月明かりがまぶしい夜のことだった。
「ようやく、見つけた」
 凛とした声が耳朶を打つ。
「この日がくるのを、待っていた」
 そう言葉にしながら、刀を向けてくる青年の姿に息を呑む。
 美しい風貌に目を奪われ、次の瞬間にはぶるりと身震いを起こした。
 こちらを見据える満月の如き色の瞳が、あまりにも冷え切っていたからだ。
「君は人間か、それとも――」
 声が遠ざかっていく。すべて夢ならどんなによかっただろう。
 薄れるゆく意識で誰かの体温を感じながら、そう思わずにはいられなかった。

 満月は導である。
 探しているのは、唯一の光――。

 ***

 日出ずる国。華やかな街並み、文化、思想が交差する帝都。
 この広大な都は遥か以前から、〝人間〟と〝人ならざるもの〟によって歪に形成されていた。
 もとを辿ると数百年前、いたるところに蔓延っていた異形の種族〝あやかし〟が事のはじまりである。
 ときには人の姿に化け、ときにはおぞましい異型となり、あやかしは人の血肉を求めて多くの命を食い散らした。
 だが、討伐隊の目覚ましい躍進によって勢力を追い込むことに成功する。
 次第にあやかしは『妖界(ようかい)』という、この世とは切り離された場所に移り住むようになった。
 しかし、ある一族だけは人の世に残り子孫繁栄を続けていたという。
 その一族の名は、『禾月(かげつ)』。
 姿かたち、知力は人と大差がなく、老若男女と見た目もさまざま。
 人間の血液を糧とし、体内に吸収することで生を維持している。
 知恵を働かせて人の世にうまく溶け込み、社会的身分を得ている者も少なくない。
 一方、あやかしの類いでも禾月とは異なるのが、『悪鬼(あっき)』だ。
 それは災害や動乱などの原因により、人の世と妖界との間に道が生じてしまった際、まぎれ込むとされていた。
 悪鬼は肉体がなく、知能も極めて低い。禾月とは比べ物にならないほど脆弱だが、実体を求めて生き物に取り憑く。
 さらに力を得るため、本能に従って生き物を襲うことも多くあった。
 そんな人ならざるものに日々密かに立ち向かうのが、討伐隊の後身、帝国軍直轄の特命部隊である。人知れず都の秩序を裏から支える精鋭揃いの集団だ。
 なかでも隊を束ねる隊長は、軍きっての若き実力者。
 名声は禾月の現首領の耳にも届くほどで、討伐実績を抜きにしても帝都民から一目置かれていた。
 禾月と悪鬼。
 どちらも大衆には秘匿とされている。けれど、どちらも昔から帝都にあり続けている。
 悪鬼は知能が低い分、退治に全力を注げばいい。
 警戒すべきは、禾月だ。
 人間と変わらない姿、頭脳があるだけに厄介以外の何者でもない。
 ゆえに現在に至るまで、人間と禾月は共存とは名ばかりの、裏では両者が虎視眈々と覇権を握るべく策動していた。
 そんな混沌渦巻く二つの種族の間に、ある少女が現れる。
 名は、深月(みづき)
 人間と禾月の血が混じって生まれた、『稀血(まれち)』という本来生きることは不可能とされる、特別な存在だった。



「私がどれほどおまえに目をかけてやったかわかっているな? 肩代わりした借金もこれで帳消しにしてやる。いいか、この縁談を受けるんだ」
 深月が奉公先の大旦那から命じられたのは、いまだ厳しい冷気が漂う小寒のことだった――。

 ここは多くの文明・文化が入り乱れる天下の大帝都。
 深月が奉公女中として身を置く東区画の『庵楽堂(あんらくどう)』は、揚げ饅頭が売りの老舗和菓子屋である。
 何代か前には宮廷に菓子を献上し、名誉称号を賜るまでになった商家だ。
 誰もが納得の栄誉ある名店。それを継ぐ今代の庵楽堂の大旦那には、大切な愛娘の麗子(れいこ)がいる。
 彼女は贅沢三昧させる両親や、おべっかを使う店の者たちから蝶よ花よと大切に育てられたせいか、超がつくほどのわがまま娘だった。
「信じられない、この愚図!」
 左頬に集まる熱。
 遅れて深月は、自分が平手打ちをくらったことに気づいた。
 目の前には、こちらをきつく睨みつけた麗子が立っている。
「あんたの汚したこの着物、どれだけの価値があると思っているのよ! あんたの給金を一年まとめて出したところで買えない代物なのよ!?」
「……申し訳ありませんでした」
 また、と思いながら深月は頭をさげる。たとえ、心あたりがまったくなかったとしても。
 今回は、麗子お気に入りの牡丹の着物についたシミが原因だった。それを深月の失態だとして、麗子の罵倒を浴びているのだ。
(……どうりで、あの反応だったのね)
 さきほど廊下ですれ違った若い女中の顔を思い出す。
 麗子の側仕え。確か彼女は昼間に着物の整理をしていたはず。
 深月が麗子の私物に触れるのはもちろん許可されていないのだが、なにか理由をつけて深月に自分の失敗をなすりつけたのだろう。
「ああ、助かったわ。正直に話したら、麗子さまに大目玉をくらうところだったもの」
「あの子がいると矛先がこっちに向かなくて済むものね」
「でも、さすがに深月の仕業じゃないって麗子さまも気がつかない?」
「事実なんてどうでもいいのよ。麗子さまはただ深月に難くせをつけたいだけだもの。だってあの子、嫌われているから」
 ひそひそと、遠巻きに様子を見ている女中たちの声がする。
 人より少し耳がいいのも困りものだ。いつも余計な言葉を拾ってしまうから。
(もう、何度目だろう)
 ほかの女中が保身に走って責任転嫁するのは、いまに始まったことじゃない。でも、さすがに気が滅入ってくる。深月の心に鬱蒼とした影が落ちた。
 けれど、ひとまずは麗子に怒りを鎮めてもらうのが最優先だ。
 そう考え、低くした頭をほんの少し傾ける。
(あっ)
 様子を窺おうとしたところで麗子と目が合う。
 いけない、と思ったときには遅かった。
「あんたのその顔、その目つき……いつ見ても本当に腹が立つわね!」
 次は右頬に痛みが走った。
 あまりにも理不尽な仕打ちだ。それでも、雇い主の娘である麗子に反抗は許されない。
(麗子さま、いつもより一段と機嫌が悪い。おそらく今日は、折檻部屋行きだわ)
 あとの処遇を想像し、早くもこれまでに与えられた痛みが幻痛となって蘇ってきそうになる。
(……この生活にも、いつのまにか慣れてしまった)
 深月が庵楽堂で女中奉公をするようになったのは、十四の年の頃だった。
 同じ年の麗子とは五年の付き合いになるが、最初から深月を嫌っていたように思う。
 麗子は身分上、華族ではない。けれど実家の庵楽堂が残した功績により、幼い頃から上級富裕層の扱いを受けてきた。女学校でも注目され、最近では欧化政策の一環として華族が主催する夜会にも招待されるほど。
 さらにその容貌は、巷でも一等美人と評判の器量良しである。
 その恵まれた生まれは麗子の自尊心を育てるには十分だった。
 だからこそ、もっとも相容れない自分の存在が気に入らないのかもしれない。立場を誇示していたいのかもしれない。
 それ以外の理由があったとしても、深月には理解できるはずもなかった。

 それから数日後。大旦那に呼び出された深月が母屋に向かったのは、すっかり日が傾いた時間帯だった。
「失礼します、大旦那さま」
「入れ」
 襖を開けると、畳の香りが鼻につく。
 すぐに下座に移動し三つ指をついて礼をとる深月に、大旦那は前置きもなく告げた。
「おまえに縁談を用意した。相手は一ノ宮(いちのみや)家、天子の遠い外戚筋の人間だ」
(……え?)
 鈍色の瞳が動揺に揺れる。
 一瞬、言われた意味がわからなかった。丸めたままの背中が、先日の折檻のせいでじくりと疼く。
 どくり、どくり。
 痛みと耳鳴りに混じって鼓動の音がいやに響いた。
「わたしに、縁談……ですか?」
「もとは麗子にきていたものだがな。先方にはすでに代わりのおまえを行かせると話しを通してある」
 麗子の縁談をどうして自分が? 女中奉公の身であるのに? 大旦那は本気で言っているのだろうか。
 まだうまく状況についていけない深月の頭には、疑問ばかりが募った。
 深月の年齢は、十九歳。
 多少行き遅れの部類だけれど、近年、国は適齢期に寛容になりつつある。
 深月も結婚など遠い先の話しだと考えており、そもそも自分が誰かと夫婦になれるのか疑問すら抱いていた。
 いちばんの理由は、亡き養父が背負っていた借金にある。
 養父とは深月が十四の頃に死別したが、その際に大旦那から養父が金貸しと繋がりがあったことを教えられた。
 深月に返せるわけもなく困り果てていたとき、借金の肩代わりを申し出たのがほかでもない大旦那だった。
 そういった恩と経緯があり、身寄りのない深月は養父と暮らしていた借家を離れ、庵楽堂の奉公人として居候する羽目になったのである。
 それからというもの毎月の給金は大旦那に渡し、深月は肩代わりをしてもらった借金の返済だけに年月を費やした。
 だからこそ、こんな自分が婚姻を結べるはずがない。
 これといった取り柄もなく、麗子のように他者を惹きつける器量もない。
 灰色がかった黒髪は一見すると老婆のようで、手櫛だけで整えているので艶もない。顔つきも麗子にはよく『無意識に他人を不快にする顔』と嫌味を言われている。
 そもそも、借金という問題が深月の人生の根底にある以上、誰かと一緒になるのは難しい話だったのだ。
(……なのに、縁談だなんて)
 言葉にできない深月の心情などお構いなしなのか、大旦那はさらに続けた。
「おまえにとっても悪い話じゃないだろう。本来の身元も不確かな娘が、本妻でなくても一ノ宮家の者になれるんだ」
「……本妻では、ない? その方は、すでに奥方を娶られているのですか?」
 縁談を受け入れているわけではない。けれど、さすがに聞き捨てならなかった。
「ああ、伝え忘れていたか。おまえの縁談相手は、一ノ宮誠太郎(せいたろう)。一ノ宮現当主の叔父にあたる方だ」
(その人って……)
 縁談相手の名には、悪い意味で聞き覚えがある。東区画では色々と有名な人だ。
 一ノ宮誠太郎は、一ノ宮前当主の次男。繁華街の料亭では毎度芸者に手を出し、すでに妾を幾人も囲い込んでいる女好きで名が通っている。
「さて、これで話は終わりだ。早く下がれ」
 大旦那はさっさと出ていけと手で払う仕草をする。
 深月は唖然とするしかなかった。
 縁談話を告げられて、相手を教えられ、それでもう終わりなのか。
「お待ちください大旦那さま。わたしには、まだ借金が……っ」
「深月、なにを勘違いしているんだ」
 間髪入れず面倒な表情をした大旦那は、深月の声を遮る。
 そしてさも当然のように言った。
「もとからおまえの意見は聞いていない。ここに呼んだのは、決定を伝えるためだ。肩代わりした借金もこれで帳消しにしてやる」
「……っ」
「いいか、この縁談を受けるんだ」
 徐々に力が抜けていく。
 どうして意見を言えると思ったのだろう。答えはもう、決まっているのに。
「……かしこまりました」
 もとより選択の意思などゆだねられていないと、深月は十分にわかっていた。

 話が終わり、深月は私室として使用する物置小屋に戻ってきた。
(縁談……)
 深月は閉めた戸に背を向けその場にずるずると座り込む。
 膝を抱えると、薄い小袖のすれる音がやけに響いて聞こえた。
(わたしが、麗子さまの代わりに?)
 もとはこの縁談、麗子にきたものだったという。しかし誠太郎の評判を知っていた麗子がうなずくはずもなかった。
(それでここ最近、あんなに機嫌が悪かったんだ)
 相手は華族で、公侯伯子男の五爵位のうち第二位を賜る旧国主。尊い血族と縁のある、侯爵家だ。
 いくら庵楽堂が宮廷と面識があり実績と権力を握っていても、さすがに相手が悪かった。だから失っても構わない同じ年頃の深月を差し出そうと考えたのだろう。
(……麗子さまの代わりに、なれるはずもないのに)
 どんな理不尽な叱りを受けようと、寝る間も惜しんで働き詰めの日々になろうとも、大旦那には大きな恩がある。
 借金返済のため、つらい折檻にも耐えられた。
 麗子に便乗して仕事を押しつける女中たちにも耐えられた。
 不自由な暮らしも、空腹にだって耐えられた。
 耐えるばかりだったそれらは、いつの間にか深月のあたり前になっていった。
 全部、全部、受け入れられた。けれど。
「…………」
 深月は重いため息を落とし、虫籠窓から暗い夜空を見つめる。
 いまの心情を映し出す鏡のように、今宵は月のない曇天だ。
 蝋燭一つない四畳半ほどの場所が、この瞬間だけは牢獄のように感じてならない。
「……いや。縁談なんて、いや」
 明かりのない空間に、消え入りそうな声が何度も響いた。
「いやだ……いや、なのに」
 誰にも言えないからこそ、繰り返しつぶやくことしかできなかった。
 合間に、深月はいつもの癖で右手首の組紐に触れる。
 それは養父から授かり、唯一深月の手もとに残ったもの。硝子石が嵌め込まれた組紐は、こうして触れるたびに深月の精神を安定させてくれた。
 動揺や不安、恐怖や苦しみ。そういった負の感情が、組紐に触ると消えるような気がして。
 最初から逃げ場などないこの状況に、本心を覆い隠すよう縋り続ける。
 本当に効果があるのか定かではないものの、次第に渦巻いていた葛藤がゆっくりと薄れていく感覚があった。
(……本当に、わたしにはなにもない)
 深月はもともと孤児だった。実の両親は赤子の深月を置いてどこかへ行ってしまったらしい。
 そんな深月を引き取ったのが、血の繋がらない養父である。けれど身の回りのことを自分でできるようになってからは、一緒にいる機会も減っていった。
 それでも、多くて週に二、三回。少なくても週に一度は物資を届けるため深月に会いに来てくれた。
 だが、ある日突然、養父は見るにも無惨な傷だらけの状態で帰ってきた。
 最期の言葉もろくに交わせないまま、養父は深月に看取られ命を落とした。彼がどんな仕事に就いていたのか、いまとなってはわからない。
(……いつも、こうだわ)
 顔も知らない、思い出の一つもない親に捨てられた。
 自分を育ててくれた人と死に別れ、嘆く暇もなく庵楽堂のご厄介になり。転々と生きる深月には、本当の居場所というものがなかった。
 自分にはなにもない。ないからこそ、養父の借金を返すという名目が深月の生きる意義だった。
 でも、それがなくなるのなら、深月に残るものはない。
 なにもない人生ほど虚しい生きざまはないと思う。もはやそれは、人の本質すら見失いかねないから。
(これから先、わたしは……どう、なるんだろう)
 縁談を受け入れ、借金返済から解放され、妾だらけの男に嫁いだとして。
 深月はいつも、考えていた。なにもない自分が、特別ななにかに変わる日はくるのだろうか、と。
 決して贅沢は望まない。
 ただ、明日も生きていきたいと思えるだけの〝なにか〟にめぐり逢える日がくるのだとしたら。いつか、どうか自分のところへきてほしい。
 叶いもしないとわかりきった、出過ぎた願いだとしても。



