十七歳の誕生日。
ーーそれがわたしの生まれた日だ。
不規則なリズムで足を進める。
肩に圧をかけるリュック。歩くたびに音を鳴らすローファー。胸元で揺れるリボン。
とある場所に足を踏み入れた途端、ぞわっと身体の内側から何かに包まれる感覚がした。息の通り道がキュッと狭められて、鼓動が耳の近くで鳴り響いている。
ーー昇降口だ。
ここは、息苦しい世界の入り口。
自由と束縛を分つように、毎日わたしを待ち構えている。
学校という場所は息苦しい。
着心地が悪くて動きにくい制服は、ここに自由はない、と伝えてくるような気がした。
その通りだ。
この世界にわたしの居場所なんて、ない。
ずっとずっと、肺ではないどこかで、口ではないどこかから、息をしている。
あの日から、わたしの中の呼吸は、そんな感覚だった。
息を吸って、吐く。
そんなあたりまえのことができなくなったのは、"わたし"が生まれてから、ずっとだ。
「おはよう葉瀬さん」
「お、おはよう……ございます」
急に横から飛んできた、クラスメイトからの挨拶。できるだけ声が震えないように気をつけながら、挨拶を返した。
にこ、とどこかつくりもののような笑顔を見せた彼女は、そのままいつもの女子の輪の中へ。
もちろんわたしはその輪のメンバーじゃない。
機械的な挨拶のあと、彼女がわたしのほうを向くことは一度もなかった。
息を吐いて、目をつむって、周りの騒音を遮断する。
ぐるぐる、ぐるぐる。
立っていた地面が溶けていって、暗くて深いところへと嵌まっていくような感覚がした。底なし沼、ってこういうことを言うのかもしれない。
何かに引っかかることもなく、海底に沈んでいくみたいに、ゆっくり、ゆっくり。そして、静かに。
もがけばもがくほど手足がとられて次第に動かなくなる。鈍い色をした泥が頬に張り付き、それからわたしの頭を飲み込んでいく。
そしてわたしはずっと、永遠に、沈んでいく。
二学期が始まって一週間。
夏休みの出来事を語り合う時間はじゅうぶんにあったはずなのに。
それでも語り足りないのだろう。さまざまな夏休みの思い出が、教室のすみずみで飛び交っている。
「夏祭りでデートしてたのみたぞ、このやろ!」
「うわー、だるっ。見てたのかよ」
「テスト勉強した?」
「まさか。課題やるので精一杯よ」
「三組の原くんと海行ってたストーリー見たけど。付き合った?」
「うん、実は付き合った!」
「菊池ー! 提出課題終わった?」
「俺が終わってるわけないだろ」
「っしゃ期待どおり〜……って、それだめじゃん!!」
騒音に紛れるようにして否応なく飛び込んでくる言葉は、廃れたわたしの心を引き裂いた。
それはもう、残酷なほどに。
────ああ、もう。
だめかもしれない。
乾いた唇を静かに舐めて、机に突っ伏す。火照った頰が、冷ややかな天板に触れる。
顔を伏せていると、視界が真っ暗になるせいで、余計に耳に神経が集まるような気がする。
遮断したはずのクラスメイトたちの声が、女子たちの声が、雑音が。聞きたくない声が、拾いたくない音が、全部入ってくる。
嫌だ。お願い、何も言わないで。
これ以上、わたしを苦しめないで。
顔を伏せていると、さっきわたしに挨拶した女子のグループらしき声が聞こえた。
「挨拶したの?」
「うん。一応」
「えらすぎるね」
「それにしてもかわいそうにねえ」
「なんて声かけたらいいかわからないんだもん」
「だよねえ」
「前はもっと明るかったのにね」
────前はもっと明るかったのにね。
────まえはもっとあかるかったのにね。
────マエハ、モット、アカルカッタノニネ。
聞き逃しが通用しないくらいはっきりと、三回。
ボコボコボコっと、水中で何かを吐き出したみたいに。溺れてしまったみたいに。
途端に息ができなくなる。
溺れる、おぼれる。
ああ、しんじゃう。
いっそ、死にたい。
ここから、消えたい。
ガタッーーと椅子の音がして、クラスメイトの視線がわたしに突き刺さる。
ああ、そうか。
今の音はわたしが出したのか。立ち上がったから、音がなったんだ。
そっか、わたしか。
まわらない頭でそう理解したときには、胃から押し上げてくる吐き気が限界を迎えていた。
どこか別の場所に行かないと。わたしはもう、ここにはいられない。
わたしは吐き出しそうになるのをなんとかこらえながら、夢中で教室を飛び出した。
壁に縋るようにして廊下を歩く。とにかくひとりになりたかった。
触れる壁が冷たい。けれど、その冷たさにどこか安心してしまう自分がいる。
生きてるんだ、って実感できるから。
あてもなく廊下を彷徨う。棟を移ると、一日の始まりにはふさわしくない薄暗い廊下が続いていた。
そんな場所に、足は勝手に進んでいく。
まるで、何かを目指しているみたいだった。
この先に何があるかなんて、わたし自身にも分からないのに、勝手に。
『葉瀬さん』と、脳内でさっきの言葉が反芻する。
葉瀬さん、はせさん。
前はもっと。
葉瀬、はせ、はせ。
アカルカッタノニネ。
「……っ、うぇ」
胃から押し上げてきた吐き気に、思わず口を押さえる。そんなことで、止められるはずないのに。
ハセさん。
──前は、もっと。いや、チガウ。
前って、なに?前のわたしって、ダレ?
「違う……ちがっ、ちがうっ」
再び熱いものがせり上がってくる感覚がして、じわりと涙が浮かぶ。胸のあたりを締め付けられている感覚は分かるのに、治し方が分からない。
苦しくて、しんどくて、気持ちが悪くて。だけどそれ以上に、心が痛い。
すべてが狂ったのは、わたしの十七歳の誕生日。
息苦しくなったのも、こうしてクラスに馴染めなくなったのも、学校が嫌いになったのも、消えてしまいたいと願うようになったのも。
すべて、その日のせいだ。
ーーわたしはその日、
ほとんどの記憶を失ったから。
自分は誰なのか、どんな存在なのか。今まで構築したはずの人間関係や、得意不得意、好きなこと、嫌いなもの、すべてが分からなくなってしまった。
生活するうえでの基礎的なこと、過去の出来事はぼんやりと覚えているのに、肝心な「誰と」の部分がごっそり抜け落ちてしまっている。
友達、クラスメイトはおろか、家族のことさえも。何もかも、覚えていない。
中身がまるごと入れ替わってしまったかのよう。
原因は分からない。
目が醒めて最初に対面した両親────まったく記憶にない四十代の夫婦は、決して教えてくれなかった。
なんでわたし、こんなことになっちゃったんだろう。
そう疑問をつぶやくたびに、彼らは口を揃えて「気にしなくていいよ」と言ってくるのだ。
正直、自分の記憶が消えてしまっても気にせず生きられる人間なんて、そういないと思う。
誰しも自分ではない、他の誰かと繋がりがあるはずだ。それは家族だったり、友人だったり、あるいは恋人だったりとさまざまだと思うけれど、少なくとも自分一人で生きることなんてできないはず。
私生活に影響が出るに決まってる。こんな状況になっても気にしないでいられるのは、よほど能天気で前向きな性格の人か、悲しいことに人との繋がりがまったくなかった人だけだ。
葉瀬紬。
わたしの名前はそういうらしい。目が醒めて、白衣を着た人物といくつか会話を交わしたあと、その名を告げられた。
大丈夫、気にしちゃダメよ。安心してね紬。
すぐに元に戻るからな。紬はちゃんと戻るから。
両親の言葉は、耳をすり抜けていくだけで何も心に響かなかった。
まだ彼らが両親だという認識がわたしのなかで上手くいっていないからなのか、話の内容が本当に薄いのか。その理由はまだわからない。
けれど、記憶がないわたしからすれば、彼らはどう見ても他人にしか映らなくて。
同じ家で暮らしてはいるものの、やはり気まずい空気が流れている。否、わたしが気まずい空気にしてしまっている。
それをあえて感じさせないよう精一杯振る舞ってくれている『お母さん』には申し訳ないけれど、やっぱりまだわたしには無理だ。
腫れ物扱い、って言葉がピッタリだと思う。家でも学校でも、わたしは『触れるな危険』というプレートをさげて生活しているような気分だ。
できるだけ触れてはいけない、関わってはいけない、そんな感じ。
当然だ。
こんな人間、気味が悪いだろうから。
面倒ごとには巻き込まれたくない。そう思うのが"一般的な"人間だと思う。
そう思い込んでいないと、どうにかなりそうだった。
みんなが知っている以前の【葉瀬紬】は、もうこの世界どこを探しても存在しない。わたしという得体のしれない何者かが、彼女を上書きしてしまったのだから。
昔のわたしがどんな人間だったのか、わたしだけが知らない。
けれど、以前のわたしを知るクラスメイトの言葉を聞く限りでは、わたしはきっと明るい人間だったのだろう。こんなふうに下ばかり向いて、いっそ死んでしまいたいと思うような人間ではなかったのだろう。
ああ、本当に気持ちが悪い。
吐き出したい。ぜんぶ。
迫り上がってくるものを、必死に手で抑えてうつむいた。
ーーそのときだった。
「おい」
ふいに前から低い声がして、え、と視線が上がる。そこには、苛ついた表情でわたしを睨みつける一人の男子がいた。
知らない人だらけのクラスメイトの中で、唯一、顔と名前が一致している人物。
わたしは彼を、よく知っている。
「し、ばたに……」
「また吐こうとしてんのかよ」
射抜くような視線にたえられなくて、にげるように目を逸らす。もう目はあっていないのに、ひどく視線が痛かった。
つかつかと歩み寄ってきた彼は、強引にわたしの手を掴んで引いた。
「来い」
「わっ……」
途端に心臓が縮みあがる。キュンとしてじゃない、こわくてだ。
彼はいつも乱暴だから、会うたびにどこか萎縮してしまう。彼を前にすると、彼の手を振り払うだけの力も、自由に紡ぐことのできる言葉も、なにひとつ意味のないものに変わってしまう。
何も言わずにわたしを女子トイレの前まで連れて行った彼は、急に足を止めてわたしの顔をのぞき込んだ。透明な瞳とまっすぐに目が合う。とつぜん胸の奥が疼いた。
───…ああ、逃げ出したい。
彼の瞳はいつも何を映しているのか分からない。もしかしたらわたしの心の声まで透けて見えているのかもしれない。頭の中の考えまでお見通しなのかもしれない。
そう思うと、彼の視界の外まで衝動的に逃げたくなってしまうのだ。
「もう大丈夫だろ?」
「え……あ、ほんとだ……」
いつのまにか、吐き気から意識が逸れていたことに気づく。彼はきびしい視線のまま、繋ぐ手に力を込めた。
