二十××年 四月 七日 午後十時。
 恭稲探偵事務所――。

 聖花はゲストルームに一人でいた。
 本日は、大学の入学式とあり、白姫は不在だ。
 ♪ コンコンコン。


「!」
 ベッドで仰向けに寝転び、ぼんやり愛莉のことを考えながら白天井を眺めていた聖花は、ノック音にハッとする。
「白姫さん?」
 聖花は静かに問い、部屋の扉の前まで歩く。
 白姫と同じ空間で同じ時間共有をして数ヶ月。白姫と聖花の関係性はどんどん近づいている。だが聖花が白姫のことを“白姫”と呼ぶことも、敬語が取れることもなかった。
「私だ」
「⁉」
 扉の向こうで響く声音に、聖花は目を見開く。緩んでいた身体に緊張が走った。それもそのはずだ。扉の向こうで声を響かせるのは、恭稲探偵事務所に訪れて以来、姿を見ていなければ話してもいない相手の恭稲白だ。耐久性が粉雪ほどもない。
「ど、どうしました? なにか、問題が起こりましたか?」
「問題はない。全てが計画通りに行われている。ただ、少し渡したいものがある。開けても構わないか?」
「は、はい」
 聖花は緊張で全ての返答をどもらせてしまう。
 扉が開き、恭稲白が姿を現す。聖花は小さく息を飲む。
 白はゲストルームに足を踏み入れることはなく、全身全霊で緊張を表して自身の正面に立っている聖花と向き合う。
「誰も取って喰らおうとは思っていない。不味い。普通にしていろ」
「は、はい」
 と頷きながらも、内心では、ま、不味い? それは言葉の比喩ですか? それとも、人間を喰らうことがあるのですか? 喰らったことがあるのですか~? などと騒がしくしている聖花だ。
 聖花の心を感じ取ったのか、白は溜息と呆れ交じりに小さく息を吐く。
「私は人間を喰らいはしない。そもそも、食に興味はない」
「……じゃ、じゃぁ、何をお食べに?」
 聖花はオドオドしながら問うてみる。
「なぜ、答えなければならない」
「す、すみませんっ」
 聖花は瞬時に謝る。
――依頼者と馴れ合うつもりはない。
 聖花の脳裏に、白と初めて契約を交わした日に言われた言葉がよぎる。距離感を間違えてはいけないと、聖花は内心で気を張り直す。
「碧海聖花、これを」
 白は頭を下げる聖花に、スッと一枚の白いレター封筒をさしだした。
 顔を上げて白を見る聖花は、きょとんとする。
「……お手紙、ですか?」
 と不思議そうに問う。恭稲さんが? という言葉はぐっと飲み込んだ。
「手紙ではない。ましてや、何故私が碧海聖花に手紙を綴らねばならない」
 白は聖花の胸の内などお見通しのように、さして表情も変えずに話す。
「えっと、じゃぁ…なんなんですか?」
「開けて見れば分かる。わざわざ聞くな」
「す、すみません」
 聖花はオドオドしながら、「えっと、じゃぁ……」と、レター封筒を受け取る。
「開封しろ」
「はい」
 聖花は直ちに、白の指示に従う。
 封筒から出てきたのは、一枚の上下開きの真っ白なメッセージカードだった。
「ぇ?」
 メッセージカードを開ける聖花は戸惑う。それもそのはずだ。メッセージカードには一文字も文字は綴られておらず、下の中央に四方が二センチほどのSIMカードのようなものが、ポツリと引っ付いているだけだったのだから。
 聖花は説明を求めるように白を見上げる。
「汝、輝く水面(みなも)の記憶、白光陽炎へと投影されたし」
 白がそう呪文を唱えると、SIMカードは光柱を作る。
「?」
 何が起こっているのかと、メッセージカードと白の顔をチラチラと交互に見るために、聖花の視線は騒がしい。
「光を見ていろ。時期に投影される」
「……はい」
 白の言葉を不思議に思いながらも、聖花は素直に従う。
「!」
 光柱はほどなくして、扇子状に広がりを見せた。と思えば、光はカラー映像を映し出す。それはまるで、プロジェクターのようだった。
「ぇ⁉」
 聖花は思わず声を溢す。
 光に投影されたのは、守里愛莉の姿だった。
「愛莉ッ!」
 聖花は思わず声を上げる。
 光に映し出された愛莉は鼻歌交じりに、髪をセットし続ける。聖花の姿や声に全く気がついていない様子だった。
「どんなに話しかけようとも無駄だ」
「ぇ?」
「それは、鏡に映る守里愛莉を映像として残した物の一部を、データー化したものにしかすぎない」
「どういうことですか? それに、鏡に映る映像って、どういうことですか?」
 聖花は怪訝な顔をしながら問う。
「何故、すぐに真実を知りたがる。何故、今自分の目の前にある世界を見ない。大切にしない。碧海聖花が真実を追求している間にも、光の水面(みなも)に移る世界は変化してゆく。今後、いくらでも知りえる機械があるものを優先しているうちに、本当に大切なモノを見落とすぞ。優先順位は適切に行わなければ、後で涙を流すことになり得る。毎瞬毎瞬、目を凝らして見るべきものを誤らぬことだ」
 白は淡々とした口調でそう話すと、「それは、一度限りだ」と言い残し、ゲストルームを後にした。
「ぇ? ちょッ……」
 説明もロクにせず去ってしまった白を視線で追いかける聖花の視界に映るのは、ぴしゃりと閉じられたゲストルームの扉だけだった。


