、俺はいままで彼女から妖力の気配を感じたことはない。だというのに、なぜ彼女は突然に力を使えた?」
 妖刀を扱う暁には、あやかしものの妖力や邪気の気配がわかる。しかし、これまで深月からはその類いをまったく感じなかった。
 治癒のために妖力が使われたというのはおかしな話なのである。
『決まっているだろ。俺様が促してやったんだよ。稀血の子に眠っていた妖力の核なる部分を』
 それを聞き、暁の表情がさっと消えた。
「……なぜ、そんな真似をした」
『おまえを助けたいって健気に願ったからな』
 間髪入れずに返答が来て、暁はしばし考えた。
 童天丸には些末な問題なのだろうが、深月の妖力を引き出したというなら、すなわち禾月の本能にも敏感になる可能性があるということだ。
『言っとくけどな、俺様は妖力の巡りを正常に戻しただけだ。俺様が手を貸さなくたって、遅かれ早かれこうなっていただろ』
 童天丸はさらに続けた。
『まあ、気をつけろよ。あの娘、相当追い込まれているみたいだからなぁ』
「どういう意味だ?」
 聞き返した暁に、童天丸はない鼻を鳴らした。
『おまえにはわからねえよなぁ。人間でも禾月でもない、得体の知れないものになった気分なんざ。俺様にもわからん』
 そんなことはない、と開きかけた口を、暁は引き結んだ。
 言葉こそ適当だが、童天丸の言うとおりである。どんなに案じたところで、稀血ではない自分に深月の気持ちのすべてを理解しようだなんて傲慢であり、絶対に不可能なのだ。
 それを歯がゆく感じるのは、情が芽生えてしまったからだろうか。
 今回の件も、自分に至らないところがあったと感じても、深月をかばったゆえの負傷に後悔はない。それが自分の責務だと断言する反面、あのときなにか別の感情に駆り立てられたような気がした。
 禾月の男に斬られそうになる姿に血が沸騰しそうになった。絶対に傷はつけさせないと思ったら、自分でも驚くほどの速さで童天丸を抜刀していた。
 深月が無事だとわかって心の奥底から安堵した。肩が震えていたから、なにかかけてやりたいと外套で包んだ。
 それからの記憶はあまりない。
 起きてみると深月が自分の怪我を治癒したのだと知り驚いた。
 あれだけ稀血である自分を憂虞していたのに、なにがどうなって能力を使う羽目になったのか疑問だったのだ。
 それが自分を助けたいがための行動だと教えられ、暁は戸惑いを隠せなかった。
 ふたつの種族の狭間で揺れる深月は、人ならざる治癒を発揮し、人ならざる妖力に触れ、その心でなにを考え巡らせていたのだろう。
 なぜこんなことを考えるのか、その理由は暁自身もわからぬままだった。
「話し終わったのか?」
 黙り込んでいる暁に、薬湯を手に戻ってきた不知火が声をかけた。
 しかし暁は難しい表情のまま一点を集中している。
『あの娘、相当追い込まれているみたいだからなぁ』
 童天丸の言葉が脳裏で繰り返される。
「……蘭士」
 不知火が怪訝に思っていると、暁はぱっと顔を上げて尋ねた。
「なにか気晴らしをするとなったら、なにが一番いいだろうか」
「……は?」
「女性の気晴らしには、なにが有効だ」
 さらに暁が大真面目に聞いてくるので、不知火はなおさら度肝を抜かれるのだった。