礼実ちゃんが病室を訪れたのは、午後四時を回る頃。西日が眩しくて、カーテンを半分閉めたところだった。
「良かった……、本当に」
礼実ちゃんはグレーのスーツ姿で、隣の椅子に腰を下ろす。久しぶりに交わる視線が、心臓の鼓動を速めた。
「ごめんね、心配掛けて」
唇から漏れる声が、少し裏返る。礼実ちゃんはふっくらとした唇を緩めて、ペットボトルを差し出した。そういえば、声も少しガサついている。
「心配だったよ、ずっと。家出なんて、初めてだったから」
家出——。気恥ずかしそうに、だけど真っ直ぐこちらを見据える礼実ちゃんの言葉に、手紙の文字が起こされる。
「礼実ちゃん。手紙にも書いてあったけど、私、家出だなんて言ってないよ」
「そうだけど、家出っていうのは家を出られた人がそう感じたら、もう立派な家出だよ」
「え、何それ。どんな定義?」
「あなたのお母さんが、そう言ってたの。むかーし、私が彼氏と駆け落ちしようとしたときにね」
そんなことがあったのか。おっとりとした礼実ちゃんでも、駆け落ちしようなんて思うのか。と、私は思わず身を乗り出す。
だけど、その反動でまたお腹が痛んで、軽く身を縮めた。
「ダメよ、無理に動いたら」
「うん……ごめん、つい忘れちゃって」
礼実ちゃんに支えられながら、再びベッドに横たわる。そのときに感じた礼実ちゃんの衣服の香りが、昔の些細な出来事を思い起こした。
「礼実ちゃんにさ、昔、看病してもらったことあるよね」
「え?」
私が切り出すと、礼実ちゃんは眉を持ち上げる。
「お母さんたちが死んじゃった後、すぐにインフルエンザに罹っちゃって、礼実ちゃんが看病してくれたの。すりリンゴが美味しいって言ったら、大量にすってくれて」
女将さんが切り分けてくれたリンゴを、礼実ちゃんはそっと見据える。女将さんは、私の好物だから、と礼実ちゃんから言付かっていたそうだ。
「うん。私も覚えてる。臨未ちゃんが、初めて甘えてくれたと思ったから」
「……私は、ちょっとだけ居心地が悪かった。来たばかりの家で、迷惑を掛けてることが居たたまれなくて」
リンゴだって、本当はそこまで好きじゃなかったのに「美味しい、美味しい」と嘘を吐いた。礼実ちゃんの衣服から漂う知らない香りに、心はずっと落ち着かなかった。
「うん。知ってたよ」
礼実ちゃんはゆっくりと、一つ瞬きをする。あのとき、私を看病してくれていたときから、礼実ちゃんは随分と痩せていた。
「臨未ちゃんと歩睦くんがどうやったら心を開いてくれるかって、考えても考えても空回りで。でも、二人は良い子だから、ちゃんと家族でいようとしてくれて——」
「良い子なんかじゃないよ。……私は、ずっと避けてた。ずっと、お父さんとお母さんの影ばかりを追って、新しい生活に馴染むことを拒んでた」
初めて打ち明けた本音に、礼実ちゃんは口を結ぶ。泣くのを必死に堪えている表情だった。
「だから、早く大人になりたくて、二人の手を離れたくて、ドナーになったの。礼実ちゃんが、私たちのために無理して働いているのが苦しくて、少しでも離れなきゃって……」
刺された傷痕から、じわりと熱が込み上げる。絡まった糸を解くために、布団のなかに忍ばせた手紙を、お守りのように握りしめる。
「だけど、本当は寂しかった。……勝手だと思うけど、私は何かに寄り掛かりたくて——寄り掛かって、ほしかった」
「臨未ちゃん……」
溜めていた涙が頬を伝うと、礼実ちゃんの腕が私を軽く抱き締める。こんなに細い腕で、私たち家族を守ろうとしてくれていたのかと、また涙が溢れ出した。