 ひと月後、深月は祝言の日を迎えた。
 場所は一ノ宮家の別邸。一ノ宮家の使用人によって白無垢に身を包んだ深月は、婚儀の時刻まで別室で待機をしていた。
 自分には不相応の豪華な衣装と施しが、重量以上に肩にのしかかってくる。
 落ちついて座ることもできず所在なく立っていれば、背後から声がした。
「あら、見てくれだけは立派ね」
「……麗子さま」
 振り返った先に見えたのは、珍しく機嫌のいい麗子の顔。
 深月は口をつぐんだまま畳に目を落とした。
「あんたの顔を見に来てあげたのよ、深月。一ノ宮に嫁いだら、こうしてゆっくり話す機会もないからね」
そう言いながら、麗子は深月と相対する。
「もうすぐ祝言が始まるわね。ねえ、いまどんな気持ち?」
「…………」
「そう、言葉にできないほどうれしいのね」
 ころんと鈴を転がすような笑い声。
 初めから深月の言葉など待っていない麗子は、好き勝手に口を動かす。
「どうもありがとう、あたしの身代わりさん」
「……っ」
「あんな女性関係にだらしないおじさんに嫁ぐなんて、絶対に嫌だったもの」
 ここに来てまで、まざまざと思い知らされる。気に入らなければ嫌だと突っぱねて選べる麗子と自分との差を。
 なにも言葉が出てこないことに、もう一種の諦めすらあった。
 そもそも奉公人と雇い主の娘という関係であるため、気軽に話してはいけなかったし、もとより深月を目の敵にしていた麗子と対等に話すなんてできなかった。
 その理由も、けっきょくわからずじまいになりそうだが。
(……この嫌味も、今日まで)
 いまは祝言だけに意識を集中させよう。
 そう思って目線をあげた深月は、無言のまま麗子を見据えた。
 普段はうつむくことを強いられ、ろくに顔を合わせられずにいたけれど、これでお別れなら、という気持ちで前を向く。
「深月……」
 麗子の眉が、ぴくりと反応する。
 諦めと決意の表れでの行動が、思いのほか麗子には気丈なさまに見えたのかもしれない。麗子はキッと目じりを吊りあげ、深月の懐に掴みかかってきた。
「あんたの、その顔が気に入らなかったって言っているのよ!」
 衝撃を受け、末広が畳に落ちていく。慣れない正装に足をとられ、深月は滑るように背中から転倒してしまった。
「……っ」
 小さな痛みに体が跳ねる。なんとか片手をついて体を支えたが、後ろに置かれた化粧棚の角に右腕を擦ってしまったらしい。
(いけない、打掛に血が!)
 痛む箇所に目をやり、深月は自分の怪我はそっちのけで素早く手ぬぐいを取り出した。右腕から滲んだ血が、体を覆う羽織の袖に触れそうになっていたからだ。
「……ふん、せいぜい可愛がってもらえばいいわ」
 汚してしまっては大変だと焦る深月の姿を見下ろし、麗子は興ざめした様子で部屋から出ていった。
 嵐が去った心地で、深月は短く呼吸を繰り返す。
 そのすぐあとに入れ替わりで一ノ宮家の使用人がやってきた。
「ご移動ください」
 祝言の刻を報せる声は、あまりにも素っ気なかった。
 気の利いた祝いの言葉も、めでたい空気も一切ない。
 それだけで、結婚相手の誠太郎が使用人からどんな心象を抱かれているのか予想がつく。この婚儀がそれほど重要視されていないということも。
「はい、ただいま」
 深月は怪我をした右腕に手ぬぐいを巻きつけ、腰をあげた。
(……目まぐるしくて、虚しい)
 落とした末広を挿し直し、重い裾を引きずって、悪評だらけな男のもとに向かう。
 手首の組紐をそっと撫で、歩いていく。
 心に燻る憂いのすべてを、いつものように押し殺しながら。

 腕に小さな傷を作ったものの、深月は無事に祝言を終える。
 大々的でなければ参席者はごく少数の、つつましやかなものだった。
 儀式自体も拍子抜けするほど簡易的なものであり、隣に座る誠太郎ともろくに会話がないまま、深月は別邸の離れに通された。
 人気のない板の間を進み、指定された部屋の襖を開ける。
 薄暗い照明や敷かれた布団を目前にして、深月は呆然と立ち尽くしてしまった。
(そ、そう……だよね)
 日はとおに沈んでいる。
 肌襦袢だけになった自分がこれからなにをするのかを考えて、未知の行為に足がすくみそうになった。
(あの人が、わたしの旦那さま)
 祝言ではじめて対面した誠太郎の姿を思い出す。
 歳は四十代後半、上背は深月より少し高いくらい。脂が浮いた肌と汗でくっついた髪が記憶に残る男性だった。
 彼は麗子に一目惚れをしていたという話だが、祝言では深月を見てにこにこと上機嫌に笑っていた。麗子が相手ではないことも承知しているようだった。
 こんな自分が気に入られるなど、どう考えてもあるはずがないのに、心底疑問である。
「待たせたな」
 後ろの襖が開かれて誠太郎が姿を現した。湯浴みは済ませているようだが、やはり少し頬が皮脂で光っていた。
 誠太郎はにやりと笑い、硬直した深月に歩み寄ってくる。
「だ、旦那さ――」
 瞬間、深月の体が大きく後退した。
 なにが起こったのかわからず一拍ほど思考が真っ白になったが、すぐに理解する。
 布団の上に、押し倒されたのだ。
「深月……ふう、麗子も美しかったが、おまえには底知れぬ色気がある。おまえでもいいと了承して正解だったなぁ」
 鼻息を荒くした誠太郎が、着物をはだけさせながらにじり寄ってくる。ようやく深月は、すでに初夜が始まっているのだと悟った。
「ひっ……」
 組み敷かれ、小さく声が漏れる。
 我慢しなければと唇をきつく引き結べば、誠太郎が興奮した様子でにやついた。
「いいぞ、いいぞっ。私は恥じらう女を鳴かせるのが好きで堪らんのだ」
 饒舌な語りは一つも頭に入らず、深月はただ耐え忍んで息を止めた。
(動いてはだめ、逆らってはだめ、逃げてはだめ)
 硬直した深月を満足そうに見下ろした誠太郎は、舌なめずりをしながら言う。
「ほらほら。観念して私に体を……」
 そうして深月の右手首を、誠太郎が強く引っ張り上げた直後――、ブチッ、という音が耳に届いた。
(……え)
 音がしてすぐ、胸元に降ってきたのは、深月の組紐だった。
 おそらく誠太郎の指が引っかかり、切れてしまったのだろう。
「そんな……っ」
 我に返り、意識がそれた深月の体から強張りが解けていく。
 深月は急いで身を起こし、自由が効くもう片方の手でちぎれた組紐を掴んだ。
 古いものだが、これまで一度も切れたことがなかった組紐。まさか自分の一番大切にしていたものが、いまこの状況で壊れてしまうとは思わず驚きを隠せない。
(……?)
 そこで、気づく。散々聞こえていた誠太郎の声が、一切しなくなったということに。
 だというのに、まだ、右手首は彼によってきつく掴まれたままだ。
 深月はハッとして、急ぎ頭をさげた。
「……も、申し訳ございませんっ」
 すかさず初夜を中断してしまっていたことのお詫びを告げる。
 それから顔を見上げ、視界に入った誠太郎に深月は目を見張った。
「……旦那、さま?」
 まず見えたのは、血走った眼に口端から伝う唾液。
 誠太郎は沈黙を貫きながら、とんでもない形相で深月の腕を凝視していた。
(わ、わたしの腕になにが……あ)
 手ぬぐいを巻いていた腕を確認する。
 襦袢の袖がめくれあがり見えた白地の手ぬぐいには、雨粒を一つ落としたような赤が滲んでいた。
 誠太郎はそこばかりを注視していたのだ。徐々に荒くなっていく息づかいは、組み敷かれたときとなにかが違う。
 言いようのない嫌な予感が、深月の胸中をよぎったとき。
「……血だぁ」
 不穏めいた空気が、そのひと言で確たるものになった。
「はあ、はあ、血のにおい、はあ、いいにおいだ。このにおい、そうだこの血だ、ははははは!」
 突然、誠太郎は高笑いを始めた。
(どうしたというの、旦那さまの様子が……っ)
 誠太郎は深月に狙いを定め、なにかを再確認するように、鼻から深く空気を吸うと――。
「はやくおまえの血をよこせ‼」
 その叫びとともに、誠太郎は布団の端に置かれた護身用の短刀に手をかけ、深月に向かって容赦なく振り回した。
 身の危険を感じた深月は、なんとか立ち上がり刃から逃れるように動く。しかし、そこまで広くもない室内に逃げ場はなく、あっという間に距離を詰められてしまった。
(……ああ)
 足はもつれ、よろけて、倒れそうになる。ここまでかと観念した。
 体勢を立て直す暇も与えず、誠太郎の短刀が深月に振り下ろされようとした、そのとき。
 誰かが、後ろから力強く深月の体を抱き支えた。
「悪鬼よ、眠れ」
 静寂を連れた声が頭上から降り、鼓膜を震わせる。
 背中に伝わる確かな人のぬくもり。肩に添えられた大きな手は、危険から庇おうとする意思が感じられ、深月の体をさらに引き寄せた。
「がああっ!」
 前を見据えると、暴れていた誠太郎の肩口に、妖しい輝きを放つ刀剣が深く突き刺さっているのが確認できる。
 やがて誠太郎は魂が抜けたように膝から崩れ落ち、倒れ込んで意識を失った。
(なにが、起きたの……?)
 刺された誠太郎を目のあたりにし、深月は動揺を隠しきれずその場にへたり込んでしまう。
 そんな深月の前には、二十代半ばらしきひとりの青年の姿があった。
「討伐、完了」
 生々しい音を立て、青年は誠太郎から刀を容赦なく引き抜く。その場で刀身を振ると、畳や壁にぴしゃりと鮮血が散った。
「……あ」
 深月の唇からは、空気を含んだ短い声がこぼれる。
 いまになってようやく、自分は間一髪のところを助けてもらったのだと理解した。そして全開になった襖を一瞥したあとで、視線を青年のほうに戻す。
(帝国軍の、制服……)
 月明かりに照らされ佇むのは、軍服を身に纏う秀麗な青年だった。
 ほのかに漂う血のかおりに、目眩がしそうになる。
 ゆえに目もおかしくなってしまったのだろうか。青年の握るその刀が、なんとも不思議なことに薄ら赤い光を纏っている気がした。
「あなた、は……」
 頭が混乱して、続く言葉が見つからない。誠太郎が部屋に入ってきてからいままでのことは、すべて夢なのではないか。
 そう考えそうになるけれど、外から吹き込む凍てついた冷気が、ここは確かな現実なのだと教えてくれていた。
 深月はもう一度その立ち姿を目に焼きつけた。
 すると、青年が口を開く。
「君は……」
 流れ込んだ夜風が、すっくと立つ青年の胡桃染の髪をなびかせた。目深にかぶった軍帽の奥からは、満月を彷彿とさせる淡黄の瞳が覗いている。
「なに!?」
 青年の視線が、一瞬だけ深月から自身の刀身に移った。
 確かめるように動いたまなざしが深月のほうへ戻ったとき、激しく意表を突かれた表情に変わっていた。驚愕と渇望が一緒くたに表れたような顔で深月に見入っている。
「……ようやく、見つけた」
 凛とした声が耳朶を打つ。
「この日がくるのを、待っていた。ずっと探していた、君を」
 まるで戯曲の台詞を朗読されているかのようだった。
 羅列だけを耳にするなら、愛や恋を語る大衆小説の一文にも思える。
 だが、そんなに甘く呑気なものとは違う。この瞬間にも刀の切っ先は、深月の喉元に寸分の狂いなく向けられていたのだから。
(この人は、何者なの)
 助けられたのだと思っていた。それなのに今度はこの青年が深月に刃を突きつけている。
 なりを潜めていた焦りと恐怖の感情が、またも鎌首をもたげた。
「君は人間か、それとも……禾月か」
 それがなにを意味するのかわからない。はじめて聞く言葉だった。
「か、げつ……」
 つぶやいた自分の声が段々と遠のいて、体の自由が利かなくなる。
 これまでのことが、すべて夢ならどんなによかっただろう。
 薄れる意識で誰かの体温を感じながら、深月はそう願わずにはいられなかった。




