ー*ー*ー*ー*ー

 放課後、教室、空白の未来図。
進まないペン先を弄びながら、窓の外を眺める自分自身が情けない。

「千歳!」

「絵名……?どうしたの、今はもう部活の時間じゃ……」

「今日は部活オフなの!千歳こそぼーっとして何かあった?」

「いや……別に難しいことじゃないんだけどね、進路希望調査用紙が書き終わらなくて」

「明日の朝までに提出だっけ、千歳まだ出してなかったんだ」

「そうなんだよね、今回から希望進路に『未定』って書けなくなっちゃったから何を書こうか悩んでてさ」

 高校二年生、秋。
約一年後に控える卒業の先の進路について、確かな意志を持たなければいけない。
そんな当たり前のことに、私は今更になって頭を抱えている。

「絵名は?」

「え?」

「絵名は卒業したら、何をするの」

「私は製菓の専門学校に進学する予定、お姉ちゃんが去年まで通ってたから手続きとかも手惑わなくて済むし」

「絵名が製菓か……絵の道に進むのかなって思ってた」

「高校に入学してすぐの頃はそう思ってたんだけど、絵で生きていくなんて難しすぎるでしょ?現実的じゃないし。それなら資格を取って生活安定させたほうがいいかなって思って」

「現実的か……絵名は専門学校を卒業したら何になりたいとか決まってる?」

「まだ入学すらできてないからわからないけど……小さい頃から『お母さん』になりたくて。だから結婚して、家庭を築きたいって思ってる」

「絵名ならきっと素敵な人に出逢えるね」

「千歳が言うなら出逢えるのかもね、いまだに彼氏ができたことはないけどさ」

 『現実的』
私達はいつから、夢を語る度にそんな言葉を纏い、囚われるようになったのだろう。
すくなくとも架空の魔法少女やヒーローになることを思い描いていた頃、それは頭の片隅にすらなかった言葉。

「千歳は何で迷ってるの?」

「……え?」

「候補がいくつかあるなら聞いてみたいなって思って」

「実は……まだよくわかってないんだよね、二年生にもなって恥ずかしいけど」

「千歳は何にでもなれると思うけどな……成績もいいし、内申点だって問題ないでしょ?いい大学にも行けるだろうし、専門学校にだって問題なく進めると思うよ」

「そうなのかな……」

「自信持ちなよ!入学してからずっと学年トップなんていないよ?」

「大学とか専門学校とか、私あんまり詳しくないんだよね。ちゃんと調べておけばよかったな」

「確かに千歳って頭はいいけど進路とかに無頓着だったよね、面談もすぐに終わっちゃうし」

「ちゃんと向き合ったことなかったんだよね。ちょっとめんどくさがりすぎちゃったのかも、今更遅いかもしれないけど反省してる」

 そう茶化して誤魔化す、本当はずっと向き合ってきたはずなのに。
大学へ進学する人、専門学校へ進む人、就職の道を選ぶ人、家業を継ぐ人。私の周りは、それぞれの選択肢へ身を置いた人で溢れている。きっと時間が許されている間に、私もその選択肢に当てはまっておくべきだった。

「千歳ならどんな進路を選んだとしても問題ないと思うよ、私は用事があるから一人にしちゃって悪いけど帰るね」

「考えるの付き合ってくれてありがとう、気をつけてね」

 ひとり取り残された教室は、奇妙なほどに静かだった。。
どこを探しても答えのない問いに息が詰まる。この制服を着ている間は、ずっと何かに守られていると思っていた。
示された課題をこなし、提供された授業を受ける、適度に身体を動かすだけで自動的に正解を辿れる時間は、あと少しで終わる。現実的で、安定的な答えを自分自身で探さなければいけない。考えただけで憂鬱が襲う。

「千歳」

「……響、まだ帰ってなかったんだ」

「ソレ、回収しないと帰れないんだよ。明日の朝に提出だから今のうちに回収しておきたくて」

「いつからか真面目になったよね、響が学級委員なんて絶対似合わないって思ってたのに」

「一言余計なんだよ……仕方ないだろ、男子の学級委員がいなかったから押し付けられただけだよ」

「響はもう出した?」

「何が?」

「これ、進路希望調査」

「なんとなくのことしか書いてないけど、一応な」

「そっか……響も進んでるんだね、ちょっと甘く見てたかも」

「進んでるなんてことはない、必要最低限のことだけ」

「それなら私はその必要最低限すらできてないってことなのかな……」

 物心ついた頃から隣にいる所謂『幼馴染』という関係の私達も、あと少しで別々の道を歩むことになる。
気づけば隣にいた存在も、みえなくなるほど遠くへいってしまうのかもしれない。

