「違うって」
「え?」

 聞き返すと、臨未は表情を変えないまま唇を割った。

「真冬の、可愛いのポイントが解らなくて」
「可愛いの、ポイント?」
「ナンパの悪口言ってた私の、どこが可愛いのか解らなかっただけ。黙っていれば、器量は良い方だって解ってるけど」

 そういうことか。と、僕は息を吐く。そしてしばらく考えた後、ふっと笑みを落とした。

「言葉で説明するのは、ちょっと難しいかな」
「……ふぅん」

 ちょっとだけ不服そうに、隣のちゃんちゃんこに小さな顔が埋められる。
 彼女が理屈を求める人なのだということは、なんとなく分かってきていたけれど、どうやらそれは些細なところまで徹底されているらしい。そんな彼女の性質を「可愛げがない」と言う人だっているだろうと想像できるのに、僕にはそれが、やっぱりとても可愛かった。

「臨未ちゃんが、ナンパの人に手を掴まれてるの、すごく嫌だったよ」

 伏せた表情を覗き込むようにして言うと、微かな光を反射した瞳が、僕をそっと見上げる。その光の正体が月明かりだと分かるくらい、傍にある。

「真冬」
「……ん?」
「私のこと、好きでしょ」
「うん。好きだよ」
「私も。好き」

 衣擦れの音が、ヒーターの音に紛れて響く。互いに同じタイミングで吐いた息が、静かに交わる。
 石膏のように、しばらく表情を固めたままでいたけれど、臨未の息を吸い込む音がそれを解いた。

「あのね、真冬」

 ゆっくりと割られた唇に、視線を注ぐ。

「私、本当は逃げてたんだ」
「えっ?」

 情けない声が出た。あまりにも急な転換で、肩まで一緒に跳ねた。
 彼女は僕の驚きように「急にごめん」と苦笑を添えて、再び唇を割った。

「初めて会ったとき、真冬、言ってくれたでしょ。生きなきゃいけないと思ってる人ほど、死に近づいてしまう、って」

 兄を浮かべて言った台詞だ、と思い返しながら、僕は頷く。

「その言葉が、たぶんあのときの私には都合が良くて、縋ってた」
「縋る?」
「うちの両親が自殺を選んだことも、私が身を投げようとしていることも。生きることから逃げて楽になろうとしてるって、認めたくなかったから。弟や家族のために保険金を残そうとか、……本当に思っていなかったわけじゃないけど、自分の弱さを認めたくなかったんだと思う。だから、真冬の言葉に縋ってた」

 縋る、というフレーズが、細い糸を必死で掴む彼女の姿を想像させる。それを浮かべながら、僕の胸はざわついていた。蝋燭の優しい火が、事実を鮮やかに照らし出したからだ。

「縋ってたのは、僕もだよ」

 そう言うと、湖に向いていた彼女の目線がこちらを見据える。微かに首を傾げる仕草さえ、美しい。

「僕も、兄さんの死をまだちゃんと、受け入れられてなかった」
「お兄さんの……」
「うん。僕だけじゃなくて、僕の家族も——……。出来の良い兄さんが、妻や子どもを置いて“逃げた”なんて、思いたくなかったんだよ。兄さんが死んでしまって、残された人の人生はどうなるんだよ、って、本当は思っていたはずなのに、皆言わなかった」
「……うん」

 葬儀で、母親に抱かれた甥っ子が、キョトンとした顔で遺影を見上げる。置いていかれたことすら分かっていないその表情から、僕はすぐに目を背けた。それなのにまだ脳裏に焼き付いているのは、強い罪悪感を覚えていたからだ。
 兄の顔を浮かべると、楽しい思い出と一緒になって、今でもやってくる。僕の絵を褒めてくれた笑顔と一緒に、家族を置いて身を投げた兄の姿が、浮かんでくる。

「本当は、兄さんを責める気持ちもあった。けど、それはいけないことだって、思ってた」
「うん」
「頑張って生きようとしてたから、妻子(ふたり)を思っていたからこそ身を投げたんだ、って。いつしか、そう言う大人の言葉に縋るようになってた」

