*
翌朝の教室は、いつも以上に埃っぽかった。
寒波到来に合わせて、コートを羽織ってくるクラスメートが増えたからだろうか。それとも、クラス全体が妙に浮き足立っているからだろうか。
「おはよ。寒いね、今日」
日差しの届かない廊下側の席につき、隣人の吉川 蓮成に声を掛ける。
「はよ」
その二文字さえ出すのが億劫だ、と言いたげな気怠さで、吉川はスマホに視線を注いだまま
「五度だって、最高」
と、静かに続けた。
周りに感化されず、一人大きな欠伸を堂々携える彼は、頬杖を突いてやっとこちらへ視線を流す。健康的な小麦色から、寒さに比例して白くなっていったその肌も、もう随分見慣れたものだ。
サッカー部員は年中黒い人ばかりじゃない、と知った去年の冬を思い出しながら、流された視線に応えた。
「なに?」
「沖縄、行かねぇの」
なんだ、今さらそんなことか。肩の力が抜けて、冷気を吸い込んだ椅子に背を凭れる。
「行かないよ」
「沖縄、今日は十五度だって」
「ふうん。いいじゃん。バカンス楽しんできてよ」
「寒いなら、行きゃいいのに」
ため息混じりに言われて、苦笑する。
吉川の場合、香吏の天然とは違うから、このデリカシーの無さはあえてなのだろうけど、それが分かっても少しムッとした。
「臨未~!おーはよー」
「おはよ、臨未」
吉川を返り討ちにする方法を探していると、窓際から美世と莉亜夢がやってくる。
サッカー部は年中黒くはないけれど、美世は年中寒さ知らずのポニーテールで、今日もうなじを晒している。莉亜夢の、毛先の揃った黒髪ボブも跳ね一つなく綺麗だ。
「おはよう。美世、莉亜夢」
なんとなく、この二人は名前が逆の方が性格的にも、見た目的にもしっくりくる。普段からそう思っているせいか、呼び間違えてしまうことも少なくなかった。
「昨日は弟くん、平気だった?」
美世が言う。
「うん、大丈夫。ごめんね、放課後付き合えなくて」
「いいよいいよ。弟くんが優先だよ」
「逆に、臨未は来なくて正解だったかも。美世、昨日クレープ食べすぎて腹下し——」
「ちょ、ちょちょ、ストォーップ!」
淡々と告げる莉亜夢の口を、美世の小さな手が塞ぐ。タッパの差が一番開いている二人なので、美世は爪先立ちでバランスを保っていた。
「吉川くんいんじゃんっ!聴こえたらどうすんの!」
私の席を囲って、美世は声を潜めて言う。隙間から覗いた吉川は、相変わらず気怠そうにスマホ画面をスクロールしていた。
そうか、美世は吉川のことが好きだったっけ。
「いいじゃん。お腹くらい誰でも下すし」
「そういう問題じゃないでしょ?!」
「臨未も下すよね?」
「うん。下す下す」
「何の話?!」
テンポの良い会話に笑みが漏れる。あのガラス張りのカフェとは違って、この教室は奥の席まで日は届かないけど、二人が来ると日を浴びた気分にさせてもらえる。
それなのに、私と彼女たちの間に薄い境界線が敷かれていることを、時々、ふと思い出す。
「美世ー、莉亜夢ー、それと吉川もー。ホームルームまでに班でまとまっといてってさー」
窓際から掛かる招集に、会話は中途半端にピタリと止まる。美世と莉亜夢は顔を見合わせて、次に莉亜夢が「すぐ行く」と手をあげて振り向いた。
「……ごめん臨未、」
先ほどとは打って変わって、歯切れの悪い莉亜夢。薄い唇が再び割られる前に、私は顔の前で両手を振る。
「全然いいって。私はいつも通り徘徊してくるから」
「徘徊って、また屋上?でも今日、すごく寒いよ?」
美世は、心配そうに眉を下げる。
「うん。それがいいの」
「……そっか…………」
「だから気にしないで。ほら、リーダー呼んでるよ」
向こう側を差して言うと、二人は再び顔を見合わせた後で「ごめん」と気まずそうに笑う。謝られているのに、どこか不満が滲んだようにも見えるその表情が、私と彼女たちとの間に見えない緞帳を下ろした。
遠ざかっていく、丸まった二つの背を見据えながら、私もゆっくり立ち上がる。
「石川」
教室を出ようと一歩進めて、振り向いた。浮き足立つ教室のなかで、重たい腰を持ち上げた吉川が引き留めたからだ。
「なに?」
「ほんとに行かなくていいのかよ。あいつらと」
不満を呑み込まれるくらいなら、フリであれデリカシーなく言ってくる彼の方が逆に清々しいかもしれない。
一年のとき、周りには内緒で半年間だけ付き合ったことのある男の顔が、何故か香吏の表情と被る。
黙ったままでいると、その間に彼は再び招集を掛けられて、わざとらしく嘆息を吐いた。