「朝飯もほとんど食ってないくせに、吐くもんなんてあるかよ」
「どうして、それを……」
少しわたしを見つめてから、ふっ、と小さく笑った彼。さっきまでの鋭い視線とは違うけれど、どこかバカにしたような笑い方でもある。
呆れと、哀れみと、他のなにかが、その笑みに混ざっている。そんなふうに思えた。
嬉しいとか、悲しいとか、そんな単純ではない感情をいつも心に宿している。
柴谷。それが彼の名前だ。
「全部お見通しなんだよ。ばか」
やっぱりすべてバレていた。
わたしが毎朝、朝食をとらずに家を出ていること。他人としか思えない家族に迷惑をかけるのが嫌で、なにより怖くて、逃げるように家を出てきていること。だから吐きたくても何も吐けないこと。
すべてわかっていて、彼はそんなふうに言うんだ。
ぐ、と唇を噛んだわたしの顔を、柴谷がのぞきこんだ。そうしてわたしの吐き気がおさまったのを確認した彼は、何も言わずにもう一度わたしの手を引いて歩きだす。
抗う気にもなれず、上履きが冷たい廊下をこする音だけをききながら、"いつもの場所"へとむかう柴谷の背中を見つめた。
黒い髪が揺れている。繋がれた手のぬくもりに、どこか懐かしさをおぼえる。
突然締め付けられたように、息ができなくなる。
目と、指先。それと、浮かんでくる薄い記憶。
それらに意識が注がれるせいで、吸う息と吐く息の均衡が保てなくなった。
だんだん呼吸が浅くなっていき、また苦しくなる。
けれどそれに気づいたみたいに、握る手に力を込められるから。
「……っ」
わたし本来の息の仕方へと、戻してくれる。
不思議なチカラ。
彼だけが持つ、魔法みたいな力。
二年生の教室とは別棟にある、共用講義室。そして、会議室や美術室のさらに奥。
おそらく誰も知らない、来たことがない、そんな場所。こんなところがあったんだ、って生徒誰もが驚くような、静寂に包まれた、冷たい場所で。
「───…おはよ、葉瀬」
柴谷は静かに、笑った。
空気が、変わった。
紛れもなく、彼が変えたのだ。
「お、おはよ……し、ばたに」
「ぎこちなすぎだろ」
「ご、ごめん」
「謝んな、ばーか」
呆れたように笑う柴谷は、ほんの少し、柔らかい表情をしていた。教室では見せない顔だ。
ここに来るのは、これがはじめてではない。夏休み明け、まっさらな状態で登校したわたしを、この冷たい場所まで引っ張ってきたのが柴谷。そして、同じように挨拶をされた。
記憶を失う前のわたしが、彼にとってどんな存在だったのか。彼は、わたしにとってどんな存在だったのか。
気にならないと言えば嘘になる。
どこか知らない場所に置き去られてしまった記憶は、未だわたしのもとへ戻ってはこない。だから、知らないでいる。
ずっと、きけないままでいる。
「よし、撮るか」
正直な話、柴谷は変わっていると思う。
記憶をなくしてしまったわたしという異質な人物に躊躇なく話しかけて、一から関係をやり直そうとしている。普通なら怖がって離れていくはずなのに、彼だけはおかしいぐらいに距離を詰めてくるから。
乱暴な言葉と、強引な行動。問答無用でわたしの心にズケズケ踏み込んでくるくせ、ふとした瞬間柔らかい表情になる。透明な瞳にはすべてを見透かされているような気がする。
わたしの心をいとも簡単にあやつって、使い物にならなくしてしまう。
だからわたしは、あまり彼のことが得意ではない。
そんな性格をしているのに、クラスにはうまく溶け込んでいる……ように見える。ここ一週間、彼ばかり注目して見ていた。柴谷はいつもクラスの輪の中心で笑っていて、男子にも女子にも慕われている。
教室でも変わらず乱暴な口調だけど、みんな彼を認めて慕っている。わたしが「ばか」とか「やめろ」とか言ったとしたらきっとみんな離れていくはずなのに、彼だから許されているということが羨ましい。
柴谷のそういうところも少し苦手だ。
女子に人気な理由はもっとあるはず。その中でも最大の加点ポイントは、つくりもののように整った顔の造形だと思う。
つややかなストレートの黒髪とか、凹凸のはっきりした彫りの深い顔立ちとか、透き通った白い肌とか、しなやかな指先とか、どこか別世界の人間みたいなところがまた彼の魅力を増しているんだと思う。こればかりはどうしようもない。悔しいけれど。
美術倉庫からカメラを手にして戻ってきた柴谷は、いつものように空に向かってカメラを構えた。
「ふーーーーっ」
それは、はじまりの合図。
柴谷は一息呼吸をして、空全体を透明な目に映してから、そのままの景色をレンズに閉じ込める。
彼が世界にピントを合わせている瞬間、わたしは彼に話しかけられなくなる。ぎゅっと胸がつかまれてしまったみたいに苦しくなって、たまらなく切なくなって、なぜだか泣きたくなる。
ずっと前から、知っていたみたいに。忘れちゃいけない何かが、胸の奥からせり上がってくるみたいに。
カシャッ、と音がなるたびに、空気が凛と張っていく。この世界は今、彼によって丁寧に、繊細に、切りとられているんだ。
*
「葉瀬は諸事情で一部、記憶を失ってしまってな。何かと弊害があるかもしれないが、こういうときこそ助け合いだ。普通に生活していたら自然と思い出すかもしれないから、いつもどおり接するように」
夏休み明け、最初のホームルームにて。そんな説明を担任から受けたクラスメイトは、みんな呆然としていた。目を瞬かせて、それから視線を落とす。誰もがこの一連の動作を行った。
わたしは教卓に立ちながら、転校生かのごとくゆっくり目を動かして一人ひとりの顔を眺めてみたけれど、誰の顔も思い出せなかった。
「不自由かけますが……よろしく、お願いします」
とは言ったものの、泣き叫んで縋りついてくる人がいないのだから、わたしと本当に仲が良かった『親友』みたいな人物はいないのだろう。その事実に愕然とした。
その証拠に、みんな目を合わせてくれない。もし本当に仲がよければ、もう一度近づいてきてくれるはず。仲が良かったのにいきなり他人みたいに突き放すなんて、ありえないから。
唯一目が合って、絶対に逸らさなかった人。それが柴谷だった。
透明な瞳で見られたとき、心臓が縮んだような気がして、妙に落ち着かなくなった。
登校も、教室でも、移動教室も、下校も、すべて一人。部活は休部という形になった。両親が手続きをして、学校から特別措置として許可を得たのだと言っていた。
なんの部活に入っていたのか。
自分の得意不得意まで思い出せないから、知ったところでどうにもならない。どうせ、続けられないから。
だから両親は、わたしに伝えなかったのだと思う。わたしも部活を続けようとは思わないから、なんの部活だったのかなんて知る必要などない。
学校は、二日目、三日目と通えば慣れると思ったけれど、全然ダメだった。
冷たい廊下を歩いていると、無意識のうちに涙が出そうになって、吐き気と頭痛に襲われた。けれど乾ききった身体からは涙なんて出てこなくて、悲しいという感情を外に出す方法すら失っていた。深海に沈んでいくみたいに、底のない暗闇へと放り込まれてしまったかのようだった。
そんなある日のことだった。柴谷がわたしの前に現れたのは。
「葉瀬、来いよ」
「え……」
「きれいなモン見せてやる」
まだホームルームまで一時間以上ある、朝のはやい時間。
今日みたいに廊下を彷徨っていたわたしの手を引いて、この場所にたどり着いて。
「落ち着いて、息吐いて。吸って、前向いて」
「……っ」
「おはよう、葉瀬」
まるでこの瞬間、「わたし」が目覚めるみたいに。
おはよう、って。
そう言ってくれた。
もし「綺麗なものを挙げよ」という課題が出たのならば、わたしは間違いなく彼の瞳を選ぶだろう。暗いところばかり見ているわたしとは対照的な、澄みきった目。
彼の瞳を通して見える世界を、わたしも見てみたい。
そう羨望してしまうほど、美しいものだから。
*
「……瀬、葉瀬。おい、何してんだよ」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「ったく、何考えてたんだよ」
「わたしたちの出会いを思い返してたの」
ぼそりとつぶやくと、一瞬動きを止めた柴谷は「そうか」と返してまたレンズを構えた。
何でも出来る人気者の彼。
そんな彼のなかでもとくに秀でたものと言えば、なんと言っても写真を撮るのが上手いということだ。
こんなこと言ったら怒られてしまうだろうけれど、初めて彼を見たとき、芸術的なものには興味がなさそうなイメージを抱いたから。
だからこの場所でいきなりカメラを構え出したとき、びっくりして思わず声をあげてしまった。撮影を邪魔された彼は相変わらず苛立った顔をしていたけれど、わたしが謝るとすぐに写真へと意識を戻した。
『ふーーーーーっ』
そうして一気に自分だけの世界をつくりだす。周りの空気も、わたしの意識も、すべてを取り込むような呼吸のあとで、彼はシャッターを切った。
その日、彼が撮った空の写真を見た時の感動を、衝撃を、わたしは一生忘れないと思う。
泣きたくなるほど綺麗で、繊細な写真だった。
普段何気なしに見ていた空。昼間の空は青い。夜の空は黒い。当時のわたしにあったのはそんな認識だけだった。
だけど、彼の写真はその"間"の時間を切り取るものだった。青い空に桃色が混ざって、薄紫が広がったのちに藍色のような深い色が混ざっていく。そうやってゆっくりと、わたしたちの頭上にある空は変化していくんだ。
当たり前すぎて見落としていた瞬間を、彼は逃すことなくカメラに収めて、世界を切りとっていた。
彼の瞳がうつす空は、こんなに綺麗なんだ。彼の瞳からみる世界は、こんなにも繊細で儚いものなんだ。
くすんでしまっていたわたしのものとは全然違う。
そのことに気づいたとき、色のない世界が壊れていくような衝撃と、言葉にできない感情がわたしの心を包み込んでいた。きっと、「感動」っていうのはこういうときのことを言うんだと思う。
ーー写真は撮り手の心を写すというのならば、わたしは君のとなりで、君の心に触れたいと思ったのだ。
「葉瀬は、もっと堂々としていればいいだろ。クラスメイトなんだから」
「……できないよ、そんなの」
「ったく、なんでだよ」
荒っぽい言動の裏、こんなに芸術センスに長けた素晴らしい写真を撮る。そういうところも、変わっている。言い方を変えると、不思議な人だと思う。
「みんな……気持ち悪いだけでしょ。わたしは葉瀬紬だけど本物の葉瀬紬じゃないの。ニセモノなの」
「なんだそれ」
