視線が交わったと思えば、肩に額が寄せられたので、心臓が跳ねる。本当に良いのか、と躊躇いながらも、僕は左手で彼女の髪をそっと撫でた。
「右手がちゃんとしてたら、もっと格好良く守れた……と、思う」
そう溢すと、彼女はまた笑みを落とした。
「格好良かったよ。ヒーローみたいで」
「そんなこと……。僕にとっては、臨未ちゃんがヒーローだよ」
え?と、不意に持ち上げられる瞳と、至近距離で視線が絡まる。さっきまで聴こえていた潮騒の代わりに、彼女の吐息が近くで響く。
「ヒーローって、どうして?」
言いながら、臨未は鼻先を僕のそれに寄せる。
「ここまで、連れ出してくれたから。動けなくなった僕の手を、優しく引いてくれたから」
「うそ、強引だったでしょ」
「優しかったよ。すごく」
まだ褪せない、事故の記憶を包み込むように繋いでくれた君の手は、とても温かかった。
そう続けると、彼女は「激甘採点」とまた不服そうだ。近すぎて見えないけれど、また口は窄められているに違いない。
だけど、誰がなんと言おうと君は僕のヒーローで、不良なんかじゃない。祖母の言葉を思い出しながら、繰り返す。
「じゃあ、受け売りついでにもう一つ教えてあげる」
すると、彼女は得意気にそう切り出して、
「どんな道を選んでも、間違いだったとしても、いつかそれが自分の居場所を見つけるための旅だって、きっと思える」
と、言った。
「原作、女将さん。脚色、私」
と、付け足した。
「それは……すごく、良い言葉だね」
「でしょう」
誇らしげに彼女は微笑む。そして、半分真顔で言った。
「無理矢理ここまで連れてきちゃったけど……私は、真冬がどんな道を選んでも、一緒に居場所を見つけたい」
ああ、君っていう人はどこまでも——。僕は心のなかで両手を上げながら、息を落とす。
「臨未ちゃん」
「……ん?」
「間違いだらけでも、僕は君が好きだよ」
だらけ、は言いすぎ——。
そうぼやいた彼女の吐息がふと止んで、互いに互いの唇を寄せ合う。キスと同時に鼻先が擦れて、離れてから、今度は互いに顔を傾けた。
二度重なった唇を見据えて、口から飛び出そうになる心臓の音を懸命に抑えた。
「真冬の唇、冷たい」
臨未は小声で言いながら、湖の方へ視線を向ける。一瞬見えた横顔は、いつも通り凛としていた。
「あと、思ってたより薄い」
「……感想って、言うものなの?」
同じように前へ向き直りながら尋ねると、彼女は息を吐き出しながら、僕の左側に身体を寄せた。
「言いたくなって」
「なんで?」
「真冬の、いっぱいいっぱいなところが見たいから?」
ハテナで終わった彼女の語尾に、僕は首を捻る。
それはつまり、揶揄いたいということだろうか。と再び疑問を浮かべたところで、僕は「あ」と声をあげた。それは、彼女の声とも重なった。
「いま、見えた?」
「うん、見えた」
凭れていた背を浮かせて、顔を見合わせる。さっきまで視線を向けていた湖の方で、何かがキラキラと光ったのだ。何かを反射したような、鋭い光だ。
「なんだろう」
「湖に反射した……感じじゃなかった、よね」
そう言うと、彼女も同意するように頷く。もう一度、探るように湖の畔へ目を向けるけど、鋭い光は表れなかった。
「隕石、だったりして」
「それはちょっと、違うんじゃない?」
「冗談だし」
臨未は言いながら、再び背を凭れる。同じように凭れると、隣から欠伸をする音が聴こえた。
「もう寝る?」
と訊けば、
「まだ、ここにいる」
と言う彼女に、胸が強く締め付けられる。本当なら「疲れてるんだし、早く寝ないと」と言うべきだと分かっていたけれど、名残惜しくて叶わなかった。
肩に寄りかかった彼女から、寝息が聴こえる頃。僕は微睡みの中で思い出していた。
——どんな道を選んでも、間違いだったとしても、いつかそれが自分の居場所を見つけるための旅だって、きっと思える。
