あの日の病室で、礼実ちゃんは今後のことを話してくれた。
——あの家を売って、手頃な中古マンションへ引っ越そうと思っているの。
と聴いた時には驚いたけど、礼実ちゃんはもう心を決めていた。
——マイホームは夢だったけど、私がいま大切にしたいのは私の夢じゃない。私たち家族の未来なの。……だからね、臨未ちゃん。迷惑を掛けてるだなんて、絶対に思わないでね。
これまですれ違っていたはずなのに、私たちが大切にしたいものは同じだった。咎めるでもなく、諭すでもなく、ただ実直に決意を述べる礼実ちゃんに、私は深く頷いた。
“脳脊椎液減少症”という診断を正式に受けて数日間、私は治療のためにしばらく浜松の病院で過ごすことになる。
病室に来てくれた歩睦が、震えた声で
——こわかった。
と溢した。ずっと、何があっても『怖い』と口にすることを我慢していた弟の手が、私の手を力一杯に握りしめた。胸が、同じように強く締め付けられた。
——お姉ちゃんが……いなくなっちゃうのが、怖かった。
——ごめんね……ごめんね、歩睦。
まだ小さな体を抱きしめながら、死を選ぼうとしていた自分自身に私は怯えた。小さな体温に触れて、歩睦を守ることが出来る今の自分に、生きていて良かった、と素直に思えた。
美世と莉亜夢がお見舞いに来てくれたのは、治療が終わった後のこと。もう一つの絡まった糸を解くように、これまでの事を沢山話した。
真冬との事を打ち明けたときには、二人とも身を乗り出して
——臨未に彼氏?!
と、病室に響き渡るほどの声を上げていた。全てではなくても、二人に知ってもらいたいことは沢山あったのだと、楽しそうな二人を見て気がついた。
身勝手に下ろしていた緞帳が、ゆっくりと開いていく——そのことを、早く真冬にも伝えたかった。
「えっ、二人きりじゃないの?」
購買で買い込んだパンを机に並べた後、美世は席に着くなり目を瞠る。莉亜夢もその反応に同意するように頷いた。
「うん。香吏くんも時間が合うって言うから、一緒に会おうって」
放課後の予定を伝えると、二人は複雑そうに顔を歪める。大学生になった真冬と、院二年生になった香吏とカフェに集合、というのが、どうにも解せないようだった。
「だってさ、真冬先輩と会うの久々なんでしょ?!」
「うん。お見舞いに来てもらって以来かな」
「それなら尚更、二人で会いたいんじゃない?」
美世と莉亜夢はパンを頬張ることも忘れて、私に詰め寄る。
先月退院してから、私は引っ越しの準備で、真冬は入学準備でなかなか時間が合わず、確かに今日は久々の再会だった。けれど——だからこそ、二人きりではない方がいい。
「だって……二人だと、なんか気まずくて」
ポツリと落として、メロンパンを一口齧る。目を上げれば、二人は顔を見合わせて笑っていた。
「なんでよ、付き合ってるんでしょ?」
「いや……実はその辺も、ちゃんと付き合うってお互いに合意した訳じゃないし」
「合意って!」
再び顔を見合わせて吹き出す二人。私は少しむくれながら「だって」と続けた。
「病院で会った時も、電話で話した時も、そんな話一度もしてないし」
「いや、でも好き同士なんでしょ?」
「……そう、だと思うけど、」
「よしっ。もう今日訊く!中途半端なその状況、かなりヤバいから!」
美世は脅すように言い放つ。
「確かに、真冬さんイケメンだもんね。大学じゃモテてるんじゃないかなー」
と、莉亜夢までそれに乗っかる。打ち解けてからの二人は、なぜかたまに意地が悪い。
「……それは……困る」
私は口を窄めたまま、小さくそう呟いた。
*
待ち合わせ場所は、香吏との行きつけだったカフェではなく、私が新たに発掘した公園沿いのカフェだった。商店街を抜けると、街路樹からカフェの看板がこちらを覗く。
「臨未ちゃん……?」
声を掛けられたのは、カフェに行き着く寸前の横断歩道で、信号待ちをしていたときだ。私は隣に並ぶ彼を見上げて、ぎこちなく笑った。
「……久しぶり。真冬」
「うん、久しぶり」
白のインナーに、ベージュのカーディガンを合わせたコーディネートが、童顔な彼を大人びて見せる。思わず見入っていると、真冬は口元を手で覆った。
「そんなに見られると、恥ずかしい」
「え?あ……うん、ごめん」
「いや、いいんだけど……」
耳を赤くする反応が、こちらにも伝染する。会っていない間に身長も伸びたのか、見上げる角度にも違和感を覚えた。なんだか、調子が狂う。
