「河津桜は、あそこでは見られないのか」
メニューをテーブルに広げた香吏は、名残惜しそうに言う。
日も暮れ始め、寒空に晒された私たちは、三十分も滞在しないうちにフラワーパークを出て、向かいのカフェに居た。
名残惜しそうな割りに、香吏はパークを眺望できる窓から一番遠い奥の席を選んでいた。いつも通りだ。
「そうね。見られるとしたら伊豆の方じゃない?やっぱり」
「そうか」
「てゆーか香吏くん、そんなにお花が好きだったのね。知らなかった」
「まあ、それなりに」
ん?と私は眉を寄せる。彼に似合わず、煮え切らない答えだ。探るようにじっとその目を見つめると、またも珍しく彼はパッと逸らした。
その反応を見た瞬間に、もしやと思い付く。
「……私が好きだと思ったから?」
「…………」
メニューに張り付いたまま、香吏の視線は動かない。隣の真冬にも目配せをしたけれど、彼も微動だにしなかった。
こんなの、イエスと言っているようなものだ。
「二人とも、隠し事下手なんだからやめなよ」
そう言うと、真冬がふっ、と息を吐いた。
「確かに、そうだね」
そして、観念したように笑う。けれど、香吏の方はうんともすんとも言わない。代わりに、
「注文、決めたのか」
と、メニューを前に突き出して催促してきた。今度は私が折れて、流し見ていたメニューの文字をしっかり頭に叩き込むことにした。
「ケーキセット……」
そして、飛び込んだ文字に声が漏れる。このカフェにも、私の苦手なケーキセットが魅力を備えて鎮座していた。
「ほんとだ。ドリンクとケーキを頼むなら、こっちの方がお得だね」
「まあ、確かにそうだな」
なにも知らない真冬は楽しげに言い、香吏は苦笑しながら頷く。
「石川くん、注文は決まったか?」
それはわざとなのだろうか。ケーキセットから持ち上がる香吏の視線と交わって、私は息を吐いた。
「まだ。……甘い物は食べたいけど、女将さんの夕飯が入らなくなったら困るから迷っているの」
「未来のことは見えないからな」
以前の私の台詞をなぞった香吏は、すでに頼むものを決めたらしく、余裕綽々と背を凭れている。真冬もそれに続いて、
「僕はアールグレイにするよ」
と決めてしまった。メニューから浮いた二人の視線に、焦燥が沸き上がる。——私は、いつもそうだ。
「抹茶ティラミスね……抹茶……」
「臨未ちゃん、セットにするか迷ってる?」
「だって、抹茶ティラミスだよ。この世で一番美味しいスイーツじゃない。ケーキセットに現れる確率もそう高くないし、けれどこの後には夕飯が控えているし、そもそもここで更に出費を増やすのは賢明じゃないし」
宝石のように輝くそのイメージ図を指すと、真冬は隣でやんわり微笑む。
「じゃあ、一口だけでも食べる?」
「え?」
「いや、もし足りなければ全部でも。僕がケーキセットにして、シェアすればさ」
思わぬ提案に、私は目を丸くする。正面のソファを占領する香吏も、同じような表情をしていた。
「……あ、それは嫌?」
真冬は罰が悪そうに笑う。私は急いで首を振った。
「いやそれは、願ってもないけど、」
「ならそうしよう。臨未ちゃんはお腹一杯にならない程度に、食べてくれたらいいから。それに、ここは臨未ちゃんの分も払うつもりだったから、心配しないで」
その後オーダーを終えると、香吏くんは腕を組んで
「選択肢にない選択だな」
と、感慨深そうに放つ。私はそれに深く頷いた。
「そうね。私たちには無かった選択肢だわ。天秤を傾ける前に片付いちゃった」
「え……何のこと?」
少し前のめりになって、真冬は目を眇る。
「ケーキセットにするかしないか。私は選択するために、色々な要素をそれぞれの秤に積み上げていたわけよ。メリットも、デメリットも全部」
「……うん?」
「でも、真冬の一言で、それが必要なくなっちゃった」