ドナーという道を選ぶことも、祖母が言うように間違いではなかったかもしれない。だけど、もがきたいだけもがくことが出来る——そんな今の選択が、いずれ僕の居場所を作っていく。
例え、どんなに傷つこうとも。他人に、間違いだと言われようとも。
「……ありがとう」
僕はか細いヒーローの冷たい額に、触れるだけのキスをした。
*
翌朝、目が覚めてすぐに布団を剥ぐ。障子の向こうから差し込む光は、もう眩しいほどなのに、目覚まし代わりにしていたスマホは枕元で沈黙していた。
「寝すぎた……」
暖房の電源に手を伸ばすことも忘れ、肌寒い室内で素早く義手を装着し、着替えを終える。障子を開くと、湖は昼前の太陽をキラキラと反射していた。
「あー……、もう……」
昨晩、このベランダで触れた体温を思い出しながら額を抱え、唇に触れる。彼女が「冷たい」と言ったそれは、いまも変わらず冷たいままだ。これまで、自分の指先で唇に触れたことなど無かったせいか、今さら酷く恥ずかしくなった。
結局、鼓動を抑えられないまま部屋を出て、階段を駆け降りる。朝食の時間はとっくに過ぎてしまっただろうけど、なんとなく、心が急いていた。隣の客室から、すでに臨未の気配がなかったからだ。
「どうも」
降りて真正面に見える玄関に、見知らぬ高身長の男が立っている。軽く会釈をされて、僕は返事の代わりに
「え……?」
と、目を丸くした。
「あ、真冬。おはよ」
男の手前に立っている後ろ姿が、振り返る。オーバーサイズのパーカーにデニムを合わせ、髪を一つに括った臨未が、やんわりと微笑んだ。
「お、はよ……」
昨日の今日で、熱をぶり返しながら言う。顔も、大分引き攣っているだろう。
いや、それよりも——。と、目線を再び男の方へ持ち上げる。すると、察した臨未は一歩左にずれた後で、手のひらを返して言った。
「こちら、辻宮香吏くん。ちょうど今来たところ」
ツジミヤ、カガリ……。
軽く会釈をする男の名前を反芻する。彼女の話によく登場していた、例のカガリくんだ、とすぐに紐付いた。
「こんにちは。あの、朝倉真冬です」
「こんにちは。辻宮です」
ピッシリとセットされた黒髪に、黒縁メガネ。顔周りだけを見れば堅苦しい印象を受けるけど、黒のタートルネックにキャラメルブラウンのロングコートを合わせ、足元からマスタードカラーの靴下を覗かせるそのコーディネートは、高いファッションセンスを感じさせた。
脚が長いだけではなく、首も長く、顔も小さい。スタイルの良さが際立っているせいか、臨未とのツーショットに面白くない、という感情が微かに芽生えた。
彼が、例のカガリくんであったことも、大きな要因かもしれない。
「ああ、君が石川くんの……」
カガリくんは、僕を見据えながら何度か頷く。
「え?」
「石川くん。少しの間、彼を借りてもいいか?」
僕が首を捻るのと同時に、彼は臨未に問いかける。
「え。なんで? 私じゃなくて真冬?」
「そうだ。彼を借りたい」
「いや意味分かんない。てゆーか、まだどうして来たのかも聞けてないんだけど」
「それは追々話すさ。で、もし予定がないのなら借りていくが」
テンポよく繰り広げられる会話の前で、僕はただ交互に目を向けている。すると突然、カガリくんを見上げていた臨未の視線が、こちらに注がれた。
「……真冬、今日は何かしたいことある?」
「いや、特には……」
歯切れ悪く答えると、臨未は一つ息を吐く。
「じゃあ、この人……香吏くんにちょっとだけでいいから、付き合ってくれない?」
「え?」
「香吏くん、たぶんこれ引き下がらないやつだから」
臨未は呆れたように言いながら、カガリくんを指差す。なんだか、自分の知らない彼女を見ているようで、胸がざわついた。
それより、僕に何の用があるのだろうか。そもそも、彼は臨未に会いに来たんじゃないのか。
「では、車で少し出ようか」