『聖花』
「⁉」
 愛莉の呼びかけに、聖花の神経が映像に一点集中した。
「ぁ、愛莉? 聞こえてる……わけではあらへんのよね?」
『聖花、見て』
 愛莉はつけていたネックレスを鏡に見せるかのように上げる。
「ぁ」
 聖花は小さな声を溢す。
 愛莉が鏡に見せるネックレスは、昨年の愛莉の誕生日に、聖花がプレゼントしていた物だった。ゴールドの百合の花。花びらの部分はふっくらと浮き上がるように色が塗られ、花びらの中央には小さなスワロフスキーが五つついている。
 教師になる夢はもちろん、出来ることならば、百合泉乃中高等学園で働きたいと常々言っていた愛莉を思い、聖花が探し選んだ一点だった。
「つけてくれてるんや」
 聖花は思わず口元を綻ばせる。
『聖花、今日のうち、中々決まってるやろ?』
 愛莉はどこか得意気に言う。
 その言葉通り、愛莉の姿からは女子高生の雰囲気が消えていた。
 黒髪だった髪色を美味しそうなハニーマフィン色に染め上げ、胸下辺りまで伸びていた髪はパーマをかけることにより少し短くなっていた。ふわふわとしたボリュームが愛莉の小動物的可愛さを引き立てていた。
 百合泉乃中高等学園の制服から、黒色の千鳥格子スカートと、袖の部分がベアロ調の赤いリボンで交差するように縫われ、袖の部分を蝶々結びをした黒色のニットを着用していた。
「黒色の服なんて滅多に着ぃひんのに」
『うちが黒色の服なんて珍しいやろ? 聖花は黒色とか赤色のゴジック? ゴスロリ? パンク? 的な世界観のある服が好きやったやろ? だから、今日はうちも聖花ぽい衣装にしてみたわ。聖花にもらったネックレスは、うちのお守り。これだけ、聖花色強かったら、寂しないわ……』
 明るい口調で話していた愛莉だが、最後は涙声になる。
『なんて、嘘や。どんなに物で聖花を感じられたところで、聖花はこの世界におらん』
 愛莉はそう話しながら、涙を溢す。
「……愛莉っ」
 聖花も愛莉につられ、ポロポロと涙を溢す。
『聖花、戻ってきて……。もう、誰のことも守らんでええ。ただ、傍におってくれるだけでええから』
 それは、愛莉が切(せつ)に願う本音だ。
「あいりぃ……ごめん」
 聖花は涙を流して謝る。
 今の聖花には、愛莉の願いを叶えたくとも叶えられない。どんなに戻りたくとも、もう愛莉たちのいる世界に戻ることは出来ない。戻ったが最後、今よりもさらに、愛莉たちの命を危険に晒すことになってしまう。そんなこと、聖花に出来るはずもない。
『ごめんなぁ。聖花。うちが守ったるって言ったのに……聖花のこと、守りきらへんかった。だって、聖花が突然バイクにはねられて死んでまうなんて、誰も思えへんやんっ。そもそも、交通事故がこんな身近に起きるなんて、あるやなんて、思ってもみんかった。ニュースでは毎日のように見聞きしてたけど、今まではどこか他人事やった。だけど、ちゃうかった。
 交通事故は、いつ誰がなってもおかしないんや。だから、一秒後にあった人間にまた会えるって高を括っていたらあかん。そう、嫌でも実感させられた。人の命って、人の運命って、どこで何が起きるか、ほんっまに分からへんわ』
 愛莉は鏡にかざすように持っていたネックレスを、両手で握りしめるようにして持ち、胸元に抱き寄せる。
「愛莉……ッ」
 聖花は下唇を噛み締めた。そして、自身がバイク事故によって偽装死亡していたのだと知る。
 偽装死亡によって愛莉たちをも騙し、これほどまでに悲しませている自分を責めてしまう。申し訳ない想いばかりが募る。
 過去の聖花なら、自分のことを責めて責めて、立ち上がることは出来なかっただろう。だが、今は違う。悲しみに暮れるだけの自分は卒業したのだ。卒業しなければ、守りたい人たちが守れない。誰かを守るためには、まずは自分が強くなければいけない。
 そう、黒崎玄音の事件で学んだ。白には自分軸の大切さを学んだ。自分軸についてはまだまだ学ぶべき点も、悟るべき点も、気づくべき点も多いが……それでも、聖花は成長していた。
『ごめん、聖花。こんなに泣いてしもうて……。聖花が心配する。うちの涙が、聖花に伝染してまうな』
 愛莉は洗面台に置いていたティッシュで、やや乱暴に涙と鼻水を拭う。
『聖花、見てて。うち、聖花の分まで、ちゃんと生きるから。ちゃんと生きて、色々な世界を見て、体験していく。そんで、聖花が笑えんかった分まで笑う。夢も叶える。叶えた先で、聖花みたいな独りぼっちになってる生徒がもしおったら、絶対にうちが見つけたんねん。その子のこと、すぐには助けてあげられへんかもしれへんけど……うちが、その子の一番の友達になるねん。そしたら、その子は独りぼっちじゃなくなるやろ? 独りぼっちは悲しすぎる。だから聖花も、天国で独りぼっちにならんといてな。
 きっと、天国には色々な人がいると思うんよ。だから、聖花と気の合う人もおるかもしれん。聖花のことを大切に思ってくれる人も絶対おる。聖花はどこにおっても独りやないから。うちはまだそっちにはいかれへんけど、地上で大活躍していく姿でも見といてーな。そしたら、寂しさも紛らわせられるやろ? ……ほな、行ってくるな』
 愛莉は長い独り言を言い終えると、鏡の前でニカッと笑顔を見せる。
 そこで映像は終わり、扇形の光が光柱となる。
「……行ってらっしゃい、愛莉。ありがとう、愛莉。ほんまに、ありがとう」
 涙を溢し続ける聖花は愛莉の存在を噛み締めるように、持っていたメッセージカードを胸元で抱き締めるのだった――。