 恐ろしい悪夢をみた。
 まるで狂気そのものになった男に、殺されそうになる夢。
 誰かが助けに入ってきたはずだが、どうだっただろうか
 ああ、それよりも。すぐに体を起こして朝食の支度を始めないと。
 鳥がさえずるよりも早く、日の出よりも早く、誰よりも早く。
 借金返済のため、今日も仕事は山積みだ。
「ん、んん……」
 そこで、深月は目を覚ます。
 視界に広がるのは、記憶にない西欧風の天井だった。
 深月は身を起こし、周囲を見渡した。
 洋風の調度品に囲まれた室内は、窓明かりに反射してきらきらと輝いて見えた。
(ここは……)
 頭はまだふわふわと揺蕩っている。
 これは夢の延長なのかもしれないと深月が疑い始めたところで、コンコン、と控えめに音が鳴り、左奥の扉が開かれる。
「失礼いたします。まあ、お目覚めでしたのね」
 入ってきたのは三十代半ばほどの、嫣前と微笑む女性だった。
「ちょうどご様子を窺うところでしたの。よく眠ってらしたので、どうしようかと思っていたのですが」
 女性はそう言いながら、両手に抱えた盥を近くの卓子に置いた。
「あの、すみません。あなたは……」
 おそるおそる尋ねる深月に、女性は「あらっ」と声をあげる。
「申し遅れました。私は朋代と申します」
「朋代さま……」
「いやだわ、朋代さまだなんて。どうか朋代と呼んでくださいまし」
 どこか気品を纏わせる女性――朋代は、口を手のひらで隠してころころ笑う。
「普段は本邸の女中頭を務めております。さあ、いつまでも襦袢一枚では風邪を引いてしまいますわ。まずはお支度を整えましょう、お嬢さま」
(おじょう……さま……?)
 それからの朋代は凄まじく動作が早かった。
 お湯入りの盥に浸していた手ぬぐいを絞り、丁寧かつ素早く深月の顔や首もとに当てて拭きあげる。言葉を挟む間もなく姿見の前に誘導され、色艶やかな飛翔鶴の着物に袖を通すと、次いで洋物の化粧台らしき場所に座らされた。
「あ、あの、朋代さ……ごほっ」
 詳しい説明を聞こうと口を開けば、緊張による喉の渇きで咳をしてしまう。
 すかさず朋代は水を注いだガラスの容器を差し出してきた。
「あらあら、大変だわ。私ったら気が利かないでごめんなさい。慌てずゆっくりお飲みくださいね」
「す、すみません」
 息が詰まりそうになりながら、深月は渡された水の杯にちびちびと口をつける。
 その間にも朋代は深月の髪を整えていた。
「お嬢さまの御髪は絹糸のように細くてお綺麗ですね。冬は空気が特に乾きますので、少し元気がないようですけど。香油を塗り込めばより艷やかになりますわ」
 木櫛で髪を梳かされる。ときおりふわりと花の香が鼻腔に伝った。
「……ここは、どこなのでしょうか?」
 ようやく呼吸を落ち着けた深月は、鏡越しに見える朋代に尋ねた。
「ふふ、まだ完全にお目覚めではないようですわね。もちろん、ここは特命部隊本拠地、その別邸ですよ」
 朋代は微笑ましそうに、さも当然のように答える。
(特命部隊……それって、帝国軍の……)
 じわじわと、おぼろげにあった脳裏の光景が鮮明になっていく。
「それにしても、(あかつき)さまも隅におけないわぁ。嫁も縁談にも関心がない素振りだと思っていたら、こんなにも素敵な方をお連れになるなんて。それも大層な別嬪が好みだったのねぇ」
「あか、つき……?」
「朋代さん、一体なにをしているんだ?」
 深月のつぶやきに、もう一つ困惑混じりの声が重なった。
 横を向くと、扉の取っ手を掴んで立ち止まった青年の姿がある。
(この人は……)
 夜空に浮かぶ満月のような瞳。胡桃染の髪が、昼光に溶けてより皓々としている。
「まあ、暁さま。なにをと言われましても、ご指示のどおりお召し替えを」
「確かに着替えを頼んだはずだ。だが、着飾ってくれとはひと言も……」
「いやだわ、これでもまだ序の口ですのよ。これから御髪を結って、化粧をして差し上げて、さらに――」
「すまない、朋代さん。いまは少し席を外してくれないか」
 暁、と呼ばれた青年は、朋代の言葉を遮り軽く目配せをする。
「あら。とてもとても名残り惜しいですが、承知しました。お嬢さま、またお手伝いさせてくださいませ」
 深月の世話を楽しんでいた様子の朋代だったが、暁の指示を受け早々と退室した。
 扉が閉ざされ、ふたりきりになる。
 いきなりの状況に深月は化粧台の椅子から動けずにいた。
「……気分はどうだ」
 つかの間の沈黙を共有し、暁が口火を切る。
 忘れるはずもないその端正な面差しに、深月のなかで夢だと思っていた記憶がすべて繋がった。
 すらりと伸びた背丈に、細身ではあるがほどよく引き締まった筋肉。服の上からでも鍛えられた体躯だというのが素人目にもわかる。
 身にまとっているのは、金銀糸を惜しみなく施した刺繍が印象的な、黒に近い濃紺の軍服。肩には金の飾緒が揺れている。腰には刀が携えられており、漆黒に染まる柄には真紅の飾り紐が結ばれていた。
「私は朱凰(すおう)暁。帝国軍特命部隊隊長の任に着いている」
「……深月と申します」
 手短な自己紹介を告げられ、反射的に深月も頭をさげつつ名乗った。
「君は昨晩の騒動をどこまで覚えている?」
 次いで問われて、あの出来事からすでに半日近く経過していたことに深月は驚いた。
「一通りは……覚えているかと思います」
 もちろん、耳に残るあの意味深な発言も。
『この日がくるのを、待っていた』
『ずっと探していた、君を』
 あの言葉は一体なんだったのだろう。
 それだけじゃない。誠太郎の様子がおかしくなった原因も、どうやら彼は知っているようである。
「なにが起こっていたのでしょうか。どうしてわたしは軍の建物に? それに、旦那さまの様子も……あ、あの、旦那さまはご無事なのでしょうか?」
「……」
 深月の問いかけに、暁はわずかな疑心を眉宇に漂わせる。
 染みついた癖のせいで、深月はびくりと肩を跳ね上げた。彼の気分を害してしまったと勘違いしたのだ。
「申し訳ございません、長々と厚かましく聞いてしまって……」
「うつむくな。表情(かお)が見えない」
 目線をさげた深月のあごに暁は指をかけ、くいと掬い上げる。
 凪いだ瞳に見据えられ、深月はその体勢のまま固まってしまう。
 手袋越しに熱が伝わってくる。じっと探るような視線と絡まれば、わずかに鼓動が速まった。そらしたくてもうまく体が動かない。
「君のいう旦那とは、一ノ宮誠太郎だな。彼は無事だ。いまは容態も安定していると報告を受けている」
 それを聞いてひとまず深月は安堵の息を吐く。
「昨晩の事態や、君の身柄を預かっていることについてだが。順を追って説明する前に、まずは君の口から確認をとりたい」
(確認……?)
 続いて発せられた暁の問いに、背筋に冷たいものが走った。
「君は、稀血だな?」
 彼の瞳は、すべてを見透かすように真っ直ぐこちらを向いている。
 嘘は絶対に許さない、そう言われているようだった。
 だからこそ、深月は間を置かずに答える。
「……稀血、とは、なんですか」
「稀血を知らないだと?」
 下あごに触れたままの長い指に、ほんのり力が加わる。
 傍から見れば勘違いを生みそうな体勢だが、深月はその意を悟った。
 暁は見逃さずにいるのだ。深月の瞳の動きや、頬の筋肉の強張り、唇の動き、そして首の血管から拾える音を。虚偽の取りこぼしがないように。
「白々しい冗談に付き合う暇はなかったが、君は本当になにも知らないのか」
「わたしはなにかを、知っていなければならないのですか……?」
 しばらく室内を静寂が包む。
 長いようでいて本当のところ、それほど時間は経っていなかったのかもしれない。
「……これは、民に伏せられた事実だが」
 暁はそっと、深月から手を離した。そのまま三歩ほど距離をとり、腕を組む。
「数百年も昔、あやかしという異形の種がこの世にはいた。人の姿に化け、異型の化け物になり、命を食い荒らした畜生共が」
 作り話や街中の人形芝居、劇や創作のなかで描かれるような内容を、暁は淡々とした口調で並び立て始めた。しかしそれは冗談でも、おとぼけでもなかった。
「人々の命がけの攻防により大部分のあやかしは人の世から消えたが、禾月というあやかし一族だけは、それに反して人の世に居続けた。いまもこの帝都を根城にし、人の血を飲み、糧として生きる者たちだ」
(……血を、飲む?)
 禾月とは、あの夜にも問われた言葉。なぜだろう、心臓の音がうるさくて仕方がない。
 絵物語のような話に、妙な緊張が走る。
「禾月は、同種である禾月と交わり繁栄する。しかし帝国軍が代々編纂した文献には、人間と禾月の間に生まれた存在の記録がわずかに記されていた。両者の血を受け継ぎ生まれた者。それを示す言葉として使われるのが、〝稀血〟だ」
「稀、血……」
 暁によれば、特殊な混じりによって生まれた稀血には、独特の香りがあるのだという。
 なかでも〝血〟の匂いは、非力な者ほど嗅いだだけで気の昂りと狂暴性を誘発させ、血を求めて襲いかかってくる。その最たるものが悪鬼というあやかしの類いだった。
「人の世と妖界の間に生じる歪から現れる悪鬼は、実体を持たないため生き物に取り憑く。一ノ宮誠太郎の変貌もそのためだろう」
 誠太郎はさまよう悪鬼に取り憑かれてしまっていた。体内に潜伏していたが、深月の右腕の怪我から漏れた血の匂いによっておびき出され、あの事態を招いたのだ。つまり……。
「わたしが、その稀血だと?」
「ああ、そのとおりだ」
 確認したいと言っていたわりに、彼の曇りなき眼はもう確信していると告げているようだった。
 口の中が乾いていく。自身の体に巡る血の半分が人ならざるものだと伝えられてもも、いささか信じがたい。
(頭が、うまく働かない)
 無意識に身震いを起こした深月になにを思ったのか、暁の威圧感がかすかに薄れた気がした。しかし、それも一瞬。
「君は極めて危険な状況にある。なぜこれまで気配を嗅ぎつけられていなかったのかは調査中だが。このまま対策を講じずにいるのなら、稀血の香りに引き寄せられた悪鬼どもの餌食になり得るだろう」
 暁は淡々と事実だけを述べていた。
 これまでの話を素直に信じていいのか、深月はためらう。だが、帝都の軍人ともある人が一介の民に無意味な嘘をつくとも思えない。なにより昨晩の出来事を見たあとでは、納得せざるを得なかった。
「稀血について謎はまだ多いが、悪鬼、禾月のどちらにとってもその存在は魅力的に映るはずだ」
(だとすれば、わたしは本当に……また、襲われるかもしれない?)
 底が知れない畏怖に寒気がした。
 眼球の血管が浮き出た、あの恐ろしい形相が何度も去来する。
「このままでは一ノ宮家の方にもご迷惑がかかる、ということですか……?」
 まだ自覚はないけれど、深月は一ノ宮と祝言をあげた身である。ご厄介になる先に迷惑をかけるわけにはいかないと心配になった。
 そんな深月の発言に、暁は眉根を寄せていた。
「いま話すべきか、判断しかねていたが」
「……?」
「昨日の祝言に関して報告があがっている。一ノ宮現当主は、庵楽堂の店主に縁談のすべてを白紙にする旨を伝えたそうだ」
「白紙?」
 もともと今回の縁談は、当主不在の際に誠太郎が一ノ宮の名を使い取りつけたものだったらしい。誠太郎の甥にあたる当主は、昨晩帝都に戻ってその一連の流れを知り、今朝には白紙の報せを出したのだという。
当主も叔父の気随気ままな振る舞いには手を焼いていたらしく、今回の件で厳しい処遇を与えると決定したそうだ。
 普通は祝言が済んでしまった段階であるため、簡単に罷りとおるものではない。天子の遠い外戚という立場を盾にして無理にでも収められたのだろう。奉公先の主人として送り出した大旦那は、どう転んでも面目丸潰れだが。
(それなら、わたしは……)
 途方に暮れるとは、まさにこのような状況を当てはめて使うのだろう。
 縁談の白紙。だからといってそう都合よく庵楽堂に戻れるとも思えない。帰る場所をもたない深月が先の未来を想像したところで、待っているのは身動きがままならない行き止まりのような現実だけだった。
「そこで、提案だが――」
「すげーぞ、アキ! おまえの推測どおりだ!」
 暁の言葉を遮るように、扉が荒々しく開け放たれた。
(お、お医者さま?)
 ずかずかと大股で入ってきたのは、色とりどりの奇天烈な洋装をした医者である。少し癖のある黒髪をひと纏めに結び、黒茶色の瞳がはつらつと輝いていた。ほのかに垂れた目じりときりりとした短めの眉幅が印象的な青年で、年頃はいままさに眉間に皺を寄せた暁と同じ二十代半ばだろうか。
 西洋医学の知識が取り入れられる昨今、帝都の医者は洋装、または和洋折衷の服の上から白衣を着用する者が半数を占めていた。いきなり現れた白衣の青年も身なりは道を歩く医者に近しいが、いかんせん奇抜である。
「検査結果、大当たり。稀血だったぞ!」
 意気揚々と青年が声に出すと、暁は少しだけ目をすぼめた。
「話途中だ、静かにしろ」
「こんなときに静かにしていられるか。オレの滾る興奮を鎮めることは、いくら鬼の隊長と云われるおまえだろうと――」
「うるさい」
 暁はため息混じりに青年の頭部へ拳を下ろした。しかしそれは軽く小突く程度の強さで、ふたりの関係性が垣間見える。
「……って、おっと。もう目覚めていたんだな」
 呆然と成り行きを見ていた深月の視線を感じとり、青年は嬉々として近づいてきた。
「オレは不知火蘭士(しらぬいらんじ)、医者だ。あんたの腕に巻かれた手ぬぐいを拝借して、血液を調べさせてもらった。本当に稀血だったとはたまげたぜ」
 不知火の言葉に深月はすぐさま右腕を確認してみる。そこには祝言前に巻いていた布ではなく、代わりの包帯がしっかりと傷口を押さえていた。
童天丸(どうてんまる)から聞いたと言ってはいたが、オレに声は聞こえないから半信半疑だったんだ。ところがどっこい成分がはっきり合致ときた。これで騒がずにはいられないだろ! それで稀血ちゃん、さっそく色々聞きたいんだが――」
「やめろ、蘭士」
 不知火の首根っこを暁がずいと引っ張る。そのまま深月から離すと、現状説明をした。
「彼女に稀血だという自覚はなかった。それどころか禾月や悪鬼の名さえ知らない」
「自覚がなかったって……おいおい、そんなことあるのか?」
「そうなのだから仕方ない」
 暁が簡素な口ぶりに、不知火の視線が一瞬ちらりと深月のほうへ動いた。
「いや、それじゃあおまえ、いままでなにを話していたんだよ。てっきりオレはおまえの――」
「不知火」
 とたんに空気が張り詰めた。
 暁の一瞥によって不知火はすぐさま発言を止める。妙な雰囲気になり、それから暁は、気を取り直し、さきほどまでしていた会話の内容を大まかに話した。
「へえ、ふうん、そうか。なら、オレが言った童天丸がなんなのかもわかってないわけだ」
 あごに軽く添えた手を撫でるように動かし、不知火は把握した様子でうなずいている。
 童天丸と、またも聞いたことがない名前が出てきて、それは人の名前なのだろうかと深月は密かに考えていた。部屋に入ってきたときの発言といい、不知火も暁と同じで色々と理由を知っているようだが。
「その説明は必要なのか?」
「そりゃあ、このあとの流れをを考えれば、おまえがどれだけ優れて頼りになる人間かをひっくるめて詳しく教えるべきだろ。なあ、稀血のお嬢ちゃん、そっちのほうが判断材料になるだろ?」
 同意を求められたが、深月は言葉に詰まってしまった。明かされる情報量が多すぎて、暁については気が回らなかったのである。
 そもそも判断材料とは、具体的になにに対しての材料なのだろう。
「こいつが隊長をやっている特命部隊ってのは、警吏と連帯を取りながら帝都治安維持に励む部隊だが、これはあくまで表向きのもんだ。本来は帝都民を襲う禾月の捕縛、悪鬼討伐が主たる任務ってところだな」
 先刻、暁によって存在を教えられた禾月と、悪鬼の名前。
 これらと日夜、戦い対処しているのが特命部隊。そして隊員は生身の肉体で互角に戦うための戦闘具として、必ずあるものが付与される。
 それが、あやかしを妖界から降ろし宿らせた『妖刀』という刀剣であると、不知火は饒舌に語った。
 そして隊長の暁は上位種の鬼、童天丸を宿らせた逸材であり、歴代最強とうたわれる妖刀の使い手として、鬼使いの異名まである人物だったのだ。
(……空想のような話ばかりだわ)
 けれども、これでやっと深月は腑に落ちる。
 出会い頭に暁が刃先を向けてきた理由、問いかけた言葉。
 あれは、刀に宿した鬼のあやかし・童天丸が、深月が稀血だと気づいて伝えたからなのだろう。刀に宿したあやかしと意思疎通が可能というのもなかなかに信じがたい話だけれど。
(もう、なにがなんだか……)
 どこから受け入れたらいいのだろう。自分が稀血という特殊な存在で、命を狙われる可能性がある、だなんて。
 理解して受け入れたとして、その先は?
 こんなこと、自分ひとりの手には負えない問題だとわかりきっている。
(本当に、なんて情けないの……)
 退路を絶たれた気分になる。困惑してばかりで、ひとつも意思ある声が出せない。悶々とすればするだけ、深月の視線は床に落ちていった。
「……蘭士、外に出ろ」
 深月を横目にした暁が、不知火に告げる。
「は? 急になに言って」
「もともと話していたところにおまえが入ってきたんだろう。こっちはまだ彼女に伝えたいことがあるんだ」
「それならオレがいたところでなんの問題もないだろ」
 依然として動かない不知火だったが、そんな彼を暁は問答無用で扉へと押しやった。
「さきに執務室で待っていろ」
「押すな押すな! せめて人の言葉は最後まで――」
ぱたんと扉が閉められる。同時に革靴の足音が響き、深月のすぐ近くで止まった。
「一つ、提案がある」
 見上げると、思いのほか暁との間合いが縮まっていて驚いた。しなやかな腕が体のすぐ横をすり抜け、椅子の背もたれに置かれる。さらに距離は近くなった。
しばたく深月に、暁は言った。
「契約をしないか」
「契、約?」
「このまま君を野放しにすれば、民の安寧を脅かしかねない。そして、君の身も」
命の危険が纏わりつき、周りの人を巻き込むかもしれない。深月にとっても不本意で、できるのなら避けたい。
「人として、むやみな混乱を望まないというなら……」
 一流芸者もうっとりしそうな、凛々しい花の(かんばせ)に垂れた前髪。そこから覗く淡い月色の瞳には、一点の曇も迷いもない。
「君は、俺のそばにいるべきだ」
 そして告げられた提案に、深月は耳を疑った。
「花嫁として、ここに」
「花嫁……?」
(どうして、そんな話になるの?)
 そう思うも選択の余地はなかった。
 稀血、禾月、悪鬼。なにひとつ深月は知らなかった。だから、なにか考えがある彼から差し出された手を取ることが、唯一いまの深月にできる最善だったのだ。
(花嫁、契約の花嫁)
 言い聞かせるように、何度も胸のうちで噛みしめる。
「衣食住についても保証する。安全保護も同様に」
「……はい」
 まるで他人事のような返事をしてしまった。
 深月にそんな意図はなかった。ただ、それ以外を咄嗟に口にできなかった。
「それでも、滅多なことは考えないでくれ。たとえいままでなにも知らなかったとはいえ、君が稀血であることには変わらない。逃亡、反逆の意思があればこの刀で斬る。だが……」
 腰の妖刀に手を添えたまま、暁は断言した。
「俺がそばにいる以上、君に傷はつけさせない」
状況は違う、でもけっきょくは同じだ。もとから自分に選択の意思などゆだねられてはいない。
「……どうか、よろしくお願いします」
 心はどこかに置き去りのまま深月はうなずき、そして深々と頭をさげる。
 着物の袖がふわりと揺れた。
 なんとも皮肉な、自由に飛び交う鶴の模様。

