女将さんが眉を下げたのを見て、私たちは首を振る。

「大丈夫ですか?……その、」
「すみません。僕の息子なんですけど、人見知りなくせに泣き声ばっかりうるさくて」

 真冬が問いかけると、今度は細身の男性が頭を下げながら答える。ばつが悪そうに細められる目元が、女将さんによく似ていた。

「いえ、全然。僕たちが来たから、お子さん、びっくりしちゃいましたか」

 真冬は、泣きじゃくっていた少年を一瞥する。少年の父親が言うように、人見知りの効果で一時的に涙が引っ込んでいるようだ。その横顔は、注射を堪えているときの歩睦の表情とよく似ている。

「いえいえ。朝っぱらから本当に申し訳ないです。ちょっと、うちのお袋が足をやってしまって」

 男性が隣に座る女将さんに目を向ける。聞けば、彼は女将さんの息子で、昨日孫の透真(とうま)くんを連れて名古屋から帰省してきたのだという。

「今日ねぇ、私が透真と遊園地に行くって約束してたもんだから。でも、今朝仕入れの最中に捻挫しちゃって。とてもじゃないけど行けないわ、って、謝っていたところなの」
「僕も、昼からは別の用事があって行けなくて」

 女将さんと息子さんはそう言うと、私たちを部屋に招いて座卓の前に座らせる。座布団を敷いてくれた息子さんは、まだ機嫌の直らない透真くんを膝に抱き、卓上のみかんをむしる。
 昔、お父さんがお土産にと買って帰った“三ヶ日(みっかび)みかん”かな、と私は一人で懐かしんだ。

「あの、良かったらどうぞ。一応名産なので」

 小ぶりなみかんの入ったカゴが、差し出される。息子さんはもう二つ目をむしっていた。

「ありがとうございます」
「いただきます」

 真冬と一緒にみかんを取って、ひっくり返した真ん中に親指でぷすっと穴を開ける。一粒口に入れると、小さな実に凝縮された甘さが口内に広がった。

「わっ。美味しいですね」

 左手で剥いていた真冬は、一足遅れて瞠目する。

「でしょう。初めてですか? 三ヶ日みかん」
「はい、……いや、違うかな。県内に住んでいるので、きっとどこかで食べていたような気もします」
「あー、分かります。僕も嫁が好きなので、イチゴはよく買うんですけど、品種とか気にしたことないなぁ。これは美味い!と思って、そのときは銘柄も覚えておこうと思うんだけど、次買うときには忘れてる。実は県内で作られてたりするのにね」
「身近でも、知らないことは沢山ありますよね」
「そうそう。だからと言って、郷土愛が無いわけじゃあ無いんだけど」
「ですね。分かります」

 息子さんと真冬の会話を聞きながら、小さな実を口へ運ぶ。同じように頬張る真冬が、頬張る度に「美味しい」と頬を緩める仕草が好きだと思った。

「ねえ、なんで“てぶくろ”してるの?」

 ココアの底から、氷がカランと浮き出てきたかのような。そんな静かな衝撃を走らせたのは、父親の膝の上でじっとしていた透真くんだ。
 彼は、みかんを持った真冬の右手に、指を突き立てる。温かさに馴染んでいたはずの空気が、一瞬で締められた。

「食べるときは、しちゃいけないんだよ」

 純粋で、正しい少年の一言に、私がドキリとした。それなのに、女将さんも息子さんも、真冬本人も、決して表情を変えない。

「ごめんね。そうだよね」

 真冬は言いながら、手袋をゆっくり外す。その仕草は病院で彼に放った台詞を思い出させて、やっぱり私が一番落ち着かなかった。

「わ……」

 露になった義手を見つめ、透真くんは何度も瞬きを繰り返す。驚きと、どこか興奮も入り交じっているような気がしたのは、間違いではなかったみたいだ。

「すっげぇ……!」
「え?」
「人造人間?!ねえ、お兄ちゃん人造人間なの?!」

 おいっ、と息子さんは透真くんの肩を押さえる。それでも、丸い瞳にシャッターを下ろすようにして何度も目蓋を動かす少年には、人見知りの影もなくなっていた。
 さすがに真冬も想定外の反応だったようで、同じように瞬きをしている。

「人造人間……?では、ないんだけど、」

 いかにも彼らしい素直な答えに、私は思わず笑みを溢す。ソファに座る女将さんも、同じように笑っていた。

「かっけぇ、かっけぇ~!!」
「こら。カッコいい、だろ」
「お父さん、ねえ、これ触っていい?」
「そんなのダメに——」
「あ、いいですよ。全然」

 真冬が答えて、息子さんは「ごめんね」と眉を下げる。透真くんはその様子を目にも留めず、膝から脱出して真冬に体を寄せた。
 息子さんは気が気ではなさそうだけど、二人の様子を見て、肩の力が抜ける。

「どうやって動かすの?!ぼくにも付けられる?!」
「頭で命令して、普通の手みたいに動かすんだよ。けど、透真くんには装着できないかな。一応、これは僕の型に合わせてくれてるから——、」
「そうちゃく……!かっけぇ!」

 私には何が『かっけぇ』のポイントなのかさっぱり分からないけれど、その感覚を味わうのは嫌いじゃない。
 ロボットアニメを観ながら、歩睦が合体のシーンで目を輝かせていたことを思い出す。英語はまだ習ったことがないのに、横文字のメカや技の名前をスラスラ唱える歩睦が、とても可笑しかった。

「ふふっ」

 と、思わず笑みが漏れる。真冬の視線が刺さっていることにも、同時に気がついた。

「ん?」
「いやっ、なんでも」

 首を傾げると、真冬は不自然に目を逸らす。その横顔がほんのり染まって見えるのは、気のせいだろうか。

「あの、小島さん」

 すると、何かを思い立ったように彼の顔が持ち上がる。返事は女将さんと息子さんの二人分響いて、そういえば二人とも小島だな、と今さら思った。

「良かったら、透真くん、連れて行きましょうか」
「え?」
「遊園地に……僕たちが」

 顔を見合わせた小島親子は、目を丸くしている。その間、真冬は決意の灯った瞳で私を見据えていた。