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 夕方の五時近く、店のドアが開いた。
『いらっしゃいませ』と、自動応答の音声が流れる。
 防寒の観点から自動ドアはセンサーではなく、ボタンを押さないと開かないタイプで、それと連動して外側が押されたら『いらっしゃいませ』、内側だと『ありがとうございました』と流れるようになっている。
 店員がいちいち対応しなくて良いのが合理的でいい。
 棚の補充をしていた私のところにお客さんが近寄ってきた。
 気配で身構えたけど、心配は無用だった。
「遙香、久しぶり」
 茉梨乃はショートヘアだった。
 都会的というのか、前髪も軽くなって似合っている。
「実習で邪魔になるし、向こうだと美容室も選べるからね」
 思わず私は自分の前髪に隠れて、自信に満ちたその視線をさえぎった。
 店の奥からオーナーのおばさんが出てきた。
「あら、茉梨乃ちゃんじゃないの。あれ、もしかして、看護師さんになったの?」
「いえ、国家試験は先月受けたんですけど、発表は今月の二十二日です。学校の卒業式が終わったんで寮を出なくちゃならないから、帰ってきました」
「あら、そうなの。合格してるといいわね。やっぱり札幌の病院で働くの?」
「いえ、こっちで働きます」
「あら、そうなの。地域医療センター?」
「はい、そうです」
「あら、それじゃあ、お世話になるかもね」
 あら、あら、あらと、知りたいことは全部聞かせてもらったところで、おばさんが仕事を交代してくれた。
「久しぶりで話もあるでしょ。今日はもういいわよ。どうせもうすぐ閉店時間だから」
 ご厚意に甘えて私たちはコンビニを出た。
 目の前の国道を渡って海辺に立つと、冷たい風が吹き抜けていった。
「変わらないね」と、茉梨乃がつぶやく。「三年前と」
 鉛色の空と、荒波打ち寄せる海、そして町を囲む山。
 風景は変わらない。
 茉梨乃が大きく潮風を吸い込む。
「ここにいるとさ、息が詰まって苦しかったんだよね」
 茉梨乃は優等生で、みんなの憧れで、小さな町の狭い人間関係の中で常に注目を浴びていた。
「あの頃は自分自身が嫌いだったな」
 まわりからの期待を吹き込まれた風船は割れる寸前まで膨らんでいたんだろう。
 だから茉梨乃は逃げたんだ。
 知っている人がいない都会へ。
「都会はすごく居心地が良くてさ。この町ではみんなの憧れ、しっかり者の茉梨乃だけど、都会ではその他大勢の一人。実習やれば怒られてばかりだし、レポートなんか何回も書き直しさせられて、打ちのめされて泣いてたけど、すごく充実してたな」
 コートのポケットに手を入れると、茉梨乃はかかとでくるりと海に背を向けた。
 冷たい風が吹き抜ける。
 私は目を細めて海を眺めていた。
「あの日、《きらい》って書いたのは私だよ」と、砂浜を蹴って茉梨乃が私に顔を向けた。
 三年前のあのゲーム。
 今さら答え合わせなんかしても、時は戻らない。
「だけど、裕紀のことじゃないよ」と、つぼみが開くような笑みを浮かべる。「自分のこと」
 私はうなずいた。
「誰かのことを書くって条件だったけど、『相手はこの中の誰でもいい』ってことは、自分でもいいんじゃんって思ってね。だから、『自分のことが嫌い』って書いたつもりだったんだ」
 知ってた。
 声には出さなかったけど、私の表情で茉梨乃は理解してくれたらしい。
「狭い人間関係の中で持ち上げられて、期待されて、『茉梨乃』というお姫様を演じてるうちに、自分じゃない他人になっていく自分が大嫌いだった。自分はそんなたいした人間じゃないのに。だからこの町を出たかった。素の、ありのままの自分を受け入れてもらえるのか。それを確かめたかっただけ」
 茉梨乃の目から涙がこぼれ落ちる。
 ずるいな、あの日もそうだった。
 卒業式でみんなが泣いているときに一緒に泣いているふりをしてたくせに、私をトイレに連れていって本当に涙を流していた。
 私の前でだけ、茉梨乃は涙を見せるんだ。
 ずっとこらえていたんだろう。