「言いたくないならいいけど」
「うん。言いたくない」
「……土産、何がいい」
後ろ髪をわしゃわしゃと乱しながら言うその様が、照れ隠しだと知っている。
「じゃあ、とびきり大きいシーサーで」
その言葉を置き土産に、私は教室を出て行った。
チャイムが鳴った後、人気のない階段を上りながら、悴んだ指に息を吹き掛ける。
教室がやけに埃っぽく思えたのは、明日からの修学旅行を待ちわびるクラスメートたちが、別世界の人間に見えたからだ。映画にも思えるようなフィルターが、視界に下ろされていた。
——修旅?行かないよ。そもそも、沖縄より北海道派だし。
積立て金のお知らせを渡していないことがバレ、礼実ちゃんに訳を告げたとき、すごく悲しい顔をされた。
——ごめんね、ごめんね、臨未ちゃん。
と謝るだけの姿に、良心の呵責を覚えた。
四人分の生活費、雑費だけではなく、叔父さんの療養費や歩睦の治療費もそれに重なっている状況だ。家計が苦しいことは、痛いほど身に染みている。
修学旅行を削っても、大して家計の助けになるとは思えなかったけれど、『修学旅行・積立て金のお知らせ』に書かれた総額は、高校生の私を気後れさせるには十分だった。でも、今思えば、修旅には行かないと決意して良かったのだ。
学校での集団生活は、決して苦手な方ではない。何より私は目立つタイプではなかったし、角を立てないように生きてきたので、それなりに友だちと呼べるクラスメートは多かった。それが、担任が放った一言をきっかけに、少しずつ歪んでいった。
石川臨未は、才栄法に基づいて才能提供者になったのだ、と。歌える状態ではなくなったため、ギター部は退部するとのことだ、と。
私はいつも、ギターで奏でる旋律に、自慢の歌声を乗せていた。——歌が、何よりも好きだった。
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提 供 者:イシカワ ノゾミ
取 引 者:イシカワ ノゾミ
才 能:歌唱力
提供理由:歌唱時機能性発声障害により、歌唱が困難と見なされたため ※診断証明認定済
金 額:300万円
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翌朝の教室は、いつも以上に埃っぽかった。
寒波到来に合わせて、コートを羽織ってくるクラスメートが増えたからだろうか。それとも、クラス全体が妙に浮き足立っているからだろうか。
「おはよ。寒いね、今日」
日差しの届かない廊下側の席につき、隣人の吉川 蓮成に声を掛ける。
「はよ」
その二文字さえ出すのが億劫だ、と言いたげな気怠さで、吉川はスマホに視線を注いだまま
「五度だって、最高」
と、静かに続けた。
周りに感化されず、一人大きな欠伸を堂々携える彼は、頬杖を突いてやっとこちらへ視線を流す。健康的な小麦色から、寒さに比例して白くなっていったその肌も、もう随分見慣れたものだ。
サッカー部員は年中黒い人ばかりじゃない、と知った去年の冬を思い出しながら、流された視線に応えた。
「なに?」
「沖縄、行かねぇの」
なんだ、今さらそんなことか。肩の力が抜けて、冷気を吸い込んだ椅子に背を凭れる。
「行かないよ」
「沖縄、今日は十五度だって」
「ふうん。いいじゃん。バカンス楽しんできてよ」
「寒いなら、行きゃいいのに」
ため息混じりに言われて、苦笑する。
吉川の場合、香吏の天然とは違うから、このデリカシーの無さはあえてなのだろうけど、それが分かっても少しムッとした。
「臨未~!おーはよー」
「おはよ、臨未」
吉川を返り討ちにする方法を探していると、窓際から美世と莉亜夢がやってくる。
サッカー部は年中黒くはないけれど、美世は年中寒さ知らずのポニーテールで、今日もうなじを晒している。莉亜夢の、毛先の揃った黒髪ボブも跳ね一つなく綺麗だ。
「おはよう。美世、莉亜夢」
なんとなく、この二人は名前が逆の方が性格的にも、見た目的にもしっくりくる。普段からそう思っているせいか、呼び間違えてしまうことも少なくなかった。
「昨日は弟くん、平気だった?」
美世が言う。
「うん、大丈夫。ごめんね、放課後付き合えなくて」
「いいよいいよ。弟くんが優先だよ」
「逆に、臨未は来なくて正解だったかも。美世、昨日クレープ食べすぎて腹下し——」
「ちょ、ちょちょ、ストォーップ!」
淡々と告げる莉亜夢の口を、美世の小さな手が塞ぐ。タッパの差が一番開いている二人なので、美世は爪先立ちでバランスを保っていた。
