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 あの日、夕方になってポテトチップスもなくなった頃、裕紀がゲームをやろうと言い出した。
「一人一つずつ、誰かのことをどう思っているか紙に書こうぜ」
 聞いた瞬間、背中に毛虫を入れられたような気分がした。
「字を見たら誰が書いたか分かるじゃん」と、意外と達筆な和哉が鼻の頭をこすった。
「利き手じゃない方の手でわざと下手くそに書けばいいさ」
 茉梨乃がたずねた。
「それって誰か一人を選んで、一つだけなの?」
 裕紀がうなずくと和哉が目だけ私に向けた。
「じゃあ、誰からも何も書かれないやつもいるわけか」
 茉梨乃がすかさずかぶせる。
「逆に、三人から集中砲火を浴びる人もいるかもしれないよね」
「なんだよ、悪口書く前提かよ」
 和哉が混ぜっかえすと、茉梨乃は目をくるりと回してペロッと舌先を出していた。
 裕紀がルール説明を続けた。
「で、中身を公開して、それが誰のことを言ってるのかを当てるって、単純なゲーム」
「でも、それがどうして正解だって分かるの?」と、茉梨乃が首をかしげる。「だって、書いた人が正解かどうか教えるわけにいかないでしょ」
「いいんだよ」と、裕紀が話を戻した。「ただのイメージ遊びだからさ。誰が書いたのかも、誰に向けた言葉なのかも、どっちも想像で楽しむのさ。正解じゃなくても、その方がかえっておもしろい展開になるかもしれないだろ。あくまでもゲームだからさ」
 何がおもしろいのかさっぱり分からないのに、他の二人が特に反対しなかったので、裕紀がプリンターから白い紙を引っ張り出してきて、四つに折って切り分けた。
「炬燵の中で隠して書けば手元を見られなくて済むよな」
 まずはお手本のつもりか、裕紀が顔は上げたまま、左手に細いサインペンを持って炬燵布団の中に手を入れた。
 注目している私たちの顔をニヤニヤと順番に眺めながら、手をごそごそ動かしている。
「結構難しいな。書けてるかな」
 私たちに見えないように、あぐらをかいた足の上でチラリと紙を確かめる。
「まあ、読めるな。じゃあ、次は茉梨乃か」
 紙を隠したまま裕紀がペンを渡した。
 炬燵布団に手を入れたところで茉梨乃が顔を上げた。
「相手はこの中の誰でもいいんだよね」
「そうだよ」と、裕紀がうなずく。「簡潔に一言だけね」
「じゃあ、好きって書いちゃおうかな」
「おっと爆弾発言だな」と、和哉が顔を赤くしながら上体を揺らした。
 笑みを浮かべた茉梨乃は何かを書きつけていた。
「めちゃくちゃ下手だけど、読めるよね」
 次に茉梨乃が和哉にペンを渡すと、あらかじめ考えていたのか、あっという間に書き上げて、最後は私の番だった。
 ペンを渡された私は固まってしまった。
 何を書いたらいいのか、まったく何も思い浮かばない。
 誰に対しても、何も思い浮かばないのだ。
 がんばって。
 元気でね。
 また会おうね。
 ――全部嘘だ。
 会えなくなっても寂しくもないし悲しくもないし、べつに明日からの生活が変わるわけでもない。
 ビッグバンも世界の終わりも、私にはどうだっていいことなんだ。
 見かねた裕紀が助け船を出してくれた。
「べつに本当のことでなくたっていいんだよ」
「え、そうなの」と、茉梨乃が目を見開く。
「遊びだよ、遊び。そんなに気負うなって」と、両腕を突き上げて和哉がわざとらしくあくびをした。
 どうにもならなくて、私はふと思いついた言葉を記した。
「よし、じゃあ、手の中で紙を丸めてくれ」
 裕紀が紙をくしゃくしゃに握って炬燵テーブルの真ん中に置いた。
 私たちもそれに習って紙を置く。
「最初は和哉でいいか。目をつぶってどれか一つ選んでくれ」
 言われたとおりに和哉が手を伸ばそうとしたとき、裕紀が紙の位置を入れ替えた。
「こうすれば公平だろ」
 和哉が手探りで触った紙を裕紀が広げる。
