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海沿いの国道から緩やかな斜面を上がったところに裕紀の家がある。
高台だから空と海がより一層広く見える。
見渡す限り本当に何もない町だなと思う。
「おう、入ってくれよ。ちょっと着替えてくるから炬燵つけておいてくれ」
二階へ行った裕紀を見送って私たちは茶の間にお邪魔する。
暖房はついたままだから部屋は暖かいけど、私は指示通り炬燵のスイッチを入れた。
マフラーをほどき、上着を脱いで長い髪を後ろでまとめると、茉梨乃がさっそく戸棚からホットプレートを取り出し、台所で冷蔵庫を勝手に開けて裕紀の言っていた肉を探した。
「何これ、百グラムしかないじゃん。よくこれでみんなの食事が作れると思ったよね」
文句を言いつつも、買ってきたもやしの他に、野菜室に入っていたニンジンとキャベツをまな板の上に並べていく。
こうしたことは私たちの間ではべつに珍しいことではない。
どこの家でも、どこに何があるか把握しているし、おたがいにこんな感じで自由にやってきた。
小学生のころは電気ポットのお湯を注いだカップ麺だったけど、中学からはご飯を炊いたりカレーを作って食べたりしていたくらいだ。
裕紀のお父さんは単身赴任で不在だし、薬剤師のお母さんは卒業式の後、一時間かかる街のドラッグストアまでそのまま仕事に行ってしまった。
ここらへんの大人からしてみれば、子供たちだけで全部自立して済ませてくれる方が楽なのだ。
私は野菜を洗ったり、食器を出したり、茉梨乃の手伝いをした。
その間、和哉は無駄に冷蔵庫をのぞき込んだり、買ってきたペットボトルの麦茶を自分の分だけ注いで飲んだりしていた。
「こうやって四人で飯食うのも最後かね」
退屈なのか、和哉が自分に言い聞かせるようにそんなことをつぶやいた。
「何、さびしい?」と、茉梨乃は手を休めずに野菜を切っていく。
「いや、まあ、そうでもないか」と、和哉は鼻の頭をかいている。「正直、実感がわかないんだよな」
「私もだよ」と、茉梨乃が焼きそばの麺を粗く刻む。「一人暮らしなんてしたことないし、不安だらけだけどね」
「やっぱ、そうなのか」
「そりゃそうでしょ」
「じゃあ、地域医療センターの専門学校でも良かったんじゃねえの?」
車で一時間の街に和哉の言う総合病院があって、付属の看護学校がある。
資格を取ってそこで働けば奨学金の返済は免除されるし、車の免許を取れば家から通うこともできる。
実際、うちの高校の先輩で看護師を目指した人はたいていそこに行っていた。
「そうだ、和哉、ご飯解凍しておいてよ」と、茉梨乃が冷凍庫を指した。
「お、そうだ。忘れてた」
ホットプレートと炬燵と電子レンジを同時に使うとブレーカーが落ちるのだ。
小学生の頃だったか、炬燵を囲んで電気ポットのスイッチを入れた瞬間真っ暗になった時は、四人同時に悲鳴を上げたっけ。
「よう、準備できたか」と、学校ジャージに着替えた裕紀が下りてきて話は途中で終わってしまった。
「おまえ、そのジャージ、東京でも着るのか?」と、和哉が茶化す。
「だめかな」と、裕紀がおなかのあたりをつまんで広げた。「なじみすぎて一生着られそうだけどな」
たしかに、このあたりのおばさんたちは中学や高校のジャージを着ている人が多い。
息子や娘の流用でなく、何十年も前の自分のを着てコンビニに来る人も見かけるくらいだ。
そんな話をしている間も、茉梨乃はホットプレートの電源を入れて、解凍したご飯に卵を落とし、醤油を垂らしてかき混ぜていた。
「ほら、少しは手伝いなよ」
茉梨乃に言われて、和哉がホットプレートに肉を広げて並べ、その上に野菜を散らしていく。
裕紀は炬燵に手を入れて背中を丸めていた。
「あんたは何してんのよ」
「手が冷たくてさ」
「手袋しないからでしょ」
「なんかやなんだよな」
裕紀は小さい頃からそうだった。
チクチクする感触が嫌だと外してしまって、しょっちゅう片方なくしていたから親もそのうちあきらめたらしい。