「吉川くんいんじゃんっ!聴こえたらどうすんの!」
私の席を囲って、美世は声を潜めて言う。隙間から覗いた吉川は、相変わらず気怠そうにスマホ画面をスクロールしていた。
そうか、美世は吉川のことが好きだったっけ。
「いいじゃん。お腹くらい誰でも下すし」
「そういう問題じゃないでしょ?!」
「臨未も下すよね?」
「うん。下す下す」
「何の話?!」
テンポの良い会話に笑みが漏れる。あのガラス張りのカフェとは違って、この教室は奥の席まで日は届かないけど、二人が来ると日を浴びた気分にさせてもらえる。
それなのに、私と彼女たちの間に薄い境界線が敷かれていることを、時々、ふと思い出す。
「美世ー、莉亜夢ー、それと吉川もー。ホームルームまでに班でまとまっといてってさー」
窓際から掛かる招集に、会話は中途半端にピタリと止まる。美世と莉亜夢は顔を見合わせて、次に莉亜夢が「すぐ行く」と手をあげて振り向いた。
「……ごめん臨未、」
先ほどとは打って変わって、歯切れの悪い莉亜夢。薄い唇が再び割られる前に、私は顔の前で両手を振る。
「全然いいって。私はいつも通り徘徊してくるから」
「徘徊って、また屋上?でも今日、すごく寒いよ?」
美世は、心配そうに眉を下げる。
「うん。それがいいの」
「……そっか…………」
「だから気にしないで。ほら、リーダー呼んでるよ」
向こう側を差して言うと、二人は再び顔を見合わせた後で「ごめん」と気まずそうに笑う。謝られているのに、どこか不満が滲んだようにも見えるその表情が、私と彼女たちとの間に見えない緞帳を下ろした。
遠ざかっていく、丸まった二つの背を見据えながら、私もゆっくり立ち上がる。
「石川」
教室を出ようと一歩進めて、振り向いた。浮き足立つ教室のなかで、重たい腰を持ち上げた吉川が引き留めたからだ。
「なに?」
「ほんとに行かなくていいのかよ。あいつらと」
不満を呑み込まれるくらいなら、フリであれデリカシーなく言ってくる彼の方が逆に清々しいかもしれない。
一年のとき、周りには内緒で半年間だけ付き合ったことのある男の顔が、何故か香吏の表情と被る。
黙ったままでいると、その間に彼は再び招集を掛けられて、わざとらしく嘆息を吐いた。
「言いたくないならいいけど」
「うん。言いたくない」
「……土産、何がいい」
後ろ髪をわしゃわしゃと乱しながら言うその様が、照れ隠しだと知っている。
「じゃあ、とびきり大きいシーサーで」
その言葉を置き土産に、私は教室を出て行った。
チャイムが鳴った後、人気のない階段を上りながら、悴んだ指に息を吹き掛ける。
教室がやけに埃っぽく思えたのは、明日からの修学旅行を待ちわびるクラスメートたちが、別世界の人間に見えたからだ。映画にも思えるようなフィルターが、視界に下ろされていた。
——修旅?行かないよ。そもそも、沖縄より北海道派だし。
積立て金のお知らせを渡していないことがバレ、礼実ちゃんに訳を告げたとき、すごく悲しい顔をされた。
——ごめんね、ごめんね、臨未ちゃん。
と謝るだけの姿に、良心の呵責を覚えた。
四人分の生活費、雑費だけではなく、叔父さんの療養費や歩睦の治療費もそれに重なっている状況だ。家計が苦しいことは、痛いほど身に染みている。
修学旅行を削っても、大して家計の助けになるとは思えなかったけれど、『修学旅行・積立て金のお知らせ』に書かれた総額は、高校生の私を気後れさせるには十分だった。でも、今思えば、修旅には行かないと決意して良かったのだ。
学校での集団生活は、決して苦手な方ではない。何より私は目立つタイプではなかったし、角を立てないように生きてきたので、それなりに友だちと呼べるクラスメートは多かった。それが、担任が放った一言をきっかけに、少しずつ歪んでいった。
石川臨未は、才栄法に基づいて才能提供者になったのだ、と。歌える状態ではなくなったため、ギター部は退部するとのことだ、と。
私はいつも、ギターで奏でる旋律に、自慢の歌声を乗せていた。——歌が、何よりも好きだった。
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提 供 者:イシカワ ノゾミ
取 引 者:イシカワ ノゾミ
才 能:歌唱力
提供理由:歌唱時機能性発声障害により、歌唱が困難と見なされたため ※診断証明認定済
金 額:300万円
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