「臨未ちゃん、体は大丈夫?」
青信号に変わって、同時に歩き出す。
「うん。しばらくは定期検診に行かなきゃだけど」
「そっか。それなら良かった」
「……なんか、見ない間に大人っぽくなったよね」
横目に見上げながら呟くと、真冬は「ほんと?」と嬉しそうに眉を持ち上げる。
「大学生が板についてる感じ。……あそこで見てた私服姿と、全然違う」
「あそこって、浜名湖?」
「うん。そう」
何故か面白くなくて、ぶっきら棒な受け答えになってしまう。その事に気付かない真冬は、また嬉しそうに頬を緩めた。
——大学じゃモテてるんじゃないかなー。
昼休みに聴いた言葉が、こんなタイミングで蘇る。
「真冬」
カフェに着く寸前で立ち止まると、真冬は首を傾げて振り返る。制服姿の自分が、途端に幼く思えて仕方がない。
「私は——真冬のことが好き」
唇が、静かに震える。どうして今、涙が溢れそうになるのだろう。あのとき、一緒に湖を眺めた事が、ひどく儚い夢のように感じられたからだろうか。
けれどその夢を覆うように、突然体が締め付けられる。真冬に抱き締められているのだと悟ったとき、耳に彼の吐息が掠めた。
「ずっと、会いたかった。早く会いたかった。臨未ちゃんの顔を、ずっと見たかった」
やっと会えた——。そう呟く声は、今にも消え入りそうなほど儚い。けれど、肩に伝う義手の感触が、現実だと教えてくれる。
「ずるいよね……辻宮さんは、臨未ちゃんにすぐ会えるんだから」
「それは、嫉妬?」
「うん。悪い?」
「ううん。……でも、妬く必要はないと思う」
「ん?」
「それより、真冬——」
肩をゆっくり剥がして、彼の大きな瞳を見上げる。子犬のようなその瞳は、前からずっと変わらない。
「私たち、どういう関係?」
「え?」
寝耳に水、とでも言いたげな表情で、真冬は呆ける。私は軽く眉を顰めた。
「そこ、ちゃんとしてくれないと、不安なんだけど」
「それは、僕の方こそ——、」
真冬は半端に言い留まった後、私の手を握って息を吐く。一度下がって、もう一度私を捉えるその双眸に、なぜかドキリと脈が沈んだ。
「あの湖が海に繋がっているって聴いて、安心したんだよ」
真冬は、優しい口調で切り出す。私は「安心?」と復唱した。
「うん。あの場所で臨未ちゃんと過ごした時間が、あのとき限りの事じゃなくて、ちゃんと今に繋がるんだって思えたから」
湖は、切り離されている訳じゃない——。そう続けた真冬は、手を一層強く握りしめる。
「臨未ちゃんが血を流しているのを見たとき、本当にいなくなってしまうって思ったら、頭が真っ白になった。臨未ちゃんが、今ここに戻って来られてなかったら——僕はきっと、あの場に取り残されたままだった」
「……うん」
ぎゅっと握られた手を、同じように握り返す。目を上げて交わった瞳は、湖の波紋のように、緩やかに揺れていた。
「——臨未ちゃん。僕と、付き合ってください」
約束していたカフェの戸を引くと、見通した先に香吏はいない。まだ来ていないのか、と店員さんに声を掛けようとすると、横で
「石川くん、こっちだ」
と、席についた香吏が手を上げていた。いつもは座らないはずの窓際に、彼と一人の少女が同じ方向に座っている。
「えっ、臨未ちゃん、あの子って——」
真冬が、その少女を視界に捉えて言う。私はそれに頷き、二人の正面の椅子を引いた。向かいに座る私服の大学院生と制服女子の組み合わせは、なんだか異質だ。これまでの私と香吏も、そう見えていたのかもしれない。
「待たせてごめんね。注文は?」
「俺たちもこれからだ」
「ん、分かった」
私はメニューを四人の真ん中に広げる。各々注文を済ませてから、少女は真冬と私を交互に見てにやついた。
「ふうん。おねーさんってこういうタイプが好きなんだぁ」
頬杖を突くその姿には、最年少ゆえの花がある。新品のブレザーはよく似合っているし、ウルフカットに映える彫りの深い顔立ちは、周りの目を惹き付けるくらい美しい。
手首までしっかり伸びたブレザーを着る彼女は、湖で会話をした少女だった。
「臨未ちゃん、この子って、」
真冬は先ほどと同じ言葉で、私に耳打ちする。それが聴こえたのか、
「矢吹 伊桜っていうの。伊豆の伊に、桜ね」
と、少女は淡々と名乗った。
「初めまして。朝倉真冬です。真実の真に、冬で真冬」
「へぇー、寒そうな名前」