「千歳は夢とかないの?」

「夢……あるよ、ずっと諦めきれない夢」

「じゃあ書けばいいじゃん、そんなに難しく考える必要はないと思うけど」

「……そんな気楽には書けないよ」

「悩んだところで答えなんてわかんないだろ、勉強じゃないんだし」

「それはそうだけど……」

 響の言う通り、悩んだところで正解はわからない。
どれだけこの紙を見つめても、空白が埋まることはない。

「千歳」

「何?」

「今から暇?」

「暇……だけど、どうして?」

「じゃあ決まり、はやく荷物まとめて」

「いや、まだ書き終わってない……明日の朝に提出だから……」

「回収する俺が大丈夫って言ってるんだから余計なことは考えなくていい、俺が待つこと苦手なことぐらい知ってるでしょ?はやく荷物まとめて」

 ぶっきらぼうな態度が優しさだと気づいた。

「あっ、千歳に確認するの忘れてた」

「確認?」

「千歳、悪く思わないでほしい。だから正直に答えて」

「……わかった、何?」

「彼氏とか恋人いる……?いたとしたら俺と二人で放課後歩いてるのはまずいだろ」

「なんだそんなことか、いるわけないよ。心配しなくて大丈夫」

「確かに千歳に彼氏の心配なんて一億年はやかったかもな」

「失礼だな……それで今からどこ行くの?」

「カラオケ、時間も気にしなくていいし割り勘ならお金も負担少ないだろ」

「カラオケか……」

「何か不満でも?」

「違うよ」

「じゃあ何、その反応」

「言いたくないことだってあるの」

「よくわかんないけど、わかったことにしておくよ」

 入学して二年、私の高校生活は絶望から始まった。
第一志望校はおろか、第三志望校まで全てと縁がなく、視野にすら入れていなかった自宅からバスで数十分の高校への入学が決まった。
その高校へ入学して数週間、登校拒否を繰り返す私を見兼ねて両親が転校を提案した。


『千歳の人生なんだから、止まっている時間なんてもったいない』


 当時、父親から言われた言葉が今でも棘のように刺さって抜けない。
転校先を探すための話し合い、担任教師との面談、転校先への挨拶、書類へ印を押す瞬間。私の内側を蝕む違和感と重苦しさの正体は、今思うと後悔だったのかもしれない。

「千歳」

「ん?」

「カラオケの機種、希望あったりする?」

「私あんまり詳しくないから響に任せたい」

 転校先の高校を選ぶ基準は『知っている人がいないこと』だった。
遠くへ、姿を隠すように、逃げるように次の場所を探した。その過程に希望はなく『高校卒業』という将来のための肩書を、手に入れるための作業のように感じた。

「響」

「ん?」

「なんで今日、誘ってくれたの?」

「部屋に入ったと思ったら一言目がそれかよ。大丈夫、不純な理由じゃないことは確かだから」

「いや怪しんでるわけじゃなくてさ」

「昨日誕生日だっただろ?ろくに会話もできてないけど何も言わないのは違和感があってさ、幼馴染の情だよ」

「そういうこと考えてくれるんだね、あんまり響から誘わないから不思議に思ってさ」

「別に千歳からも誘わなくない?特に高校生になってから」

 転校当日の朝、所属クラスを確認するため職員室を覗いた。
そこには奇妙なほどに見覚えのある後ろ姿があった。

『千歳……?雨宮 千歳?』

 その少し抜けたような声に、目の前の青年が響であることを確信した。
たった数ヶ月の間に響は大人になっていた。幼さを感じさせないような雰囲気に、近づき難さを感じた。

「最初、千歳歌ってよ」

「え、私?」

「俺の歌なんて聞かせたら機械壊れちゃうだろ」

「そんなに酷いわけじゃないじゃん」

「いいの、千歳の歌を聞きたいの」

 手渡されたマイクとデンモクを受け取り、前の利用客の履歴から適当な曲を入れる。
正直話す機会の少なくなった異性と二人きりのカラオケは気まずい。友達のつくり方も、無難な会話の続け方も学んできたつもりだけれど、曖昧な距離感の幼馴染との密室での過ごし方は考えたことすらなかった。

「相変わらず上手いな」

「難しい曲は歌えないからさ、響も何か歌ってよ」

「カラオケとかあんまり来ないんだよね……こういう時って何がいいのかな」

「この曲とかいいんじゃない?私しかいないんだし難しく考えなくていいよ」

 身体を揺らし、愉しんでいるフリをする。
上下して進む音程バーを追いながら、その単純さに羨ましさが募る。人生の選択も全て、若干の上下だけで進んでしまえばいいのにと。