「前のわたしはもういない。だから柴谷も、前のわたしを求めているんだったら諦めてほしい。今のわたしは柴谷の期待には応えられない」
わたしはもう、以前のわたしではない。昔の葉瀬紬は、残念ながらここにはいない。
閉じていた目をうっすらと開けて、柴谷は軽蔑するように眉を寄せた。それは怒っているようにも、呆れているようにも、あるいはバカにしているようにも思えた。
「お前、もしかして俺が彼氏だったとか思ってないよな。悪いけど、俺とお前はそんなんじゃない。勘違いすんな」
はっきりと釘を刺されて、言葉に詰まる。実際、ききたかったけどきけなかった内容はそれだった。
わたしは、柴谷と付き合っていたのか。そうでもなければ、彼がここまでわたしに執着する理由がないから。
「俺たちは付き合ってたわけじゃない。好き合ってたわけでもない。だからお前はゼロから始めればいい。俺は優しいから、ひとりぼっちで可哀想なお前のとなりにいてやるって言ってんだ」
「優しいって……自分で言うの?」
「ーー優しいんだってよ、俺」
だってよ、って。
まるで誰かから言われたみたいだ。その言葉が引っかかったけれど、口を開こうとする前に予鈴が鳴ったので、仕方なく教室に戻ることにした。
教室へと歩きだすわたしとは違って、美術準備室へと足を向ける柴谷。
「カメラ戻してくるから。お前先行っといて」
「そこの美術準備室でしょ。わたしもついていくよ」
「いい。先に戻っとけ」
ついていこうと踵を返したけれど、有無を言わせぬ圧に尻込みする。わかったな、と命令するように鋭い視線をぶつけた柴谷に、あわててうなずいた。柴谷は一変して、のんびりした歩調で美術準備室へと消えていった。
さっきまでは真剣に写真を撮っていたのに、今となってはゆっくりのんびり歩いている。気まぐれ、ってこういうことを言うのかもしれない。
柴谷の背中を追いたい衝動にかられたけれど、さっきの彼の目を思い出して踏みとどまった。
あの目に鋭く刺されたら最後、わたしは本当に死んでしまうような気がしたから。
*
「ねえ、柴谷」
「なに」
「柴谷はどうして写真を撮ってるの? 入学してからずっと訊きたかったんだよね」
「……その瞬間は二度とやってこないから忘れないように、とか」
「ふうん、そっか」
「お前、興味ねえだろ。真面目に答えたのがアホだった」
「あるよ。柴谷のことだもん。興味あるから聞いてるんだよ」
「どーだか」
「あ、その反応は信じてないね? ほらほら、そんなこといいからはやく写真撮りなよ」
「『そんなこと』って、やっぱり適当じゃねえか」
「……葉瀬は」
「え、あたし?」
「────お前はなんで描いてんの?」
「なにか案がある人は手挙げて」
凛とした声が耳に届く。声の主は学級委員の早野さんだった。
一限はホームルーム活動で、十一月のはじめに開催される文化祭の出し物について話し合うらしい。一般の高校と比べるとかなり遅めの文化祭なのだけれど、大規模であるため夏休み明けから準備がはじまるのだ。
文化祭は九月や十月あたりに開催されるのが一般的だ。そのために夏休みも出席して準備をすることを考えたら、比較的生徒に優しいほうだと思う。
去年の文化祭の記憶はある。誰とまわったかはよく覚えていないけれど、美味しいものを食べたり展示を見たり、それなりに楽しんだはずだ。
大切な人間関係をすべて忘れて、それ以外の日常的なことについては憶えているなんて。
本当に厄介だと思う。
自然とため息が出た。
担任には「無理しなくていいからな」と、新入生にかけるような言葉を言われた。
文化祭や体育祭という学生にとっての一大イベントで、わたしが浮いてしまうことが目に見えていたからだと思う。
「グループで話し合って、五分後にまた案ききます」
積極的な意見が出なかったから、学級委員の早野さんがそう全体に呼びかける。いつものことだ。
小中学生のときは目立つ人が発言をしてクラスを引っ張っていくけれど、高校生になると誰もがひとまかせで自分の案を発表したりしない。
たとえ案が自分の中にあろうとも、それを表に出そうとは思わない。目立ちたくないからだ。
大人は積極的に企画を提案したり、発言をしていたりする印象がある。小中学生など子供も同じだ。
大人と子供のはざまにいるわたしたちにとって、それは当然のことなのかもしれない。何者でもないから目立つことを恐れ、集団の輪から外れることに怯え、自分を隠すようになる。
それはわたしも同じだった。
早野さんの呼びかけで、クラスメイトたちはあっという間にグループをつくった。
たちまちわたしはひとりぼっちになってしまう。この瞬間が、わたしは心の底から嫌いだ。
「葉瀬さん……いっしょに」
沈黙したままのわたしに気を遣ってくれた女の子が、机を回転させてわたしに向き直った。
えっと、彼女は……たしか。
「あ、山井です。山井夕映」
頭の中で必死に名前を探していると、それに気づいたみたいに微笑んで告げられた。
「ご、ごめんなさい」
「いえいえ。私も入学してから名前覚えるの苦労したので。葉瀬さんはまだ一週間なんだから当然ですよ。それに私、目立つほうでもないですから」
入学してから一週間。
そう、捉えることもできるのか。
たしかに、そのほうが罪悪感もおぼえず前向きに捉えられる。
「ありがとうございます。えっと、山井……さん」
さっそく苗字を呼んでみる。名前を呼ぶ勇気はまだなかった。
小さくうなずいた山井さんは、少し頬を引きしめてわたしの方を向いた。
「えっと……文化祭のことについて記憶は残ってますか?」
どこまで踏み込んでいいか分からない。そんな思慮が彼女の言葉からは感じられた。
気を遣わせているのが申し訳ない。自然と肩が小さくなる。
「去年の文化祭のこととか、どんな感じだったかおぼえてます?」
「……内容は、おぼえているんですけど。誰と何をしたのかは、まったく」
山井さんの瞳が小さく揺れた。
言葉にしながら、気分が落ちていく。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。何度目かもわからないぼやきが、頭の中に浮かんではわたしの心を暗くした。どんどん沈んでいくわたしの横で何度かうなずいていた山井さんが、にこ、と笑みを浮かべてわたしに向き直る。
「じゃあ、文化祭の知識がゼロってことじゃないんですね」
ワイワイした雰囲気とか、いつもよりおしゃれで可愛らしい女子とか、気合の入っている男子とか。お店をまわって、色々なものを買って、告白イベントを遠巻きに見て。
ちゃんと、覚えている。
こくりと示してみせた。
「今年は食べ物の出店もできるみたいだよ」
グループ全体に向かって、山井さんが声をあげた。
うちの学校では、飲食物の販売は二年生が担当すると決まっている。
今年はわたしたちが出店する番らしい。
「やっぱ定番の焼きそばじゃない?」
「定番はたこ焼きだろ」
「スイーツがいいよ」
「いっそドリンクだけにするのもアリ」
文化祭の前の独特なお祭りムードは嫌いじゃない。勉強を強いられる学生が、唯一すべてから解き放たれる日。準備期間を経て、成立するカップルもたくさんいると聞いた。
いわゆる文化祭マジックというものだ。
「では挙手して案を発表してください」
早野さんの司会進行を耳に入れながら、ちらと柴谷に視線を移す。
柴谷は窓際の席だ。窓から差し込む陽光が彼の横顔を照らしている。
彼は頬杖をついて、ぼーっと空を眺めていた。今朝、ふたりきりのときに見せた表情とはまったく違う。どこまでも無表情で、話し合いの内容などはなから興味がないようだった。
自由な人だ。
飄々としていて、掴みどころがない。
ここからの角度だと、彼のまつ毛がいかに長いかがよくわかる。一本一本が丁寧に描かれた絵みたいだ、と思う。
美しすぎる造形が、そんな錯覚を起こさせる。
ふいにそのまつ毛が流れたかと思うと、突き刺すようにこちらを見た。切れ長の目から逃げるように視線を逸らす。
まずい。見てたのがバレた。
焦って逸らした視線の先、書記の沢村さんが『かき氷』『やきそば』と黒板に案を書いていく。
アタフタしたまま、必死に文字を目でなぞったけれど、頭に入ってくるはずもない。
目を閉じて、柴谷の瞳を思い浮かべる。
硝子のように透き通った瞳。
どんなに透き通ったビー玉でも、美しく輝く宝石でも、彼の瞳を再現することはできないだろう。
その目に捉えられたが最後、息の仕方を忘れてしまう。目が離せなくなる。
目だけで人を殺せる、というたとえは、彼のための言葉なのかもしれない。
「ガッツリの飲食は絶対どこかが出すと思うのでー、うちらはスイーツにしませんかぁ」
そんな物騒なことを考えていると、ふと、教室にねっとりした声が響いた。声のした方を見ると、高い位置でポニーテールをした女の子が黒板を見ながらそう言っていた。
彼女の名前はもう覚えた。
赤坂燈。覚えた理由はシンプル、とにかく目立つからだ。
入学してからいちばん先に名前を覚えられる、またはクラスを超えて広く認知されるタイプ。彼女の日常の立ち位置を見て、すぐに理解した。
言い方は悪いかもしれないけれど、いわゆる、一軍ってやつだ。
現にわたしもすぐに覚えたのだから、山井さんの「入学して一週間」というたとえは言い得て妙だ。
目立つほうが認知される。何事も、良くも悪くも。
「賛成でーす」
「スイーツのほうが可愛いと思います」
「映えるし〜」
赤坂さんのあとに続く女子たちの名前は、まだ覚えていない。俗にいう、取り巻き。まさか現実に存在しているとは思っていなかった。
本や漫画ではよく見るけれど、現実でもここまで圧倒的な権力差があるなんて知らなかったから。
クラスで絶対的権力者の赤坂さんの意見ということでかなり重宝されているからか、ほとんどそれで決まりだという雰囲気がわたしたちを包み込んでいた。
それまでに出ていたたこ焼き、焼きそば、などの意見はほとんど出なかったもの同然だった。それらはすべて、赤坂さんの意見によって抹消される。
「ワッフルがいいと思いまーす」
間延びした声で赤坂さんが言う。同意見だと言うように取り巻きたちもうなずき、他の人たちはどうでもいいように各々が雑談を楽しんでいた。結局のところ、誰も文化祭にこだわりなどないのだ。適当に決まった意見を適当に受け入れて、適当に準備して適当に楽しむだけ。
「賛成の人、挙手をお願いします」
早野さんが呼びかけて、ぽつぽつと手が挙がる。みんな、はやく決まってラッキーという顔をしていた。この後は、自習という名の自由時間になるらしい。