「ああ……、よく言われるよ」
——あの家を売って、手頃な中古マンションへ引っ越そうと思っているの。
と聴いた時には驚いたけど、礼実ちゃんはもう心を決めていた。
——マイホームは夢だったけど、私がいま大切にしたいのは私の夢じゃない。私たち家族の未来なの。……だからね、臨未ちゃん。迷惑を掛けてるだなんて、絶対に思わないでね。
これまですれ違っていたはずなのに、私たちが大切にしたいものは同じだった。咎めるでもなく、諭すでもなく、ただ実直に決意を述べる礼実ちゃんに、私は深く頷いた。
“脳脊椎液減少症”という診断を正式に受けて数日間、私は治療のためにしばらく浜松の病院で過ごすことになる。
病室に来てくれた歩睦が、震えた声で
——こわかった。
と溢した。ずっと、何があっても『怖い』と口にすることを我慢していた弟の手が、私の手を力一杯に握りしめた。胸が、同じように強く締め付けられた。
——お姉ちゃんが……いなくなっちゃうのが、怖かった。
——ごめんね……ごめんね、歩睦。
まだ小さな体を抱きしめながら、死を選ぼうとしていた自分自身に私は怯えた。小さな体温に触れて、歩睦を守ることが出来る今の自分に、生きていて良かった、と素直に思えた。
美世と莉亜夢がお見舞いに来てくれたのは、治療が終わった後のこと。もう一つの絡まった糸を解くように、これまでの事を沢山話した。
真冬との事を打ち明けたときには、二人とも身を乗り出して
——臨未に彼氏?!
と、病室に響き渡るほどの声を上げていた。全てではなくても、二人に知ってもらいたいことは沢山あったのだと、楽しそうな二人を見て気がついた。
身勝手に下ろしていた緞帳が、ゆっくりと開いていく——そのことを、早く真冬にも伝えたかった。
「えっ、二人きりじゃないの?」
購買で買い込んだパンを机に並べた後、美世は席に着くなり目を瞠る。莉亜夢もその反応に同意するように頷いた。
「うん。香吏くんも時間が合うって言うから、一緒に会おうって」
放課後の予定を伝えると、二人は複雑そうに顔を歪める。大学生になった真冬と、院二年生になった香吏とカフェに集合、というのが、どうにも解せないようだった。
「だってさ、真冬先輩と会うの久々なんでしょ?!」
「うん。お見舞いに来てもらって以来かな」
「それなら尚更、二人で会いたいんじゃない?」
美世と莉亜夢はパンを頬張ることも忘れて、私に詰め寄る。
先月退院してから、私は引っ越しの準備で、真冬は入学準備でなかなか時間が合わず、確かに今日は久々の再会だった。けれど——だからこそ、二人きりではない方がいい。
「だって……二人だと、なんか気まずくて」
ポツリと落として、メロンパンを一口齧る。目を上げれば、二人は顔を見合わせて笑っていた。
「なんでよ、付き合ってるんでしょ?」
「いや……実はその辺も、ちゃんと付き合うってお互いに合意した訳じゃないし」
「合意って!」
再び顔を見合わせて吹き出す二人。私は少しむくれながら「だって」と続けた。
「病院で会った時も、電話で話した時も、そんな話一度もしてないし」
「いや、でも好き同士なんでしょ?」
「……そう、だと思うけど、」
「よしっ。もう今日訊く!中途半端なその状況、かなりヤバいから!」
美世は脅すように言い放つ。
「確かに、真冬さんイケメンだもんね。大学じゃモテてるんじゃないかなー」
と、莉亜夢までそれに乗っかる。打ち解けてからの二人は、なぜかたまに意地が悪い。
「……それは……困る」
私は口を窄めたまま、小さくそう呟いた。
*
待ち合わせ場所は、香吏との行きつけだったカフェではなく、私が新たに発掘した公園沿いのカフェだった。商店街を抜けると、街路樹からカフェの看板がこちらを覗く。
「臨未ちゃん……?」
声を掛けられたのは、カフェに行き着く寸前の横断歩道で、信号待ちをしていたときだ。私は隣に並ぶ彼を見上げて、ぎこちなく笑った。
「……久しぶり。真冬」
「うん、久しぶり」
白のインナーに、ベージュのカーディガンを合わせたコーディネートが、童顔な彼を大人びて見せる。思わず見入っていると、真冬は口元を手で覆った。
「そんなに見られると、恥ずかしい」
「え?あ……うん、ごめん」
「いや、いいんだけど……」
耳を赤くする反応が、こちらにも伝染する。会っていない間に身長も伸びたのか、見上げる角度にも違和感を覚えた。なんだか、調子が狂う。
