「あなたは、ここに来る前の私と同じだから」

 そう言うと、少女は思いきり眉を寄せる。

「ただ逃げたいだけ。完璧じゃない自分の弱さから、一人一人と向き合うことから逃げたいだけ。誰かと向き合って、傷つくかもしれない未来が怖いだけ」
「何を解った気で——」
「言ったでしょ。……解るって」

 少女の、痩せ細った冷たい腕に掌を沿う。その先で、ナイフの柄に触れる。
 昨日の夜もきっとここに来て、ナイフを翳して、未来に絶望して、迷って、自分の選択を疑って、未来を終わらせたくて、だけどまた疑って——本当は、連れ出してくれることを祈ってた。

「ううん……ごめんなさい。全部は解らない」

 屋上で、真冬に交渉を持ちかけた時のことを浮かべながら、首を振る。

「あなたのこと、何も知らないのに全部は解らない。だけど、私も同じだったって——、それだけは言っておきたくて」
「……なにそれ」

 少女は冷静に訊く。

「私に貼られているラベルだけを指して、決めつけられることが嫌だった。支えだったものを失って、もう立っているのも嫌になるくらい」

 だから——、と私は続ける。

「逃げたかった。私の未来なんて要らないと思ってた。だけど、もしあのとき踏み切ってたら——私は、これから一緒に居場所を探したいと思える人と、出会えなかった」

 メッシュフェンスを越えた先、屋上の、分厚い隔たりが思い浮かぶ。あれに立ち往生していなかったら、真冬が私を呼び止めるよりも前に、私は飛び越えていたかもしれない。

「あなたはラベルでも、記号でもない。私はそれを解ってるし、これから先、きっと出会えるわ」
「そんなの、綺麗事じゃん……」
「うん。だけど、死ぬことは美談じゃない。自分で未来を終わらせるなんて、本当に最低」
「っ……、そこまで言う?」

 少女は半分笑って、半分真顔で私を見上げた。よく見れば、丸く大きな瞳はとても愛らしく、ビー玉のように澄んでいる。

「言うよ。私の親、自殺したんだけど、置いてくなんて本当に最低——って、心のどこかで思ってた」
「うわ……よくもそんな、他人にそんなこと言えるよね」
「他人だからよ。あと、あなたが死のうとしているから、その無惨さを知らしめたいの」
「いい性格してる」
「たぶん、それはあなたと一緒」

 セーラー服のスカートが、冷たい夜風に靡いて揺れる。少女は白い息を吐きながら、「かもね」と頷いた。

「その親のこと、恨んでる?」

 微かに揺れた瞳が尋ねる。

「最低だけど、恨んでなんかない。いや、どうかな」
「なにそれ」
「だって、どうでもいいでしょ」
「え?」
「恨んでも、どんなに人に恨まれても、私にとってはずっと大切だし、……そう気づけたのは、私がいま生きてるおかげ」

 少女は視線を外して「ふーん」と湖の向こうを見る。あっちには太平洋があるのだと、香吏が言っていたっけ。

「だから、終わらせないでね」
「さぁ、それはどうかな」

 湖に顔を向けたまま、少女は片頬を持ち上げる。口調も態度も生意気だけど、最初に振り返った彼女よりも余程感情が浮き出て見える。

「嫌だったら、逃げればいい」

 そう言うと、彼女はこちらに視線を流す。

「生きろって言ったり、逃げろって言ったり、支離滅裂じゃん」
「死ぬことは逃げじゃない。終わらせることだもの」
「へりくつ~」

 語尾を伸ばしながら少女から漏れる笑みに、私はふっと頬を緩ませる。——その瞬間だった。

「いッ…………」
「え?」

 頭の真ん中に、再び杭を打ち込まれるような痛みが強く走る。これまでよりも強く、膨張した血管が裂けていくような鋭さ。薬の効力が切れてしまったとしても、こんな痛みは経験がない。

「ねえ、ちょっと、大丈夫?」

 名前も知らない少女が、心配そうに覗き込む。その瞳が、途端に色を失って瞠られる。肩に触れているのは、彼女の手……、だろうか。

「え…………?」

 耳元で、掠れた声が響いたそのとき、体内にスーッと何かが侵入する。頭痛で朦朧とした意識のなか、冷たいその感触に視線を落とす。

「ど……しよ…………」

 か細く、掠れた声が再び響く。頭痛など忘れてしまえるくらいに、体の中心が燃えるように熱い——彼女の持っていたナイフが、体に突き刺さっていたからだ——。
 そう悟ったときにはもう、目蓋の裏側と湖の境界線が判らなくなっていた。