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「親方様、兵部様と千代様が参りましてございます」
 親方様の近習が障子の向こう側に告げると、「入れ」と毅然とした声が返ってくる。
 その返しと共に、近習がカラリと部屋の障子を開けてくれた。
 私は入る事が許された部屋に足を踏み入れると、その場で額づき「お久しゅうございます、親方様」と挨拶を述べる。
「よいよい、面を上げよ」
 おおらかな声に促されて、面を上げると。最奥に親方様が鎮座なさっておいでだった。
 けれど、最後に見た時よりも頬が痩せこけ、ケホッケホッと無精髭に囲まれた口からは苦しげな咳が零れている。
 病に伏される様になったとは聞いているけれど、まさかここまでご容態が悪くなっていたなんて・・。
 以前の壮健なお姿とは打って変わった弱々しい姿に、私は思わず言葉を失ってしまった。
 すると親方様が「案ずるな、千代」と、私に柔らかな眼差しをくれる。
「見た目こそ確かに変わってしまったが、存外大事ないのだぞ。腕利きの薬師を抱える様になったからな」
 私の不安や困惑を見透かした言葉に、私は半分ホッと安堵し、半分感嘆してしまった。
 やはり親方様は、げに素晴らしきお人だわ・・。
 私は心中で抱いていた不安と要らぬ心配を綺麗に一掃し、「左様でございましたか」と言う。
「流石、親方様でございますね」
 親方様は、私の艶然とした言葉に「ワシはまだ御仏には呼ばれぬよ」と、朗らかに笑いながら返した。
 そしてパンと手で膝を一つ打ってから、「さて」と徐に話題を切り替える。
「では、そろそろ其方の話を聞くとしようぞ。ワシの身体の話よりも、其方が此度の旅路で得た話の方が面白かろうよ」
「あい、仕りましてございまする」
 私は朗らかな笑みを称えたまま首肯し「では、お話致します」と、旅路で得た話を語り始めた。
 尾張のうつけこと織田三郎信長の話から、親方様の好敵手である上杉平三謙信の話。遠江・駿府と言った旧今川領の話。そして不穏な動きを見せる、相模の北条氏の話など。
 今の世情を事細かに伝えると、かなり膨大な数の話になってしまったが。今の時代は、太陽が昇る度にその地の内情は変わっていく。目を少し逸らしただけで、風の様に走り去る童と同じだ。
 現状を維持出来る国はない。否が応でも変わっていく、それが戦乱の世の常。
 親方様はしかと耳を傾け、滔々と紡がれる世情を真摯に受け止めていた。時折、苦しそうな咳混じりに頷き、「そうか」「なんと」と言う、端的な相づちを吐き出す。
「・・総じて、人間で最も警戒すべきは尾張の織田になりましょう」
 私は淡々と告げるけれど、すぐに「しかし」と否定の言葉を入れた。
「織田以上に不穏な動きを見せているのが、妖怪にございます」
 私の不穏な言葉に、親方様は無精髭を武骨な手で撫でつけながら「妖怪、か」と物憂げに呟く。
「しかし奴等の動きは予測出来ぬ、手の打ちようがなかろう」
「親方様の仰る通りにございます。しかし私が耳にしました話では、人間の様に軍を成して、人里を襲っている妖怪共が居るとの事」
「なんと?!」
 親方様は私の言葉に愕然とし、「真か?!」と食ってかかる様に訊ねてきた。
 私はその驚きを受け止める様に、コクリと堅く頷く。
「百鬼軍と称し、京の鬼が頭目として妖怪共を率いているらしく。討伐しようと当たった織田の一派を返り討ちにして、そのまま北上しているとの話を耳に致しました」
「北上、か。そうなると、いずれは我が所領にやってくると言う事だな。ううむ、尾張のうつけよりも頭が痛い話だの」
 重々しいため息を吐き出してから、親方様はあぐらをかいた膝に肘を突いて唸った。
 確かに頭の痛い話であろう。敵軍だけに留まらず、妖怪の軍も相手取るとなると、相当な労力と尽力が必要になってくるのだから。
 私はキュッと唇を結んでから、ドンと自分の胸を叩いた。
「親方様、百鬼軍の動向はこの私めにお任せ下さい!」
 私の高らかな宣誓に、親方様は目を丸くし、徳にぃ様は「はっ?」と小さく零す。(徳にぃ様は、今までずっと声を出していなかったから、同じ場に居た事を忘れてしまっていたわ)
 唖然とする二人を前に、私は「どうと言う事はありませぬ」と朗らかに言葉を続けた。
「私が百鬼軍の動向を探り、軍の進行を止めてみせまする!」
「いや、しかしなぁ・・此度の相手は妖怪だ、人間の内情を探るのとは訳が違うのだぞ。あまりにも危険であろう」
 親方様は私の息巻いた発言を窘めると、「のう?」と徳にぃ様の方に顔を向けた。
 その視線を受けた徳にぃ様は、直ぐさま「仰る通りにございますな」と強く頷く。
「妖怪相手ではあまりにも危険だ」
 ピシャリと言い切る徳にぃ様に、私は「危険は承知の上」と反論をぶつけた。
「何より私は危険に臆し、怯む性分ではありませぬ。故に、この様な役目を全う出来ているのでございますよ」
 この力強い訴えは、ぐうの音も出ぬ反論であったのだろう。二人は、「確かに」と言う視線を気まずそうに合わせていた。
 けれど、これではまだ綻びとしては小さいわね。窘める二人を黙らせるまでにしないと、この任が得られない。つまり私が親方様の「先」の役に立てなくなると言う事!
