「なにか案がある人は手挙げて」
凛とした声が耳に届く。声の主は学級委員の早野さんだった。
一限はホームルーム活動で、十一月のはじめに開催される文化祭の出し物について話し合うらしい。一般の高校と比べるとかなり遅めの文化祭なのだけれど、大規模であるため夏休み明けから準備がはじまるのだ。
文化祭は九月や十月あたりに開催されるのが一般的だ。そのために夏休みも出席して準備をすることを考えたら、比較的生徒に優しいほうだと思う。
去年の文化祭の記憶はある。誰とまわったかはよく覚えていないけれど、美味しいものを食べたり展示を見たり、それなりに楽しんだはずだ。
大切な人間関係をすべて忘れて、それ以外の日常的なことについては憶えているなんて。
本当に厄介だと思う。
自然とため息が出た。
担任には「無理しなくていいからな」と、新入生にかけるような言葉を言われた。
文化祭や体育祭という学生にとっての一大イベントで、わたしが浮いてしまうことが目に見えていたからだと思う。
「グループで話し合って、五分後にまた案ききます」
積極的な意見が出なかったから、学級委員の早野さんがそう全体に呼びかける。いつものことだ。
小中学生のときは目立つ人が発言をしてクラスを引っ張っていくけれど、高校生になると誰もがひとまかせで自分の案を発表したりしない。
たとえ案が自分の中にあろうとも、それを表に出そうとは思わない。目立ちたくないからだ。
大人は積極的に企画を提案したり、発言をしていたりする印象がある。小中学生など子供も同じだ。
大人と子供のはざまにいるわたしたちにとって、それは当然のことなのかもしれない。何者でもないから目立つことを恐れ、集団の輪から外れることに怯え、自分を隠すようになる。
それはわたしも同じだった。
早野さんの呼びかけで、クラスメイトたちはあっという間にグループをつくった。
たちまちわたしはひとりぼっちになってしまう。この瞬間が、わたしは心の底から嫌いだ。
「葉瀬さん……いっしょに」
沈黙したままのわたしに気を遣ってくれた女の子が、机を回転させてわたしに向き直った。
えっと、彼女は……たしか。
「あ、山井です。山井夕映」
頭の中で必死に名前を探していると、それに気づいたみたいに微笑んで告げられた。
「ご、ごめんなさい」
「いえいえ。私も入学してから名前覚えるの苦労したので。葉瀬さんはまだ一週間なんだから当然ですよ。それに私、目立つほうでもないですから」
入学してから一週間。
そう、捉えることもできるのか。
たしかに、そのほうが罪悪感もおぼえず前向きに捉えられる。
「ありがとうございます。えっと、山井……さん」
さっそく苗字を呼んでみる。名前を呼ぶ勇気はまだなかった。
小さくうなずいた山井さんは、少し頬を引きしめてわたしの方を向いた。
「えっと……文化祭のことについて記憶は残ってますか?」
どこまで踏み込んでいいか分からない。そんな思慮が彼女の言葉からは感じられた。
気を遣わせているのが申し訳ない。自然と肩が小さくなる。
「去年の文化祭のこととか、どんな感じだったかおぼえてます?」
「……内容は、おぼえているんですけど。誰と何をしたのかは、まったく」
山井さんの瞳が小さく揺れた。
言葉にしながら、気分が落ちていく。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。何度目かもわからないぼやきが、頭の中に浮かんではわたしの心を暗くした。どんどん沈んでいくわたしの横で何度かうなずいていた山井さんが、にこ、と笑みを浮かべてわたしに向き直る。
「じゃあ、文化祭の知識がゼロってことじゃないんですね」
ワイワイした雰囲気とか、いつもよりおしゃれで可愛らしい女子とか、気合の入っている男子とか。お店をまわって、色々なものを買って、告白イベントを遠巻きに見て。
ちゃんと、覚えている。
こくりと示してみせた。
「今年は食べ物の出店もできるみたいだよ」
グループ全体に向かって、山井さんが声をあげた。
うちの学校では、飲食物の販売は二年生が担当すると決まっている。
今年はわたしたちが出店する番らしい。
「やっぱ定番の焼きそばじゃない?」
「定番はたこ焼きだろ」
「スイーツがいいよ」
「いっそドリンクだけにするのもアリ」
文化祭の前の独特なお祭りムードは嫌いじゃない。勉強を強いられる学生が、唯一すべてから解き放たれる日。準備期間を経て、成立するカップルもたくさんいると聞いた。
