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 入場ゲートの手前まで伸びたレールを、コースターが轟音を立てながら下っていく。見上げた水色のレールにも、あまり速そうには見えないコースターにも見覚えはあるけれど、乗った記憶はない。
 透真くんを託された私たちは、例の遊園地に来ていた。そしてここは、私自身も昔、両親に連れられて来たことのある場所だ。

「わー……」

 と、透真くんは私の隣でコースターを見上げている。彼は背が反るほど首を捻り、ぽかんと口を開けたまま、コースターの行く先を何度も目で追っていた。
 民宿から徒歩十分ほどで着いてしまう地域密着型のこの遊園地は、浜名湖を囲む施設の一つで、目玉のコースターは遠目に見ても存在感を放っている。だからこそ、透真くんは諦めきれなかったのだろう。

「お待たせ」

 真冬が三人分のチケットを手にやって来る。

「聞いて、入園料無料だった。あ、フリーパスでいいんだよね」
「本当、キャンペーン中って書いてあるね。ありがと」

 受け取ったチケットをひらひら揺らすと、真冬はふっ、と息を落とした。

「嬉しそうだね。臨未ちゃん」
「うん?」
「実は、遊園地とか好き?」

 頭上を走るコースターを指差し、片頬を持ち上げる表情はどこか悪戯っぽい。

「別にそういうわけじゃ……。入園料無料ってのが、嬉しい誤算だと思っただけ」

 これはこれで、決まりの悪い守銭奴のようだな。と少し後悔しながら、先に入場ゲートを潜る。透真くんは真冬に懐いているようなので、私はあまり邪魔をしないようにしようと来る前から決めていた。——それなのに、真冬は透真くんの手を引いて

「臨未ちゃんは乗り物、何が好き?」

 と、私の隣に素早く駆け寄る。

「特に、好きなものとかはないけど……」
「そっか」

 煮え切らない、詰まらない返事にも真冬はにこやかに返す。……どうして、そんなに嬉しそうなのだろう。私に構っても楽しいことは何もないのに。
 屋内のゲームスペースを抜け、アトラクションエリアに出たところで、真冬は透真くんと同じようにぐるりと辺りを見渡した。

「お兄ちゃんっ、最初はあれ乗りたい!」

 透真くんの小さな指の先には、海賊船をモチーフにしたバイキングが揺れている。近寄れば、風をブォンと切る音が太く響いて、私は思わず苦笑した。
 両親に連れられて来たとき、ゆったりとしたアトラクションだと思って乗ってみたら、苦手な浮遊感が何度も襲ってきて、「降りたい、降りたい」と父の腕を鷲掴んでいたことを思い出す。あれは海賊船という名の通り、見掛けに依らず恐ろしい乗り物なのだ。 

「お姉ちゃんも!」
「へっ?」

 腕組みをしながら、恐ろしい船の揺さぶりを見据えていると、透真くんに手を掴まれる。素っ頓狂な声が飛び出せば、もう片方の手を真冬が握る。
 今のところ並んでいる人がいないので、すぐにでも乗船できるらしい。

「私はいいから……っ、いや、見てるだけで本当、」
「行こう。一緒に」

 そう被せた真冬の指が、ぎゅっと私の手に絡んで包み込む。流された視線にも、その温もりにも抗えないまま、気づけば安全バーを下ろしていた。

「透真くん……これ、実はすっごい怖いんだよ。分かってる?大丈夫?」
「お姉ちゃんは怖いの?」

 私と真冬の間に挟んだ透真くんは、あっけらかんとこちらを見上げた。遊園地に来る前は目を赤く腫らしていたのに、今の彼の瞳はガラス玉のように澄んでいる。

「私は、怖くないよ。けど、透真くんが、」
「あっ、始まる!」

 動き出しを知らせるブザーに肩が弾けて、安全バーを強く握りしめる。

「やっぱりお姉ちゃん、怖い?」

 と、今度は心配そうに覗かれたので、私は手を浮かせて振って見せた。
 全然。全然大丈夫だよ。そう答えた言葉は、果たして届いたのか分からない。揺れが激しくなる度に風を切る音が鼓膜を支配して、私は思わず目を瞑った。昔と同じように、早く終われ、早く終われ、と心のなかで唱えながら、バーをまた強く握りしめていた。


「臨未ちゃん、もしかして本当に怖かった?」

 降りた直後、真冬に顔を覗かれて、すぐに背ける。

「怖いっていうか……苦手なだけ。酔ったりとかはしないから、別に平気」

 思っていたよりも棘のある言い方になってしまって、恐る恐る振り返る。しかし、真冬は透真くんと顔を見合わせて、頬に笑みを乗せていた。

「え、なに?」
「ううん。臨未ちゃんは強がりだなぁと思って。ね、透真くん」
「ぼく、次はもうすこし優しい乗り物がいいなぁ。あっちの、クラゲとか」
「いや……全然、気遣わなくていいよ。てゆーか別に、強がってなんて、」
「ほら、行こ!」

 透真くんの小さな手が、また私の手を取る。背格好も丸い頭も、透真くんはどこか歩睦を思わせるのに、引っ張る力は歩睦よりも強くて、なんだか不思議な気分だ。
 澄んだ空に照らされたアスファルトを、彼は跳ねるように先導する。周りをよく見ると、家族連れの大人たちは寒さに身を縮めていて、私のように子どもに手を引かれていた。

 ——お父さんっ、お母さんっ。今度はあのキノコに乗りたい!

 あれなら、お母さんも一緒に乗れるよね?——あの頃、そう言いながら両親の手を引くと、二人は私の頭をグリグリと激しく撫でた。

「そっか。透真くんには、あれはクラゲに見えるのね」

 オレンジや紫に彩られた幾つかのパラシュートが、今度こそゆったりとした速度で上下に動く。そのパラシュートが吊っている椅子に座り、浜名湖を一望できるアトラクションは、空を泳ぐクラゲのようだ。

「ねえ、どの色のクラゲに乗りたい?」

 私は透真くんの目線へ合わせるように屈んだ。

「んー、オレンジ!」
「じゃあ、よろしくね。真冬お兄ちゃん」
「えっ、僕? てゆーか、臨未ちゃんまでお兄ちゃんって……」

 出目の瞳をさらにギョロリと見開く真冬に、透真くんが笑う。私も、背を沈めたまま笑った。久しぶりに、声を上げて笑った気がした。

 クラゲの動きに合わせて、垂直に吊られていく。私の隣には真冬が居て、透真くんは一つ前の、別のクラゲに座っていた。

「まさか、二人乗りだったとはね」
「でも、透真くんが一人で乗れる年齢で良かった」
「うん。楽しそう」

 会話が聴こえたかのようなタイミングで、前のクラゲから透真くんが振り向く。危ないよ、と真冬が言うと、悪戯っぽく彼は笑った。

「透真くん、次は二年生になるんだって」
「へぇ、そうなんだ」
「臨未ちゃんの弟さんも、同じくらい?」
「そうね。次は三年だから、ほぼ同じ。でも、身長はあんまり変わらないかも」
「そっか——……」

 冷気を含んだ細い風が、露になった耳をぴゅうっと撫でる。少し痛くて、掌でそれを包んだ瞬間に、真冬がぼそっと何か言った気がした。

「ん、なに?」

 顔を近づけて手を下ろすと、手袋に覆われた彼の左手に重なる。ピクリと肩が跳ねたので謝ると、真冬は「いや、」と口籠ったまま俯いた。