「そう。もし選択を間違っても、真冬が補ってくれるなら——私はもう、怖くないから」
これからも沢山間違えるかもしれない。逃げてしまいたいと思う瞬間がまた来るかもしれない。だけどその度に、私は不完全な私自身と向き合っていけるのだと思えた。だって、私はもう一人じゃないのだから。
「いくらでも食べるよ。僕、意外と大食いだから」
真冬は得意気に笑う。
「いいよねぇ、どれだけ食べても太らない人は」
「臨未ちゃんだってそうでしょ。脚だって、折れそうなくらい細いし」
「見えてるところだけで判断しないでよ。中が大変なことになってるときだってあるんだから」
「確かに。見えてるところだけじゃ、真実は判らないよね」
「でしょ?」
そう言って眉を持ち上げた直後、風がピュウッと吹いて、項から全身へと体が冷えていく。あまりの冷たさに両手をポケットに突っ込むと、少し厚みのある紙の感触が指に伝った。——礼実ちゃんからの手紙だ。
「何か、温かい飲み物でも買ってこようか」
「え?」
真冬の提案に、私は呆けた声を出す。手紙に気を取られていたせいだ。
「確か、さっき来た道の途中にココアが売ってたよ。自販機の」
「あー……いいね。買いに行こうか」
「いや、でも臨未ちゃんはここで待ってて。辻宮さんが来るかもしれない」
来る道は同じじゃない?とは思ったけれど、身を縮めることに精一杯だった私は、真冬の言葉に甘えることにする。すんなり立ち上がって、軽々と遠ざかっていく背中を見据えながら、胸が締め付けられる。隣にあった彼の熱が、もう名残惜しかった。
「ハァ——……」
白い息が舞う。真冬が遠ざかって、初めてしっかり湖を目に焼き付ける。月を呑むような黒い水面とは裏腹に、優しい波紋が薄く広がっている。
しばらくじっと見つめていた私は、ポケットのなかに仕舞いこんでいた封筒を取り出す。悴んだ指で封を切ると、二枚綴りの便箋が入っていた。
風に靡く便箋の上で、女性らしい温かみのある文字が整列している。じっくり見たことはなかったけれど、間違いなく礼実ちゃんの字だと判る。
「いつ、書いたんだろ……」
再び二つ折りにして、目を上げる。そして、縮めていた背筋を伸ばす。先ほどまで規則的に揺れていた波が、不規則に、激しく揺れていたからだ。
「人……?」
真冬が走っていった方とは逆の方向に目を向けると、人影と、光を反射する何かが見える。既視感を覚えたのは、昨日の夜、ベランダから見えた光とよく似ていたからだ。湖に呑まれない、屈折した鋭い光に——。
私は手紙をポケットに仕舞い、重い腰を持ち上げる。気づけば、その人影と光に向かって走っていた。
「あの……っ」
こんなとき、声を絞りきることが出来ないのだ、と実感する。それでもどうにか湖の際に立つ人影を呼び止めた。
細く、小さなその体は、私のか細い呼び掛けに振り向いた。
「……なに?」
こちらに向けられているはずなのに、空虚で、何も見ていないかのような瞳が私を刺す。街灯に照らされた青白い少女の顔が、セーラー服の上に乗せられていた。
「あの、……こんなところで、何をしようとしているんですか」
自分よりも少し幼い彼女は、私の言葉にうっすら笑みを浮かべる。その不気味さに思わず視線を下げれば、細い手首の下に鈍色の凶器が映り込んだ。柄の細い、果物ナイフだ。
「何をしようと、って……おねいさん、分かって訊いてるでしょ」
固い唾を呑み込む音が、鋭い風に紛れる。
「……ここに、昨日も居ましたか」
際に近づきながら訊ねると、少女は寒空を突き刺すように笑う。彼女の足元は裸足で、すでに湖に晒されていた。
「居たけど、なに?」
「死にたいの?」
「……すごいね、アナタ。それふつう、オブラートに包むでしょ」