「ありがとう。話してくれて、ありがとう」
礼実ちゃんの、鼻をすする音が傍で響く。
「私はダメだな……。臨未ちゃんの方がよっぽど、勇気がある」
「え……?」
「全部、先に言われちゃった。さすが、お姉ちゃんの娘」
礼実ちゃんは私の頭を撫でた後、呼吸をそっと一つ置く。
「それとね……、臨未ちゃんが寝ている間に、判ったことがあるの」
と、体を解放しながら言う瞳は、強い意志を含んでいる。私は頷いて、先を待った。
「臨未ちゃんを刺してしまった女の子が、意識を失う前に言っていたの……貴方が、倒れたところを支えたって」
湖に浸った、季節にそぐわない格好の少女を浮かべる。そういえば、ナイフが突き刺さったと理解する寸前、猛烈な頭痛が襲ってきていた。あの少女は、そんな私に手を差し伸べる過程で刺してしまったのだ。
「それでね。検査をしたら、脳脊髄液が減少して頭痛を引き起こしているって、判ったの」
「脳脊髄液……」
その単語は聞き覚えがある。ドナーとして才能を移植するために、吸引する液体のことだと、手術の前に説明を受けた。
礼実ちゃんは反芻する私の横で
「才能移植の後遺症——、そう診断されたの」
と、慎重に告げる。
「後遺症……?」
「そう。放っておけば、大事に至ることもあるって」
実直な瞳が、唖然とする私を貫く。
「お腹の傷が完治したら、後遺症の治療を受けてほしいの」
と、ハッキリとした口調で告げた。私に迷う余地を与えないと言うように、目を逸らさなかった。
「だけど……それって、治療にはまたお金が——」
「なんのために、私が働いてると思ってるの」
礼美ちゃんは、私の反応を予測していたかのように被せると、すぐに頬を緩めた。
「家族より大切なものなんて、私にはないの。だから大丈夫。それに……ずっと、考えていたことがあるから」
——私たち、ちゃんと話をしよう。
手紙に綴られた言葉をなぞるように、礼実ちゃんは言う。向けられた笑顔は、陽だまりのように優しい温度で、私の隙間を埋めてくれたような気がした。
*
窓際の席からは、駿河港がよく見える。三年になってからは教室のフロアも一段上がったので、眺めは最高だ。
退院から約一ヶ月が経った春の日、船の出航の合図が真昼の空を貫くように、ポーッと響いた。
「臨未ー、今日お弁当?」
「ううん。これから購買行くとこ」
昼休みに入り、美世に訊かれて答えると
「じゃあ私も」
と、莉亜夢も傍にやって来る。幸いにも、二人とは三年になっても同じクラスだった。
「でも珍しいよね。臨未がお弁当じゃないの」
賑わう廊下を歩きながら、莉亜夢が言う。彼女は三年になってから、ボブへアを一つに結うようになっていた。
「確かに。いつも美味しそうだよねぇ~、臨未のおべんと」
同意する美世は、反対によく髪を下ろすようになった。
彼女の想い人である吉川が「ストレートロングが好みだ」と聞き付けたからだと言う。私の元彼だということは打ち明けてられていないけど、最近楽しそうな美世を見ていると、素直に嬉しかった。
「いま引っ越しで忙しくて。うちの礼実ちゃん、キャリアウーマンだからさ」
私がそう言うと、二人は「ああ」と納得する。
「マンションだっけ?次」
「うん。ちょっと手狭になるから、歩睦と部屋は共同なんだけど」
「わっ、それ、歩睦くん嫌がるんじゃなーい?」
「大丈夫だよ。歩睦はお姉ちゃん子だし、いざとなったら仕切りも作るし」
得意気に言うと、二人は笑う。その笑顔に囲まれて、私もつられるように微笑んだ。
——ずっと、考えていたことがあるから。