 なにもないわたしが、特別ななにかに変わる日は、くるのだろうか。
 そんな日が、いつか――。




 帝国軍特命部隊本拠地。軍本部と同じく中央区画に居を構える洋風の広い屋敷は、敷地内に部隊本邸、別邸と二つに分かれていた。
 本邸は隊員の居住空間、訓練場、医務室等を兼ね備えている。
 隊員数は百名前後。その約半数が本邸に寝泊まりしており、炊事場や中庭、洗い場には通いの女中が務めに精を出し、常に人の気配がそこかしこにあった。
 そして本邸のすぐ後ろの別邸には、隊長である暁の執務室や私室、ほかにも多くの部屋が備わっている。
 特命部隊に身を置くことが決定した深月が借りているのも、別邸の一室だった。
「おはようございます、深月さま」
「おはようございます……」
 日が明けてまもなく、深月の部屋を訪れたのは本邸女中頭の朋代だ。
 深月の世話役を仰せつかった彼女は、毎朝決まった時間に顔を見せ、深月の支度を手伝ってくれた。
(私なんかに申し訳ない。本当なら分不相応なのに)
 仕立てのいい着物に袖を通し、髪を整え、控えめな頭飾りまで。
 古着とも言いがたい襤褸の衣と、手櫛で髪をひと結びにしていただけの頃とは、なにもかもが違う。つい萎縮して肩を丸めそうになるが、深月はハッとして顔をあげた。
「毎朝すみません。着替えを手伝ってくださって」
「ふふふ、私はとても嬉しゅうございますよ。暁さまの妻になられるかもしれないお嬢さまのお手伝いができるのですから」
「…………」
 深月はなんとも言えない表情で唇を引き結んだ。整えてもらったばかりの前髪が、瞳の憂いを隠すように流れる。
「やはり少し目にかかってしまいますわね。私でよければ整えて差し上げましょうか? そうすれば視界も晴れますでしょうし。なによりもったいないですもの、このままでは宝の持ち腐れですわ」
 朋代はぼそりと濁したが、ほかに思うところがあった深月には届かなかった。
「そこまでしていただくわけには」
 深月が乗り気でないことを察した朋代は、「気が変わりましたらいつでもおっしゃってくださいね」と引き下がった。
 朝食までは、もう少し時間がある。朋代は本邸の様子を確認するため退室し、部屋に残された深月は浅く息を吐いた。
 たった数日前では、日が昇る前に起きて勤め奉公に明け暮れていたというのに、いまは正反対の生活になりつつある。
(今日は、お洗濯日和ね)
 深月は備えつけの椅子に腰かけ、窓外の快晴にそんな感想を抱いた。
 あえて意識をべつのところに向けないと、つい考えてしまうからだ。知ったばかりの、自分のことを。
(わたしが稀血という存在だから、狙われて、周りを巻き込むかもしれない。そうならないためにもここにいる。朱凰さまの、花嫁候補として)
 どうにか理解しようと反芻したところで、多くの不安は尽きないままだった。
 深月はそっと自身の顔を両手で覆う。
 心は日に日にうらぶれていくのに、泣くのもままならない。こうしているうちに涙一つでも流せれば、どんなによかっただろうか。

 ***

 同時刻、暁の執務室にて。
「おいアキ。なにがどうして〝花嫁候補〟になったんだ?」
 執務机にいる暁に声をかけたのは、帝国軍お抱え医者の不知火だった。彼は室内の長ソファーを陣取るように座って不可解そうにしている。
「見張るためにそばに置くには、それが手っ取り早い」
「そりゃあそうだが。ほかにいくらだって言いようがあるじゃねえか。隊長付き女小姓とか、隊長付き女中って手も……いや、見方を変えるとそれはそれで卑猥だな、うん」
「おまえはなにを言っているんだ」
 論点のズレを感じ、暁は怪訝な顔で冷ややかに返した。
「しかしまあ、未婚の男女が四六時中一緒にいて反感を買わず周りを納得させる理由としては、花嫁のほうが清らか真っ当なのかね」
 不知火は暁が軍の人間から縁談話や斡旋状を渡されるたび、苦々しげに顔を歪めていたことを知っていた。
 数週間前には、とある華族から『君も貞淑な花嫁を迎え尽くしてもらったらどうだ。それが男児の特権だろう。がっはっは』と絡まれていたはず。本人は終始しらけていたし、『不愉快極まりない』とぼやいてもいたが。
 それが頭の隅にでも残っていたのだろう。巡り巡って今回、深月がここにいる上で必要な名目を〝花嫁〟にしたのかもしれない。
「……彼女に関しては、朱凰の分家筋からやってきた花嫁候補ということになっている。参謀総長の口添えだといえば、隊員たちも余計な詮索をしようとは思わないだろう」
「おいおい、好き勝手にその名を語るなんて……いや、おまえならできるわな。さすがご子息さまさまだな」
「茶化すのはよせ。特命部隊隊長として、現段階で稀血の処遇を一任されているというだけの話だ」
 暁は軽くあしらう。だが、不知火の発言がまるっきり違うというわけでもない。
 朝廷に直属し、帝国軍参謀本部の長、最高指揮官にして権力者である朱凰参謀総長は、暁の養父だ。
 幼少の頃に養子縁組をし、それから暁は朱凰家の人間として生きてきた。
 そして特命部隊は帝国軍直轄の部隊として存在しているが、実質的には参謀総長直属の部隊である。
 参謀総長からはその都度状況に応じて指令が下されるが、基本現場の指揮権は隊長の暁が握っていた。
「取り急ぎの報告は済ませてある。参謀総長もとくに異論はないようだった」
 言いながら暁は机の書類に目を向ける。
 そこには不知火から渡された稀血の結果報告書や、ほかにも本部から新たに送られてきた調書が置かれていた。
 さらに端には縁談状がいくつかある。暁にとっていまもっとも不必要なものだ。それを処分用の箱に仕分けていると、またしても不知火が尋ねてきた。
「表向きは花嫁候補といっても、実際は稀血ちゃんの監視、観察が目的だろ?」
「ああ。軍が保持する稀血の情報には、不鮮明な部分が多いからな」
 稀血が周囲にどれほどの影響を及ぼすのか。
 ほかにどんな力を秘めているのか。
 禾月と同様の性質があるのか。
 稀血である深月を通じて、それらを確認するのも暁の役目である。
「つまり、おまえは稀血ちゃんと過ごす時間が多くなるってことだよな」
「当然だろう。稀血が発見されたと知るのは、おまえ以外に総督だけだ。緊急の事態が起こった場合を考えても、そばに置くのは俺以外に適任はいない」
 そもそも禾月や悪鬼について知る者もかなり限られている。
 帝国軍では特命部隊員のほか、参謀総長をはじめとする上層部、諜報部隊のみ。外部では朱凰家、分家の一部が該当する。
 さらに深月が稀血であるということは、ここにいる暁と不知火、参謀総長だけが知っている。のちほど副隊長には知らせる予定だが、彼は私用で隊を離れているため、いまのところ認知しているのは三人だけだった。
「事情を知る人間なら、もちろんおまえが適任だろうが。オレが言いたいのはだな、あー……ほら、男女ふたりが長いあいだ一緒にいるわけだろ?」
「任務の一環だ。それのなにが問題なんだ?」
「いやあ、そりゃあ……」
 不知火は素っ頓狂な声を漏らした。
 暁は綺麗な顔をした美丈夫だが、縁談云々を抜きにしても普段から女っ気がなく、異性からの好意にも動じない鉄壁の男である。
 そんな暁が任務とはいえ女性の近くにいなければならない状況というのは、どんなに想像してみても異様な光景にしかならない。
「まあ、相手はあの稀血だしな。女だからってほだされるわけないか」
「おまえはさっきからなにをぶつぶつ言っているんだ」
 余計な心配だったと勝手に自己完結している不知火に、暁は呆れた様子だった。
「すまんこっちの話だ。で、その稀血ちゃんの様子は?」
「この数日は反抗意思もなくおとなしくしている。今日からはこの部屋で過ごすことになるだろうが、近々隊員に紹介する予定でいる」
「おまえの口から花嫁と聞いたときの隊員の顔が見ものだな」
「すぐに慣れる」
 何事も冷静沈着。なにをふっかけても泰然としている暁に、不知火は聞き返した。
「で? おまえから見て、稀血ちゃんはどうなんだ?」
 どこか意味深い不知火の視線に、書類をさばいていた暁の手が止まる。
 眉をぴくりと動かし、それから静かに目を伏せた。
「……難儀だ」
「んん?」
 あまりにも小さなつぶやきに、不知火は聞き返す。
 しかし暁は無言のまま、今朝がた確認したばかりの報告書を流し見た。
(借金返済のため老舗和菓子屋の奉公人として数年間いたそうだが、近所周辺の住民とは一定の距離を保っていたようで深く認知されていない。……あの手を見れば、どのような扱いを受けていたか薄々想像つくが)
 あの夜――暁が一ノ宮家の母屋から深月を連れ出した際、赤く爛れた手が目に入ったのを思い出す。あれは水仕事や過酷な雑用による代償だ。
 奉公とはいえ荒れ具合はあまりにもひどく、そして抱えた身体の軽さに驚愕したのを覚えている。いいようにこき使われていたのだろう。雇い主と奉公人との間ではよく問題視されているものだ。
 奉公先では冷遇され、大旦那の娘の代わりに妾を囲い込む男のもとへ嫁がされた。初夜では悪鬼に取り憑かれた誠太郎に襲われかけ、それによって自身が稀血であることが明かされた。報告書と深月の証言を合わせれば、こんなところだろうか。
(……あまりにも環境に左右された人生だな)
 ふいに暁の脳裏に浮かんだのは、自身が何者かを知って身を震わせる深月の姿だった。
(彼女はここにいる以外、選べる道などなかった)
 寄る辺ない身。それを難儀と思っても、監視対象を同情的には見られない。
(たとえなにも知らなかったとはいえ、二つの血が流れているのは事実だ)
 もちろんその態度すら欺くための嘘だったという線もまだ捨てきれない。
 人間と禾月の狭間に生まれた存在。
 人か、人にあだなすものか。個人的感情を差し引いて見極めるのが、己の責務だ。
(これもしばらくは使わないだろう)
 暁は本部から届いていた小包のなかを確認する。
 参謀総長直筆の署名とともに入っていたのは、硝子の小瓶だった。
 ゆらゆらと小瓶のなかで揺れる赤い液体を視界の端に映し、そっとふたを閉じる。
 これを使うのは、見切りをつけたときだけである。