「はい、じゃあ決まりで。詳しいことはまた今度決めます。赤坂さん、詳細も考えておいてください」
「はーい。決めときます」
適当な返事。すでに友達との雑談に入った赤坂さんに視線を移す。
こぼれ落ちそうな大きな目。スラリとした体型はモデル顔負け。トレードマークのポニーテールの高さが、彼女の自信を表しているようだった。
たぶん、いや、絶対に彼女には歯向かってはいけない。ピンと直感的に理解した。
話し合いが終わり、ガヤガヤ騒音に包まれる教室。
「決まっちゃったね……」
少し残念そうに眉を寄せた山井さん。わたしでもわかるほど、あきらかに肩を落としていた。
なにかあったのだろうか。不思議に思って問いかけてみる。
「あの。なにか、問題でも」
「ううん! 何でもない!」
違和感をおぼえた。
こういうの、空元気、って言うのだろうか。笑顔のはずなのに、どことなく表情が固いような気がする。
けれど容易に踏み込んではいけない気がして、口を閉じた。
こんなとき、「どうしたの」と声をかけられたらよかったのだけれど。わたしにはそんな勇気がない。
疎ましく思われるのがこわくて、なかなか踏み出せない。そのせいでコミュニティがひろがっていかないのは、わたしがいちばん分かっているのに。
こんな自分、大嫌いだ。
グループ活動が終わると、みんな席を戻して前を向く。
ついさっきまでにこやかに話し合っていたのに、前を向いた途端、急に冷たい表情。
グループの時は距離の近さを感じていたのに、島が解散するとまるでまったく関わりがなかったみたいに、壁を感じる。
それが少しだけこわかった。
───────────
─────
昼食は渡り廊下のすみで、一人でとることにしている。頰を切る風が冷たい。
九月が差し迫っているということは、もうすぐ秋が来るのだろうか。
分からないことだらけの夏が終わって、「わたし」にとって初めての秋。
目を閉じて秋の景色を連想してみる。
真っ先に浮かんできたのは、紅葉が続く道だった。
燃えるような鮮やかな赤が広がる。ひらひらと風にあおられて舞う紅葉。
たかが想像。それなのに、やけに鮮明に映し出されるのはどうしてだろう。
不思議と、その道を通ったことがあるような気がするのだ。
目の前を埋め尽くす紅は、じわじわとわたしの脳内を蝕んでいく。
ふいにこわくなって、目を開いた。
「……食べよう」
思い出したいのに、思い出してしまったら何かが変わってしまうような気がしたから。そんなおそろしい予感を振り払うように息を吐いて、わたしはお弁当袋を開いた。
薄紅色の箸とお弁当箱。鮮やかな黄色の卵焼き。
卵焼きを舌にのせると馴染んで甘味がひろがる。
しょっぱい派と甘い派があるけど、わたしは断然甘い方が好きだ。
風にさらされた指先が冷えていく。これはあくまで持論だけど、秋はすぐに終わってしまうような気がする。夏の終わりが遅くて、冬の始まりが早い印象。
不憫だと思う。寒いのか暑いのかはっきりしている夏冬とは違って、春と秋は蔑ろにされがちだ。曖昧なものは、いつもかげに隠れてしまう。
だから好きな季節を訊いたとき、秋か春を答える人がいると、少しだけ嬉しくなる。
本人にとってはそんなにたいしたことじゃなくても、なんとなく仲間を見つけられたような気がするのだ。
目立たないものに目を向けられる人って素敵だ。繊細で、周りをよく見ている証拠だと思う。
お弁当を食べ終わっても、まだじゅうぶんすぎるほど時間はある。
教室に戻っても居心地が悪くて苦しいだけなので、校舎をぶらぶらと彷徨って、しばらく経ったころに教室に戻る。そうするといつもいい感じで始業のチャイムが鳴り、授業が始まる。
いつしかそれが、わたしのルーティーンになっていた。
今日も余裕を持って席につくことができた。
ふと窓際の空席を眺める。柴谷の席だ。
時計を見るとあと三分で授業が始まる。それなのに、彼の席は空いている。
いつものことだけど、こんなにギリギリの時間まで、柴谷はいったいどこで何をしているんだろう。いつも四限目のチャイムが鳴るとすぐに教室を出ていってしまうので、彼がどこにいるのか分からない。
……と、頭のなかが柴谷でいっぱいになっていることに気づいた。
慌てて頭を振る。
本人のいないところで本人のことを考えるって、だいぶ重症だ。
わたしが心配しなくても、柴谷は授業開始一分前に教室に戻ってきた。もちろん、いつもの飄々としたようすで。
授業担当の先生も特に咎めることはない。結果的に遅刻はしていないからだ。
要領よく生きるというのは難しい。
わたしは空回ってばかりで、日々に余裕もない。だからこの世の中を、自分の好きなように生きている柴谷が羨ましい。
席についた彼の横顔を見つめる。
わたしはいつも横顔を見てばかりだ。まっすぐぶつかってくる彼と、正面から向き合う勇気がないから。
ーーわたしも、君のように生きられたら。
そうしたら、もっと楽に息が吸えるだろうか。
*
「わーっ! 柴谷、見て! すごいよ」
「落ち着け葉瀬。見てるから」
「真っ赤で綺麗だね……! ほら、収めなくていいの? やっぱり秋ってサイコー!」
「ちょっと黙って。集中するから邪魔すんな」
「よろしく頼んだよっ! 天才カメラマン!」
「……じゃま」
「あたしのことも撮って!」
「……何度も言ってるだろ。お前のことは撮らねえよ」
夢を見ていた。
一人で夕日を眺めている、そんな夢を。
これが夢だとすぐに分かったのは、腕に深く刻み込まれた傷がなかったから。
記憶を失う前の、もっと昔のころの夢を見ているのだと。瞬間的にそう悟った。
焦がすような太陽の光が、顔に容赦なく差し込む。わたしはそれを、一心に浴びていた。溶け込んでいくように、そのまばゆさに身体を委ねる。
ぼうっと地平線の彼方を眺めては、息を吐く。そして酸素を取り込んだとき、これは夢だと確信した。
息がしやすかったから。
澄んだ空気で、肺がすべて満たされていく感覚。
現実の世界にはない、切ない感覚がした。
もう一度腕に視線を落とす。
すると、じわじわと赤茶色の傷が浮き上がって、ずくんずくんと傷口が痛み出す。
「っあ……はあっ……や、だ」
擦っても、押さえても、どう頑張っても消えない。どんどん濃くなって、忘れられないものとして深く深く刻まれる。
決して消えない傷痕。
刃物で切り付けたようなものだ。
どうしてついた傷なのか、わからない。こんなに深いもの、どうして。
「……思い、出せない」
思い出そうとすれば、ザザッと砂あらしのように記憶が遮られる。思い出そうと何度も集中すると、だんだん頭が痛くなって、最終的には意識が飛びそうになるくらいの激痛に襲われる。
思い出したくないと、身体が拒絶反応を起こしていた。
憂愁を秘めた淡さが、刻々と濃いものへと変わってゆく。
ああ、まって。いかないで。
わたしを置いていかないで。まだ終わらないで。
夢中で沈みゆく太陽に手を伸ばす。
わたしのむなしい叫びをきくことなく、空は紺碧を瞳に映し、静かに夜の帳が下りる。
───…そこで目が醒めた。
傷のある手を伸ばしたままで。
わたしが必死に掴もうとしていたのは、こげ茶色の天井だった。趣も何もない、殺風景なわたしの部屋。
ゆるゆると手をおろして、枕元に置いたスマホを手に取る。
A.M.4:30。
今日もまた、はやすぎる目覚めだった。
*
季節は秋へと移り変わり、それと同時に制服も衣替えとなった。
紺色のブレザーに袖を通す。胸元でリボンが揺れていた。
ブレザーの上から傷のある右腕をそっとなぞると、ズクズクした痛みが和らいだ……気がした。スカートと靴下では庇いきれずにむき出しになった足に、朝の冷えた空気がまとわりつく。
部屋にある全身鏡の前に立つ。
「……変なの」
鏡に映ったわたしは、たとえるなら、幽霊のような顔をしていた。このまま役者としてホラー映画に出演できそうだ。
スカートは校則に準じた膝丈。
白い靴下、髪型は後ろでひとつ結び。もちろんノーメイクだけれど、まるでファンデーションを塗ったかのように顔が白い。いや、不健康の表すような青白さだった。
可愛げも何もない。むしろ恐怖すら与えかねない外見だった。
ふと、赤坂さんの姿が浮かぶ。【JKブランド】という青春の具現化のような称号を得るにふさわしい格好をしていて、とにかく目立つ人。毎日高く縛り上げられたポニーテールも、ゆるく巻かれたおくれ毛も、バッチリ決まったメイクも、すれ違ったときの甘い香水の匂いも、膝よりはるか上のスカート丈も。
絵に描いたような女子高生の姿をしているのが赤坂燈という人物だ。
わたしには無理だ。
毎日完璧に自分を着飾るなんて、そんな努力できない。だからわたしは、ひそかに彼女のことを尊敬しているのだ。
机の上に置いてあったヘアゴムで、高い位置で髪を括ってみる。結果は言うまでもなかった。がっくりと肩を落とす。
ポニーテールとも呼べないその髪型のままリビングに行き、朝イチで作っておいたお弁当をとりにいこうとしたときだった。
急に廊下の先から物音がして、びくりと肩が跳ねる。どうやら寝ているはずの両親のどちらかが起きたらしい。完全な油断だった。
大急ぎで部屋に戻って、リュックを掴む。鏡の前でポニーテールをほどいていつものひとつ結びに直した。
いってきます、と焦り気味に呟いて今日も朝食をとらずに家を出た。挨拶は相手に聞こえなければ意味がないとどこかで聞いたことがあるので、きっと毎朝わたしが発しているのは挨拶ではなく単なる独り言なのかもしれない。
どちらにせよ、形だけの挨拶に意味など存在しなかった。
朝の教室は、まっさらな状態でわたしを出迎えてくれた。
色づき始めた葉が窓の外に見える。登校時間には程遠いので、まだ人は少ない。
ふうっと息を吐く。やはり深呼吸をすると落ち着く。
まだ、以前のように気持ちよく息は吸えないけれど。
そのとき、カバンの中でスマホが振動した。取り出して、通知を確認する。
母からのメールだった。
乾いた指先でタップして開く。
液晶画面に表示された文字に、わたしはつい呼吸を止めてしまった。黙ったまま、何度も文字を目で追う。
『紬、お弁当忘れてるよ。届けようか』
ドキリと嫌な感覚がした。
焦った時に心臓が縮み上がるようなこの感覚は、何度経験しても慣れることはない。スマホを持つ手が震えた。
このメールをみてはじめて、お弁当を家に置いてきたことに気づいた。
どうして今日は忘れてしまったのだろう。
その理由を考えて、はたと思い出す。
