「……こわい……」

 不意に弱音が溢れると、前の席から見慣れた顔が振り返る。

「臨未ちゃん、大丈夫。声を出したら、怖くないよ」

 歯切れよく放たれた真冬の声が、狭くなっていた喉の管を少し楽にする。
 そのとき、私は真冬に名前を呼ばれることが好きなのだ、と。そんなどうでもいいことに気がついて、笑みが零れた。

 真冬のおかげで、コースターは思っていたよりもずっと楽しかった。

「ねえ、大丈夫?」

 私は、ベンチに腰を沈めた真冬を覗き込む。コースターを降りた後、私よりも彼の方が項垂れていたので、近場に座らせたのだ。

「うん……ごめん。なんか、あのグルグルするの、ダメみたいで……」

 真冬は力のない指先で、トルネードしているレールを指す。

「酔った?」
「そっか……これが乗り物酔いか」

 首元を押さえながら俯こうとするので、私は両肩を支えて屈んだ。

「どうする?救護室とか行く?」

 すると、透真くんが「えっ」と声を上げる。彼を見ると、まずい、と言うように口元に手を添えた。
 真冬抜きで回るのは、さすがに気が乗らないのだろう。私は小さな頭を撫でて、出来るだけ自然な笑みを見せた。

「透真くん、少しだけお兄ちゃんのこと見てられるかな」
「え?」
「私、薬と飲み物買ってくるから。お兄ちゃんに、早く元気になってもらいたいもんね」

 そう言うと、触れた頭がコクンと頷く。

「臨未ちゃん……ごめんね……」
「うん。いいから。ちゃんと休んでてよ。あと、地面だけ見てると余計気持ち悪くなるから。とにかく、遠くを見ること」
「はい」

 真冬はすぅっと細く息を吸い込んで、宙を眺める。透真くんも隣に座り、彼の背を優しく擦った。

 うちの歩睦も、誰か助けが必要な人に出会ったら、ああして手を差し伸べられるだろうか。と、建物内の売店へ向かいながら思い伏せる。
 店内で見つけた酔い止めは、薄い袋に錠剤が入っているタイプで、水と一緒に購入する。

「ありがとうございました」

 店員に会釈をして、店を出る。遊園地であることを忘れてしまうような、日常感に溢れたビニール袋に視線を注ぎ、思わず笑みを溢した。心底申し訳なさそうに私を迎える、子犬のような真冬の顔が思い浮かんだからだ。
 少しひ弱で、童顔で、頼り無さそうにも見えるところけど、彼は時に芯の通った矢を放つ。傷口を抉るのではなく、空洞を埋めるように放たれる矢だ。

 ——不完全な臨未ちゃんに惹かれてた。

 コースターに乗る前に放たれた一言が、まだ暖かいまま灯っている。その後、なにかを弁明するように慌てた真冬は、ちょっと可笑しかった。

「あれ、これ……」

 目が奪われたのは、建物から出る寸前だった。ゲームコーナーに置かれたクレーンゲームの中身に、見覚えがある。
 景品になっていたのは、歩睦と透真くんが好きだと言う『アンドロイドヒーロー・零央』のフィギュアだった。普段は人間そのものの姿をしているけれど、これは確か変身を終えた後の姿で、全身は硬そうな金属で覆われている。
 
「あー、だからか」

 透真くんが、真冬の右手を見て興奮していたのは、このヒーローの影響か。と不意に思い当たって、喉を鳴らす。あのときの、真冬の驚きと嬉しさを混ぜたような表情を浮かべていた。

「——お。なになに~。オネーサン、これ欲しいの?」
「ね、超かわいいねキミ」
「……ちょっとー、無視しないでよ」

 それは唐突だった。
 突然視界に割り込んだ男の顔と、響く声に肩を竦める。“オネーサン” が自分を指していることに気がついたのは、複数の男に囲まれた後だった。

「ね、このフィギュア欲しいの? 変わってるね~、女の子なのに」

 全部で三人、なかでも一番背の高い男が、正面で私を見下ろす。クレーンゲームの操作ボタンに手を掛けて、距離を詰めてくる。

「えー、この子全然しゃべんないんだけど」
「おしとやかだね~」

 皮肉にしか聞こえない “おしとやか” に、自分の眉が動いたのが分かる。

「なんか喋ってよ。声が聞きたいなぁ」
「あー、そうだ。じゃあ、これ取ったら俺らと一緒にお話しようよ」
「いや、お前たかがナンパにいくら注ぎ込む気だよ」

 年は少し上くらいだろうか。髪色は落ち着いているけれど、全員耳や口元にいくつものピアスが開いていた。
 その小さな飾りが連なっているだけで、彼らには硬い鎧が纏われているように見える。俺らには抵抗しない方がいいよ、と三人の目が語りかけている。

「じゃ、そーゆーことで。お前ら、ちゃんとこの子逃げないように見とけよー。このレベルに出会うなんて滅多にねぇんだから」

 一番ガタイのいい男がクレーンゲームにコインを注ぐと、他の二人は私を挟むようにして、クレーンの行方を見守った。
 恐喝と呼ぶには仰々しいけど、ナンパにしては強引で、卑怯だ——フィギュアの箱に掠めたクレーンが、掴めず失敗に終わる様を眺めて思う。男のコインが吸い込まれていく度に、歩睦や透真くんの好きなキャラクターが汚されていくように見えて仕方がない。

「……——気持ち悪い」

 街で声を掛けられる事はこれまでにもあったけど、いつもそう思っていた。初対面ですらないのに、簡単に踏み込もうとするの図々しさも、自分達が優位に立っていると無意識に思い込んでいるところも、私にとっては心底不快なものだった。——人間そのものに、優劣なんて一つも無いのに。
 優劣を生み出すのは、ラベルだ。生きているうちに、周りからの評価というラベルが、勝手に貼られていく。

「ん?いまなんか言った?」
「つか、声もめっちゃ可愛くね?!」

 両隣の男は、俯いた私を覗き込む。もう一人の男はまだUFOキャッチャーの前にいて、操作ボタンの台をガンッと叩き、舌打ちを響かせた。
 すると、両隣の男が「おい、当たんなよ」と彼を宥める。——今しかないと思い、私は彼らの手を振り払って、建物の出口に向かって駆け出した。

「あ?! おい!」

 どうして私は、こんなに足が遅いんだろう。小さい頃から鈍足というラベルを貼られていた私は、出入口の扉に手を掛ける寸前、男の一人にその手を取られてしまう。
 嫌いな体育をよくサボっていたせいか、こんな短距離でもしっかり息が荒いで、心臓が痛んだ。

「何逃げてんのー、約束したでしょ」
「してない」
「おー、やっぱ喋れんじゃん」