凶器をプラプラ揺らす手首に、細い筋が浮かぶ。それを断絶するように、いくつもの傷痕が過っていた。いわゆる、リストカットというものだろう。
それが決して少なくない数だと分かったのは、セーラー服の袖が五分丈で、彼女の腕が綺麗に晒されていたからだ。
「ねえ、寒くないの?その格好」
夏仕様のセーラー服が、目に痛い。彼女はまるで、屋上に立っていた私のようだ。
「寒いのがね、いいんだよ」
彼女は言う。
「死体って暖まるとよくないって言うから、腐敗しないように、この場所で、この服なの」
「……学校で、何かあったの?」
「どうして?」
「わざわざ、制服じゃなくてもいいのに」
スニーカーの中で、細かい粒がジャリジャリと音を立てる。浜に飛び込んだせいで、砂が入ってしまったらしい。
どうして私は、こんな赤の他人に関わってしまったんだろう。と、思わず目を眇めた。
「この制服が好きだから」
「……うん、可愛いもんね」
「おねいさん、訊いたくせにテキトーだね」
アハハッ、と乾いた笑いが水面に落ちる。一瞬、足元を見据えた前下がりのボブが、莉亜夢のシルエットと重なった。
「私もセーラー服だから」
「へぇ……もしかして、高校生?」
頷くと、少女は「いーなー」と水を蹴る。
「高校生なら、すぐに学校辞められるもんね」
「あなたは、中学生?」
「うん。アクマが通う中学校の、優等生」
振り回している凶器のせいで、とても優等生には見えないけれど。
「アクマが通ってる中学の制服が好きなの?矛盾してない?」
「だって、アクマたちはこの制服を着ていないもの」
「え?」
「これは、私の元居た学校の制服。つまりね、転校生なワケよ。都会から田舎に越してきた、不遇な転校生なワケよ」
「……じゃあ、あなたは都会の、元居た学校に戻りたいんだ」
「んー、残念ハズレ」
少女は笑う。不敵にも思えるその笑みから、感情は読み取れない。彼女の足元を撫でる湖も、同じ静けさを保っている。
「東京は好きだったけど、あそこはもう私の居場所じゃないもの」
「……居場所?」
「私が居なくたって、あの子達の世界はふつうに廻ってる。遊びに行くから、って言ってたのはぜーんぶ社交辞令だったし、私が消えても何の影響もない。終いには『いいよね、地方の学校って皆優しそうで』って、一番仲の良かった子に言われたの。さすがに笑っちゃった」
一息に言い終えて、彼女は夜空を仰ぐ。
「優しいのは、この自然だけ。離れた東京の友達も、こっちの同級生も、みんな私のことを記号だと思ってる」
記号——。その単語を吐く理由が、私には解るような気がする。
「シティーガールだ、とか。東京の子はやっぱりお洒落だよね、とか。自然に囲まれて穏やかな暮らしが出来ていいな、とか。……聞く度に吐き気がするの。勝手に記号化して、分類して——私の声が届く前に、私の存在は消されてた」
止んだ笑みの代わりに、鋭い眼光が貫く。私は息を呑んで、慎重に唇を割った。
「だからって、諦めるの?」
「……は?」
「記号化して分類してるのは、あなたも同じじゃない」
寒さのせいか、緊張のせいか、絞り出した声が震える。少女はこちらを見据えたまま、パシャパシャと湖を割って距離を詰める。ナイフを握る手は、小刻みに震えていた。
「なんなの?私が悪いって言いたいの?」
「あなただけじゃない。あなたも間違ってるってこと」
瞬間、頭にキンッと鋭い痛みが走ったのは、彼女の眼光に貫かれたからかもしれない。私は眉を寄せて、彼女の華奢な肩を掴んだ。
「自分とそれ以外、って。一括りにしているじゃない。それ以外の人間は、皆自分を記号だと思ってるって、決めつけてるじゃない」
少女の手が、私の手を振り払う。
「一緒にしないでよ!」
「……じゃあ、あなたも自分が完璧だと思わないで」
「はぁ?!なんなのアンタ!」