髪の毛で遊んだせいで、焦って家を飛び出したんだった。まさか親が起きてくるとは思わなかったから。
しまった、うっかりしていた。
慌てて返信画面を開く。スマホのキーボードの上に指を乗せる。
けれど、書いては決して、書いては消しての繰り返し。
『大丈夫。買って食べます』
結局、たったそれだけのメッセージを送るのに五分もかかった。
返信にはいつも気力を使う。
思わず敬語を使いそうになってしまうのを直したり、文章が変じゃないかを何度も見直したりする。
そうして、親しすぎるような気がして気持ちの悪い文章を送らなきゃいけないから。
結局、タメ口と敬語を同時に使った。
しばらく送信したメールを見直していると、急に扉が音を立てた。誰かが教室に入ってきたことがわかる。
乱雑な具合で予想はつくのに、つい名前が呼ばれるのを待ってしまう。
「葉瀬」
「……柴谷」
「ん」
ん、だけで彼の意図がわかってしまうのがなんだか悔しい。それほどまでに習慣化された、二人だけの朝の時間。
くいっと顎で合図をする柴谷。
どうやら、ついてこい、ということらしい。
「今日遅くね?」
「あー……お弁当、忘れちゃって。メールしてたの。その……お母さんに」
「そんな時間かかるのかよ」
「なんていうか……距離が掴めなくて。気まずいんだよね、色々と。ううん、気まずくしちゃってるんだよね、わたしが。顔を合わせるのがこわくて」
言葉に詰まりながら、事情を説明する。
「お前はどうしたいわけ?」
「一緒に朝ごはん、食べられるようになりたい。それで……いってきますって言えるようになりたい」
自分が思い描く親子のかたちをなんとか説明すると、ふうん、と柴谷は曖昧な相槌を打った。色々と質問したくせに、たいして興味がなさそうだ。
もはや話をきいているかすら怪しい。
一緒に朝食をとって、いってきます、いってらっしゃいの挨拶をして学校に向かいたい。
そんな願望はあるのに、わたしには勇気がないから逃げるように家を出るしかない。夢物語は到底叶いそうになかったから、「いつか、ね」と付け足す。こういうふうに保険をかける自分も嫌いだ。
「お前昼どうすんの」
「購買でなにか買おうかなって」
「残念だけど、今日は購買休み。食堂のおばさんが体調不良だって昨日お知らせされただろ」
柴谷に言われてハッとする。たしかに昨日、そんな放送が流れていたような気がする。
ということは、わたしは今日昼食抜きだ。朝食も昼食も抜くとなると、間違いなく午後の授業はお陀仏。
がっくりと肩を落とす。
朝食も昼食も自業自得だ。
いくら嘆いてもどうしようもないので、仕方ないと割り切るよりほかないだろう。
キュッと口を引き結んで決意を固めていると、突然、いぶかしげに眉を寄せた柴谷がわたしの顔をのぞきこんだ。
「お前、もしかして食わないつもり?」
「仕方がないかなって。購買休みならどうしようもないし」
正直、お弁当抜きは結構きつい。
肉体的にもきついし、午後の授業でお腹が鳴るときの恐怖に耐えないといけないというのなら、精神的にもかなりきつい。
……というより今は、彼の視線の近さに驚く。ものさし、用意したほうがいいんじゃないか。
顔をあげたすぐそばに柴谷の顔があって、途端に心臓が暴れ出す。ヒュ、と息が止まった。
三十センチものさしでは、明らかに長すぎる。
至近距離もいいところだ。
「近く、ない?」
付き合っているわけではないと言ったくせに、その距離はどう考えてもおかしい。少し身を乗り出せば鼻先が触れ合うくらいの距離に、彼はいた。
「……嫌?」
は、と息が洩れる。伏し目がちな彼の目がわたしを見ていた。いつも聞いているよりも低い声に耳が痺れる。
わたしは嫌なのだろうか。近い距離に彼がいることが。
自分に問いかけてみても、なかなか答えは見つからなかった。
黙り込んだわたしから目を逸らした柴谷は、ふ、と小さく息を洩らした。それは今まで一度も見たことがないほど、消えてしまいそうな微笑だった。
心臓を鷲掴みにされたような感覚になる。それは、彼の写真を初めて見たときの感覚と似ていた。
世界から音が消えて、時間が止まる。
わたしたちの呼吸音だけが、この世界の言葉だった。
しばらく動きを止めていた柴谷は、悪い、と言葉を落として後ろにさがる。
その瞬間、勢いよく空気が肺に流れ込んでくる。無意識のうちに息を止めていたみたいだ。
さっきは儚く微笑んでいたはずなのに、もうすでに彼は何も意識していないみたいに、平然としている。頬が赤くなることも、必死に息をしているようすも見せない。わたしに「近い」と指摘された気まずささえ感じさせないようだった。
わたしばかりが気にしているみたいで、なんだかくやしい。
柴谷にとって、わたしの存在ってなんなのだろう。
柴谷の顔を見るのがなんだか無性に恥ずかしい。目を合わせたら、さっき至近距離で見たときの熱が蘇ってくるような気がした。
会話をしないまま、黙って空を眺める。柴谷は相変わらず真剣なまなざしで写真を撮っていた。
いつかこの青空を窓ガラス越しではなくて、直接見てみたい。
柴谷のとなりで。
予鈴がなって、わたしたちはおもむろに立ち上がった。美術準備室にカメラを片付けにいく柴谷。
わたしが先に帰ろうとすると、柴谷はめずらしく「待て」と言った。
何か特別な用事でもあるのかと思ったけれど、そうではないらしい。完全に彼の気まぐれだった。
カメラを返してきた柴谷の少し後ろを歩いて教室に戻る。
教室に入る直前、戸に手をかけた柴谷は振り返った。
「しょうがねえな」
廊下の窓から差し込む明かりが、彼を静かに照らす。
「昼、集合な」
────あの場所で。
彼の唇の動きが、そう言っていた。
秘密の場所で、秘密の待ち合わせをとりつけた彼の背中が教室に溶けていく。
わたしは声を出せないまま、その背中を見つめていた。
柴谷はいったい何を考えているんだろう。どうして今日の昼、わたしに集合だと言ったのだろう。
そんなの、行ってみればわかることか。いや、でも。
教室の前でぐるぐると考えてばかりだ。行きたい、行きたくない、行かなきゃいけない。
行く? 行かない? 行ってもいい?
自分の中でさまざまな意見がぶつかり合い、最終的に出た答えは。
「……行こう」
堂々巡りに終止符を打とうと、無理やりにでも自分を納得させる。
教室に入ると、もう柴谷は男子に囲まれていた。さっきまでわたしと一緒にいたのに、目すら合わない。
無意識にこぼれ落ちたため息が、教室の空気に溶けていく。
「おはよう、葉瀬さん」
「山井さんおはようございます」
ひかえめに手を振る山井さんに挨拶を返し、わたしも自分の席につく。彼女は少し前のグループ活動のとき以来、こうして朝の挨拶をしてくるようになった。
横目で柴谷を盗み見る。柴谷は無表情かと思いきや、そばにいた男子の発言で急に笑ってみたり、おどけたようすの男子にツッコミを入れたり、呆れたように目を伏せたりと何度も表情を変えていた。
いつもの柴谷だ、と思う。
男子に囲まれているときに見せるめいっぱいの笑顔。女子と話しているときに見せる気だるげな顔。
そして、わたしと一緒にいるときに見せる優しい顔。
すべてが違うから、どれが本当の柴谷なのかが分からなくなる。
ーーああ、本当に。君は、わたしを困らせるのが上手だ。
*
「わたし、食べるもの何もないよ」
「ばーか。だから呼んだんだろうが」
昼休み。約束の場所に行けば、もう柴谷はそこで待っていた。
近くの階段のすみに二人並んで座る。
……狭い。柴谷の肩が触れている。
ざわざわっとなぜか胸騒ぎがして妙に落ち着かなくなる。
落ち着け、わたし。動揺することなんて何もない。
思いの外騒ぎだす心のうちを悟られないように、必死に言葉を探した。咄嗟に浮かんだ質問をそのまま口にする。
「柴谷はいつもここで食べてるの?」
「そうだよ」
端的な回答だった。
いつも教室に彼がいないのは、ここで一人過ごしていたからなんだ。
少し前から疑問に思っていたことの答え合わせ。
「鮭と梅、どっち」
「うめ」
何がなんだか分からないまま答える。袋からあらわれたのは、コンビニのおにぎりだった。
梅と書かれた包装のほうを手渡される。どうやらさっきのはおにぎりの具を訊いていたらしい。
「もしかして毎日コンビニ食品なの?」
「違えよ。今日はたまたま。葉瀬が弁当忘れるの見越して、神様が仕組んでくれたんじゃね?」
「へぇー、『神様』って。柴谷もそんなこと言うんだ、意外」
はいこれ没収な、とおにぎりが取られそうになったので慌てて死守する。
彼の口から「神様」という言葉が出てきたことがなんだかおかしくて、つい言葉に出してしまった。案の定怒りポイントに触れたらしい。怒りといっても、軽く咎められる程度のものだけれど。
「美味しくいただきます」
「感謝しろ」
感謝してるってば、と心の中で思う。
横柄な性格はどうにかしたほうがいいよ、といらぬことを思いつつも、昼食を分けてもらったので柴谷には頭が上がらない。素直に合掌をした。
コンビニ食品を食べる機会は多い。
できるだけ母の手を煩わせないためと、あとは自分で作るのが面倒くさいという理由から、休日の昼食はだいたいコンビニで済ませているから。
当然この梅おにぎりにはいつもお世話になっている。
それなのに、このおにぎりはまるで魔法でもかかったみたいだ。いつもよりも美味しく感じる。
わたしの横で、柴谷は静かに笑っていた。
普段の堅苦しい顔がふっと崩れて、柔らかい印象が前面に押し出される。不覚にも、きれいだと思った。
ふと浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「いつも一人なの?」
「悪いかよ」
ぶっきらぼうな口調はいつもと変わらない。
それなのに、彼の横顔は少しだけ寂しそうに見えた。
「悪いとかじゃないけど、その。さみしく……ない?」
まっすぐ先に空が見える。青く透き通った空。
溶けていきそうなほど澄んでいるから、そんな疑問が口をついたのかもしれない。
「お前は?」
え、と声が洩れる。
質問に質問返しはよくないと、過去に誰かが言っていた。
記憶が定かではないけれど、たしか中学時代の国語の先生だったような気がする。
「お前は寂しくないの?」
柴谷と、ようやく目が合った。
────わたしは、さみしいのだろうか。
なぞらえるように自分に問いかけてみる。
毎日息苦しいのは、わたしが寂しいから?
死にたい、消えたいとマイナスなことを思ってしまうのは、わたしが独りぼっちだから?