《すき》
「おっと、茉梨乃はそのまんま書いたのかよ」
 決めつける裕紀に茉梨乃は口をとがらせた。
「私じゃないよ」
「じゃあ、おまえかよ」
 視線を送られた和哉が吐き捨てるように答えた。
「ちげえし」
 茉梨乃がため息まじりに肩をすくめる。
「こういう遊びのノリでコクろうとする人はダメでしょ」
「だってよ」と、裕紀が和哉に頭を傾けた。
「だから、ちげえよ」と、和哉が耳を赤くしながら鼻をかく。「なんで俺なんだよ」
 疑心暗鬼に静まりかえったところで、裕紀がぽつりとつぶやいた。
「少なくとも、この中の誰か一人は誰かのことを好きだってことだな」
「でも、本当のことじゃなくても良かったんでしょ」
 茉梨乃の言葉が再びみんなを黙らせた。
 本当か嘘か。
 こんなゲームに何の意味があるんだろう。
「まあ、いいや、とりあえず、次は茉梨乃が選びなよ」
 裕紀に促されて茉梨乃が目をつむる。
 今度は和哉が紙を混ぜた。
 茉梨乃が選んだ紙には《ごちそうさま》と書かれていた。
「なんだよ、これ」と、和哉が引き笑いをもらす。「誰かへの気持ちじゃないよな」
「え、でもさ」と、茉梨乃がちらりと私を見た。「お肉と場所を提供した裕紀への感謝の気持ちってことだよね」
「そのまんまだな」
 断定を避けようとしたのか、裕紀が無理矢理流れを変えた。
「まあ、いいや。次は遙香が選びなよ」
 私は首を振った。
「じゃあ、俺が選んでいいのか」
 裕紀が目をつむって二つ残った紙を持ち上げ、サイコロのように転がす。
 目を閉じたまま裕紀が和哉にたずねた。
「おまえに近い方は?」
「これだ」
 渡されたものを開くと、そこには《がんばれ》と書かれていた。
「これはみんなにあてたものかな?」
 裕紀のつぶやきに茉梨乃もうなずいた。
「誰か一人ってルールだったけど、そうなのかもね」
「そうとも限らないんじゃねえの」と、和哉は人差し指を水平に振りながら裕紀と茉梨乃を交互に見た。「旅立つどちらか一方へのエールかもよ」
「ま、いいやつもいるってことだ」と、裕紀がおどけたように手をたたいた。「じゃあ、残りは遙香が開いてくれよ」
 私は最後の一つを広げて真ん中に置いた。
《きらい》
 真冬にもどった海から強風が吹き抜けたかのように一瞬で場が凍りついた。
 冷蔵庫や暖房器具の雑音が急に賑やかになる。
 しびれを切らしたように三人同時に腰を浮かせて炬燵の中で足を組み替えたところで、裕紀が重たい口を開いた。
「この中の三人のうちの誰かが誰かを嫌ってるってことか」
「なんで三人なのよ」と、茉梨乃がテーブルをたたく。
「だって俺じゃないから」
「それなら……」と、言いかけて茉梨乃は口をつぐんだ。
 自分じゃないと否定したら、残りの二人――この町に残る私と和哉――に迷惑がかかると気にしたんだろう。
「俺はべつに、みんなのこと嫌いじゃないけどな」
 和哉は空気なんか読まない。
 気ままで、嘘を考えるのも面倒だからいつも正直だ。
 ジョージ・ワシントンのように悪いことをしても隠さず名乗り出るだろうけど、そもそも桜の木を切るほどの元気もない。
 その代わり、切り株に腰掛けてぼんやりと空と海を眺めていても飽きないだろうし、それを毎日繰り返しても文句一つ言わないだろう。
 だからこそ、この町で生きていけるんだ。
 そして、何も言わなかった私が犯人ということになる。
「もういいよ。書いたのは私しかいないでしょ」
 吐き捨てるようにつぶやいたのは茉梨乃だった。
 教師が生徒を叱りつけるみたいに裕紀に言葉を浴びせる。
「頭いいくせに、こういうつまらない遊びを思いつくところが嫌いなのよ」
「ごめんな」と、裕紀がうつむく。
 そして、何か一言つぶやいたけど、私にははっきりとは聞き取れなかった。
 三年前の卒業の日、私たちは気まずい空気の中で別れ、翌日からそれぞれ新しい人生を歩み始めたのだった。