 ***

 特命部隊に身を寄せて四日目。
 暁に呼び出された深月は、多くの書物が並ぶ広い洋室に案内された。
「本日から昼の間はここで過ごしてもらう。勝手に外を出歩く以外は好きにしていて構わない」
 どうやらここは暁の執務室らしい。
 簡素な説明のあと、軍帽をはずした暁は執務机に腰かけて書類に目を通し始めた。その紙の束の多さに驚愕しながらも、深月の視線はきょろきょろと多方向に動く。
(好きにして構わないと言われても)
 この三日間は与えられた部屋でおとなしくしているだけだった。
 しかし今日からは、本部への出頭や報告、根回しをすべて終わらせ事務処理中心に移行した暁と過ごすことになる。
 表向きは朱凰の分家筋からやってきた花嫁候補としてだが、実際のところは保護と稀血の調査・監視が目的であるため、なるべく彼のそばにいるよう義務付けられているのだ。
(日中はずっとここにいるなんて、落ち着かないわ)
 深月は肩を縮こませる。
 西洋の高価そうな調度品が並ぶ空間に硬直するしかない。革製の透かし彫りソファの感触ははじめてのもので、体勢を整えるのに苦労した。
 それに、ここにきてから用意される着物についても思うところがある。街娘たちの間で大流行している西洋風の花柄模様の着物は、朋代が持ってきてくれているものだが、どれもあきらかに上等品だ。
 花嫁候補の話をされてからは忙しそうでなかなか会える機会がなかったけれど、特命部隊隊長である朱凰暁は、帝国軍参謀総長の息子だという。加えて華族の生まれであり、文句のつけようがない容姿から多くの令嬢が虜になっていると朋代が教えてくれた。
 そのような人とふたりきりだなんて、恐れ多くて息が詰まりそうになる。顔が良いからなどという理由は深月の頭にはなく、高貴な身分の人というだけで自分には別世界の存在なのだ。
 深月は横目でちらりとその姿を確認する。
 書類に判を押したり、なにか書き記したり、暁の手は常に動いて忙しくしていた。
 深月も庵楽堂にいたときは、日が昇るより早くに起床し、寝るまでずっと雑事に追われていた。それなのにいまは、ただ地蔵のように固まっている。苦痛だった。
「なにか、俺に話しがあるのか?」
 ふいに声をかけられ、深月は横を向く。書類を手にした暁と目が合いそうになった。
 硬質な双眸に見つめられ、深月は遠慮がちに口を開いた。
「組紐のことを、お聞きしたくて……」
 それは一ノ宮家の母屋で落として以来、手もとから消え失くしてしまっていた。
 この三日間、深月はずっと尋ねたいと思っていた。
「……ああ」
 暁は思い至ったように席を立つと、深月に小さな木箱を差し出してきた。
「今朝がた戻ってきた。これで間違いないか」
 深月はそれを受け取り、ふたを開ける。
 箱のなかには硝子石が嵌め込まれる深月の組紐があった。それもちぎれた部分が修復されており、また結び直してつけられそうだった。
「はい、間違いありません。あの、ありがとうございます」
「礼はいらない。すでに調べがついたものだ」
「調べる……これを、ですか?」
 思わず疑問を口にすると、暁は一瞬だけ執務机に目を向けた。
 その後、何事もなかったように深月の前にあるテーブルを挟んで正面に置かれたひとりがけの椅子に座る。
「あ……お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ございません」
「構わない。いましがたそれについての報告に目を通し終わったところだ。君の耳にも入れておくべきだろう」
 職務を中断してしまったかと不安になったが、暁は嫌な顔ひとつせず深月に向き合う。
「軍で調査した結果、君の組紐には特殊な石が使われていたと判明した。稀血の気配を断つ効果をもった加工石だ」
「気配を断つ……?」
「稀血が分泌する香りを消す、と言ったほうが正しいかもしれないな」
 ただの硝子石だと思われていたものは、別名『日照石(ひでりいし)』という特殊加工石であることがわかった。そしてこの日照り石は、あやかしが放つ邪気や妖気を跳ね除ける特性が含まれており、特命部隊隊員の妖刀などにも使用されている。
 祝言前、麗子と軽く揉み合った深月は、右腕を化粧棚の角に引っかけ怪我をしていた。さらに初夜では誠太郎に組紐をちぎられたため、無防備に稀血の香りが流れてしまったと考えられた。
「たったこれだけの怪我で、ですか」
 深月は右腕にそっと手を当てる。傷はもうほとんど塞がっていた。
「その日照り石の効果はすでに切れているようだが。君はそれを、いつから身につけていた?」
「……物心がつく頃には、すでにありました。養父が『肌身離さずつけなさい』と、わたしにくれたものです」
 当時は御守りとして持つ以上の意味はないと思っていた。
 けれど、組紐に使用されていたのが日照り石だとわかったいま、背けがたい疑念が出てくる。
養父(とう)さまは、なにかを知っていたんじゃ……?)
 そう考えたとき、暁は「君について少し聞きたい」と言ってきた。
 ひとまず深月はうなずき耳を傾ける。
「君が庵堂楽に身を置いたのは齢十四の頃。だが、奉公以前の記録はなにも残されていなかった。戸籍はおろか名字登録すらされていない。かといって『養成館(ようせいかん)』に入所していたという話も掴めていない」
 養成館とは、政府認可の養護施設。身寄りのない孤児や捨て子が過ごすための場所であり、帝都にいる以上は特別な理由がない限り入所が義務付けられている。
「養成館で生活をした経験は?」
「……いいえ、ありません」
「では、君が養成館で過ごさずにいたのには、どういった事情がある?」
「それは、養父がわたしを引きとって――」
 そこで深月は、はたと言葉を止める。
 暁がいま聞きたいのは、きっとそこじゃない。
 深月は人間と禾月の血を継いで生まれた稀血。となれば、暁が焦点を当てようとしているのはおのずとわかってくる。
「君は生みの親について、なにか聞いていたか?」
 やっぱり、と深月は思った。
 稀血が人間と禾月の間に生まれてくるのなら、深月の本当の両親はどちらかが人間で、どちらかが禾月のはずだ。そして、養成館ではなくどこかで深月を引き取った養父は、やはりなにか知っていた可能性が高い。
「……わたしが聞いていたのは、実の父と母は、赤子の私を置いてどこかへ行ってしまったという話だけです。以来、私を育ててくれたのは、養父でした」
 深月が両親に捨てられたことを淡々と告げれば、暁はわずかに瞳を哀しそうに揺らした。しかし気のせいともとれるほど一瞬で、さらに尋ねる。
「では、養父はいまどこに?」
「十四のとき、亡くなりました」
「君が庵楽堂の主人に返していた借金というのは、もしや」
「……! ええ、養父が生前残したものだと聞いています」
 借金まで調べ上げられている事実に深月は目を丸め、それから首を縦に動かした。
「養父の名は?」
「名字はわかりません。名は貴一(きいち)といいます」
 あらためて深月は、養父の素性をたいして知らなかったことを思い知る。
 なにより養父が詮索を拒んでいたような印象だったため、無理に問いただせなかったのだ。
「亡くなったというのは、病で?」
「いえ、養父は……家の前に傷だらけで倒れていて。その怪我によって亡くなりました」
「何者かから、襲撃を受けたのか……」
 暁は思案し、難しそうに眉根を寄せる。
「人が死んだとなれば大事だ。警吏隊にはいつ頃届出を?」
「それは……出して、いません」
「なに?」
「養父が、警吏には報せるなと。傷も手遅れだから、医者も連れてくるな、しばらく外には出るなと、何度も私に」
 養父は最後までかたくなだった。なにか隠しているのはわかりきっていたのに、それを深月に話す力もなく死んでしまった。
 残されたのは数々の疑問と、借金。
 当時は、金貸しと揉めて殺傷騒ぎにまで発展したのだと大旦那に聞かされた。
 深月はどこかで納得していない部分があった。あの堅実な養父が、本当にそのような事件に巻き込まれたのかと。
 しかし庵楽堂で生活をしていくうちに疑問を感じる暇さえなくなって、いつしか意識の外に抜け落ちてしまっていた。
「養父がどんな職に就いていたか、生まれはどこで、過去になにをしていた人なのか……わたしはなにもわかりません」
 いまさらながら、自分はなんて薄情なのだろう。
 そんな不甲斐なさと同時に感じたのは、養父に対する懐疑心だった。
(ねえ、養父さま……あなたはなにか知っていたの? だから、この組紐をはずすなと言って? 養父さま、わたしはなにを信じればいいの)
 組紐だけが、養父との繋がりを示すものだった。たとえもうこの世にいなくても、触れて実感するだけで気持ちが少し休まるような気がした。
 しかしそれを授けてくれた人は、とんでもない事実を隠したままだった。
 養父の目には自分が、どんなふうに映っていたのだろう。
 街から離れた場所で深月を育て暮らしていたのも、物資や生活必需品を届けて極力出歩く行為を避けさせていたのも。全部わかっていたけれど、深月は黙って受け入れていた。
 なにか大切な理由があるのだと、信じていたからだ。しかしその理由が稀血だったからであり、人ならざる化け物だと内心疎んでいた結果なのだとしたら……。
「君の養父、貴一殿はどのような人だった?」
 それはとても、気遣わしげに響いた。
 深月はふと前を見る。暁に声をかけられ、思いのほか自分が鬱々とうつむいてしまっていたことに気づかされた。
「も、申し訳ございません。話の途中に」
「謝罪は必要ない、それで?」
「え……」
「君の知る養父は、どんな人だった」
 これも事情聴取のうちなのだろうか。そう思っただけに、こちらを真っ直ぐ捉える目からほのかな温度を感じて、深月はふいを突かれてしまう。
 あれだけ根掘り葉掘り聞いていたのに、いまはどれだけ静寂が包もうと彼は言葉を待ってくれていた。
 不思議だった。こんなにも長い時間、自分の言葉を待ってくれたのは、短い人生を振り返ってみても養父以外にいなかったから。
 そのとき、胸の奥深くにしまわれていた思い出が唐突によみがえった。
「……字を、教えてくれました」
 養父は教え上手だった。たまに変わり種といって異国の文字にも触れさせてくれた。
「本を、たくさんくれました。いまはひとつもないけれど」
 養父は博識だった。幼いときには紙芝居を読んでくれた。
「知らないことを、たくさん教えてくれました」
 養父は物知りだった。自分についてはなにも語らないのに、海をこえた先にある広い世界の話をしてくれた。花の名前、草の種類、生きていく知恵をほどこしてくれた。
「わたしが好きだった、キャラメルをよく買ってきてくれました」
 養父は甘味が好きだった。貰ったキャラメルを口内でころころ転がしていたら、喉に詰まりそうになって笑われたときもあった。
「今日のように肌寒い日は、大きな羽織りをかけてくれました」
 養父は、あたたかい人だった。口数が多いほうではなかったけれど、やさしかった。
「そうか」
 深月がひとしきり思い出を口にしたあと、暁が短く声に出す。無表情な顔つきが、やはりどこか柔らかげだった。
 そして暁は、言った。
「君のなかに揺るがない記憶があるのなら、それを信じ抜けばいい。たとえ理想と違った現実がこの先あろうと、君の糧になるはずだ」
 なぜ暁は、突然そんな言葉をかけてくれるのだろう。
 会って間もない人間に、的確な言葉をくれるのだろう。
 意図がわからず、なんとも不明瞭だった。
(わたしが顔を伏せてしまっていたから……?)
 慰めとしか思えない口ぶりに、まさかの可能性が導き出される。
 たった一瞬、深月の気持ちが落ち込んでいるのを察して、あのような聞き方をしてきたのだろうか。
 深月はなんとか呼吸を整えた。
(……よく、わからない人だわ)
 最初は微動だにしない姿に畏怖すらあったというのに。予想していなかった彼の人間味に触れてしまい、深月のなかにあった得体の知れない恐れがほんの少しだけ薄らいだ。
「す、朱凰さま……こんなときに、なのですが」
 じんわりと汗が滲んだ両手を重ね、膝上できゅっと握る。深月にはまだ彼に伝えていない言葉があった。
「あの晩……助けてくださり、ありがとうございました」
 一度に多くを耳にしたせいで、ずっと冷静さに欠けていた。
 しかし振り返ってみれば、誠太郎が振り下ろした刃から庇ってくれたのは、まぎれもなく彼である。
「ありがとう、ございます」
「……そう何度も感謝されることでは」
 暁から言いよどむ気配が伝わってくる。
 繰り返し告げた『ありがとう』を変に思われただろうか。しかしこれは、たんに助けられた謝意を言っているだけではなかった。
(わたし、久しぶりに養父さまの話ができた……)
 そこには、養父の思い出を口にさせてくれた心づかいに対する礼も含まれていたのだ。
 職務としての対応なのかもしれないけれど、それは深月にとってとても大きなきっかけだ。
 長々と張り詰めたようにあったふたりの緊張の糸が、ほんのわずかに緩んだ瞬間だった。
 ひとまず養父の話が一段落ついたとき、こんこん、と扉を叩く音がした。
「失礼いたします」
 深月と暁は、同時にそちらへ目線を送る。
 入ってきたのは、配膳台を引いた朋代だった。
「お茶とお菓子をお持ちいたしました。あら、ちょうど休憩中でしたか?」
 ふたりがテーブルを挟んで相対している様子から、朋代はそう勘違いしたようだ。
 飴色のつやつやしたテーブルに、緻密な線や絵柄が施された洋食器が置かれる。
 湯のみ茶碗ほどの大きさだが、綺麗な半円を描くそれは、深月の知る湯呑とは違う。そしてその横には、薄い皿に乗った四角い形の見慣れない食べ物があった。
「こちらカステラです。ぜひ深月さまに召し上がっていただきたくて」
「わたしに、ですか?」
「そうですとも。お部屋にいらしたときは、遠慮されてお食事以外なにも口にされなかったではありませんか」
(……だって、毎食あるだけでも十分だったから)
 なんだか暁を差し置いたような発言が気にかかり、深月は正面の様子を窺う。しかし暁は気分を損なうどころか、いつものことだと言わんばかりで朋代の手もとを眺めていた。
「さあ、どうぞ」
 器にこぽこぽと注がれるのは、透きとおる赤茶色の液体。
 深月は首をかしげて、じっとそれを観察した。
「どうかしたのか」
「え?」
「見つめてばかりいても、勝手に喉には通らない」
諌められて、さらに両肩が跳ねるよう持ち上がる。
(まだ朱凰さまも口をつけていないのに、わたしがいいの?)
 だが、黙って挙動を見られていては手を動かさないわけにもいかず、深月はこわごわと白い器を手に取った。横についた持ち手に指をかけ、不慣れに口へと運んでいく。
 こくりと一口飲み、ほっと息を吐いた。
「……おいしいです。緑茶とは違った味がします」
「ふふふ、こちらは西洋産の紅茶というものです。カステラも一緒に召し上がると、より美味しくいただけますよ」
 かすてら。砂糖をたっぷり使用した南蛮菓子だ。
 深月は使い途中の店先から遠目に見ただけだったけれど、ここ数年帝都で流行っている菓子である。
 そっと暁を見ると、まだこちらに視線を固定したままだった。
「あ、あの……朱凰さまは、お召し上がりにならないのですか?」
「俺のことは気にせず、先に食べたらいい」
 そう言って暁は片手で持った器に口をつける。
「では……いただきます」
 しばらく逡巡していた深月だが、意を決して楊枝を取った。
 食べやすく切り分けたあと、一口ほどの大きさのカステラを舌に乗せる。
 じんわりとやさしい甘みの広がりに、鈍色の瞳がぱちぱちと明るくまたたいた。
「あまくて、おいしい」
 数年越しの甘味だった。
 自然とこぼれた感想に、朋代は微笑ましそうに目じりの皺を深くする。
 暁もまた、そんな深月を食い入るように見ていた。
「なんて愛らしいのでしょう。これですわ、暁さま」
「朋代さん、なにが言いたいんだ?」
「あなたはなにを口に入れても『ああ』や『うん』としかおっしゃらないんですもの。それでは作りがいがありません」
「美味しいとも伝えているだろ?」
「無礼を承知で申し上げるなら、深月さまのような反応が理想でございますわ」
「無茶を言うな」
 軽快に繰り広げられる会話。敬称は使っているが、ふたりの様子はとても親しげだ。
「ほんの少し前は、小リスのように頬袋を膨らませてなんでも召し上がっていたというのに……」
(頬袋……小リス……)
 想像しそうになり、深月はすぐに頭から想像を打ち消した。さすがに無礼が過ぎてしまう。
「一体いつの話を……。やめてくれ、彼女の前で」
 暁は額に手を押さえると、困ったように息を吐いた。
(この人も、こんな顔をするのね)
 深月は密かに盗み見ながら、ふと思い返す。
(そういえば朋代さんは、朱凰家に代々仕える使用人の家系に生まれたと教えてくれたような……)
 詳しくは聞いていなかったが、朋代は幼少の頃の暁を知っているからこそ、女中ではあるが自分の子どものような態度で接しているのだろう。
 暁が咎めないところを見るに、もとから容認しているようだ。
「ところで私、さきほどからおふたりについて一つ気になっていたのですが」
「……なんだ」
(……?)
 もう余計な話はしないでくれ、と言いたげな声の暁と、内心首をかしげた深月は、揃って朋代を見やった。
「深月さまは花嫁候補として分家からいらしたのでしょう? ということは、おふたりはいずれ夫婦になられるかもしれない。ですのに、いつまで他人行儀な呼び方なのです?」
「……!」
 ぎくり、とする。
 花嫁候補としてやってきた分家の箱入り娘。朋代が知らされている深月の事情は、そんな表向きのものだけだった。ゆえにさきほどからいやによそよそしいふたりの姿が、不自然に映ってしまったのだろう。
(もっとそれらしくしていないと、怪しまれてしまう……)
 まだ顔を合わせてほんのひとときしか経っていない。突然馴れ馴れしくするなどできはしないけれど、これからは花嫁候補と偽るのだから気を配らなければいけないと、深月は自分の表の立場を再認識した。

