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 しばらくバスに揺られると、車窓の向こうはすっかり日が落ちていた。オレンジ色の暖かい光りが、薄暗い夕刻に散らばっている。その光を微かに反射しているのは、浜名湖だろうか。
 眺めていると、終点を告げるバスのアナウンスが流れた。

「臨未ちゃん。もう着くって」
「ん……」

 肩に軽く触れただけで、彼女は薄い目蓋を持ち上げる。すやすやと眠っていたはずなのに、見かけに拠らず寝起きが良い。

「長旅だったね」

 下車する直前に気がついたのは、停留所の名前は『舘山寺』ではなく『舘山寺温泉』だったということだ。
 バスのステップを降りて伸びをすると、臨未はリュックを背負って小さく頷く。

「一旦、コンビニ行かせて」

 続けてそう言うので、スマホで近場のコンビニを検索する。県道を沿っていけばありそうだと伝えると、臨未は「ありがとう」と歩き始めた。

 ——あんたに、ドナーになって欲しくなかった。

 心もとない街灯の下、スタスタと前を行く小さな背中を見据えて、思い出す。いったい君は、どこから僕を連れ出す算段を立てていたのだろう。
 歩く数十メートルの間に『うなぎ』と書かれた看板に何度も出会いながら、この地を選んだ理由も気になってくる。鰻が好きかどうか、後で訊いてみようか。いいや、それよりも、もし恋人が居るのなら、この状況は完全にアウトではないだろうか。

「あのさ、臨未ちゃん。カガリくん、って……彼氏?」

 コンビニから出てきた臨未は、唐突な質問に眉を寄せた。
 彼女の指には、天然水と小さな箱が挟まれている。目を凝らすと、薬局でもよく見かける頭痛薬のパッケージだと分かった。

「体調悪いの?平気?」
「うん。平気。いつものことだし」
「いつも?」

 首を捻ると、彼女は錠剤を飲み込んだ後で息を吐く。

「生理だから」
「えっ、」
「言ったでしょ、いつものことって」

 みるみる顔が熱くなり、配慮の欠けた言動に顔を覆った。

「ごめん……気が遣えなくて」
「そんな風にされたら、こっちが気まずいんですけど」
「……ごめんなさい」
「いいから、もうちょっと歩くよ。それに、風に当たってれば少しはマシになるでしょ」
「マシ、って?」
「顔、めちゃくちゃ赤いから」

 ふっ、と舞った白い息に、熱をぶり返す。彼女の方が平然としているせいで、余計に情けない。

「で。香吏くんが何?」

 行き先も、どのくらい歩くのかも告げられないまま、彼女の後をついて行く。せっかく夜風が冷たいのに、それを訊かれたら冷ませない。

「電話してるときに、聴こえてたから。カガリくんって呼んでたのと、男の人の声。……彼氏だった?」

 出来るだけ平然を保って、僕は訊いた。

「彼氏じゃないよ」

 答えを聴いて息を吸い込むと、磯の香りが薄く漂う。海と違うのは、そこに樹木の香りが混じっているところだ。

「そっか。……他に、彼氏は」
「いないよ」
「なら、良かった」

 自然と溢れた言葉は、どちらだったのだろう。臨未の恋人に罪悪感を抱く必要がなくなったからなのか、臨未に恋人が居ないこと自体に安堵したのか。

「真冬は?」
「え?」
「真冬は、恋人とかいない?それと、家の人は本当に大丈夫?」

 もう分かってると思うけど、今日は帰れないよ——。
 ぼんやりと浮かぶ旅館の光に、彼女の横顔が照らされる。辺りはすっかり暗いけど、温泉街の静かな賑わいが道を照らしてくれていた。

「恋人はいないし、家も大丈夫。……お金は、足りないかもしれないけど」

 まさかと思っていたけれど、本当に泊まるのか。
 体を裂くほどの強さで、心臓が大槌を叩く。異性と泊まりに出掛けたことなど、もちろん無かった。

「お金は心配しないで。ちゃんと準備はあるから」
「それは、さすがに……」
「あんたを連れてきたのは私の勝手だし、私のためだから」

 私を殺してもらうためだから。と、脳内で変換される。
 そのとき、後ろから鋭い光が飛び込んできた。振り返ると、速度を上げた車がこちらに向かっているのが見える。下がって、一列にならなければと思っているのに——体の右側が、固まったように動かない。

「——真冬」

 一瞬だった。彼女の声がして、優しく右側を押されて。今は遠くで、テールランプが光っている。

「真冬。平気?」

 振り返った彼女の顔が、覗き込む。そういうことか、と状況を悟って、すぐに額を覆った。動けない体を、彼女が庇ってくれたのだ。

「ごめん、臨未ちゃん。……ありがとう」
「平気なの?」

 重ねて訊く彼女の瞳は強かで、揺らぎは少しも無い。
 彼女に守られてしまったのだと再び実感すると、寒さなどそっちのけで熱を帯びた。右側は、まだ震えている。

「……うん」

 頷くと、彼女はその情けない右手を取り、両手で優しく包み込んだ。

「ごめん。また触って」
「いや……、それは、」
「こうしてれば、少し落ち着くかと思って」

 薄暗いのも、手袋越しだということも、チタンの手だということも、勿体なく思える。聴こえないように喉を鳴らしたつもりが、ゴクリと大きく響いた。

「臨未ちゃん、あの……逆が、いいかも」
「え?」

 持ち上げられた瞳が、僕を呑む。

「こっち、実は感触なくて……左の方がいいな、と」

 じっと見つめられて、同じように見つめ返す。逸らせば、小さな下心でさえ見つかってしまうような気がしたからだ。
 けれど彼女は、何も疑うことなく左手を握る。細い指がぎゅっと締め付けて、同じように心臓が縛られる。彼女はそのまま、優しく引いた。

「じゃあ、このまま行こ」

 握られた左手を見つめて、次に夜空を仰ぐ。心の奥で、カタン、と何かが傾いたような音がした。