「今日は、急にごめんね」

 まだ俯いたままの横顔が、ぽつりと落とす。

「なんで謝るの?」
「臨未ちゃんと約束してたのに。今日は、僕の絵を見せるって」

 遠慮がちに流された瞳が、静かに揺れている。遠目に見える浜名湖も、緩やかな波紋を作っていた。

「いいよ、そんなの全然。あの場で、透真くんを放っておくわけにはいかなかったでしょ」
「それもそうなんだけど……、そうじゃなくて」
「ん?」
「臨未ちゃんの、表情が見たかったから」

 今度は声を出さずに反芻する。彼は慎重に唇を割った。

「透真くんといる臨未ちゃんは、近いような気がして。この人生を捧げてでも描きたいって思った、臨未ちゃんと」
「……え? 私?」

 反射でそう飛び出した。それじゃあまるで、私をモデルにした絵を描きたい、と言っているみたいじゃないか。

「そうだよ。僕が描きたいのは、臨未ちゃんだよ」

 優しい瞳に捉われる。私は、冷え切った耳朶を気に掛ける余裕もなく、呆然と彼を見据えた。

「なん、で……?」

 クラゲのなかで、白い息が舞う。

「君の歌を聴いたとき、……いや、歌っている君を見た時、初めて命懸けで描きたいと思ったんだ」

 命懸け——そんな大袈裟な表現が、私には当然のように響く。

「でも、もう私は歌えないんだって——」
「うん。それでも僕は、臨未ちゃんを描きたい。歌っている君じゃなくて、君自身を描きたいんだって、ようやく分かった」

 遊具に乗った少年のように、真冬は俯きながら笑った。

「……あのさ、」

 私は狭い喉を切り開くようにして、声を絞り出す。少し掠れてしまったけれど、彼は目を細めてこちらを見つめ返した。罪悪感をも溶かすほどの温かい瞳が、そこにはあった。

「私が、今訊くのは狡いと思う。それは分かってる。でも——……苦しいのにどうして、また描きたいと思えたの」

 温かい瞳が染みれば染みるほど、なぜか声が震える。ここ最近の私は、教室内で向けられる悪意のある視線にも簡単に耐えられるのに、真冬の優しさには耐えられなかった。
 目の前の瞳が瞠目して、私は自分の瞳が濡れていることに気がついた。

「そんなに怖かった? クラゲ」

 手袋を脱いだ彼の左手が、頬に優しく触れる。雫を掬い上げられて、鼻を啜る。

「……ばか」

 言いながら、触れられた場所が火照っていくのを感じる。真冬が笑うのを見ると、堪えようとしている涙がまた、流れてしまいそうだった。
 今日は久しぶりに笑って、久しぶりに泣いた。昨日、よく眠れなかったせいかもしれない。

「臨未ちゃんが、見たいって言ってくれたからだよ」
「え……?」
「嬉しかったんだよ」

 彼が拭ったばかりの雫は、冷たい風に拐われる。同時に、溶け切れなかった罪悪感が溢れ落ちた。
 でも、私は——……。開き掛けた唇を閉じて、もう一度ゆっくり開く。

「……私は、真冬に殺して欲しいと思ってたから……。だから病院で、自分の都合を押し付けるために言ったんだよ。思ってたんだよ。『たった三ヶ月で』描くことを諦めた、弱い人間だって」

 額の内側から、鈍い痛みが広がる。鐘を叩くように強く、打ち付ける。私は自嘲的に笑いながら、自分の涙を一思いに拭った。

「真冬のこと、何も知らないでそう思ったの」
「……うん」

 クラゲが、海底に沈むように落ちていく。その降下に、掻き消されそうなほど小さな声を拾った真冬は、肩の力を抜くように笑う。

「でも、臨未ちゃんの都合のおかげで、もう一度筆を取ってみたいと思えたから。……きっと簡単にはいかないだろうけど、苦しむ事も分かってるけど、それでも今は——臨未ちゃんが傍に居るから」
「私……?」
「見ていてくれるんでしょ?」

 沈んだはずのクラゲは、またふわりと浮上する。拓けた景色のなかで、湖が太陽を反射する。ずっと同じ眺めだったはずなのに、この今の景色が、どうしてか一番美しいと思えた。


 地上に降り立った後、透真くんは私を見上げて

「これも怖かった?」

 と、心配そうに言った。きっと、泣いているところを見られていたのだろう。まだ目も少し赤いかもしれない。

「大丈夫。楽しかったよ」
「ほんと?」
「うん。ほんとだよ~」

 歩睦にしているようにグリグリとその頭を撫でると、透真くんは「わっ」と肩を窄めて笑う。歩睦は、元気にしているだろうか——と、私を見上げる丸い瞳が、不意に過った。

「ねえ。ふたりは、新婚旅行?」
「「え?」」

 唐突な質問に、真冬と声が重なり、二人で顔を見合わせる。まだ舌足らずなところがあるのに“新婚旅行”の部分は妙に歯切れが良くて、少し可笑しい。

「よくそんな言葉知ってるね」

 真冬が戸惑ったように笑う。

「おばあちゃんに教えてもらったの。あのお客さまたちは、新婚旅行だよって」

 もしかして、と思い当たる。今朝、食堂で真冬の後ろを通った若いカップルのことだろうか。

「お兄ちゃんとお姉ちゃんも、そうでしょ?」

 純粋な問いかけに、真冬は「ええと」と言い淀んでいる。答えはもちろん「ノー」だけど、彼は言葉を探して唸っていた。

「えっと……お兄ちゃんたちは新婚旅行じゃなくて、卒業旅行かな」

 そう答えた真冬は、首を捻った透真くんに、身振り手振りを交えて説明をする。
 拙い説明に、透真くんは途中から「よく分からない」と言いたげな顔をしていたけれど、別に宛がえる言葉を探した彼のことを、素直にいいな、と思った。

「あまり伝わらなかったかな……そもそも、臨未ちゃんは卒業じゃないし、」

 次はあっち行こ!と駆ける透真くんの背中を見据えて、真冬はまだ唸っている。

「そうだね。あんまり意味は伝わってないかも」
「う……小さい子に教えるのって、難しいんだね」
「でも、真冬がちゃんと答えたから、透真くんも嬉しいと思う」
「……そうかな」

 笑って彼を見ると、赤くなっていく頬に胸が締め付けられる。
 
 ——それでも今は、臨未ちゃんが傍に居るから。

 同時に再生された彼の言葉が、心の隙間を埋めていく。
 私も、ずっと誰かに聴いて欲しかったのかもしれない。そう言ってくれる人が傍に居たら、たとえ体が思い通りにならなくても、「ドナーになる」という選択をした過去は変わっていたのかもしれない——。
 思えば、昔は、歌っているときに想像することが好きだった。収入も名誉も考えず、ただ、自分の歌声が誰かの心に届くことを想像していた。私の歌声が、誰かの心を揺さぶる日を、夢に見ていた。