「……さみしい、のかな。わたし」
自分のことなのにわかんねえのかよ、と笑った柴谷は、わたしの頭をぐしゃっと撫でた。頭に触れられるのは初めてだったから、びっくりして固まる。彼の手が離れたあとも、手の感触がまだ頭に残っていた。
寂しいって、どういうことだろう。大切なものがなくなったとき、会いたいと願う人に会えないとき、自分の周りに人がいないとき。
それを寂しいというのなら、わたしは。
「そっか。わたし……さみしいんだ」
ずっと考えていた、息苦しさの理由。
わたしは、寂しがっている。無意識のうちに、心が勝手にぬくもりを求めていたんだ。
柴谷、と呼ぼうとした唇が震える。たった四文字を発音することさえも、今のわたしには難しかった。
強がっていたつもりはなかった。記憶を失ってしまったのは変えようもない事実で、避けられない運命だと、必死に自分に言い聞かせて生きていた。大人になるうえで、わたしに課せられた試練だと。
だけど、やっぱりわたしだけでは耐えられなかった。
ひとりはしんどい。一緒に支えてくれる人がいないと、わたしだけでは苦しい。
手足の動かし方、感情の出し方、息の仕方すら分からなくなってしまう。
きっとあの日、柴谷がわたしの前に現れてくれなかったら。こうして一緒に過ごす時間をつくってくれなかったら。
ーーわたしはとっくに息苦しさに溺れて死んでいたのだと思う。
食べ終えたおにぎりの包装をぎゅっと手のひらで包み込む。
そのままぎゅうぎゅうと握っていると、ふと、あたたかいものが頬を伝った。
となりから伸びてきた彼の指先が、ゆっくりとそれを拭う。
透明な涙だった。
どうして彼はわたしに執着するのか。
ここまでわたしにつきまとってくるメリットは何なのか。
彼と出会ったあの日から、ずっとその答えを探していた。
「安心しろ。俺が一緒にいてやるよ」
ああ、だから、彼は。
彼がしつこくわたしにつきまとってくる理由が、ひとつ分かった気がした。
彼はわたしの心を早々に見抜いていて、わたし自身でさえ気がつかなかった理由にも気づいたうえで、何も言わずにとなりにいてくれたのだ。
彼は優しいから。
自分が寂しいことにすら気づけない可哀想なわたしのそばにいて、わたしを支えてくれていた。
『俺は優しいから、ひとりぼっちで可哀想なお前のとなりにいてやるって言ってんだ』
彼は何も嘘なんて言っていなかった。
何か裏があるかもしれないとわたしが勝手に疑って、彼のことを信じていなかっただけで、彼の言葉には『本当』しかなかったのだ。
ふたりで、真っ青な空を眺める。雲ひとつない、いっさいの濁りもない。一色で描かれた空だった。
「青空ってさ」
「うん」
「すげえ広いじゃん。快晴って気分よくなるし、雨が降る心配もないし。雲が一個もなくて、一面の青じゃん」
「……うん」
「だけど、俺はそれが少しこわい。ずっと見つめてると、寂しい気持ちになる」
ふ、と柴谷は肩を揺らす。
見つめると、彼の透明な瞳がまっすぐにわたしを向いた。艶やかな双眸にとらわれた瞬間、心が小さく締め付けられる。
「……だからお前もかなって、思った」
その瞬間、また涙が頬を濡らした。なぜなのかは分からない。
「わたし」として、『葉瀬紬』の人生を歩みはじめてから、一滴も出なかったはずの涙。苦しい痛いと嘆いても、一向に流れるはずのなかったものを。
彼はこんなにも簡単に流させてしまった。
わたしの心は、あっさり彼に絆されてしまったのだ。
「なんで……分かったの」
さみしくないの?なんて。
澄んだ青を見て、そんな質問をしてしまった。それはきっと、彼と同じように空がさみしいと感じてしまったから。
「なんとなく」
「それって理由になるの?」
なるよ、と断言される。なんとなく、って曖昧な言葉だから、矛盾しているような気がするけれど。
「葉瀬にもいつか分かるよ」
「……ふぅん」
いつか、だなんて。
まるでわたしよりも先に進んでいるかのような物言いに、なんだかもやもやする。
わたしだけが子供で。
柴谷はわたしよりも大人に近づいていて。
わたしだけがいつまでも止まったまま。
それがほんの少し悔しい。
顔を背けていると、ふいに柴谷が「あ」と声を上げた。
「葉瀬」
「なに」
「そんな拗ねるなって。いいモンやるから」
「拗ねてないよ」
拗ねてないと言ったのに、それすらお見通しだと柴谷は笑っていた。彼は悪戯っぽく口角を上げて、何かを袋から取り出す。
これやるよ、と半ば強引に手渡されたのは一粒のキャラメルだった。
「食べてみ」
「……ありがと」
茶色い直方体を口の中に放ると、砂糖の甘さがひろがる。これくらいしつこい甘さは嫌いじゃない。
甘いものは好きだ。卵焼き同様。
「美味いだろ」
「うん。ありがとう」
わたしの反応に満足したのか、柴谷はククッと笑っていた。あくまでわたしが食べたのであって、柴谷自身が食べたわけでもないのに、なんだか嬉しそうだった。
それにしてもミルクキャラメルか。
甘いもの好きなのは意外だった。
少しだけ可愛いな、と思う。可愛いというのはあれだ。
見た目も言動も男性らしさが目立つから、ギャップが可愛いというだけの話だ。
ひとりでよく分からない訂正を挟みながら、ひっそりと脳内の柴谷図鑑に【甘いもの好き】と書いておく。もしかしたらこの先役に立つかもしれないし。
「……いや、役立つわけないか」
「は?」
おかしくなってひとりぼやくと、柴谷は眉をひそめた。その顔がおかしくてプッと吹き出すと、つられたように柴谷も笑う。
その表情があどけなくて、いつもとは違う彼をみられたような気がして、どこか懐かしい気持ちになる。
今日の空は快晴。
明日はどんな空なんだろうか。彼と見る雨は、どんな色をしているのだろうか。
彼と見る雪は、いったいどれほど美しく思えるのだろう。
「ありがとう、柴谷」
おう、と返事をした柴谷は、ふいっと顔を逸らした。
どこか素っ気ないように見える所作も、今なら気にしないでいられる。
彼はちょっと不器用なだけで、本当はとても優しい人だと気づいたから。
「……ねえ、柴谷」
「ん?」
「明日からも、ここで一緒に食べてもいい?」
「当たり前」
期待していた回答に、思わず頬がゆるんだ。
朝だけじゃなくて、昼も彼に会いたい。もっと彼のことを知りたい。
ふとそんなことを思っている自分にびっくりするけれど、本心だから訂正する必要なんてない。
毎日彼の声でわたしは目醒める。
一日の始まりには、必ず彼がいる。
その事実が、たまらなく嬉しい。
「ダメだったら誘ってねーよ」
彼が笑うたび揺れる黒髪が、陽光を浴びて銀色に輝いていた。
「スマホ、新しいのに変えておいたからね」
母からそう告げられたのは、記憶を失った退院後すぐのことだった。
あ、はい。と短い反応しかできなかったことをよく覚えている。
「もちろん紬が使いたかったら、前のほうを使ってもいいよ。まだ契約したままだから」
恵まれていると思う。
申し訳なくなるくらいに。
結局、前のスマホはまだ一度も使えていない。
前の自分が、否────本当の葉瀬紬が誰とどんな会話をしていたのか、見るのがとてもこわかった。
まったくの別人のスマホを覗きみているような感じがして、気持ち悪くて仕方がなくなりそうだった。
だからスマホは押し入れに閉まってある。購入時に貰う箱に入れたままで。
新しいスマホの通話履歴を開く。
【母】という文字だけが連続している。日付を見るとだいたい三日おきくらいだ。
スクロールしていくと、一番最初の履歴に【父】という表示があった。
試しにかけてみたときだと思う。
けれど、父との通話履歴はそれが最初で最後だった。とくに用事がないので、電話をすることはおろか話すことすらあまりない。何かあれば、話すのは母ばかりだ。
友達との履歴はまったくない。今のところ、わたしのスマホの履歴を埋めているのは両親だけだ。
『連絡先』をタップすると、一番上に表示された文字にドキリとする。
【柴谷】
ただただシンプルだった。
意地でも名前を使いたくないのか。
そう聞いたとき、彼は少し考えてから、
「敢えてだよ」
と笑っていた。
もうすっかり耳に馴染んだ苗字。
柴谷、しばたに、と。
最近のわたしはもう彼の苗字しか呼んでいないような気がする。
彼とお昼を共にするようになってから、はやくも二週間。
『葉瀬スマホ出して。連絡先』
アドレスの交換はあっさりしていた。
言葉足らずの彼が差し出すスマホのQRコードを読み込む。
たった、それだけ。
正直なところ、連絡することがないから意味があるのかは分からない。
けれど心の持ちよう的に、少し違うような気がする。
彼の名前があるだけで、不思議と支えられているような気持ちになるのだ。
その時ピロンとメールの着信。フォルダを開くと、母からだった。
『ごめん。今日遅くなるから冷蔵庫のご飯食べておいてね』
共働きの両親。わたしがこうなってしまってから、余計に働きに出ているような気がする。
間違いなく大きな負担になっているのが申し訳ない。
だからわたしができることといえば、自分でご飯を食べてできるだけ手間を取らないように片付けておくだけ。
料理するよと言えば、それは大丈夫だと断られた。毎日自分のお弁当をつくるだけでじゅうぶんだと。
「いただきます」
チッチッと時計の秒針が時を刻むだけ。
さみしい……と言われれば、そうなのだと思う。
決して口には出せないけれど、寂しい気持ちに変わりはない。
テレビをつけることすら面倒で、音のない部屋のまま、夕飯を口に運んでは咀嚼する。
わたしが唯一誰かと摂る食事は、昼食だけ。
食器を洗って二階に上がる途中、ふいに目に留まった押し入れ。
今まで気になったことなどなかったのに、無性に開けたくてたまらなくなった。
無意識のうちに手を伸ばしていたらしい。冷たい金具に指が触れる。
「……っ!!」
タイミングを見計らったかのように、キィィンと耳鳴りがして、次の瞬間にはとっさに手を離していた。ドクドクとものすごい速さで鼓動が波打っている。目がまわって、呼吸が浅くなって、歯を食いしばっていないと今にも倒れそうな頭痛におそわれる。
嘘でしょ?
「無理だ……」
後ずさって、金具をじっと見つめる。
何か大切なものがこの中にあるはずなのに、それは痛いくらいにわかっているのに、どうしても身体が動かなかった。
視線が一点を見つめる。身体だけじゃなく、視線までもが動かなくなることがあるんだと。
くるりと背を向けて、逃げるようにその場を去る。
秋だというのに、べっとりと全身に汗をかいていた。
自分の部屋に入ってもなお、身体から汗が噴き出してくる。
電気をつける余裕などない。窓から差す夕日が、家具の影をつくる。
呼吸を整えようと深呼吸を繰り返しても、わたしの足は震えたままだった。
*
「柴谷みて! 今日はたまご焼き二個入ってまーす」
「よかったな」
「反応薄っ! てか、まーたコンビニ食品じゃん」
「悪いかよ」
「身体にはあんまりよくないじゃん。仕方ないなぁ、そんなかわいそうな柴谷にはこのミルクキャラメルをあげよう」
「甘いの苦手って言ってんだろ」
「あはっ、知ってる!」
「おはよう、紬」
午前四時四十分。いつもどおりの朝をともに迎えたのは母だった。
朝はコップ一杯の白湯を飲むのがいい。そう聞くから、毎朝かかさず飲むようにしている。
リビングのドアを開けると、もう母はソファーに座っていた。
驚いて突っ立ったままのわたしに、母は何度かまばたきをしてから、
「今日ははやく目が覚めちゃって。あ、でも今起きたところだけど」
と呟いた。それきり、時計の秒針の音しか聞こえなくなる。
はやく目が覚めちゃってという割には整っている髪や、しっかり開いた目を見る限り、それを寝起きと呼ぶには少々苦しい。
「わたし、お弁当を作りにきて」
「お弁当なら作ってあるよ。お母さんのじゃ満足できないかもしれないけど、少しでも楽になるといいなと思って」
わたしに被せるように告げられたその言葉で確信した。
このはやすぎる時間よりももっとはやくから、母は起きてわたしを待っていたのだ。