「響」

「ん?」

「響はさ、卒業したら何するの?」

「当ててみてよ。幼馴染の進路くらい、勘の鋭い千歳ならわかると思う」

「就職……?でも専門学校のイメージもある、響が大学に通ってる想像はできないな」

「千歳もそう言うとは思わなかった、ちょっと期待しすぎたかも」

「え……?」

「『期待しすぎた』は言葉が悪かったかも、でも千歳なら斜め上の答えをくれるかなって思っちゃってた」

「大学に進学するってこと……?」

「そういうこと、似合わないって思われるかもしれないけどね」

「似合わないなんて言わないけどさ、どうして大学進学を選んだの?」

「教師になりたいんだよね。ほら、俺まともに学校行ってなかった時あったでしょ」

「中学二年くらいの時だっけ」
 
「そう、その時の担任のことが忘れられなくて」

「それで教師になりたいの?」

「結局その先生には何も返せないまま卒業しちゃったから、俺が立派な教師になって俺みたいな生徒の先生になる。それが唯一できる恩返しだと思ってさ」

「そんな夢があったんだ……」

 私の知らない響が、そこにはいた。
言葉の衝撃と、置いていかれてしまったような焦燥感に襲われる。

「千歳は?」

「私?」

「進路希望調査のこともだけど、何になりたいの?」

「私は……」

 歌手になりたい。なんて言えない、言えるはずがない。
高校生にもなって現実味のないような夢を抱いていいはずがない。

「ないならないでいいけどさ、干渉はしないよ」

「違う……」

「え?」

「私にもあるよ、夢」

「俺が聴いてもいいものなら、聴かせてほしい」

「歌手に……なりたくて」

「変わってないな」

「え……?」

「小学校の卒業文集。千歳、歌手って書いたこと忘れたの?」

「響、覚えてたの?」

「まぁ俺が進学できたきっかけだし、忘れたくても頭から離れない」

「きっかけ……高校進学の?」

「それもだけど大学進学を目指せたのも、それがきっかけ」

「……そうなの?」

「千歳も思ったでしょ、俺みたいなのは教師なんてなれるわけないって」

「そんなこと……」

「嘘とかお世辞はいいよ、率直な言葉が聴きたいだけだから」

「なれるわけないなんて思ったことはないけど、予想外だった」

「だよね、ずっと不真面目な俺が教師なんてイメージにないって俺自身も思ってる」

「……」

「だから誰も知らない高校に、誰にも言わないまま入学したんだよ」

「そうだったの……?」

「偏差値だって足りなかったし、塾に通うお金も、奨学金を借りる勇気もなかったから自力で頑張った」

「響は叶えたんだね」

「絶対無理って思いながら、死ぬ気でやったからな」

 ありきたりな相槌しか、返す言葉がみつからない。
どこかで諦めをつけて夢を遮断する私とは正反対の響の姿から、自然と目を逸らしてしまう。
空気を読むことを知らずに流れるカラオケの広告が、酷い耳鳴りと重なる。私はいつから、こんなにも臆病になってしまったのだろう。

「千歳は?」

「……」

「千歳は、諦めちゃうの?」

「諦めたくなんて……」

「俺が偉そうに言えることじゃないけどさ、ここで千歳が千歳に嘘ついたら、ずっと本当なんて叶わない気がしてさ」

「私だって、諦めたくないよ……」

 ずっとずっと、憧れで、拠り所だった。
仕事で帰りの遅い両親を待つ夜、私を独りにしなかったのは歌だった。
アコースティックギターを構え、微笑みながら音を味方に心を歌う存在に心を奪われた。
無意識に身体でリズムを刻みながら、覚え始めた歌詞を口ずさむことで、幼い私は夜の寂しさを埋めていた。

