思い切って話しかけようとした、そのとたん。
その人は、ふっと前かがみになり、目を閉じた。え、し、死んだ…??
でも、その人は、すうすうと言うように、しっかりと呼吸をしていた。ほっとした、と思うと、次はその人の絵に、色のついた筆がつきそうになっていた。水彩画のような色素の薄い繊細な絵に、あんなに濃い色の、まだ薄めていない絵の具がついたら…。
「あ、あの、これ、危ないですよ…?起きないと、絵の具ついちゃう…」
私はその人に、小さな声で話しかけた。けれど、こんな声では起きないらしい。
「…せっかくの絵、よ、汚れちゃいますよ!」
がんばって、できるだけ声を張り上げた。人の前だと緊張して、やはりそんな大声は出せなかった。
「…あれ?あなた誰…って、わぁ!!絵の具っ!!」
けれどその人は飛び上がるように立ち、ぴょんぴょんと、二歩後ろに下がった。危ないのは自分の絵だけで、前には何もないのに。
「だ、大丈夫ですか…?」
私は、その人に問いかける。彼のあちゃー、と言わんばかりの顔には、確かに焦りが混じっているようだった。
「よかったぁ、なんとかキャンパス死守できた…。あっぶな、寝落ち怖~…って、さっきはありがとうございました!!」
その人は、ぺこりと私にお辞儀をした。その顔には、笑顔が浮かんでいた。
「もし声をかけてもらえなかったら、本当に危ないところだったから…!!」
「いや、全然!…その絵って、この木を描かれていたんですか?」
その人は、ああこれ、と言って、目の前の桜の木を見つめた。
「この木、しだれ桜っていうの。知ってます?」
「よく来ていた公園なので…知ってます。でも、なんで満開な、もっと綺麗な時じゃなくて、特に目立たないっていうか、主役じゃない時に描いてるんですか?…あっ、すみません!別に、特に意味はないんですけど…」
これは、普通に自分が気になっていた。特に綺麗でもないような、普通な時期に、わざわざ描く理由はなんなのか。
衣装を脱いだような、本来の姿に戻ったような桜を観察する意味が、何かあるのだろうか。
「…え、綺麗じゃない?普通に」
「…え?」
…綺麗?
「細かく見てみて。茶色い枝から、元気よく緑が咲いている。これ、綺麗じゃないですか?」
確かに。よく見ると、日が暮れるまで見ていられるほど、とても繊細だ。
そして何より、こんな「桜」自体を見ている、彼がすごかった。