ただ、その感覚は分からないでもない。
私はタイツが苦手だ。
寒い外でははいてないと耐えられないけど、炬燵に入るとムズムズして脱ぎたくなる。
炬燵の中で足の位置を変えていたら、和哉があごを廊下に向けた。
「なんだよ、トイレなら先に行ってこいよ」
気の利かない勘違い男をにらんで黙らせる。
まったくデリカシーがないんだから。
茉梨乃が焼きそばと卵ご飯を同時に焼き始める。
手が温まったのか、裕紀は和哉から菜箸をもらって、火の通った肉を焦げないように焼きそばの上に積み上げていく。
茉梨乃が肘で和哉の肩を押した。
「ちょっと、飲み物くらいあんたがやりなさいよ」
だるまのように動かない和哉を横目に私が立ち上がった。
「いいよ」と、茉梨乃が引き留める。「少しはやらせないと」
待つだけ無駄だと思ったから、冷蔵庫にさっき和哉が開けた麦茶のペットボトルを取りに行った。
暖房と炬燵、それとホットプレートの熱でいつの間にか汗をかいていたらしく、台所の空気が心地良かった。
蒸れて張りつくタイツを引き剥がすような歩き方で戻ったら、また和哉がよけいなことを言った。
「なんだよ、変な歩き方して。足でもひねったのか」
私はわざと乱暴にペットボトルを置いた。
皿が跳ねて音を立てる。
「違うってよ」と、裕紀が皿からこぼれた箸を置き直すと、和哉は首を縮めて背中を丸めながら苦笑いを浮かべていた。
四つ並べたコップに麦茶を注いでいる間に、茉梨乃がホットプレートの食材を一気に混ぜ合わせた。
横から裕紀が粉末ソースを振りかけ、反対側からは和哉が醤油を回しかけた。
「ちょっと濃くない? ご飯は下味ついてるよ」
茉梨乃の言葉で二人の手が止まるけど、淡い煙とともに立ち上る匂いはちょうど良さそうだった。
「焼きそばソースって祭りの匂いだよな」と、和哉が鼻を突き出す。
「文化祭を思い出すな」
裕紀の一言で部屋の時間が半年前に戻る。
高校の文化祭は今やこの地域一番のイベントだ。
年寄りだけでなんとか維持している神社の夏祭りよりも活気がある。
「一日中焼きそば作りまくってたよな」
和哉はその後一週間くらい筋肉痛で腕が上がらないと笑っていた。
「ほら、手を休めてないでかき混ぜて」
しんみりした雰囲気を煙と共に払いのけて茉梨乃が時を戻す。
「少しくらい焦げた方がうまいんだよ」
「それはちゃんと味がついてからでしょ。色がまだらでしょうよ」
茉梨乃に口でかなうわけがないのはみなが分かっている。
和哉にしてみたら、これが最後の抵抗のつもりなんだろう。
手際よくかき混ぜて色が均一になったところで、茉梨乃がへらでみんなのお皿に最初の分を取り分けていく。
「はあい、じゃあ、あとは好きなだけ自分で取って食べてね」
「いっただっきまあーす」と、和哉が早速がっついた。「うおっ、うめえよ」
手で口を隠しているとはいえ、ちゃんと飲み込んでから言えばいいのに。
裕紀は落ち着いてうなずきながら、「うん、うまいな」とつぶやいた。
湯気の立つそばめしを箸先でいじりながら私は冷めるのを待っていた。
私が猫舌なのはみんな知っている。
なのに和哉がまた横から口を挟んだ。
「そんなに熱くねえぞ」と、もう空になった自分の皿に山盛りによそう。
「いいじゃないべつに」と、茉梨乃が私の代わりに言い返した。「人それぞれなんだから」
「まったく昔から変わらないよな」
おかわりを皿によそいながら笑う裕紀に和哉も乗っかる。
「同じ歳とは思えないぜ」
「そういえば遙香はまだ十七なんだよな」
ああ、まただ。
この時期になると交わされるお約束の会話。
三月だけ私は子供扱いされる。
私の誕生日は三月二十二日で、たしかに一番遅いけど、和哉だって二月生まれで一か月しか変わらない。
四月生まれでお姉さん気質の茉梨乃や、八月生まれの裕紀はともかく、和哉には言われたくない。
私はようやくそばめしを口に入れた。
「おいしい?」
私がうなずくと茉梨乃は満足そうに微笑んだ。