いわゆる文化祭マジックというものだ。
「では挙手して案を発表してください」
早野さんの司会進行を耳に入れながら、ちらと柴谷に視線を移す。
柴谷は窓際の席だ。窓から差し込む陽光が彼の横顔を照らしている。
彼は頬杖をついて、ぼーっと空を眺めていた。今朝、ふたりきりのときに見せた表情とはまったく違う。どこまでも無表情で、話し合いの内容などはなから興味がないようだった。
自由な人だ。
飄々としていて、掴みどころがない。
ここからの角度だと、彼のまつ毛がいかに長いかがよくわかる。一本一本が丁寧に描かれた絵みたいだ、と思う。
美しすぎる造形が、そんな錯覚を起こさせる。
ふいにそのまつ毛が流れたかと思うと、突き刺すようにこちらを見た。切れ長の目から逃げるように視線を逸らす。
まずい。見てたのがバレた。
焦って逸らした視線の先、書記の沢村さんが『かき氷』『やきそば』と黒板に案を書いていく。
アタフタしたまま、必死に文字を目でなぞったけれど、頭に入ってくるはずもない。
目を閉じて、柴谷の瞳を思い浮かべる。
硝子のように透き通った瞳。
どんなに透き通ったビー玉でも、美しく輝く宝石でも、彼の瞳を再現することはできないだろう。
その目に捉えられたが最後、息の仕方を忘れてしまう。目が離せなくなる。
目だけで人を殺せる、というたとえは、彼のための言葉なのかもしれない。
「ガッツリの飲食は絶対どこかが出すと思うのでー、うちらはスイーツにしませんかぁ」
そんな物騒なことを考えていると、ふと、教室にねっとりした声が響いた。声のした方を見ると、高い位置でポニーテールをした女の子が黒板を見ながらそう言っていた。
彼女の名前はもう覚えた。
赤坂燈。覚えた理由はシンプル、とにかく目立つからだ。
入学してからいちばん先に名前を覚えられる、またはクラスを超えて広く認知されるタイプ。彼女の日常の立ち位置を見て、すぐに理解した。
言い方は悪いかもしれないけれど、いわゆる、一軍ってやつだ。
現にわたしもすぐに覚えたのだから、山井さんの「入学して一週間」というたとえは言い得て妙だ。
目立つほうが認知される。何事も、良くも悪くも。
「賛成でーす」
「スイーツのほうが可愛いと思います」
「映えるし〜」
赤坂さんのあとに続く女子たちの名前は、まだ覚えていない。俗にいう、取り巻き。まさか現実に存在しているとは思っていなかった。
本や漫画ではよく見るけれど、現実でもここまで圧倒的な権力差があるなんて知らなかったから。
クラスで絶対的権力者の赤坂さんの意見ということでかなり重宝されているからか、ほとんどそれで決まりだという雰囲気がわたしたちを包み込んでいた。
それまでに出ていたたこ焼き、焼きそば、などの意見はほとんど出なかったもの同然だった。それらはすべて、赤坂さんの意見によって抹消される。
「ワッフルがいいと思いまーす」
間延びした声で赤坂さんが言う。同意見だと言うように取り巻きたちもうなずき、他の人たちはどうでもいいように各々が雑談を楽しんでいた。結局のところ、誰も文化祭にこだわりなどないのだ。適当に決まった意見を適当に受け入れて、適当に準備して適当に楽しむだけ。
「賛成の人、挙手をお願いします」
早野さんが呼びかけて、ぽつぽつと手が挙がる。みんな、はやく決まってラッキーという顔をしていた。この後は、自習という名の自由時間になるらしい。
「はい、じゃあ決まりで。詳しいことはまた今度決めます。赤坂さん、詳細も考えておいてください」
「はーい。決めときます」
適当な返事。すでに友達との雑談に入った赤坂さんに視線を移す。
こぼれ落ちそうな大きな目。スラリとした体型はモデル顔負け。トレードマークのポニーテールの高さが、彼女の自信を表しているようだった。
たぶん、いや、絶対に彼女には歯向かってはいけない。ピンと直感的に理解した。
話し合いが終わり、ガヤガヤ騒音に包まれる教室。
「決まっちゃったね……」
少し残念そうに眉を寄せた山井さん。わたしでもわかるほど、あきらかに肩を落としていた。
なにかあったのだろうか。不思議に思って問いかけてみる。
「あの。なにか、問題でも」
「ううん! 何でもない!」
違和感をおぼえた。
こういうの、空元気、って言うのだろうか。笑顔のはずなのに、どことなく表情が固いような気がする。
けれど容易に踏み込んではいけない気がして、口を閉じた。
