手首を掴んでいる男に、息が切れる様子はない。余裕綽々と口角を持ち上げて、私を見下ろしている。

「おい!ちゃんと見てろっつったろ!」

 背の高い男がまたゲームの台を叩いて、こちらに怒号を響かせる。傍を通りかかった親子が、踵を返して逆側の出入口へ向かっていくのが、横目に見えた。

「悪かったって、そんな荒れんなよ。今連れてくから」

 ほら、行くぞ。と、手首を引っ張られる。

「嫌だ」

 睨み上げると、凄んだ瞳が降りてきて、ひゅんと喉が鳴る。掴まれていない方の手に力を込めると、何かが揺れる。——真冬のために買った、水と薬の入った袋だ。

「臨未ちゃん……?」

 どうしてか、脳裏に一瞬だけ浮かんだ顔が、男の背後にも見える。彼は透真くんと手を繋いで、私の名前を呼んでいた。

「……あの、どうかしましたか?」

 まだ少し顔の青い真冬が、眉を寄せてこちらに駆け寄る。もしかしたら、この有り様を見て余計に顔色が悪くなったのかもしれない。

「あー、別になんもないっすよー。うちの連れなんで」
「そんなはずはないです。彼女は僕の連れです」

 淡々と言う真冬を見据えながら、男は私の手首をギュッと握る。瞬間、何かを察した他の二人もこちらへ歩み寄った。

「あー、へー、確かに一人でこんなところには来ないよねぇ」
「彼女を……離してください。何か話があれば僕が聞きます」
「いやぁ、俺たちはこの子に用があるんだよねぇ。分かるでしょ?意味」

 真冬が、透真くんの手を強く握ったのが分かる。反対側の、手袋に覆われた右手がこちらに伸びたのは、その直後だった。

「臨未ちゃん」

 呼ばれて、私は頷く。布越しの、硬い義手の感触が手首に伝って、二人で男の手を振り払う。
 何がどうなったのか、自分でもよく分からなかったけど、次の瞬間には扉を押し出して、建物の外を走っていた。後ろを振り返らず、アトラクションの間を縫うように走っていた。

「ま、ふゆ……っ、もすこし、ゆっくり」
「えっ?あ、ごめん!」

 しばらく走ったところで振り返る。そこには建物も、男たちの姿もなく、この一瞬で随分遠くまで来たのだと悟った。
 それにしても、真冬は意外と足が速い。私は乱れた息を整えながら、心臓の辺りを押さえた。

「ごめん……臨未ちゃん、大丈夫?あ、透真くんも」

 小さな男の子よりも先に心配される自分が可笑しくて、苦しいのに笑みが零れる。乱れた息がそれに耐え兼ねて咳き込むと、透真くんの小さな手が私の背を擦った。

「お姉ちゃん、だいじょうぶ?」
「……うん。ごめんね、心配掛けて。透真くんは平気なんだ、すごいね」
「うん!走んの好きだし!」

 闊達な笑顔に、肩の力が抜けていく。威圧的な異性に囲まれていた緊張が解けて、肩だけではなく、次第に全体の力が失われていく。——代わりに私を覆ったのは、(ぬく)い安心感だ。

「臨未ちゃん……っ」

 今日は何度、そう呼ばれただろう。何度も呼ばれたけれど、こんなにも近くで感じるのは初めてだ。
 脱力した体を、真冬が抱き留めてくれたのだと理解したのは、耳元でもう一度名前を呼ばれた後だった。寄りかかった薄い胸元が、少し心許なくて心地いい。肩を優しく包み込む腕に、私はそっと触れた。

「ありがとう。真冬」

 呟くと、安堵の息が聴こえる。

「ううん。僕の方こそ……あんなことなら、もっと早く様子見に行けば良かった」
「心配、してくれたの?」
「うん」
「体調は?」
「もう大丈夫だよ。走って冷たい空気いっぱい浴びたら、なんか元気になったから」

 真冬が笑っているのが、声だけでなく震動からも伝わる。ありがとう、と言う彼に頭を撫でられて、ゆっくりと呼吸は収まっていった。

「……真冬が来てくれて、良かった」
「こっちこそ」
「え?」

 目を上げると、頬の染まった真冬が柔く微笑む。

「臨未ちゃんが一緒に振り払ってくれたから、連れ出せた。僕の、この手だけじゃダメだったよ」

 自嘲ではなく、ただ本音を溢した彼の表情は、いつまでも優しい。温かいのに、胸が苦しくて痛い。
 その体を、思わず抱き締めようとした瞬間だった。

「えっ!零央だ!零央だよ、お兄ちゃん!」

 透真くんが真冬のジャケットを引っ張り、私たちは意識を横に逸らす。透真くんの指先を辿ると、ステージに見覚えのあるキャラクターが、ポーズを決めて立っていた。
 クレーンに靡かないでいてくれた、アンドロイドヒーローの零央だ。

「ぼく、行っていい?!あっち、行っていい?!」

 透真くんは、ステージ正面の客席を差して言う。

「いいよ。でも、一人じゃ心配だから一緒に行こう」

 私も真冬の言葉に頷き、二人で透真くんの手を取る。すると、小さく柔らかい手が吸い付くように、私の手を握り返した。


 ヒーローショーの客席は賑わっていて、私たちは後方でステージを眺めた。救いだったのは、前列よりも少し段差が設けられていて、透真くんも背伸びなしで観られることだ。

「うわっ、がんばれー!零央ー!」

 ショーの後半、怪人から攻撃を食らった零央が、苦しそうに胸を押さえている。透真くんと同じように、周りの子どもたちも「がんばれー!」と声援を響かせた。
 幼い声に和んでいると、ポケットの底でスマートフォンが震える。画面を開いた私は、思わず目を瞠る。メッセージの通知が数件、差出人は、同じクラスで隣の席の吉川だった。

『よ。元気?』

 トーク画面を開くと、まずその切り出しが目に入る。

『さっき沖縄着いて、ソーキそば食ったとこ』
『昨日、あれから早退したのかって、こいつら心配してる』

 いくつかに分けて送信されたメッセージを、足早に辿っていく。そういえば昨日は、真冬を連れ出すためにすぐ学校を出たんだっけ。ほとんど行き当たりばったりで、本当に真冬に会えるとは思っていなかったけれど。
 もう随分前の事のようだな、と感じながら、スクロールを再開する。そこには、一枚の写真が貼られていた。
 文面だけでも“こいつら”に大体見当はついていたけれど、やっぱり、と思う。写真には、シーサーの両端に並んだ美世と莉亜夢が写っていた。そういえば、この三人は修旅の班が同じだったっけ。

『楽しそうだね。昨日は、少し体調悪くて。心配かけてごめんって伝えておいて』

 そう返信すると、すぐに既読になったので反射的に画面を閉じる。暗くなった画面に、メッセージがポコンと浮かび上がる。

『直接言ってやったら。なんかずっと、自分達から連絡していいのか迷っててうるさいし』

 吉川らしい言い様に、苦笑が漏れる。うるさい、とわざわざ最後に付け足すのが照れ隠しの表れだということを、彼は気づいていないのだろう。
 私はメッセージに返信することなく、再びポケットにスマホを沈める。目を上げると、怪人と闘う零央はまだ苦しんでいる。それが、胸の内を投影しているように見えたのは、美世と莉亜夢に罪悪感を覚えたからだ。

「やばいよ、やられちゃうよ……」
「信じてあげよ。きっと大丈夫だから」