カガリくんは扉に手を掛けてから、そう言ってこちらを振り返る。自分よりも遥かに高い後ろ姿を見据えながら、僕は拳を握りしめた。
「右手がちゃんとしてたら、もっと格好良く守れた……と、思う」
そう溢すと、彼女はまた笑みを落とした。
「格好良かったよ。ヒーローみたいで」
「そんなこと……。僕にとっては、臨未ちゃんがヒーローだよ」
え?と、不意に持ち上げられる瞳と、至近距離で視線が絡まる。さっきまで聴こえていた潮騒の代わりに、彼女の吐息が近くで響く。
「ヒーローって、どうして?」
言いながら、臨未は鼻先を僕のそれに寄せる。
「ここまで、連れ出してくれたから。動けなくなった僕の手を、優しく引いてくれたから」
「うそ、強引だったでしょ」
「優しかったよ。すごく」
まだ褪せない、事故の記憶を包み込むように繋いでくれた君の手は、とても温かかった。
そう続けると、彼女は「激甘採点」とまた不服そうだ。近すぎて見えないけれど、また口は窄められているに違いない。
だけど、誰がなんと言おうと君は僕のヒーローで、不良なんかじゃない。祖母の言葉を思い出しながら、繰り返す。
「じゃあ、受け売りついでにもう一つ教えてあげる」
すると、彼女は得意気にそう切り出して、
「どんな道を選んでも、間違いだったとしても、いつかそれが自分の居場所を見つけるための旅だって、きっと思える」
と、言った。
「原作、女将さん。脚色、私」
と、付け足した。
「それは……すごく、良い言葉だね」
「でしょう」
誇らしげに彼女は微笑む。そして、半分真顔で言った。
「無理矢理ここまで連れてきちゃったけど……私は、真冬がどんな道を選んでも、一緒に居場所を見つけたい」
ああ、君っていう人はどこまでも——。僕は心のなかで両手を上げながら、息を落とす。
「臨未ちゃん」
「……ん?」
「間違いだらけでも、僕は君が好きだよ」
だらけ、は言いすぎ——。
そうぼやいた彼女の吐息がふと止んで、互いに互いの唇を寄せ合う。キスと同時に鼻先が擦れて、離れてから、今度は互いに顔を傾けた。
二度重なった唇を見据えて、口から飛び出そうになる心臓の音を懸命に抑えた。
「真冬の唇、冷たい」
臨未は小声で言いながら、湖の方へ視線を向ける。一瞬見えた横顔は、いつも通り凛としていた。
「あと、思ってたより薄い」
「……感想って、言うものなの?」
同じように前へ向き直りながら尋ねると、彼女は息を吐き出しながら、僕の左側に身体を寄せた。
「言いたくなって」
「なんで?」
「真冬の、いっぱいいっぱいなところが見たいから?」
ハテナで終わった彼女の語尾に、僕は首を捻る。
それはつまり、揶揄いたいということだろうか。と再び疑問を浮かべたところで、僕は「あ」と声をあげた。それは、彼女の声とも重なった。
「いま、見えた?」
「うん、見えた」
凭れていた背を浮かせて、顔を見合わせる。さっきまで視線を向けていた湖の方で、何かがキラキラと光ったのだ。何かを反射したような、鋭い光だ。
「なんだろう」
「湖に反射した……感じじゃなかった、よね」
そう言うと、彼女も同意するように頷く。もう一度、探るように湖の畔へ目を向けるけど、鋭い光は表れなかった。
「隕石、だったりして」
「それはちょっと、違うんじゃない?」
「冗談だし」
臨未は言いながら、再び背を凭れる。同じように凭れると、隣から欠伸をする音が聴こえた。
「もう寝る?」
と訊けば、
「まだ、ここにいる」
と言う彼女に、胸が強く締め付けられる。本当なら「疲れてるんだし、早く寝ないと」と言うべきだと分かっていたけれど、名残惜しくて叶わなかった。
肩に寄りかかった彼女から、寝息が聴こえる頃。僕は微睡みの中で思い出していた。
——どんな道を選んでも、間違いだったとしても、いつかそれが自分の居場所を見つけるための旅だって、きっと思える。
ドナーという道を選ぶことも、祖母が言うように間違いではなかったかもしれない。だけど、もがきたいだけもがくことが出来る——そんな今の選択が、いずれ僕の居場所を作っていく。