  †


 二十××年 四月 七日 深夜二時。
 恭稲探偵事務所。
 

 恭稲白は探偵事務所で一番大きな窓ガラスから見える上弦の月を見つめ、物思いに耽っていた。
 月光は濁り一つない白の白髪(はくはつ)と、白の憂いを帯びた表情を輝かせていた。
「白様」
 ヴァイオリンのD線からA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音が恭稲探偵事務所に響く。
 白は首だけで振り向く。
 真ん中分けセミロングにセットされた白髪、目尻や口元にほんのりと年齢を感じるも人間離れした整った顔立ちを持つ男性の姿を月光が鈍く照らす。
 白の瞳が智白の姿を捉える。
 智白は少し煌めきが薄れたパープルスピネルを彷彿とさせる瞳で、白の考えを汲み取るようにじっと見つめる。だが、白の瞳やその表情には、智白の求める答えはなかった。
「碧海聖花を恭稲探偵事務所という鳥籠の中に移して、どうするおつもりですか?」
 智白はどこか問題児に手を煩わされる先生のように小さな溜息を零し、そう問うてみる。
 だが白はほくそ笑むだけで、智白にさえも、まだなにも答えを与えようとはしなかった。
 そんな白に対し小さく首を竦める智白は、高さ174cm、横幅95cm、奥行き50cmほどの英国クラシックなブックシェルフの前に歩み寄り、スーツの左ポケットから鍵を取り出し、ガラス引き戸書庫を開ける。
 下段には、ワインレッド色のシステム手帳が十冊収納されており、上段には、牛革で作られたA五サイズのほどの白色が印象的なシステム手帳が二冊収納されていた。
 智白はそこから二冊目にあたる手帳を手に取り、またガラス引き戸書庫に鍵をかける。 
「今後、どうするおつもりですか?」
「……今は、何もしない。行動するばかりが、人生を進ませるとは限らない」
 白は先見の目で何かを見ているかのように、落ち着いた口調で答える。
「そうですか。では、また――」
 智白は深く追求はせず、「失礼いたします」と、自身の部屋へと戻っていった。
 一人残された白は、誰かに思いをはせるかのように、上弦の月を静かに眺め続ける。
「――……い」
 空気のように吐き出された言葉は、この世界に魂と器を持たぬモノだけに届けられる。
 ガラス窓越しに、どこからともなく桜の花びらが夜空に数枚舞う。
 それはまるで、白の言葉がそのモノに届いたということを知らせるようだった――。