*

 浜名湖を囲うように並んだ旅館から、薄い湯気が夜空に向かって伸びている。
 湖を左に構えたこの舗道の行き止まりには、舘山寺に向かう参道が聳えているらしいけど、いまは辛うじて鳥居がうっすらと見えるだけだ。
 夕飯時だからか歩く人の影は少なく、こじんまりとした温泉街に並んだ食事処からは、食欲をそそる香りが漂った。

「ここにする」

 温泉街の途中で立ち止まり、臨未はとある民宿を指す。
 瓦屋根の下に『民宿 こじま』と柔らかい書体で書かれていて、おそらく二階か、三階建てくらいの小さな建物だった。

「普通の旅館だと、当日予約は値が張るから」

 心の声を読まれたのかと思い、瞠目する。僕はまだ繋がれたままの左手に、視線を落とした。

「あの、部屋は、」
「別々」
「だよね」

 被さるような即答に、声が裏返る。

「とりあえず、空きがあるか訊いてみるから。ちょっとここで待ってて」
「いや、僕も行くよ」
「……じゃあ、何か可笑しなことがあっても、絶対口は出さないで」

 可笑しなこと? 首を捻りながら、先導する彼女に頷く。
 そして、同じように白い暖簾を押して潜ると、広々とした玄関と、そのすぐ先にある木造の階段が僕たちを出迎えた。
 靴を履いたまま少し見渡したけど、ホテルや旅館にあるようなカウンターは無さそうで、代わりに玄関の脇には呼び鈴が設置されていた。

「はーい、はいはい、お待たせしております~」

 臨未が呼び鈴を押すと、十数秒後には階段の向こうから人がやってくる。勝手に着物の女性が出てくるものだと想像していた僕は、デニムとパーカーに身を包んだその姿に、かなり驚いていた。

「どうされましたか?」

 頬のふっくらとした小柄な女性は、少しダボついたパーカーの袖を捲り上げながら、目尻に皺を刻む。歳は自分の両親と同じくらいに見えるけど、柔らかい印象の、綺麗な人だった。
 パーカーに付けられた小さなネームプレートに『小島』と書かれているので、この人が女将さんなのだろう。

「今日から、泊まらせていただきたくて。二部屋分の空きって、どうでしょうか」

 臨未は、襟元のチャックだけを少し開けて言う。

「あら。今日から?そうねぇ……何泊のご予定でしょうか?」
「じゃあ……三泊で、お願いします」
「分かりました。確認するので、ちょっと待っててくださる?良かったらこっちで」

 泊数を今さら知って、詰め込んだ衣服と下着の量を思い返す。余裕で足りるな、と案内された半個室の椅子に腰を下ろすと、足がじんわりした。
 そこまで長い道のりを歩いたわけではないけれど、今日一日の間に色々あったせいで、自覚しているよりも疲れているのかもしれない。

「お待たせしてます、ごめんねぇ~」

 整った横顔を垣間見ていると、大きなファイルを持って小島さんがやってくる。いそいそと木造のフローリングを滑る姿は、スケートを始めたばかりのようだ。

「いえ。こちらこそすみません、突然」
「いいのよ全然、当日いらっしゃる方も結構多いのよ」

 小島さんはファイリングされた紙を捲り、話を続けた。

「外は寒かったでしょう。この辺は気温自体はそこまでなんだけど、風が強いもんで」
「確かに、風は強かったです」
「でしょう?冬は冬で私は好きなんだけど、やっぱり夏に比べると閑散期なんですよー。だから、若い子達が来てくれるのは嬉しくてねぇ」

 小島さんにとって、民宿の女将は天職なのだろう。数多くの旅行客と心を交わしてきたことが、言葉の端々から伝わった。

「私も、冬好きですよ」

 臨未は軽く微笑む。自然な、優しい笑みだった。

「お待たせしてごめんなさい。二部屋とも和室で平気かしら?」

 頷くと、小島さんは奥の間から二つの鍵を持ってきた。よく旅館で見掛けるような、部屋番号が刻まれた大きなホルダーが伴っている。

「あとねぇ、入り口も部屋もそれぞれ別なんだけど、完全な個室ってわけじゃなくて。ベランダだけ繋がってるのよ~。それも、お二人は平気?」

 一瞬、小島さんと視線が合ってドキリとする。この場合、答えるのは彼女が適任だろうと口を結んだ。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 臨未は頷き、手渡された宿泊者情報を記入する紙に、スラスラと名前を書く。筆圧の弱い、綺麗な字で書かれる名前に、僕は一瞬目を見張った。

『朝倉 臨未』

 思わず声が出そうになる。しかし、彼女はこちらをチラリとも見ないで記入を続けた。

「お兄さんの方も、お願いしていいかしら」
「あっ、はい」

 手袋をしたまま、もう一枚差し出された紙にペンを滑らせる。

 ——何か可笑しなことがあっても、絶対口は出さないで。

 暖簾を潜る前に言われた言葉を思い出し、納得した。確かに、家族ということにしておいた方が、未成年でも変だという目を向けられにくい。
 書き終えた紙を渡すと、小島さんは申し訳なさそうな顔で唇を割った。

「ありがとう。それと、もし差し支えなければ、緊急連絡先を教えてもらえるかしら」

 心臓が跳ねる。二人とも空欄にしていた場所だ。

「うちに泊まってもらうのは、もちろん全く問題ないの。でも、お二人若いから……念のため、ね」
「そうですよね。分かりました」

 そういえば、彼女の家の人はこのこと(・・・・)を知っているのだろうか。僕は一人ソワソワしながら、父親の連絡先を書く手元を見据える。
 しかし何事もなく書き終えた彼女は、二つの鍵をまとめて受けとった。

「ご飯も朝と夜はついているから、良かったら後で食堂に来てくださいね。あ、一応八時までだから、気を付けて」
「ありがとうございます」
「では、ごゆっくり」

 小島さんは着物を纏っているかのような所作で、丁寧にお辞儀をする。僕たちはそれを真似るように頭を下げ、二階の客室へ向かった。