 ***

「私ったら、昼間はお節介が過ぎましたわね」
 夕方。暁が本邸に顔を出すと、朋代にばったり出くわし開口一番に言われた。
 野暮なことを告げてしまったという反省の色が窺える。
「いや、それより……彼女はこの数日、どんな様子だった?」
「お部屋でのご様子、という意味でしょうか?」
「些細な違和感でも構わない。彼女に関して気がかりな点があったのなら教えてくれ。……花嫁候補として、よく知っておく必要がある」
 言葉尻に取ってつけたような風情を装う。
 深月がもしなにか隠しているのなら、自分よりも朋代といたときのほうがボロは出やすかっただろう。養父の思い出を語る深月に邪なものを感じなかったとはいえ、念のため把握しておく必要があった。
「そうですねぇ。ほんの数日ですけれど……とても謙虚で、なにに対しても心苦しそうに謝意を口にする、少し行き過ぎたくらい遠慮深い方でしょうか」
 そう言って朋代は庭先にある一本の木に目を向け、やがて悲しげにつぶやいた。
「なんだか、耐冬花のようですね」
「……耐冬花?」
「椿の別名ですよ。厳しい冬のなか、痛みにも似た冷たさにじっと耐え、ただひたすら春を待つ。深月さまからは、そのような儚さを常々感じます」
 暁が聞きたかったのは、深月に怪しい点はなかったか、ということだった。
 朋代の言葉は感情論に寄っていて、暁の求める答えとは違っている。だというのに、妙に関心を寄せている自分がいた。
「彼女が、耐え忍ぶ花であると?」
「ふふ、あくまでも比喩でございますよ。ただ、私の知る朱凰の分家のお嬢さまとは、毛色が違っているのは確かですわね」
 おそらく朋代はなにかしら勘づいているのだろう。
 朱凰の分家や派生の家門は多くあり、その数だけ令嬢はいるが、あのように癖でうつむいてばかりいる箱入り娘は稀である。
 いまは朋代の手によって姿だけは令嬢といって遜色ないが、近くにいる時間が長いほど、仕草や振る舞いで違和感を持たれてしまう。
(あえてそこには、触れる気がないようだが)
 勘のいい人だからこそ、ぎりぎりのところを見極めて一線を引いている。しかし、昼間の発言にはかなりの悪戯心が隠れていた。
「朋代さんは、彼女を気に入っているのか」
「あら……それをおっしゃるならば、暁さまもではありませんか?」
「……は?」
 なにを言い出すのかと、暁は顔をしかめた。
 今日ようやく落ちついて話せたぐらいの、会って間もない監視対象を気に入るもなにもないだろうと怪訝がる。それでも朋代の笑みは深まるばかりだ。
「ふふふ。暁さま、ではお聞きします。女性の表情に気を取られたのは、今回がはじめてだったのではありません?」
「…………」
 急に喉の奥底がぐっと絞まったような心地がした。朋代の指摘に、口だけの否定すらできなかった。すべて的を得ていたからである。
『あまくて、おいしい』
 前髪で陰る眼が、カステラを一口入れただけで輝いていた。
「ほら、すぐに思い出せたでしょう?」
「それが、どうしたと」
「歯がゆいですわね。瞬時にその顔を思い出せるくらいには、心に深く残ったのですよ。いつも不要なことは気にもとめないような、あなたさまが」
「それだけで気に入っているという話にはならないと思うが」
「剛情ですわね。では言葉を変えます。深月さまのこと、女性として苦手ではないでしょう?」
 やはり朋代は、どこか楽しげだ。
 自分が深月を気にかけているのは事実だ。しかしそれは、朋代が考えているような花嫁候補として、異性として見ているからではない。あくまでも稀血だから……の、はずだというのに。
(朋代さんの言葉を、すべて鵜呑みにするわけではないが)
 いまのところ深月からは、邪なものが一切感じない。
 ……そう、邪どころか。あの瞬間だけは、すっかり毒気を抜かれてしまった。
 心のままにつぶやかれた声があまりにもたどたどしく、小さくほころんだ顔が印象的で。
「美しい花の開花というのは、それが丹精込めたものほど咲いた姿に胸を打ち、記憶として残ります。そしてまた、咲かせたいという欲が出る。それは人にも共通すると私は思いますわ」
 それは、花を愛でることを趣味とする彼女の持論だろうか。
 あまりに抽象的すぎる。しかし、どういうわけか引っかかる。
 庭先の椿の木に目をやりながら、暁はしばらくその場に踏みとどまった。