例え、どんなに傷つこうとも。他人に、間違いだと言われようとも。
「……ありがとう」
僕はか細いヒーローの冷たい額に、触れるだけのキスをした。
*
翌朝、目が覚めてすぐに布団を剥ぐ。障子の向こうから差し込む光は、もう眩しいほどなのに、目覚まし代わりにしていたスマホは枕元で沈黙していた。
「寝すぎた……」
暖房の電源に手を伸ばすことも忘れ、肌寒い室内で素早く義手を装着し、着替えを終える。障子を開くと、湖は昼前の太陽をキラキラと反射していた。
「あー……、もう……」
昨晩、このベランダで触れた体温を思い出しながら額を抱え、唇に触れる。彼女が「冷たい」と言ったそれは、いまも変わらず冷たいままだ。これまで、自分の指先で唇に触れたことなど無かったせいか、今さら酷く恥ずかしくなった。
結局、鼓動を抑えられないまま部屋を出て、階段を駆け降りる。朝食の時間はとっくに過ぎてしまっただろうけど、なんとなく、心が急いていた。隣の客室から、すでに臨未の気配がなかったからだ。
「どうも」
降りて真正面に見える玄関に、見知らぬ高身長の男が立っている。軽く会釈をされて、僕は返事の代わりに
「え……?」
と、目を丸くした。
「あ、真冬。おはよ」
男の手前に立っている後ろ姿が、振り返る。オーバーサイズのパーカーにデニムを合わせ、髪を一つに括った臨未が、やんわりと微笑んだ。
「お、はよ……」
昨日の今日で、熱をぶり返しながら言う。顔も、大分引き攣っているだろう。
いや、それよりも——。と、目線を再び男の方へ持ち上げる。すると、察した臨未は一歩左にずれた後で、手のひらを返して言った。
「こちら、辻宮香吏くん。ちょうど今来たところ」
ツジミヤ、カガリ……。
軽く会釈をする男の名前を反芻する。彼女の話によく登場していた、例のカガリくんだ、とすぐに紐付いた。
「こんにちは。あの、朝倉真冬です」
「こんにちは。辻宮です」
ピッシリとセットされた黒髪に、黒縁メガネ。顔周りだけを見れば堅苦しい印象を受けるけど、黒のタートルネックにキャラメルブラウンのロングコートを合わせ、足元からマスタードカラーの靴下を覗かせるそのコーディネートは、高いファッションセンスを感じさせた。
脚が長いだけではなく、首も長く、顔も小さい。スタイルの良さが際立っているせいか、臨未とのツーショットに面白くない、という感情が微かに芽生えた。
彼が、例のカガリくんであったことも、大きな要因かもしれない。
「ああ、君が石川くんの……」
カガリくんは、僕を見据えながら何度か頷く。
「え?」
「石川くん。少しの間、彼を借りてもいいか?」
僕が首を捻るのと同時に、彼は臨未に問いかける。
「え。なんで? 私じゃなくて真冬?」
「そうだ。彼を借りたい」
「いや意味分かんない。てゆーか、まだどうして来たのかも聞けてないんだけど」
「それは追々話すさ。で、もし予定がないのなら借りていくが」
テンポよく繰り広げられる会話の前で、僕はただ交互に目を向けている。すると突然、カガリくんを見上げていた臨未の視線が、こちらに注がれた。
「……真冬、今日は何かしたいことある?」
「いや、特には……」
歯切れ悪く答えると、臨未は一つ息を吐く。
「じゃあ、この人……香吏くんにちょっとだけでいいから、付き合ってくれない?」
「え?」
「香吏くん、たぶんこれ引き下がらないやつだから」
臨未は呆れたように言いながら、カガリくんを指差す。なんだか、自分の知らない彼女を見ているようで、胸がざわついた。
それより、僕に何の用があるのだろうか。そもそも、彼は臨未に会いに来たんじゃないのか。
「では、車で少し出ようか」
カガリくんは扉に手を掛けてから、そう言ってこちらを振り返る。自分よりも遥かに高い後ろ姿を見据えながら、僕は拳を握りしめた。