大浴場を出て脱衣所に足を踏み入れると、横長の鏡に自分の体が映る。床が冷たくて、一刻も早くバスタオルを巻き付けたいと思っているのに、視線は目の前の鏡からしばらく逸れない。
 右腕が途中で消えた、アシンメトリーな自分の像が立っている。切断してからある程度の時間は経っているはずなのに、まだ自分の体とは思えない時がある。右腕をつけ損ねた、レプリカのようだ。

「……さぶっ」

 ぼうっとしていると、急に背筋からブルリと肌が粟立ち、バスタオルを上半身に纏う。左手だけで拭う体はもちろんレプリカではなく、自分自身の体だった。

 “あなた、その手で本当に描けるの?”

 水滴を拭いながら浮かんだのは、遊園地から帰った後、掛かってきた電話の向こうで祖母が放った言葉だ。

 ——家を空けてるみたいだけど、近くにいるのよね?

 と、最初は居場所だけを尋ねた祖母に、会話の流れで滑らせてしまった。

 ——どこにいるの?
 ——そんな遠くじゃないよ。平気だから。
 ——平気って、誰と一緒にいるの?明日も帰らないつもり?
 ——うん。でも、本当に平気だから。
 ——平気平気って……、まさか、逢い引きじゃないでしょうね。自分の体のこと、ちゃんと分かってるの?
 ——分かってるよ。逢い引きでもないし、駆け落ちでもない。
 ——駆け落ちって……一緒にいるのは女の子なの?どこの娘さん?あなたはまだ高校生なのよ、分かってる?
 ——だから……分かってるって。
 ——最近の子は、親に無断で外泊をすることが普通だと思っているのかしら。一緒にいるお嬢さんの素性を教えなさい。

 最近の子、を強調した祖母は、捲し立てるようにそう言った。けれど、僕は応じなかった。

 ——ハァ……もう、夏生(なつき)君と違ってあなたたちは本当に……、

 そこまで言って、祖母は半端に口籠る。代わりに僕が続けた。

 ——兄さんと違って狡い、って言いたい?父さんと僕が似てるって、
 ——そこまでは言ってないでしょう。あの人とあなたは、別の人間よ。

 祖母がいつも言う、他人行儀な『あの人』は父親のことだ。病んだ母親と、残った次男を置き去りに逃げた、狡い父親のことを言っている。『別の人間』と境界線を引くことで、祖母が僕に対する愛情を削がないように必死なのだということを、僕は知っていた。

 ——でもいずれ、あなたもあの人と同じになってしまうわよ。今からそんな、不良みたいな子とつるんでいたら。

 そう言われた瞬間、顔がカッと熱くなった。どんなに兄と比較されようとも、父を卑下されようとも、懸命に保とうとしていた祖母に対する理性が、途端に削がれた。

 ——不良じゃないよ。彼女は、僕の絵を見たいって言ってくれている、大切な人だ。

 声が震えた。

 ——絵? 真冬、あなたもう絵は描かないんでしょう?
 ——そんなこと、一言も言ってない。
 ——だって、腕を失くすときに覚悟してたんでしょう? だから私は、あんなに悲しんで……。

 電話の向こうで、なぜか祖母の声も震えていた。また愛情を示されたのだ、と感じる自分が、心底冷たい人間に思えた。

 ——大体、あなた、その手で本当に描けるの?

 けれど、それは祖母も同じだ。傷つけている意識など全くないと言うように、冷静な口調が続けた。

 ——そもそも、あなたの事をちゃんと考えてくれている人なら、そんな状態のあなたと外泊しようなんて思わないはずでしょう? 冷静になりなさい。
 ——……僕はとっくに、冷静だよ。冷静に、させてくれたんだよ。
 ——はい?

 祖母の、元から狭い眉間がさらに狭まる様が、容易に想像できる声だった。
 僕は迷い抜いた末に、才能提供者(ドナー)になろうとしていたことを吐露した。それを、彼女が強引に止めてくれたことも。

 ——行動力と無鉄砲は違うのよ。その、一緒にいる娘に言ってやりなさい。

 鼓膜に注ぎ込まれる大きな溜め息が、心に濃い霧を生む。もう、何を言っても無駄なのだ、と。それからは祖母の言葉を適当な相槌で流していた。

 “真冬の、ドナーになろうとした判断は賢明だと思うわ。そういう諦めも人生には必要だもの”
 “それを無下にするような人よ? どうかしているわ”
 “あなた、失ったものが大きいんだから。それ相応の待遇を受けていいって判断されたんでしょう? 立派なことじゃない。母親譲りの器用さが、ちゃんと認められたのよ”

 電話が切れる頃には、外泊の件はすっかり遠い昔の話題になっていて、

 ——時にはね、制度に甘えることも必要なの。

 という祖母の宥めで締め括られた。結局、何を言っても家には戻る様子はなさそうだ、と諦めてくれたのか。それすらも、もはや判らない。
 電話を切った後、肩に圧し掛かった疲労は、温泉の効能をもってしても溶け切る様子はなかった。

 最後に一言、何か言い残しておけば良かったかも、とは思うものの、自分の選択が正しいかどうかも、まだ判らない。
 僕はボタン式のパジャマに着替えて、脱衣所を後にした。昨晩、浴衣を着るのが大変だったので、女将さんに取り替えてもらったのだ。

 客室に戻ると、ベランダにはほんのりとオレンジ色の光が灯っていた。心なしか、昨日よりも彼女の影がこちらに近い気がする。

「臨未ちゃん」

 窓を開けると、同じちゃんちゃんこを羽織った彼女がパッと視線を持ち上げる。声を掛ける前から僕の気配に気づいていたような、そんな速さだった。

「座る?」
「うん」

 軽やかに響く声に寄せて、腰を沈める。昨晩よりも強く吹く風がヒーターの温度を連れて、僕の頬を優しく焼いた。

「今日、疲れたよね」

 彼女の目が、僕を見たまま言う。

「……うん。疲れたね。楽しかったけど」

 祖母のことを浮かべていたせいで、遊園地のことを言われているのだと判るまで、間が空いてしまった。どちらもドッと疲れたけれど、疲労感がこれほど残っているのは、祖母との会話のせいだ。

「大丈夫?」

 澄んだ瞳に覗き込まれて、思わず目を丸くする。効果音を宛がうとしたら、ギクリ、が正しいかもしれない。

「ごめん、大丈夫。初めて乗り物酔いしたなって、思い出してて」
「あれは予想外だった」
「僕も。あと、臨未ちゃんがナンパに遭ってたのも」
「あー……本当に災難だった。ナンパっていう名前、変えた方がいいと思うくらい」
「名前?」
「柔軟の軟って書くでしょ、ナンパのナンって。確かに硬派ではないけど、全然柔軟じゃないのよ。頭のなか、自分達の主張で凝り固まってる」

 白い息を飛ばすように話す臨未に、こっそり笑みを溢す。しかしすぐに気づかれてしまい、

「真剣なんですけど」

 と、彼女は口を尖らせた。

「ごめんね。なんか、可愛くて」
「……かわいい?」

 ちゃんちゃんこの袖に乗せられた、小さな顔が眉を寄せる。

「そんな顔しなくても。よく言われるでしょ?可愛いって。……ほら、たぶん、ナンパの人たちとかにも」

 ばつが悪くなって俯いてしまったのは、情けない嫉妬心が沸いて出た台詞だと、自分で解ってしまったからだ。
 しばらく間が空いたあと、僕は風が運ぶ潮の香りを吸い込んで、恐る恐る顔を持ち上げた。