 声が震える。情けなくて顔を背けると、左側に熱が伝う。鼻を啜りながら振り返ると、臨未の頬が僕の肩に寄せられていた。

「え、臨未ちゃ……」
「いいから、続けて」

 彼女はそう言うと、身体の右側をすべて僕の方に寄せる。ぐいーっと、わざとらしく掛けられる体重に、思わず笑みが零れる。
 内心穏やかではなかったけれど、僕は続けた。

「縋らなくても、さ……大切な人が命を絶ってしまったって、尊いことに変わりはなかったのに。そんな当たり前の事に、これまでずっと、気付けなかった」

 左側に掛けられた体重が軽くなる。ゆっくり顔を向けると、彼女は静かな瞳で僕を見据えていた。

「そうだよね。そうだ」

 彼女は唇だけを動かして言う。

「別に、誰かのために正当化しなくたって、いいんだよね」
「うん。僕と臨未ちゃんのなかには、絶対に揺るがない気持ちがあるでしょ。どんなに責めたいと思ってても、僕は結局、兄のことをずっと好きだし」
「真冬、ティッシュいる?」
「え?」
「涙」

 言われて、素早く頬を拭う。真面目な顔で覗き込む臨未は、それに重ねて頬に手を当てた。細くしなやかなその指は、意外と温かい。ヒーターにあたっている効果かもしれない。

「ごめん、大丈夫。感極まった」
「本当、なんかポエマーっぽかった」
「え、」
「うそだよ。冗談」

 ふふっ、と漏らされた息とともに、白い蒸気が溢れる。気づけば、僕の左手はその蒸気をすり抜けて、彼女の髪に触れていた。

「真冬……?」

 小首を傾げる仕草に、心臓が呻く。月明かりとヒーターの微かな光だけの夜なのに、これ以上ないほど眩しい。

「こんなことを言った後で、なんなんだけど」
「ん?」

 やんわり持ち上がる口角に、息を呑む。僕は慎重に唇を割った。

「……臨未ちゃんには、やっぱり死んで欲しくない」

 続けたい言葉は沢山あったのに、寸前で詰まって出てこない。自分の言葉を放つより、早く彼女の声が聴きたかったのかもしれない。

「うん」

 表情を変えずに、彼女は頷く。

「死ぬ前に気づけて良かった」
「え……?」
「真冬を傷つけたことにも、自分が逃げてたことにも」

 死ぬことを考え直してくれたのか、やっぱり死にたいのか。どちらか分からない返答に、僕は目を泳がせる。けれど、彼女は真っ直ぐ見つめたまま続けた。

「真冬がドナーになろうとしてたとき、あんなこと言ってごめんなさい」
「……あんなこと?」
「見下すようなこと、言ったでしょ。……移植する覚悟も、才能が発揮できなくなる苦しみも、私は分かってたはずなのに」

 病院での出来事を思い出しながら、目を丸くする。
 もしかして、ずっと気にしていたのだろうか。じっとこちらを見据える彼女の瞳が、少し揺れていた。

「そんなの、全然気にしてないよ」

 出来るだけ朗らかに笑って見せると、対照に「お人好し」と言いながら、彼女の唇はきゅっと窄まる。不本意そうでいて、少し安堵しているようにも見えた。

「あのね……女将さんが言ってたの」

 優しい声色で、彼女は言う。

「女将さん?」
「うん。人は、間違えながら生きていくものだ、って」
「間違えながら……」
「完璧じゃなくていいんだ、って。人は、人と補い合えるから、って」

 引用だらけの台詞を静かに聴いていると、彼女は突然、なにかを思い出したようにふふっ、と笑う。

「臨未ちゃん?」
「ごめん。なんか、真冬が言ってることと似てたなぁって、今さら思い出しちゃって」
「そんなこと、言ったかな」
「うん。不完全な私に惹かれた、とか。補うことはできる、とか……ほら、ヒーローショーで」

 もう一つ笑みを落としながら、彼女は視線を下げる。音程の拙いあの歌を、一緒に思い出しているのかもしれない。
 僕はさっきまでの彼女を真似るように、唇を尖らせた。

「そんなに笑わなくても」
「ごめん、でも、嬉しかったから」
「あれが……?」
「うん。歌ってくれたのも、ナンパから一緒に逃げてくれたのも、嬉しかった」