 ***

 次の日。
 いつものように支度を整えてもらった深月は、朋代から「本日からお食事は、暁さまとご一緒されると聞いていますわ」と言われ、別邸の食堂の間に案内された。
 食堂の間にはすでに暁の姿があった。
「おはようございます」
「おはよう」
 彼からあたり前のように挨拶が返ってきて、深月は安堵する。
「ここに」
「……失礼します」
 深月は暁に示された椅子に座り整えられた朝食を見る。
 西洋建築に西洋の調度品で囲まれた場所ではあるが、出される朝食はどちらかというと和食寄り。部屋で食事をしていたときもそうだったが、深月には贅沢に感じるほど品数が多い。
 米は麦飯ではなく粒がつやつや光った白米、汁物に焼き魚、和え物、香の物、まだまだ庶民には気軽に買えない卵で調理された一品や、肉料理まである。
「俺との食事は不本意だろうが、慣れてくれ」
 暁が箸を取って告げた。
「い、いえ。不本意だなんて……ただ」
「……?」
 深月のはっきりしない口ぶりに、箸を持つ暁の手がゆっくりと下がった。
 花嫁候補を装うために、一緒の食事も必要な見世物なのは理解している。暁に対する不安感も最初よりはなくなった。だから、本意でないとも思っていない。それよりも深月が気にしていたのは。
「毎回このような食事、いいのでしょうか……」
「君の口に合っていなかったか?」
「いえ、そんなことはっ」
 深月は慌てて否定する。
「どれもあたたかくて、おいしいです。でも、わたしにはあまりにも勿体なくて。昨日もカステラをいただいてしまいましたし」
 衣食住を保証すると約束されたものの、ここまでの待遇を受け入れていいのだろうか。
 すると、深月がなにを言いたいのか理解したように、暁から小さなため息が聞こえた。
「では、どんな食事なら君は素直に受け入れられる」
「え?」
「参考までに聞いておこう。これまではどんな食事を摂っていた」
 まさかそのような返しがくるとは予想外だった。
 戸惑う深月に、暁は試しに教えてくれと耳を傾けている。
 黙っているわけにもいかず、深月が「お漬物と麦のご飯です」と簡潔に答えれば、暁の表情が固まったのがわかった。直後に険しい声音が響く。
「なんの冗談だ」
「え?」
「庵楽堂は奉公人の食事を最低限にしなければならないほど困窮していたのか」
「それは、ないかと……」
 ほかの女中はそれなりの品数はいただいていたし、形が崩れたりして商品にならない廃棄品が配られることも多々あったはずだ。
「では、君だけがそのような冷遇を?」
 失敗した。人との会話にあまり慣れていないせいか、余計なことを口走っていたようだ。
 深月の感覚が麻痺していただけで、暁の反応から察するに庵楽堂での食事内容は普通ではなかった。そうやすやすと他人に教えてはならないほどに。だからといって、ここでの食事はあきらかに贅沢すぎるのだが。
「わたしには借金がありましたので、ほかの女中と多少扱いが違っていたのは仕方のないことだと……」
 これ以上、庵楽堂での日々を詳しく話せばどんな反応をされるだろう。
 まるで告げ口をしているような気になってしまい、深月は黙り込んだ。
「……重症だな」
 さらに嘆息が聞こえて、暁の目がこちらを向いた。
「食事に関してはあとで朋代さんに伝えておく。いままでの内容を考えると、ここでの食事は胃に負担をかけていただろうからな。少しずつ調節しよう」
「あの、わたしは――」
 いま以上に手間を取らせるわけにはいかないと、口を挟みそうになる。
 それを暁は視線一つでたしなめた。
「いいか。契約上のものだとしても、君は俺の花嫁候補としてここにいる」
「……はい」
「なら、まずは与えられた特権を享受することに慣れてくれ。遠慮深さはときに美徳だが、君の場合は卑屈に映る。朋代さんは例外でも、ほかの隊員や使用人からしてみると朱凰の分家筋からやってきた人間としてはひどく浮くはずだ」
 昨日、朋代に言われて立場を再認識したはずだというのに。いちいち指摘されなければ改善できない自分を、深月はふがいなく思った。
「そう、ですよね。申し訳ありません――」
 反射的に謝ってしまうが、それをすかさず暁が止める。
「少しだけだがわかった。君のその卑屈さは、君だけのせいじゃない。だから、無闇に謝ってうつむかなくていい」
 力強く諭され、深月は前を向くほかなかった。
 謝るな、うつむくな、遠慮をするな。
 暁は、これまで深月が強要されていた生活の真逆を言ってくる。深月には不慣れなことばかりだが、それがまったくつらいとは感じない。
(朱凰さまは、花嫁らしく見せるために必要助言をしてくれているのだわ)
 しかし彼の言葉の節々からは、なぜか気遣いのようなものが感じられる。
 利害の一致にすぎない関係だというのに、かける言葉は驚くほどに実直で。話す機会が増えていくたび、暁に対する心象がさらによくわからなくなってしまった。
「遅くなってしまったが、冷める前に食事をいただこう」
「……はい、いただきます」
 誰かと一緒にする食事は何年ぶりだろうか。紅茶とカステラを前にしたときも緊張はあったが、人の気配を近くに感じながら口にする食事は深月にとって不慣れだらけである。
 そんな深月の胸中を箸の動きで察した暁からは、「なにも気にせず好きなように食べたらいい」と察したような発言がされた。
 食べきれない分は素早く下げさせ、深月が食べ終わるまで急かさず待ち、彼は朝食のあいだ驚くほど紳士的だった。
 これまでも美味しいとは感じていたが、今日の食事はこれまでよりもしっかり味わえた気がした。
「昨日、朋代さんに言われたことを覚えているか?」
 ほどなくして深月が箸を置くと、出し抜けに暁が訊いてきた。
「……名前の呼び方、でしょうか」
「そうだ。隊員たちに紹介する前に、互いの呼び方を統一させたほうがいい」
「朱凰さまを、お名前で、ですよね……」
「ああ。ほかになにがある?」
 至極当然にうなずく暁に、深月は視線をさまよわせた。
 彼はじっとこちらを見据えている。もしや、いままさに呼び合う練習をする流れになっているのだろうか。
 帝都でも男女が互いを名前で呼び合う行為というのは、昔なじみや血縁を除いて、なにかしら特別な関係を示唆する証として捉えられる場合が多い。もちろん例外はたくさんあるが、名前を呼び合う仲というのは、それだけで関係に真実味をもたせてくれるだろう。名前呼びは、現状絶対に必要だ。
(名前を呼ぶだけ、呼ぶだけよ)
 なにも難しいことじゃない。でも、深月はこれまで男性を名前で呼んだ経験がない。元旦那といっていいか微妙なところだが、誠太郎にだって『旦那さま』としか呼んでいなかった。
「朱凰さま……いえ、あ……あか、つき、さま」
 なんてことだろう。あまりのひどさに深月は頭を抱えたくなった。
「俺の名はそこまで呼びにくいか」
 わずかに下がった形の良い眉。困惑を含ませながらも、柔和な面立ちでこちらを見つめている。
「あの、慣れていないもので……」
「俺も特段慣れているわけではないが」
「す、すみません。すぐ慣れるようにしますので、すぐに……」
 気恥ずかしさと畏れ多さが入り交じる。ひとまず口に出していれば少しはマシになるだろうか。
「暁、さま……暁さま、暁さま」
「…………」
 同時に、戸惑う空気感が暁のほうからする。
 異様な様子にも思われそうだが、それだけ深月は必死だった。だが、繰り返しつぶやいていると突っかえる頻度が徐々に減ってくる。
(これならなんとか……)
「深月」
「はいっ」
 ふいに呼ばれて、深月は弾かれたように顔をあげた。
「俺は一度で十分だな」
 そう言って、暁はどこか遠くを見るように深月から視線をはずした。美しい横顔がほんのり狼狽えているような気がする。
「し、失礼しました、何度も……」
 慣れるためとはいえ本人を前に何度も名前を呼んでしまっていた。そんな深月の顔には羞恥の感情がにじみ出ていた。

 深月が花嫁候補として立ち居振る舞いを試されたのは、朝食が終わってすぐのことだった。
 場所は本邸に併設された特命部隊訓練場。花嫁候補として隊員たちにひと言挨拶をするため、深月は暁とともに訓練場を訪れたのである。
「彼女は朱凰の分家筋の者だ。禾月、悪鬼についても認知している。私の花嫁候補として、隊の視察も滞在目的に含まれている。皆そのつもりでいてくれ」
「深月と申します」
 暁の紹介のあとに軽い挨拶をすれば、眼前で整列した隊員たちから静かなどよめきが聞こえてきた。
「隊長が花嫁って言った……」
「あの隊長が」
「いや、候補って話しだが……」
「こんなのはじめてだ」
 隊員らに反発などはなく、ただ暁の口から『花嫁』と出たことに驚いているようだった。
「暁さまから紹介いただきましたが、視察といっても隊務の邪魔にならないよう気をつけますので、皆さまどうぞよろしくお願いいたします」
 深月は言葉を添えて会釈する。
 必死になって頬をつり上げ、余裕のありそうな笑みを作った。
 見た目は疑う要素のない良家のお嬢さまである深月を、この場で不審に思う隊員はいなかった。
 紹介後、深月は訓練の見学をするため場内の隅に移動した。
(なんとか挨拶は終わったけれど、ちゃんとできていたかしら……)
 隣に立つ暁の様子を横目に窺う。
「緊張したか?」
 見られていることに気づいた暁は、隊員たちの打ち合いを眺めながら尋ねた。深月はつられて首をぱっと動かし、端正な横顔をじっと見上げる。
「緊張、しました」
「だろうな。声が随分と固かった」
「す、すみま……」
 言いかけて、朝食の席でした会話が頭によぎる。
 ここは謝っても問題ないところか悩む深月の横で、ふと空気が抜けるような音が聞こえた。
「緊張して当然だ。よく噛まなかったな」
 細めた両の眼がこちらを向く。
「……!」
 朝食の際に名前呼びに苦戦していたとはいえ、こんなところで褒められるとは思っていなかった。
(いま、少しだけ笑って……た!?)
 唐突な労いの言葉に、深月はまじまじと見返してしまう。彼の表情の変化に目の錯覚かと戸惑っていれば……。
「隊長、よろしいでしょうか。どうも刀が扱いづらくて」
「ああ。深月、ここで待っていてくれ」
「は、はい」
 訓練中の隊員に呼ばれた暁は、そう言い残して場内の中心へ歩いていった。
 ひとり残された深月は、背筋のいい後ろ姿をぼうっと見送る。
 そのとき、横から声をかけられた。
「よう、お嬢さん。アキとうまくやれてるか」
「……不知火さま」
 深月は近距離からひらひらと手を振る不知火にそっとお辞儀した。
 もう片方の彼の手には、木製の収納箱が握られている。
「オレに『さま』はいらないって、むず痒くて仕方ねえ。不知火さん、または蘭士さんとでも呼んでくれ」
「で、では、不知火さんと呼ばせていただきます」
「おう、よろしくな」
 不知火は好意的に笑いながら深月の隣に立つ。それから視線は深月の腕に移った。
「右腕の傷は塞がったか?」
「はい。その節は手当をしてくださって、ありがとうございます」
「礼はいいよ。オレもあんたの手ぬぐいを拝借したままだしな」
 不知火は帝国軍お抱えの医者。検査結果で深月を稀血だと断定したのも彼である。要請を受ければどこにでも赴いて治療をするそうだが、彼の拠点は特命部隊であり、本邸には医務室、別邸には個人室が用意されている。
 最近は頻繁に本部に出入りしていたらしく、深月と顔を合わせるのは初対面時に会ったきりだった。
(朱……暁さまからは、不知火さんが定期的に検査をおこなうらしいけれど)
 検査といっても大掛かりなものではなく、内容としては血液採取と問診、触診だけだと聞いている。
(だけといっても、やっぱり緊張する……)
 不知火は稀血である深月に興味津々だった。
 出会い頭にも詳細を色々と聞きたそうにしていた様子を思い出し、無意識のうちに身構えてしまう。
 どうやらそれは、不知火にも伝わっていたようだ。
「はは、そう警戒しなさんなって。少しはわきまえろってアキにもこっぴどく注意されたしな」
「……暁さまが?」
 それを聞いて深月の瞳は自然と暁を映した。
(え……?)
 いつの間にか彼は、隊員と打ち合い稽古を始めようとしているところだった。
 刹那、場内の空気が変わったことに気づく。そして両者の握る刃が面妖な鋭さを放ったとき、深月は見開いた。
(あれは、真剣?)
 竹刀でも木刀でもない。一歩間違えれば軽い怪我では済まないだろう。もしもの場合を想像して顔を青くさせていると、不知火が何気なしに言う。
「前に、あやかしを宿らせたものを〝妖刀〟だっていう話はしたな」
「あやかし降ろしですか……?」
「そうそう。で、いまあのふたりが構えてんのは、どっちもその妖刀だ」
 妖刀。童天丸のほうは一度だけ抜き身の状態を見ている。
 そのときは首筋に突きつけられてそれどころではなかった。けれど、いまこうして傍から観察していると、その異様さがひしひしと伝わってくる。
「刀の主は精神力を試される。舐められたら逆に取り憑こうと襲ってくるのがあやかしだからな。それを制御したり従わせる訓練をするには、妖刀同士の打ち合いが効率的なんだよ」
「だけど、あれでは……」
「怪我もするだろうし、下手したら重傷を負うだろうな」
 不知火は平然と言ってのける。
 彼にも特命部隊にとっても、それがあたり前のことらしい。
「まあ、アキはそのへんの加減を心得ている。宿した鬼をあれだけ意のままに従えられんのも、あいつの実力あってこそだしな。それに……」
 不知火はさらに言葉を繋いだ。
「訓練稽古でへばっているようじゃ、悪鬼も禾月も退けられない。勝てないだけならいいさ。が、最悪の場合は死ぬ」
 不知火は断言する。
 悪鬼に取り憑かれた人の変貌は、深月もしかと体感した。理性がなく発狂するさまは思い出しただけで体の芯が冷えていく。
 では、禾月はどうなのだろう。
 まだ自分は、禾月をこの目で見ていない。たとえ街中ですれ違っていたとしても、認識できないだろう。
 人間の形をして、知能があり、世にうまく溶け込んでいて、血を飲む。
「不知火さんも禾月を見て……いえ、会ったことが?」
「ああ、あるよ」
「どのような人たちなのですか?」
 聞かなければよかったと、すぐに後悔した。
 自分も半分が〝そう〟だと知ったばかりだというのに。いや、そうだと知ったから聞いてしまったのかもしれない。
「禾月は……あー、そうだなぁ。悪鬼よりもよっぽど化け物じみたやつら、だな」
 不知火にまったく悪気はなかった。答える上で深月を意識した素振りもなく、彼が見てきた禾月をただ追考させて口にしたにすぎない。だからこそ一つの事実なんだと思い知らされる。
(……化け物。悪鬼よりも)
 深月は少しずつ知っていく。
 人ならざるものと、それらに命をかけて立ち向かう人々がいる。
 そして自分の存在が、どれだけ異質なのかということも。