 私は、その綻びを構わずに広げる様に「ですから、私にお任せを」と、言葉を素早く重ねる。
「私には武才のみならず、妖怪と渡り合える力も兼ね備えてあります。故に、ご心配なさらず、いつもの様に命をお申し付け下さい」
 この役の適任は私しかおりませぬ。と、親方様の目をまっすぐ見据えて訴えた。
 それが親方様の核を突いたのだろう。親方様は「うむぅ」と唸りながら、何度も無精髭を撫で始めた。
 これは私を行かすべきか、行かさぬべきか。両方の利点と欠点を鑑みて、お考えになっていらっしゃるのだわ。
 きっと優勢は「行かす」のはずよ。
 今までの成果を含めて考えると、私を探りに行かせた方が、圧倒的に利点が多いもの。
 よしよし!と内心で勝ちを確信するけれど。それをピシャリと打ち落とす様に「私から一言、よろしいでしょうか」と、鋭い声が飛んだ。
 親方様はその声の主こと徳にぃ様の方に顔を向けると、「構わん」とすんなりと首肯する。
 発言権を得た徳にぃ様は「かたじけのうございます」と軽く叩頭してから、「私が思うに」と述べだした。
「千代に動向を探らせずとも、百鬼軍が近くに来た時に対応すると言う手で充分かと思いまする。最強と呼び声高い我が軍が妖怪共の侵攻に揺らぐとも思えませぬし、我らならば迅速に最善手を打てるかと」
「うむ、まぁ・・確かにの」
 親方様の中でギギギッと「行かせぬ」が台頭し始める。
 私はその心にぎょっとし、「いいえ!」と声を張り上げた。
「親方様、最強と呼び声高い武田軍だからこそ敵国の軍を散らし、領土を着実に広げた方が良いに決まっております!ですから、今は妖怪共の事に気を取られている場合ではございませぬ!」
 人の最大の敵は人なのですから!と、訴えると。「うむ、それは確かにそうだ」と、親方様の中で「行かせる」が勢いを取り戻し始める。
 けれど、また徳にぃ様が「親方様」と邪魔をしてきた。
「ここは評定での決定に委ねてはいかがでしょう。我らのみでは水掛け論となっております故、他の意見が必要かと」
「いいえ、親方様!間者の動向は評定に出される様な題ではございませぬ。親方様のご意向だけが全てでございます!」
 親方様を挟んで、バチバチと火花迸る応酬が繰り広げられる。
 徐々に辺りの空気も剣呑になり、刺々しくなってきたが。
「鎮まれ」
 親方様の圧が全てを飲み込んだ。たった一言で、迸っていた火花を鎮火させ、言葉をあれやこれやと飛ばしていた私達二人を「ハッ」と額づかせる。
 そして二人して縮こまり「申し訳ございませぬ、親方様」「どうか無礼をお許し下さいませ、親方様」と、謝罪を述べた。
「なに、構わんよ。其方等の仲が相も変わらず良い様で安心したぞ」
 親方様はカラカラと朗らかに笑いながら言うと、スッと目を細めて、私だけを見据える。
 ・・これは命を下す時の目だわ。
 私はゴクリと唾を飲み込んでから、親方様の慧眼をまっすぐ受け止めた。
「では、千代。百鬼軍については、其方に一任しよう。頼んだぞ」
・・・
 親方様の命が直々に下ると、私はすぐに部屋を退出し、躑躅ヶ崎を発つ準備に取りかかる。と言っても、これと言って入り用の物もないから、着の身着のまま旅立てるのだけれどね。
 私はふふんと小さく鼻歌を零しながら、本殿の外に出た。
 すると「千代」と、後ろから声がかけられる。その声に足を止めて振り返ると、やはり私の言い分に負けた徳にぃ様だった。
「もう、そんなに仏頂面で私の名を呼ばずとも良いではありませんか。と、申し上げたい所ですが。心中お察しします。私が退出した後、すぐ直談判なさったけれど聞き入れられなかったと言う所でしょう?」