「それは、そっか。僕が選択肢を失くしちゃったってことか」
視線を落とす真冬に、香吏が「違うぞ」と割って入る。
先程よりも、彼の眼鏡に反射する照明の色が濃くなっていて、外がすっかり暗いことに気がついた。
「違う?」
「ああ。真冬くんは増やしたんだよ。彼女が選択する道を」
聞けば聞くほど、ケーキセット一つに大袈裟だ。でも、香吏が言っていることは間違っていない。
それぞれの飲み物と抹茶ティラミスが運ばれてきて、私はその甘味を早速頬張る。芳醇な香りに包まれた甘さが、口一杯に広がった。
「んー……美味しい。はい、真冬も」
「え、僕は後でいいよ。臨未ちゃんが食べ残した分で、」
「いいから、ハイ。あーん」
スプーンを強引に口元へ持っていくと、彼は頬と耳を赤らめる。そういえば間接キスにもなるのか——と伝染したけれど、今さら引っ込みはつかずに「早くっ」と急かした。
「俺はお邪魔虫か」
「……いえ、全然」
香吏くんの言葉に、真冬はさらに頬を赤らめて視線を沈ませる。私は妙な空気を払うように、コーヒーを含んでから
「ね。美味しいでしょ」
と、真冬に尋ねた。私が強引に放り込んだせいで、抹茶パウダーが口周りに付いている。香吏に見られている手前もあり、心が逸ってしまったのだ。
昨晩の熱を、私もまだ引きずっているのだと、今更悟った。
「あ……うん。これ、すごく美味しい」
「でしょ。……真冬に言われなかったら、たぶん食べられなかったと思うから。ありがと」
横目にうっすらと捉える、まだ赤い真冬の顔。それから正面へ向き直れば、無表情の香吏のおかげでどうにか熱は絆された。
「君は、秤に何を乗せたんだ」
「え?」
急に何を言うの。と、正面で動いた唇に視線を向けると、彼はカップを傾けて喉を鳴らす。微かに、でも確実に、彼から緊張が伝わった。
「どうして才能を売る選択をしたんだ」
「…………え?」
「君にとってはきっと——命に換えても、失くしたくないものだったんだろう」
しばらく、声が出せなかった。真正面で静かに佇んでいる香吏の顔が、じっと見つめているうちに歪んでいく。なにかを一点に見つめすぎてしまうと、いつもそうなった。
「なんで……、香吏くんがそれ——」
いくつも会話を重ねてきたけど、私がドナーの一人であることを口にしたことはなかったはずだ。
動揺し、途中で口籠ってしまった私とは対照的に、香吏は落ち着いた様子でこちらを見据えている。けれど決して鋭くはない、温度のある眼差しだった。
「君の叔母さんと会ったんだ」
私は静かに息を吐く。隣で、真冬の喉が鳴った。
「それは、どこで?」
「いつものカフェだ。石川くんと俺が週末、あの場にいることを、叔母さんは知っていたんだそうだ」
「……知ってた?」
「ああ。何度か外出する君を尾行して、知ったそうだ」
礼実ちゃんが私をつけていた——。
余分な情報を与えない香吏の言葉は、私の心にストンと落ちる。尾行という言葉を聞いても、感情が悪い方に揺さぶられなかったのは、たぶんそんな彼のおかげだ。
「いつ……いつ、会ったの」
「昨日だ」
訊くと、香吏は至って冷静に続ける。
「カフェで君の叔母さんが入ってこられて、丁寧に自己紹介をされていた。そのまま、君が沖縄に行っているかどうか尋ねられて、俺は沖縄?と聞き返した」
あのカフェで、礼実ちゃんが香吏に頭を下げる様子が、脳裏で滞りなく再生される。きっと、香吏を恋人だと勘違いしただろう。
「……うん。それ修学旅行先。ちょうど今、二年生は修学旅行の最中なの」
三泊四日の旅行を辞退したこと、礼実ちゃんには『やっぱり修学旅行に行く』と置き手紙を残したこと、その後でのメッセージは当たり障りなかったことも、経緯通りに打ち明けた。
香吏は小さく「そうか」と溢し、コーヒーを口に含む。ソーサーにカップが置かれると、数秒の沈黙がやけに浮き上がるようだった。