激昂が鼓膜を刺す。先ほどよりも鋭い杭が、頭のなかで深く打たれた。
これからも沢山間違えるかもしれない。逃げてしまいたいと思う瞬間がまた来るかもしれない。だけどその度に、私は不完全な私自身と向き合っていけるのだと思えた。だって、私はもう一人じゃないのだから。
「いくらでも食べるよ。僕、意外と大食いだから」
真冬は得意気に笑う。
「いいよねぇ、どれだけ食べても太らない人は」
「臨未ちゃんだってそうでしょ。脚だって、折れそうなくらい細いし」
「見えてるところだけで判断しないでよ。中が大変なことになってるときだってあるんだから」
「確かに。見えてるところだけじゃ、真実は判らないよね」
「でしょ?」
そう言って眉を持ち上げた直後、風がピュウッと吹いて、項から全身へと体が冷えていく。あまりの冷たさに両手をポケットに突っ込むと、少し厚みのある紙の感触が指に伝った。——礼実ちゃんからの手紙だ。
「何か、温かい飲み物でも買ってこようか」
「え?」
真冬の提案に、私は呆けた声を出す。手紙に気を取られていたせいだ。
「確か、さっき来た道の途中にココアが売ってたよ。自販機の」
「あー……いいね。買いに行こうか」
「いや、でも臨未ちゃんはここで待ってて。辻宮さんが来るかもしれない」
来る道は同じじゃない?とは思ったけれど、身を縮めることに精一杯だった私は、真冬の言葉に甘えることにする。すんなり立ち上がって、軽々と遠ざかっていく背中を見据えながら、胸が締め付けられる。隣にあった彼の熱が、もう名残惜しかった。
「ハァ——……」
白い息が舞う。真冬が遠ざかって、初めてしっかり湖を目に焼き付ける。月を呑むような黒い水面とは裏腹に、優しい波紋が薄く広がっている。
しばらくじっと見つめていた私は、ポケットのなかに仕舞いこんでいた封筒を取り出す。悴んだ指で封を切ると、二枚綴りの便箋が入っていた。
風に靡く便箋の上で、女性らしい温かみのある文字が整列している。じっくり見たことはなかったけれど、間違いなく礼実ちゃんの字だと判る。
「いつ、書いたんだろ……」
再び二つ折りにして、目を上げる。そして、縮めていた背筋を伸ばす。先ほどまで規則的に揺れていた波が、不規則に、激しく揺れていたからだ。
「人……?」
真冬が走っていった方とは逆の方向に目を向けると、人影と、光を反射する何かが見える。既視感を覚えたのは、昨日の夜、ベランダから見えた光とよく似ていたからだ。湖に呑まれない、屈折した鋭い光に——。
私は手紙をポケットに仕舞い、重い腰を持ち上げる。気づけば、その人影と光に向かって走っていた。
「あの……っ」
こんなとき、声を絞りきることが出来ないのだ、と実感する。それでもどうにか湖の際に立つ人影を呼び止めた。
細く、小さなその体は、私のか細い呼び掛けに振り向いた。
「……なに?」
こちらに向けられているはずなのに、空虚で、何も見ていないかのような瞳が私を刺す。街灯に照らされた青白い少女の顔が、セーラー服の上に乗せられていた。
「あの、……こんなところで、何をしようとしているんですか」
自分よりも少し幼い彼女は、私の言葉にうっすら笑みを浮かべる。その不気味さに思わず視線を下げれば、細い手首の下に鈍色の凶器が映り込んだ。柄の細い、果物ナイフだ。
「何をしようと、って……おねいさん、分かって訊いてるでしょ」
固い唾を呑み込む音が、鋭い風に紛れる。
「……ここに、昨日も居ましたか」
際に近づきながら訊ねると、少女は寒空を突き刺すように笑う。彼女の足元は裸足で、すでに湖に晒されていた。
「居たけど、なに?」
「死にたいの?」
「……すごいね、アナタ。それふつう、オブラートに包むでしょ」
凶器をプラプラ揺らす手首に、細い筋が浮かぶ。それを断絶するように、いくつもの傷痕が過っていた。いわゆる、リストカットというものだろう。