嘘をつくのが下手なんだと思う。
きっと、まっすぐ生きてきた証だ。
「そう、なんだ」
相手が嘘をついていると気づいた時、その反応に困ることがある。何か理由があるのだろうかと、わざと気づかないふりをすることもあれば、指摘することもある。
すべては相手との親密度で決まることだけれど、嘘を見過ごしたことで後々大きな後悔になったり、逆に見破ってしまったせいで関係にヒビが入ったりする。
そこの見極めが難しい。
「たまにはお弁当作るのもいいわね、楽しくて」
嘘を流したわたしに、母は小さく笑ってキッチンへ向かった。
「あの、お母さん」
「ん?」
「お弁当つくってくれてありがとうございます」
しまった。
こういうときこそ敬語を外すべきだった。言ってしまってから後悔するだけで、言い直すこともできないのでうつむく。
「いいのよ」
それは何に対してか。
お弁当ありがとうに対する言葉か、敬語のままでごめんなさいに対する言葉か。
その真意は、母の微笑みからは読みとれなかった。
「そうだ紬、朝ごはん食べていく?」
目が合う。
これが"本当"なんだ、と唐突に理解した。
考えつく早起きの目的などこれしかないというのに、母はなんでもないトーンのままきいてきた。
あくまで"普通の会話"であるように、その場で思いついたように告げられた言葉が耳を抜ける。
母はこれをきくためだけに、早起きをしてわたしを待っていたのだ。
偶然起きてしまったふうを装いながら。
ずっと願望として抱いてはいたけれど、口に出したことはなかったから、まさか母がここまでするなんて思わなかった。半ば夢を見ているような気持ちのまま、こくりとうなずく。
「……食べる」
よかった、と小声でつぶやいた母に、学校の支度をすると告げ、わたしは自室に戻った。
想定外の出来事にまだ少し取り乱している。深く息を吸って、呼吸を整える。
今日は学校に行くのがいつもより遅くなるだろう。
朝ごはんを食べていく以上、いつもと違う時間になるのは当然のことだ。
柴谷に連絡すべきか迷う。そのためのスマホだ、と叫ぶ自分もいれば、そんなことで連絡するのか、と囁く自分もいて、両極の意見に翻弄されてしまう。
【今日学校に行くのが遅くなる】
悩んだ結果、国語の教科書に載っている例文のような、なんともお堅い文章になってしまった。業務連絡なのか、と脳内で一人ツッコミをいれる。
それから身支度をしてリビングに向かい、朝食をとっている間も、妙にそわそわして仕方がなかった。我ながら執着しすぎかと思ったけれど、彼からの返信をまだかまだかと待っている自分がいるのは誤魔化しようがない事実だった。
久しぶりにとる朝食は、やはり重かった。今まで一日二食生活だったわけなので、当然のことといえば当然だけれど。
母はじゅうぶんなほどの朝食を用意してくれた。いつから準備して、いつから待っていたんだろう。断らなくてよかった、と安堵できるほどのクオリティだったため、余計に申し訳なくなる。
朝食を口に運ぶわたしを、母は向かいの椅子に座って静かに見ていた。とくに会話をするわけでもない。だけど、沈黙にいつものような気まずさは感じなかった。むしろ今までにはない心地よさを感じていた。
まさか、こんなにすぐに願いが叶ってしまうなんて。ただ、わたしからきっかけをつくったわけではなく、これはあくまで母の優しさの結果だ。
そこは履き違えてはいけない。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうね、紬」
合掌すると、母は泣きそうな顔で微笑んだ。流しまで食器を運びながら、じゅうぶんすぎるほど丁寧に作られていた朝食を思い出す。
お礼を言うのはわたしのほうなのに、この人はどこまでいい人なんだろう。わたしは親に恵まれすぎている。
「紬。本当にありがとう」
もう一度お礼を告げた母に、うん、とうなずく。じんわりと心の内側からあたたかいものが込み上げてきた。
部屋に戻ると、机の上に置いてあるスマホに着信があった。言うまでもなく、柴谷からだ。
深呼吸をして、メッセージ画面を開く。何と返ってくるのか気になってそわそわしていたのに、送られてきたメッセージをみて拍子抜けしてしまった。
【了解】
ふは、と笑みが洩れる。端的すぎて逆におもしろい。
業務連絡が成立してしまったみたいだ。
けれど柴谷の返信はこれがしっくりくるような気がした。逆に長文を送られてきたほうが、それこそ彼のイメージ崩壊につながる。
可笑しくなってひとり笑っていると、追加でメッセージが送られてくる。
なんだろう。端的すぎて、言い忘れたことでもあるのだろうか。
【待ってる】
液晶画面を目でなぞり、気付けばスマホを凝視していた。
ぎゅっと心臓が掴まれたように苦しくなる。
待ってる。
柴谷は、わたしを待っている。
彼の文章をそのまま受け取っていいのならば、こんな解釈になる。
ここでまた「そんなはずがない」などと思えば、間違いなく彼からのお叱りが飛んでくるだろう。
いい加減信じろ、と脳内で勝手に再生されてしまうほど、わたしは彼と一緒にいすぎてしまった。
柴谷はすごい。たった四文字だけで、わたしが学校に行く理由をつくってくれるから。
学校に行けば彼が出迎えてくれる。そんな安心感を与えてくれる存在だから。
ブラウンのコートを制服の上に羽織る。玄関へ向かう途中でリビングから顔を出した母が「いってらっしゃい」と笑みを浮かべた。
いってきます、とまだ上手く動かない口から声を出す。誰かに挨拶をして出かけるのは、「わたし」として初めてだった。
「紬」
ドアノブに手をかけたところで、ふいに母が名前を呼んだ。
「気をつけてね」
わたしと同じようにまた、母も緊張しているのかもしれない。わたしにとっての母も、母にとってのわたしも、お互いに他人でしかないのだから。
それでも母はわたしに向き合ってくれようとしている。
わたしはいつも逃げてばかりで、こうなってしまったのは運命だったと甘えて、向き合おうとしなかったのに。
それでもこの人は、お母さんは、ずっとわたしを見てくれていた。
うん、とうなずく。
ずっとわたしたちの前にあった見えない壁が、徐々に崩れていく音がした。
息を吸って、逃げ続けていたその目に視線を合わせる。とても優しいまなざしが、わたしをとらえた。
ずっと言えなかったその名前を、今なら紡げるような気がした。
「ありがとう、お母さん」
_____
ドアを開けると、秋風が頰を突き刺すように吹いた。頰が冷えたことで、身体までもがぶるりと震える。最近、めっきり秋めいて肌寒くなった。
「あ、紅葉」
見上げると、秋晴れの澄んだ空に、紅葉がひらひらと舞っていた。青と赤のコントラストに、思わず目を細める。
……どんな色合いにしよう。配色は。メインのものは何にしよう。
「え?」
ふと思考が変な方へと曲がっていることに気づいて、思わず足を止めた。
わたしはいったい何を思った?
どうしてそんなことを考えた?
自分で自分に問いかけてみる。
けれどいくら考えても納得のいく答えは導き出せなかった。不完全燃焼のようなもやもやした気持ちのまま、紅葉が舞い散るなかを歩く。
ーーさっき、わたしではない『何か』が出てきたような感覚だった。
ずっと恐れていた。
以前の葉瀬紬が、わたしを乗っ取ろうとする……違う。
葉瀬紬という『本物』が、『偽物』のわたしから全てを取り返そうとする日を。
それは信じられないほど苦しいこと。
だけどきっと周りの人たちは本物を望んでいる。両親はたぶん、安堵で涙を流すだろう。わたしと距離をとっている友達はまた寄ってきてくれるようになるだろう。山井さんも今より親密に話しかけてくれるようになるかもしれない。
柴谷は……彼も、そっちの方が嬉しいと思う。
今のわたしは誰にも求められていない。
だからわたしははやく記憶を取り戻さなくちゃいけない。
みんなのために、消えなくてはいけない存在。
無意識のうちに唇を噛んでいた。
涙を流さないためなのか、悔しさを抑えるためだったのか。
……悔しいのか、わたしは。
泣くほど悲しいのか、わたしは。
消えたいと思って生活していたはずなのに、いつしか消えたくないと思ってしまうようになってしまったのか。
それが本当だったとしたら、きっかけをくれた人は、たった一人しかいない。
唯一、心当たりがある。
そのときふと、聞き慣れた声が耳をかすめた。
「おはよ、葉瀬」
下を向いていたから、急に声が飛んできてびくりと肩が跳ねた。
最初は、ついに幻聴が聞こえるようになったのかと思った。
けれどどうやら、幻ではなかったらしい。
「しば……っ、なんで、いるの?」
「朝の時間取れないだろうから。今日だけ特別」
「は……?」
あどけない顔で笑う柴谷のもとへ駆け寄る。
「でも、遠いでしょ? どうしてわざわざ」
「迷惑?」
「それはないけど、でも」
迷惑なんて、思うわけない。けれど学校からここまで結構距離があるはずだ。見たところ自転車というわけでもなさそうだし、きっとここまで歩いてきたのだろう。
どうしてわざわざそこまでしてわたしを。
それに、どうしてわたしの家を知っているのか。
そんな疑問が生まれたけれど、それはすぐに自己解決した。
だって、答えはたったひとつだけ。昔のわたしが、柴谷に教えたのだ。それほどの親密度だったのだ、わたしたちは。
こんなところまで迎えに来るなんてお人好しなのだろうか、と考えたけれど、その考えはすぐに排除された。だって彼は、あまり執着しないタイプの人間だから。自分を犠牲にして誰かのために働くとか、みんなの幸せが自分の幸せだとか、そういう人たちの部類ではない。
クラスでも誰かのために動いているのを見たことがないし、リーダー役を進んで引き受けているわけでもない。もちろん頼まれたら応じるけれど、それまでだ。
基本的に、人に興味がない人だと、関わりが増えた今でも思っている。
どうして、と理由を求めるわたしに、苛立ったようにくしゃっと頭をかいた柴谷は、そっぽを向いたまま告げた。
「会いたくなったから」
「……え」
「これが理由。お前うるさいから。これで満足?」
言葉は刺々しいのに、全然嫌な気がしないのは、ひとつ前に言われた言葉があまりに強烈すぎたからかもしれない。
「……なにそれ」
ほんと、なにそれ。
会いたくなったって、なにそれ。
柴谷はまた飄々としていた。彼には照れという感情がないのか。
それとも、本当に思っていないから簡単に言葉にできるのか。
恥ずかしげもなくそんなことを口にする柴谷。
彼は余裕そうで、わたしばかり意識してバカみたい。
それきり何も発せなくなって、口を噤んだ。
どうして、なんでとまた訊きたいことが増えたと言うのに、同じことを繰り返し言われたらもう心臓がもたないような気がした。
「目覚めは早いほうがいいだろ?」
柴谷が言葉を紡ぐ。
心臓を鷲掴みにされたような感覚だった。この感覚は、三度目。初めて写真を見たときと、至近距離で見つめ合ったとき。そして、今だ。
あ、と頼りない声が洩れたきり、話しかたを忘れたみたいに声が出なくなる。
そのかわりに心臓の音だけが響くものだから、柴谷に届いてしまうんじゃないと心配になった。
胸の内側から叩かれているみたいに、トントンと音が鳴る。
「ねぇ柴谷……っ」
歩き出したその背に声をかける。
ねぇ、柴谷。
わたし、君の。
「写真、撮ってもいい?」
何か形に残しておきたかった。
これから先、彼を忘れることがあっても、その度に思い出せるように。
ああ、そうか。だから柴谷は写真を撮るんだ。
この一瞬の幸せを、たしかな青春を、忘れずに残しておくために。
スマホを構えたわたしを見て、驚いたように目を開いた柴谷は、それから少し笑った。
この瞬間を、思い出せますように。
彼と離れる日が来ても、わたしがわたしじゃなくなる日が来ても、何度でも、なんどでも。
その日、空っぽだったわたしのカメラロールには、初めての色が加わった。
【全国高校生フォトコンテスト】