 ***

 夜。廊下のガラス窓から空を見ると、分厚い雲の隙間から、三日月が顔を出していた。
(月明かりが弱いとはいえ、油断はするなと伝えておこう)
 暁は夜間巡回の隊員たちへの指示を考える。
 禾月の活動力は月の輝き度合いで左右される傾向にあった。
 とくに満月の強い光による精神の高揚はどの禾月にも当てはまる特性だが、だからといって警戒を緩めると命とりになる。そんなふうに少しの過信や隙で痛い目に遭ってきた隊員を、暁は多く見てきたのである。
 肌寒さを頬に感じながら、暁は深月の部屋の前で立ち止まった。それから一拍ほど置き、ゆっくりと扉の取っ手に触れる。
 なかに入り、すぐに部屋奥の寝台を確かめた。
 暗闇が広がる室内。格子窓から差す月の湾曲した光だけを頼りに、その存在を確認する。暁は足音を消しながら寝台横へと近づいていった。
 足を止めると、すう、とか細い寝息が聞こえてくる。
(……これは一体)
 寝台を見下ろして、暁は思わずまばたきを落とす。
 人がふたりは寝そべられる広さがあるというのに、深月が眠っているのは床に落ちるのではと思うほどに端の位置だった。それも厚手の毛布を被りもせず、薄っぺらい掛け布で暖を取っている。
(毎晩このような寝方をしていたのか?)
 起きているときよりも幾分あどけない顔は、寒さに耐えているせいかまったく休まっているように感じない。
(……風邪を引きたいわけではあるまいし。さすがに落ちるだろう、これは)
 暁は静かにため息をこぼす。
 所在なさげに身を縮めて眠る様子があまりにも侘びしく、ためらいながらも自ずから手を伸ばしていた。
 あいかわらず綿のように軽い。大げさかもしれないが、暁にしてみればそれほどに華奢だった。良く言い換えて繊麗、けれどやはり体調面を考えてしまう。
 本人ははぐらかしていたが、聞いたかぎり庵楽堂での食事内容は粗末なものだった。
 それも日頃から我慢していたというよりは、あたり前だと受け入れていた姿勢に、言いようのない憤りが頭の片隅に居座っていた。
 その説明のつかない思いに釈然としないまま、深月を軽々と抱えた暁は掛布団をめくり、寝台の真ん中に横たえさせた。
 手足が飛び出してこないよう厳重に布団を掛け直したとき。
「……!」
 暁は、ぬくもりに包まれた深月の表情がほっと和らいでいくのを至近距離で目のあたりにしてしまった。
 さらりと流れた前髪の下で、閉じ合わせた長いまつ毛が頬に影を落とした。
 なぜだか、見てはいけないような心地になる。
(女性の寝顔を、長く見るものじゃない)
 掛布団から手を離し、さりげなく目線を横にそらす。
 そのとき、暁はなにかの気配を察知した。すぐさま探るようにまぶたを伏せ、そして、見つける。
(敷地外、南西か)
 ここまでわかりやすい気配は十中八九、悪鬼だ。
 複数が同じ場所を行ったりきたりしているようだが、いつまでたってもなかに侵入しようとする動きはない。暁がほどこした結界の力によって足止めを食らっているのだろう。
 だが、既存の結界で稀血の匂いをすべて消すのは難しかったようだ。
「童天丸」
 暁はつぶやきとともに窓外へ鋭い視線を投げた。親指を刀の鍔にかけ、鯉口を切る。
「彼女の気配を薄めろ」
 それに応えるように、外気に晒された刃の部分が赤く発光した。
 童天丸に命令し、結界の効果を強めたのである。そうすることで外敵が稀血の気配に勘づきにくくなる。
 やがて鞘から手を離した暁は、ふっと息を吐いてふたたび深月を見下ろした。
(まったく起きる気配がないな)
 その様子に肩の力が抜ける。
 無理もない。今日は朝から食事を一緒に摂ったり、隊員に挨拶をしたりと、気を張ってばかりだったろうから。
 しばらくはそんな日々が続いていく。
 しかし不思議と、初対面の頃にあった気鬱さはない。深月があまりにも、自分が抱いていた稀血の想像と異なっていたからだ。
 だから余計に調子が狂ってしまう。
 使命に一切の揺るぎはなくても、なにも非情に徹しようとしているわけではない。
 ――暁さま。
 明日、彼女の口からはなにが語られるだろう。
 うつむきがちの顔が、どのような感情を見せるだろう。
 義務感からではなく、これは暁のなかに表れた純粋な興味だった。

 ***

 数日後、その日も深月は執務室にきていた。
 暁には裁かなければいけない書類が多くあるようだが、深月にはとくにやることがない。暁のそばにいる必要があるとしても、この手持ち無沙汰は深刻な問題である。
(……でも、お仕事の邪魔をするわけにはいかないし)
 せめて無駄に動かず彼の気が散らないようにしていなければ。
 そう考えておとなしくしていた深月だが、しびれを切らしたように暁が机上から顔をあげた。
「君はじっとしているのが好きなのか?」
「……いえ」
 好みを問うならむしろ苦手である。
 貧乏暇なしとはよくいったもので、これまで深月は雑務に追われてばかりいたのだ。なにもせずにいると、自分がひどく怠惰な人間に思えてしまう。
 本邸にいる女中たちの手伝いをすれば時間もあっという間に過ぎるのだろうが、ここでは分家のお嬢さまで通している深月に仕事を任せてくれる人はいないだろう。
 第一に稀血として暁の監視下に置かれなければいけない立場でもあるのに、自由に出歩けるはずがなかった。
「君は養父から字を教わっていたと言ったな。書物にもなじみがあったと」
「は、はい。随分と前のことですが」
「文字を読むのは、苦ではなかったんだな?」
「好きなほうだったと思います」
 曖昧な言い方をしたが、実のところかなり好きだった。
 あまり外に出歩いていなかったので、あの頃は屋内で時間を費やせる書物がかなりの娯楽だったのだ。
「では、その棚にある書物に目を通してみるのはどうだ」
 暁が示した壁一面に並んだ本棚には、ぎっしりと書物が置かれている。
 有名な文豪の大衆文学作品から、諸外国から取り寄せたであろう翻訳小説まで、幅広く集められていた。
「……いいのですか?」
「部屋の外に出る以外は好きにしていいと伝えていたはずだ」
 それはそうだけれど、図々しく室内のものを物色するなんて自分にはできない。
 どこまでも受動的になってしまっている深月に、暁は「どれでも好きに読んだらいい」と付け足した。
 本が読めるのなら少しは時間を潰すことができる。
「ありがとうございます。では、いくつか拝借します」
「ああ」
 断りを入れて深月はそそくさと本棚に向かう。背中あたりに、暁が見守っているような気配を感じた。
(懐かしい……)
 自分の背よりうんと高い本棚を眺めながら、ふと思い出に浸る。
 養父とともに借家で暮らしていたとき、養父は帰ってくるたびに新しい読み物を届けてくれた。暁に伝えたように外来語の知識も豊かであり、十四までは深月も教わっていた。
 しかし女中奉公となってからは、娯楽目的で文字に触れる機会はなかった。あったとすれば、麗子が女学校時代に持ち帰ってきた外来語の課題を代わりにやったぐらいである。
(どうしてわたしが外来語を理解できるのかと変に敵視されてしまったのも、その頃だった)
 苦い記憶も蘇ってきてなんとも言えない心地になる。
 気を取り直して棚に目をやると、右隅の棚に覚えのある小冊子が挟まっているのを発見した。
「この冊子……!」
 深月から歓喜の声が漏れる。
 それは五年前、深月がいちばん続きを読みたいと望んでいた物語の続編だった。
「それがどうかしたのか」
 知らずのうちに隣に立ってこちらの様子を見ていた暁が尋ねてくる。
「あの、この冊子、養父さまが貸してくれた物語の続編で、ずっと続きが気になっていたもので」
「そうだったか。俺も最新の第八章まで読んだが、どの話も面白かった」
「そ、そんなに続きがあるのですか……!?」
 自分が読んだときは第一章が出回り出したぐらいだったのに。
「ああ、ここには五冊まで。残りは書庫室に揃っている。めぼしいものを見つけられてよかったな」
「はい……っ」
 心に残っていた物語、同じ読者が身近にいることへの驚き。深月は感激のあまり夢中になってうなずき、暁のほうへためらいなく顔をあげる。
 暁は、かすかに息を呑んだ。
「……君は。もっと表情に乏しい人だと思っていたが、菓子のときといい、思い違いをしていた」
「え?」
 なんだか視界がいつもより晴れている。見上げた拍子に、日ごろ微妙に目を覆っている前髪が左右に流れたようだ。
 なにより、暁とばっちり目が合っていた。窺い見たり、盗み見たりしてばかりだった綺麗な面差しが、この上なく鮮明に見える。
(あ、れ……)
 じっと見下ろされ、深月ははじめて自分から明るい表情を相手に向けていることに気づく。その瞬間、頭のなかには何重にも反響する声があった。
『あんたのその顔、周りを苛つかせているのに気づかないの?』
『この愚図、厚かましいのよ!』
『借金を肩代わりしてもらっておいて、よく楽しそうに笑っていられるわね』
『そんな余裕が、あんたにあるわけ?』
 ……心ない辛辣な言葉にまみれてきた結果、深月にはいくつかの癖が残っている。
 相手の目を直接見られなくなっていること。
 自分の顔をなるべく見せないようにうつむくこと。
 決して人前で楽しそうに笑ったりしないこと。
 どれも言いつけられて染み込んでいった癖である。それをいま三つとも無意識でしてしまっていた。
 我に返った深月に大きな焦りが生まれる。
「あっ、し、失礼しました、申し訳ありませんでした……‼」
「……?」
 庵楽堂でも人の目を気にして感情のままに笑うのは控えていたため、遅れて自分の状態を察した深月は大罪を犯したような気迫で謝った。
 しかし、暁は心底不思議そうに深月を見返していた。
「いまのどこに、謝る要素があった?」
「じ、自分から長いあいだ目を合わせてしまっていました。だらしない顔も晒しました。それに自分から笑いかけてしまいました。ずっと気をつけていたはずなのに、わたし……」
 頭に深く響いた麗子の声は、思いのほか深月の意識を庵楽堂へ引きずり込んでいた。ここはもう庵楽堂ではないと理解していても、体に残った癖はなかなか消えてはくれない。少しでも顔をあげて目が合ってしまえば、相手の不快になる感情を出してしまえば、頬を叩かれていたあの頃に戻ってしまう。
(……声が、おさまらない)
「落ち着け、深月」
 そのときだった。大きな掌が、半ば混乱した深月の肩に添えられた。
「ここはもう、君のいた場所ではない。言え、ここはどこだ」
「え、と……特命部隊本拠地です」
「君の目の前には誰がいる」
「朱、……暁さまです」
 まだ、視線は合わさったまま。透きとおる淡黄の瞳が力強く諭していた。
「君が言ったことを、俺は一度でも強要したか」
「……していません」
「目を合わせるなと馬鹿げた決まりを押しつけたか」
「いいえ……」
 深月はぎこちなく首を横に振った。
 積み重なっていく問答によって段々と冷静になっていく。
 それから暁は、小冊子を持つ深月の手を一瞥した。
「俺は君の行動を制限しているが、感情の制限までするつもりはない。思うこと、感じることは、君の自由であり誰であろうと脅かすことのできない権利だ」
 うまく言い表せないが、その言葉は深月の心に強く響いた。なんだか無性に目頭が熱くなり、視界がぼやけて涙が溢れ出ようとしている。深月は戸惑いながら横を向いて目もとを拭った。
「君の立場からすると、契約を提案した俺の言葉は説得力に欠けるだろうが」
 深月の様子に察したふうに目をそらした暁は、ひとりごとのようにつぶやいた。
「いえ、そんな……」
「その冊子、読みたかったものなんだろう。いつまでも立っていないで座って読んだらいい」
「……はい、ありがとうございます」
 さっきまで、どうしようもなく焦ってしまっていたのに、これでもう何回目だろう。彼の言葉にたやすく溜飲が下がり、救われたような気持ちになるのは。
 養父の話になったとき、朝食の席、そして今回の件で確信した。
(……この人の言葉は、どんなときでも真っすぐだわ)
 特命部隊の義務として、稀血の深月をそばに置くのが暁の責務なのは確かだ。
 身の危険から守り、保護してもらっているといえば聞こえはいいが、そこにはあきらかな監視が含まれている。帝国軍にも未知数な稀血の自分は、そう簡単に野放しにはできないのだろう。
 しかし、その義務感を差し引いても、言葉を重ねれば重ねるだけ彼の真摯さに触れ、驚かされている。
(よくわからない人だとはずっと思っていたけれど、彼は一体、どんな人なんだろう)
 いまさらながら、深月は思った。
 利害関係の上で成り立つ軍人としての彼ではなく、暁というひとりの人として。
 深月が誰かを知りたいと感じたのは、はじめてのことだった。

 その夜、深月は寝支度を整えにやってきた朋代にある頼みを口にした。
「前髪を少し、切っていただけないでしょうか?」
 庵楽堂にいたときはむしろ都合がよかった。
 前髪を長めにしていれば、自然と誰とも目は合わなくなり、顔全体を晒さなくて済んだ。女中たちから野暮ったいと陰で笑われようと、麗子の機嫌を損なわないようにできればそれでよかった。
 でもここは、庵楽堂じゃない。
 誰とだって目を合わせていいし、なにを感じてもいい、顔を合わせて笑ってもいい。
 凝り固まっていた意識の外から、暁はそう思わせてくれる言葉をくれた。
 なにより暁の花嫁候補としても、かたくなにうつむいてばかりでは迷惑をかけてしまう。お世話になっている以上、自分で改善できるところは直していきたいと、深月は考えた。
「ええ、ええ! もちろんですわ、深月さま」
 深月の頼みごとを朋代はこころよく引き受けてくれた。
 切り揃えられた前髪。
 ほんのわずかな変化だけれど、深月の背中を押すには十分すぎるものだった。