それが決して少なくない数だと分かったのは、セーラー服の袖が五分丈で、彼女の腕が綺麗に晒されていたからだ。
「ねえ、寒くないの?その格好」
夏仕様のセーラー服が、目に痛い。彼女はまるで、屋上に立っていた私のようだ。
「寒いのがね、いいんだよ」
彼女は言う。
「死体って暖まるとよくないって言うから、腐敗しないように、この場所で、この服なの」
「……学校で、何かあったの?」
「どうして?」
「わざわざ、制服じゃなくてもいいのに」
スニーカーの中で、細かい粒がジャリジャリと音を立てる。浜に飛び込んだせいで、砂が入ってしまったらしい。
どうして私は、こんな赤の他人に関わってしまったんだろう。と、思わず目を眇めた。
「この制服が好きだから」
「……うん、可愛いもんね」
「おねいさん、訊いたくせにテキトーだね」
アハハッ、と乾いた笑いが水面に落ちる。一瞬、足元を見据えた前下がりのボブが、莉亜夢のシルエットと重なった。
「私もセーラー服だから」
「へぇ……もしかして、高校生?」
頷くと、少女は「いーなー」と水を蹴る。
「高校生なら、すぐに学校辞められるもんね」
「あなたは、中学生?」
「うん。アクマが通う中学校の、優等生」
振り回している凶器のせいで、とても優等生には見えないけれど。
「アクマが通ってる中学の制服が好きなの?矛盾してない?」
「だって、アクマたちはこの制服を着ていないもの」
「え?」
「これは、私の元居た学校の制服。つまりね、転校生なワケよ。都会から田舎に越してきた、不遇な転校生なワケよ」
「……じゃあ、あなたは都会の、元居た学校に戻りたいんだ」
「んー、残念ハズレ」
少女は笑う。不敵にも思えるその笑みから、感情は読み取れない。彼女の足元を撫でる湖も、同じ静けさを保っている。
「東京は好きだったけど、あそこはもう私の居場所じゃないもの」
「……居場所?」
「私が居なくたって、あの子達の世界はふつうに廻ってる。遊びに行くから、って言ってたのはぜーんぶ社交辞令だったし、私が消えても何の影響もない。終いには『いいよね、地方の学校って皆優しそうで』って、一番仲の良かった子に言われたの。さすがに笑っちゃった」
一息に言い終えて、彼女は夜空を仰ぐ。
「優しいのは、この自然だけ。離れた東京の友達も、こっちの同級生も、みんな私のことを記号だと思ってる」
記号——。その単語を吐く理由が、私には解るような気がする。
「シティーガールだ、とか。東京の子はやっぱりお洒落だよね、とか。自然に囲まれて穏やかな暮らしが出来ていいな、とか。……聞く度に吐き気がするの。勝手に記号化して、分類して——私の声が届く前に、私の存在は消されてた」
止んだ笑みの代わりに、鋭い眼光が貫く。私は息を呑んで、慎重に唇を割った。
「だからって、諦めるの?」
「……は?」
「記号化して分類してるのは、あなたも同じじゃない」
寒さのせいか、緊張のせいか、絞り出した声が震える。少女はこちらを見据えたまま、パシャパシャと湖を割って距離を詰める。ナイフを握る手は、小刻みに震えていた。
「なんなの?私が悪いって言いたいの?」
「あなただけじゃない。あなたも間違ってるってこと」
瞬間、頭にキンッと鋭い痛みが走ったのは、彼女の眼光に貫かれたからかもしれない。私は眉を寄せて、彼女の華奢な肩を掴んだ。
「自分とそれ以外、って。一括りにしているじゃない。それ以外の人間は、皆自分を記号だと思ってるって、決めつけてるじゃない」
少女の手が、私の手を振り払う。
「一緒にしないでよ!」
「……じゃあ、あなたも自分が完璧だと思わないで」
「はぁ?!なんなのアンタ!」
激昂が鼓膜を刺す。先ほどよりも鋭い杭が、頭のなかで深く打たれた。