「でも……」

「でも……?」

「現実的じゃないでしょ……音楽で生きていくなんて、そんなこと私だってわかってる」

「現実的か……」

「いつまでも夢なんてみるものじゃないんだよ、きっと」

「俺は千歳の歌、好きだよ」

「そんなカラオケ程度の中途半端なものじゃ通用しないよ……そう言ってくれるのは響が優しいだけだよ」

「それなら本気になればいいんじゃない?中途半端、辞めればいいじゃん」

「響が言うように本気になったところで、すぐ大人になって現実をみないといけなくなるよ」

「いいじゃん、現実なんてみなくても。どうせ死ぬまで長いんだから、少しくらい好き勝手にやったって時間は有り余ってる」

「そんな大人がいていいの……?いいとしても、私がなっていいはずがない」

「千歳」

「何……?」

「『大人、大人』って言うけどさ、今は何もできないの?」

「今……?」

「インターネットに歌った動画を投稿するとか、指導してくれそうな人を探して連絡とってみるとかさ、できることあると思う」

「……」

 歌が上手い人は溢れたようにいる、経済的な余裕のある人、繋がりの広い人、生まれ持った才能を磨いている人。
そんな中に飛び込んでいく勇気を、今の私は持っていない。

「私は……」

 全ての激励を否定してしまう自分自身が情けない、ただその否定を打ち消せずに認めてしまうことが余計に情けない。

「私は……何も持ってないから」

「何も持ってないって……?」

「才能とか、技術とか、賢くなれる頭もないし……夢を叶える材料、ひとつも持ってないから」

「そんな理由で千歳は千歳の夢を諦められるの?」

「え……?」

「そんな無いものを探して並べるような理由で、千歳は千歳の夢を捨てられる?」

「それは……」

「誰よりも好きなんじゃないの、歌」

「でも好きだけじゃ……」

「そうだよ、好きだけで夢が叶ったら誰も苦労なんてしない。『好きなら叶うよ』なんてそんな綺麗事を言うつもりも俺はない」

「それなら……私はどうすればいいの?」

「やってみればいい、死ぬまで、息が止まるまで、『もう終わりにしよう』って心から次の夢にいけるまで」

「やってみる……」

「好きだけで夢が叶うなんて言わないけど、そもそも好きって気持ちがなかったら夢も何もないだろ」

「……」

「それに賢さなんていらない、充分すぎる」

「どういう意味……?」

「そんな将来のこと『現実的』に沿って考えられるなら少しは馬鹿になっていい、叶うとか叶わないとか囚われなくていい」

「怖いんだよね、ちゃんと向き合うことが」

「千歳は俺の夢を聴いて、叶わないって思った?」

「叶うと思う、本気で思って頑張ってる響の夢は叶うと思う」

「それと一緒だよ」

「一緒……?」

「夢を抱けているだけで、千歳は既に叶う可能性の中にいるんだよ」

「響……」

「どうしたの?」

「ありがとう……私、夢を肯定されたこと生まれて初めて……」

 違う、ずっと、私が私自身を否定していた。
叶うはずない、無謀だ、現実味がないと叶わない理由を押し付けていたのは、他の誰でもない私自身だった。

「お礼はいい。だからその代わり、その泣くくらい捨てられない夢、大事に抱えて進めよ」

「え……」

 無意識のうちに頬を伝っていた塩辛い滴。
その冷たさが顎へ伝い、手の甲へ落ちる。目の奥が痛くて、少し頭が重い。
ただ感じたこともない解放感と、想像することすらできなかった景色が脳裏をよぎった。

「みえた……」

「え?」

「響、私……今みえたよ」

「何が?」

「私が歌ってる姿……ちゃんと、鮮明に。すごく……すごく楽しそうだった」

「それはよかった、俺もみれてよかったよ」

「え……?」

「初めて人が夢を本気で追う姿、みれてよかった」

「響」

「何?」

「響はいい先生になりそうだね」

「俺の教え子に千歳のファンがいるかもな」

 不確かな未来を望むことは、案外希望に満ちたことなのかもしれない。
夢をみることは、形がないからこそ美しいものなのかもしれない。
『現実的』その言葉に囚われていた私自身からの卒業、恩師は本日限定の響先生。

「千歳、今ならこれ書けそう?」

「ちょっと躊躇うけど……書ける気がする」

「強要はしない、今の千歳が書ける最大限の勇気を書いてほしい」

 今の私に書ける、最大限の勇気。
臆病で、他者からの架空の正解を辿ることに必死だった私が出逢った勇気。

「響、書けたよ」

「みてもいい?」

「みてほしい」


『音楽関連の職業に就きたい』


「千歳、ちゃんと進めたな」

「響のおかげかな」

「違うよ」

「え?」

「ちゃんと千歳が千歳自身に向き合ったから、だから本当の夢に気づけたんだよ」

「響……」

「『ありがとう』はもういい、だから絶対後悔するような諦め方はするなよ」

「叶うって思って、大切に抱えたまま進むからちゃんとみててね」

「何かあったら相談しにくればいい、俺は千歳が何をしようと応援してる。もし夢が叶ったら最前列で応援するから」

「ありがとう、響先生。未来への授業を本当にありがとう」

「まさか千歳が人生初の教え子になるとは思ってもいなかったよ、もっと素敵な先生になるように頑張るから」

 進路希望調査用紙を響へ手渡す。
後ろめたさはない、不安も恥じらいもない、ただ真っ直ぐに夢を追いたい。
そしていつか、私自身を認められるような私になりたい。