 ニヤニヤと意地悪く口角を上げながら言うと、突然ニュッと徳にぃ様の手が伸びる。
 そしてその手が私の両頬を掴むや否や、思いきりビッと伸ばされた。意地悪く上がった口角が、更にぎゅーっと強引に上がってしまう。
「な、なにゅしゅるんでしゅか!痛いでしゅー!」
 半開きで固まった口のせいで、言葉がふにゃふにゃと甘くなった。言葉では伝わらないと分かると、私はすぐに徳にぃ様の腕をバシバシと叩く。
「黙れ、この阿呆め。今日こそ、この減らず口を叩き直してやる」
 物々しい声と共に、頬を掴む手がギリッと強まり、更に引き伸ばされた。
 その動きに連動して、と言うか、必然と「痛い!」と訴える声と彼の腕を叩く力も強まる。
 だが、彼はそんな私を歯牙にも掛けず、「お主と言う奴は」と憎しみを込めてギリギリと頬を伸ばし続けた。
 痛みから解放されたのは、庭のししおどしがカタンコトンと二回首を振った頃。ゆっくりと離された頬は伸びきり、ジンジンとした痛みからヒリヒリとした痛みに変わる。
「乙女の顔にこんな事をするなんて、鬼畜外道ですからね」
 私は恨みを込めて言いながら(恐らく)赤々となった両頬を労る様に擦った。
「阿呆抜かせ、その痛みはお主の咎だ。私を罵るよりもまずは己を省みよ」
 徳にぃはピシャリと言うと、食ってかかりそうになる私を丸め込む様に「もう行くのか」と強引に話題を変える。
 腑に落ちないわ・・と思いながらも、私は自分の不満を飲み込んで「えぇ」と答えた。
「妖怪共の足の方が人より何倍も早いですからね。一刻も早く発って、百鬼軍と会い、親方様のお力にならないと」
「確かにそうだが。居所の目処はあるのか?」
「いいえ。ですが、最後に聞いた話では越前の方に移動していると言う事でしたから、飛騨の方へ歩いて行こうかと思います」
 私が肩を竦めて言うと、徳にぃ様は「飛騨の方か」と眉根をキュッと寄せる。
「百鬼軍云々の前に、山道と言う危険があるではないか・・」
 他にも山賊やら落ち武者共が潜んでいる可能性がある。と、憮然と危険を並べ出した。
 私は「大丈夫ですから」と、並べられる危険をバッサリと遮り、はぁとため息を吐き出す。
「並べられた危険は、全て杞憂です。私は歩き巫女ですよ?山道なぞ歩き慣れておりますし、山賊やら落ち武者にやられる私ではありませぬ」
 ふんと胸を張って答えてから、不安げな彼をまっすぐ射抜いた。
「私達にはそれぞれの役目がありますでしょう?千代は精一杯己の役目を全うして参りますから、徳にぃ様もお役目をしかと果たして下さいませ」
 暗に心配無用と入れ込んで、朗らかな微笑を称えて告げる。
 彼は眉を八の字に曲げ、弱々しい眼差しで私を見つめながら「そうだな」と、私の言葉の全てを受け取ってくれた。
 けれど、やはり心中に拭いきれぬものがあるのだろう。すぐに「だが」と、重々しい口調で切り出された。
「やはり心配なのだ。なんと言っても、お主は私の・・我が家の妹の一人の様な存在だからな」
 もごもごと告げられた言葉に、私はフフと口元を柔らかく綻ばせる。
「げに嬉しきお言葉です。けれど、傑物集団とも呼べる真田家の人間になるのは億劫ですから、辞退させて頂きますね」
「・・そう言う話ではないわ、この阿呆め」
 憎々しげに言われると、彼の手が素早く伸び、再び私の頬は強く引き伸ばされてしまった。
 その結果、出立する時の私の相貌は哀れだった。両頬に赤々としたコブをつけた、醜い巫女になってしまったのだから。