「臨未ちゃん、体は大丈夫?」
青信号に変わって、同時に歩き出す。
「うん。しばらくは定期検診に行かなきゃだけど」
「そっか。それなら良かった」
「……なんか、見ない間に大人っぽくなったよね」
横目に見上げながら呟くと、真冬は「ほんと?」と嬉しそうに眉を持ち上げる。
「大学生が板についてる感じ。……あそこで見てた私服姿と、全然違う」
「あそこって、浜名湖?」
「うん。そう」
何故か面白くなくて、ぶっきら棒な受け答えになってしまう。その事に気付かない真冬は、また嬉しそうに頬を緩めた。
——大学じゃモテてるんじゃないかなー。
昼休みに聴いた言葉が、こんなタイミングで蘇る。
「真冬」
カフェに着く寸前で立ち止まると、真冬は首を傾げて振り返る。制服姿の自分が、途端に幼く思えて仕方がない。
「私は——真冬のことが好き」
唇が、静かに震える。どうして今、涙が溢れそうになるのだろう。あのとき、一緒に湖を眺めた事が、ひどく儚い夢のように感じられたからだろうか。
けれどその夢を覆うように、突然体が締め付けられる。真冬に抱き締められているのだと悟ったとき、耳に彼の吐息が掠めた。
「ずっと、会いたかった。早く会いたかった。臨未ちゃんの顔を、ずっと見たかった」
やっと会えた——。そう呟く声は、今にも消え入りそうなほど儚い。けれど、肩に伝う義手の感触が、現実だと教えてくれる。
「ずるいよね……辻宮さんは、臨未ちゃんにすぐ会えるんだから」
「それは、嫉妬?」
「うん。悪い?」
「ううん。……でも、妬く必要はないと思う」
「ん?」
「それより、真冬——」
肩をゆっくり剥がして、彼の大きな瞳を見上げる。子犬のようなその瞳は、前からずっと変わらない。
「私たち、どういう関係?」
「え?」
寝耳に水、とでも言いたげな表情で、真冬は呆ける。私は軽く眉を顰めた。
「そこ、ちゃんとしてくれないと、不安なんだけど」
「それは、僕の方こそ——、」
真冬は半端に言い留まった後、私の手を握って息を吐く。一度下がって、もう一度私を捉えるその双眸に、なぜかドキリと脈が沈んだ。
「あの湖が海に繋がっているって聴いて、安心したんだよ」
真冬は、優しい口調で切り出す。私は「安心?」と復唱した。
「うん。あの場所で臨未ちゃんと過ごした時間が、あのとき限りの事じゃなくて、ちゃんと今に繋がるんだって思えたから」
湖は、切り離されている訳じゃない——。そう続けた真冬は、手を一層強く握りしめる。
「臨未ちゃんが血を流しているのを見たとき、本当にいなくなってしまうって思ったら、頭が真っ白になった。臨未ちゃんが、今ここに戻って来られてなかったら——僕はきっと、あの場に取り残されたままだった」
「……うん」
ぎゅっと握られた手を、同じように握り返す。目を上げて交わった瞳は、湖の波紋のように、緩やかに揺れていた。
「——臨未ちゃん。僕と、付き合ってください」
約束していたカフェの戸を引くと、見通した先に香吏はいない。まだ来ていないのか、と店員さんに声を掛けようとすると、横で
「石川くん、こっちだ」
と、席についた香吏が手を上げていた。いつもは座らないはずの窓際に、彼と一人の少女が同じ方向に座っている。
「えっ、臨未ちゃん、あの子って——」
真冬が、その少女を視界に捉えて言う。私はそれに頷き、二人の正面の椅子を引いた。向かいに座る私服の大学院生と制服女子の組み合わせは、なんだか異質だ。これまでの私と香吏も、そう見えていたのかもしれない。
「待たせてごめんね。注文は?」
「俺たちもこれからだ」
「ん、分かった」
私はメニューを四人の真ん中に広げる。各々注文を済ませてから、少女は真冬と私を交互に見てにやついた。
「ふうん。おねーさんってこういうタイプが好きなんだぁ」
頬杖を突くその姿には、最年少ゆえの花がある。新品のブレザーはよく似合っているし、ウルフカットに映える彫りの深い顔立ちは、周りの目を惹き付けるくらい美しい。
手首までしっかり伸びたブレザーを着る彼女は、湖で会話をした少女だった。
「臨未ちゃん、この子って、」
真冬は先ほどと同じ言葉で、私に耳打ちする。それが聴こえたのか、
「矢吹 伊桜っていうの。伊豆の伊に、桜ね」
と、少女は淡々と名乗った。
「初めまして。朝倉真冬です。真実の真に、冬で真冬」
「へぇー、寒そうな名前」
「ああ……、よく言われるよ」