こんなとき、「どうしたの」と声をかけられたらよかったのだけれど。わたしにはそんな勇気がない。
疎ましく思われるのがこわくて、なかなか踏み出せない。そのせいでコミュニティがひろがっていかないのは、わたしがいちばん分かっているのに。
こんな自分、大嫌いだ。
グループ活動が終わると、みんな席を戻して前を向く。
ついさっきまでにこやかに話し合っていたのに、前を向いた途端、急に冷たい表情。
グループの時は距離の近さを感じていたのに、島が解散するとまるでまったく関わりがなかったみたいに、壁を感じる。
それが少しだけこわかった。
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昼食は渡り廊下のすみで、一人でとることにしている。頰を切る風が冷たい。
九月が差し迫っているということは、もうすぐ秋が来るのだろうか。
分からないことだらけの夏が終わって、「わたし」にとって初めての秋。
目を閉じて秋の景色を連想してみる。
真っ先に浮かんできたのは、紅葉が続く道だった。
燃えるような鮮やかな赤が広がる。ひらひらと風にあおられて舞う紅葉。
たかが想像。それなのに、やけに鮮明に映し出されるのはどうしてだろう。
不思議と、その道を通ったことがあるような気がするのだ。
目の前を埋め尽くす紅は、じわじわとわたしの脳内を蝕んでいく。
ふいにこわくなって、目を開いた。
「……食べよう」
思い出したいのに、思い出してしまったら何かが変わってしまうような気がしたから。そんなおそろしい予感を振り払うように息を吐いて、わたしはお弁当袋を開いた。
薄紅色の箸とお弁当箱。鮮やかな黄色の卵焼き。
卵焼きを舌にのせると馴染んで甘味がひろがる。
しょっぱい派と甘い派があるけど、わたしは断然甘い方が好きだ。
風にさらされた指先が冷えていく。これはあくまで持論だけど、秋はすぐに終わってしまうような気がする。夏の終わりが遅くて、冬の始まりが早い印象。
不憫だと思う。寒いのか暑いのかはっきりしている夏冬とは違って、春と秋は蔑ろにされがちだ。曖昧なものは、いつもかげに隠れてしまう。
だから好きな季節を訊いたとき、秋か春を答える人がいると、少しだけ嬉しくなる。
本人にとってはそんなにたいしたことじゃなくても、なんとなく仲間を見つけられたような気がするのだ。
目立たないものに目を向けられる人って素敵だ。繊細で、周りをよく見ている証拠だと思う。
お弁当を食べ終わっても、まだじゅうぶんすぎるほど時間はある。
教室に戻っても居心地が悪くて苦しいだけなので、校舎をぶらぶらと彷徨って、しばらく経ったころに教室に戻る。そうするといつもいい感じで始業のチャイムが鳴り、授業が始まる。
いつしかそれが、わたしのルーティーンになっていた。
今日も余裕を持って席につくことができた。
ふと窓際の空席を眺める。柴谷の席だ。
時計を見るとあと三分で授業が始まる。それなのに、彼の席は空いている。
いつものことだけど、こんなにギリギリの時間まで、柴谷はいったいどこで何をしているんだろう。いつも四限目のチャイムが鳴るとすぐに教室を出ていってしまうので、彼がどこにいるのか分からない。
……と、頭のなかが柴谷でいっぱいになっていることに気づいた。
慌てて頭を振る。
本人のいないところで本人のことを考えるって、だいぶ重症だ。
わたしが心配しなくても、柴谷は授業開始一分前に教室に戻ってきた。もちろん、いつもの飄々としたようすで。
授業担当の先生も特に咎めることはない。結果的に遅刻はしていないからだ。
要領よく生きるというのは難しい。
わたしは空回ってばかりで、日々に余裕もない。だからこの世の中を、自分の好きなように生きている柴谷が羨ましい。
席についた彼の横顔を見つめる。
わたしはいつも横顔を見てばかりだ。まっすぐぶつかってくる彼と、正面から向き合う勇気がないから。
ーーわたしも、君のように生きられたら。
そうしたら、もっと楽に息が吸えるだろうか。
*
「わーっ! 柴谷、見て! すごいよ」
「落ち着け葉瀬。見てるから」
「真っ赤で綺麗だね……! ほら、収めなくていいの? やっぱり秋ってサイコー!」
「ちょっと黙って。集中するから邪魔すんな」
「よろしく頼んだよっ! 天才カメラマン!」
「……じゃま」
「あたしのことも撮って!」
「……何度も言ってるだろ。お前のことは撮らねえよ」