 肩を震わせながら私に抱きついた茉梨乃は声を上げて泣いていた。
「やっと帰ってこられた」
 私は茉梨乃の背中に手を回した。
 ぽろりと涙がこぼれたけど、茉梨乃には気づかれなかっただろう。
「私の合格発表がさ、遙香の誕生日なんだよね。一緒にお祝いしようね」
 三月二十二日。
 それはただの偶然だ。
 だけど私たちは生まれた時からこの町でずっと一緒だった。
 これからも一緒。
 ずっと一緒。
 吹きつける風で頬の涙が乾いた頃、茉梨乃が一歩離れて顔をのぞき込んだ。
「あの日、最後に裕紀が言った言葉、聞こえてた?」
 私は首を振った。
「裕紀ね、『これでいいんだ』って、つぶやいてたんだよ」
 私は一度裕紀にコクられたことがある。
 高校の図書館で、二人きりの時に。
 ごめんなさいと頭を下げた私に、裕紀は『ごめん』と、手を振って逃げていった。
 嫌いだったわけじゃない。
 裕紀は優しくて親切で頭が良くて、勉強を教えてくれたり、無口な私に一生懸命話しかけてくれたし、私たちはいつも一緒に並んで歩いていた。
 だけど、私が裕紀の気持ちを受け止めていたら、裕紀は大学も行かずにこの狭い世界に閉じ込められてしまっていただろう。
 宇宙を語れる裕紀の才能を生かせる仕事なんてここにはない。
 それに、外の世界には裕紀にふさわしい人なんてもっとたくさんいるはずだ。
 何の取り柄もない私なんかが良い人に見えてしまうくらい、ここの人間関係は狭くて濃すぎる。
 視野が広いはずなのに、目隠しをされていたら、手探りで触れたものに依存してしまう。
 そんな理由で人生を間違って欲しくないし、まして私が選ぶ相手ではないことははっきりしていた。
 それ以来私は、より一層無口になるしかなかったのだ。
 あの日、《すき》と書いたのは私だ。
 それは精一杯の嘘だった。
 私はその気持ちをずっと押し殺して生きてきたんだから。
 裕紀は分かっていたんだろう。
 回りくどいことの苦手な和哉は茉梨乃にあてて《がんばれ》と書くし、料理を作ってくれた茉梨乃に対して《ごちそうさま》と書いたのは裕紀自身。
 茉梨乃が《きらい》と書いたと主張するなら、残りの《すき》は私。
『べつに本当のことでなくたっていいんだよ』
 そう言われて書いた私の気持ちに裕紀は絶望するしかなかったはずだ。
 この四人の居心地のいい関係を卒業しなければならないという現実に。
 だけど、裕紀はその結末を予想していたんだ。
 だから旅立つ前に、自分で壊そうとして、あんなつまらないゲームを持ち出したんだ。
 スマホで時間を見た茉梨乃が道路に向かって戻っていく。
「裕紀ね、教員免許取るんだって」
 私以外の三人は今でも連絡を取り合っているらしい。
 浜辺に取り残された私は茉梨乃の隣に駆け寄った。
「ここの学校に赴任してくるつもりなんじゃないのかな」
 どうして?
「外の世界に出てみると、宇宙の真理よりも大切な物が見えてくるのかもよ」
 茉梨乃は微笑みを浮かべながら鉛色の空を見上げた。
「裕紀も、私と同じなんじゃないの。たぶん、安心したんだよ。自分の居場所がどこにあるのか。外に出てみて分かったんでしょ。だから帰ってくるんだよ」
 どこにも行けない。
 何も変わらない。
 私たちのルーレットは乾いた音を立てながら同じ場所を回転するだけだ。
 どんな数字の穴に球が落ちたとしても、それに意味なんてない。
 この町には何もない。
 だけど、私たちがいる。
 鉛色の空が割れて淡い夕日が海に落ちてきた。
 春はまだ見えないけど、いつの間にか日が長くなってたんだな。
 おーい、と遠くで手を振る人がいる。
 和哉だ。
 茉梨乃が口に手を当てて叫び返す。
「やっほー、こっちだよ」
 卒業おめでとう、頑張ったなと、風に紛れて声が届く。
「ありがとー」
 私の目から涙がこぼれ落ちる。
 飛び跳ねながら体を揺らして手を振る茉梨乃の背中に、私は呼びかけた。
「おかえり」
 振り向いた茉梨乃がうなずく。
「ただいま」
 赤か黒か。
 答えなんか知らない。
 当たりでもない、外れでもない、ここが私たちの町だ。