図書室に行ったときのことだ。
少しでも記憶喪失の手がかりがほしくて、その類の本を抱えて貸し出しカウンターに向かう途中。
ふと、棚に置かれた冊子のタイトルに目を惹かれた。
特別写真に興味があるわけではない。
けれど、【フォト】という字に足が止まってしまったのは、同時に柴谷の顔が思い浮かんだからだ。
「気になるの?」
囁く声に振り向くと、『矢崎』というネームプレートを首から下げた女性が立っていた。
司書さんか、と理解する。
「気になるっていうか、その」
「ん?」
「とも……知り合いの写真が載ってるのかなって、思って」
気になっている以外の何でもないのに、すぐに否定してしまって後悔した。柴谷のことを友達と呼ぶのもなんだか憚られて、言葉に詰まってから答える。
けれど矢崎さんはとくに気にしたようすもなく、「そうなのね」と穏やかに笑った。
「見ていってもいいわよ」
矢崎さんは、わたしが持っていた本を受け取り、手続きを始める。手持ち無沙汰になったわたしは、まるで吸い寄せられるように、フォトコンテストの冊子を開いていた。
フォトコンテストとやらは、毎年開催されているらしい。この冊子は今年のもので、ついこの間結果が出たのだという。応募されている写真はすべてポートレート──人物の写真──だった。
この学校の生徒もちらほら受賞しているようだった。
受賞した写真の横に、高校名と名前が載っている。
そこに柴谷の写真はなかった。
何度も最初から最後までくまなく目を通して、目次も見返した。けれど、何度見ても彼の名前はそこには載っていなかった。
「あった?」
貸し出し手続きを終えた矢崎さんの声に、力なく首を振る。
信じられない。
てっきり受賞しているものだと思っていた。
わたしに写真の才能なんてない。
どの写真が優れているかの判断なんてできやしない。
それでも、彼の写真は評価されるべきだ。
初めて見たとき本当に衝撃を受けた。彼が切りとる世界は繊細で、美しくて。
素人のわたしでも、心惹かれるものが彼の写真にはあるのだから。
「ちなみに、その人のお名前は?」
正直ためらった。
柴谷の写真を探していると伝えるのが、どこか気恥ずかしかったからだ。
しばらく逡巡したのち、顔をあげる。
彼の名前を伝えてでも、彼の写真が載っているのを見たかった。
「柴谷です」
そう告げた瞬間、矢崎さんの顔がスッと曇る。ほとんど一瞬の表情の変化を、わたしは見逃さなかった。
ーー見逃せなかった。
「柴谷のこと、知ってるんですか」
「え?」
これ、訊いてもいいのかな、とか。
気づかなかったふりをしたほうが幸せなんじゃないか、とか。
普段なら嫌というほど考えるはずのそれを、今はまったく気にしていなかった。
困惑したように苦笑する矢崎さんは、今にも逃げたそうに顔を歪めていたけれど、やがて観念したように「写真撮るのが上手い子よね」と言葉を落とした。
写真部顧問はともかく、司書さんでもそんなふうに認識をしているなんて。やっぱり彼はこの学校内で知名度が高いんだ、と理解する。だったらなおさら、彼のことを知りたい。
どうして冊子に名前が載っていないのか。
「何か、理由があるんですか」
「え?」
「柴谷は、どうして載ってないんですか。受賞しなかったんですか」
矢崎さんの言い方だと、彼には間違いなく才能があるみたいだ。
受賞しないなどあり得ない、と。
ーー写真撮るのが上手い子よね。
矢崎さんは柴谷の写真を見たことがあるんだ。もしかしたら、わたしが知らない過去で、彼はコンテストに応募していたのかも知れない。そして、彼の写真は評価されてきたのだろうか。わたしが、知らないだけで。
矢継ぎ早に質問するわたしを一瞥した矢崎さんは、窓の外に視線を移した。
薄暗い曇で覆われた空から、ポツポツと小雨が落ちてくる。
矢崎さんの口から告げられる真実を聞くのが怖い。それなのに、わたしは夢中になって矢崎さんを見つめていた。
フォトコンテストの冊子を持つ手に力がこもる。
しばらく逡巡したように黙っていた矢崎さんは、小さく息を吐いて、そっと目を伏せた。
「応募しなかったのよ、彼」
─────
───
いつもの場所で、同じようにカメラを構える柴谷の背中を見つめていた。早朝の空気が日に日に冷たくなっているのが分かる。
「ねえ、柴谷」
「ん?」
最近、時の流れがはやい。なんて、大人みたいなことを思うようになったものだ、と思ったけれど、あと一年も経たずしてわたしは成人するらしい。すっかり大人の仲間入りだ。
漠然としていてこわい。やっていけるのか、ちゃんと生きていけるのか、こわい。
それでも、柴谷がとなりにいてくれるのなら、そんな日がずっと続いていくのなら、なんだかやっていけそうな気がする。最近はとくにそんなおかしなことを思ってしまうのだ。
彼の瞳がスッとわたしに流れる。世界を切り取っていた硝子玉のような瞳は、わたしだけを捉えていた。
「写真、コンテストには出さないの?」
彼はコンテストに応募しなかった。その事実を知ったのは、先週の水曜日のこと。
本当はもっとはやく理由を聞きたかったのだけれど、彼にとって触れてはいけない部分のような気がして、なかなか踏み出せなかった。
誰だって、触れられたくない部分がある。わたしは、わたしの記憶に関してあまり触れられたくない。
嫌だ、というより、どう説明したらいいかわからなくなるから。今のわたしの状況を説明しろと言われても、できないと首をふるしかない。
思えば、彼は一度もわたしの記憶について訊いてきいたことがなかった。周りの憐れむ視線を取り払ってくれることはあっても、彼から話題に出したことは一度だってない。彼は最初から、まるでわたしがフツウであるかのように接してくれていた。
写真を撮る彼のとなりで、ずっと思っていた。部活として活動しているのならば当然コンテストに応募しなければならないだろうし、彼の実力なら何かすごいことが起こるに違いないと思ったから。
それなのに、どうして応募しないのか。深刻な悩みを聞くためじゃなかった。
ただ単に、このときのわたしは自制心よりも興味が勝ってしまった。
「俺、写真部じゃねえし」
カメラを構えながら、柴谷が答える。
聞き捨てならない言葉に目を丸くすると、柴谷は「知らなかったのか」とあきれたようにつぶやいた。
「じゃあどうして柴谷は写真撮ってるの? 部活は?」
「写真部だとお題が決まってるせいで好きなもの撮れないから。だから部活入ってない」
たしかに、校内に飾ってある写真は建物や校内のとある場所の場合が多い。どうも、顧問がやる気に満ち溢れた人で、写真部なのに活動量が多すぎると噂を耳にしたことがある。写真部なのに、とか言ったら怒られてしまうだろうけれど。
一方、柴谷はもっぱら空や景色の写真だけだ。これといったメインの被写体がない。
そうか、と納得する。彼に写真部は自由が効かないのだ。
「人物の写真は撮らないの?」
「ポートレート?」
「うん。いつも景色ばっかりじゃん」
先週見たコンテストは、ポートレートであることが条件だった。もしかすると柴谷はポートレートが得意ではないのかもしれない。そう思ってその他のコンテスト結果も見てみたけれど、そのどれにも柴谷の名前はなかった。
少し視線を遠くへ向けた柴谷は、「過去に」と続ける。
「過去に二人だけ、撮ったことがある」
「え、誰のこと撮ったの?」
「そんなの教えるわけないだろ」
ぶっきらぼうに突き放された。
「もし、次にポートレートを撮ることがあったら、被写体はもう決めてるから」
「だれ?」
「好きなやつ」
あまりにもまっすぐ告げられたから、聞き間違えたかと思った。
目を見開いて聞き返そうとすると、
「それに俺のは趣味だから。撮りたいって思った時に好きなもの撮んの」
誤魔化すように柴谷が言う。これ以上は何も教えてくれなさそうだったから、諦めることにした。本題は、彼がどうしてコンテストに応募しなかったかだ。
「でも部活に入っていなくても、コンテストに出すことはできるでしょ」
カメラから顔を上げて、まぁ、と柴谷は曖昧にうなずく。
どうして何のコンテストにも応募しないのか。才能が評価されるせっかくの機会なのに、出品しないのはもったいないと思ってしまう。
「柴谷、写真撮るの上手なんだから。コンテスト出してみればいいじゃん」
「いや、いい」
「もったいないよ。何か賞をもらえるかもしれないのに」
頑なにうなずかない彼は、いったい何を思っているのか。さっぱり分からない。
何か好きなことがあって、実力も持っているのなら、チャレンジしてみるのは悪いことではないと思った。
挑戦するのは素敵なことだし、もし結果が伴わなかったとしてもわたしはきっと彼を讃える。そして、何度だって背中を押し続ける。
だから勧めたつもりだった。たとえそれが多少のおせっかいだったとしても。
「どうして? もし結果が出なかったとしても、それって無駄なことじゃないでしょ。チャレンジしてみたらいいじゃない」
「お前」
気づけば、わたしを見る彼の瞳は、険しいものへと変わっていた。
ぐっと言葉に詰まる。苛立ったように眉を寄せた柴谷は、しばらく気を鎮めるように目を閉じていたけれど、やがてゆっくりと開いた。
そこには、さっきまでのあたたかさも、柔らかさも、何ひとつなかった。
ただあるのは、たしかな拒絶だけ。
「お前は俺の何なんだよ。自惚れてんじゃねえよ」
途端に身体が固まって動かなくなる。口の中が乾燥していくのが分かった。
耳は言葉を拾っているのに、脳へと届くことはない。
柴谷はわたしを拒絶している。
柴谷はわたしに怒っている。
それだけが、事実として存在しているだけだった。
柴谷はわたしをきつく睨みつけて、さらに言葉を続けた。
「無責任なこと言ってんじゃねえよ。お前、何も知らないくせに」
ーー何も知らないくせに。
言葉にされて、はじめて気がつく。わたしは彼のことを何も知らない。
彼がわたしのそばにいてくれる理由。彼がひとりで昼食を食べていた理由。そして、彼がコンテストに挑戦しない理由。すべて、人間の行動には理由がある。
それなのにわたしは彼の心の声を聞かないで、勝手に責めるようなことを言ってしまった。
踏み込みすぎた。傷つけてしまった。
彼が心を開いてくれているような気がしたから。距離が近くなったような気がしたから。
つい調子に乗って訊き過ぎてしまった。自惚れていると言われて当然だ。
「ごめんなさい」
嫌われてしまったかもしれない。もう、こうして朝の時間を過ごすことも、一緒に昼食をとることも、たまにスマホでやり取りすることも、すべてなくなってしまうかもしれない。
柴谷がいなくなってしまったら、わたしは。
涙がこぼれそうになる。うつむいたわたしの耳に、柴谷の声が飛んできた。
「────未完成だから」
思わず顔をあげた。
視界のすみで柴谷の横顔を捉える。彼がどんな表情をしているのか、わたしにはわからなかった。
ーー未完成。
いまだ、かんせいしていない。
よく澄んだ声だった。その言葉が耳に届いたとき、気づいたら震える声で問いかけていた。
「……完成、させないの?」
『未』ってことは、『まだ』今はないだけで、これからがあるってことだから。未来と同じように、まだ先があるってことだから。
じゃあ、柴谷の写真が完成するのはいつなのだろう。そもそも、一瞬を切り取るはずの写真が未完成ってどういうことなのか。
「しないよ」
まっすぐに目が合う。いつのまにか、彼の瞳はわたしのほうへと向いていた。
透明な瞳だった。そこに何を映しているのか、わたしは読み取ることができない。
「完成しないよ、一生」
そう言った彼は、どこか泣きそうな顔をしていた。
*
「コンテスト、間に合うかな」
「分かんねえけど、でもきっとできるよ。俺たちなら」
「そうだよね! よしっ、目指せ最優秀賞!」
「ついてきて、葉瀬」
「もちろん! 一緒に頑張るためにあたしはここにいるからね!」
「なぁ葉瀬」
「ん?」
「もしこの作品が完成したら……そしたら────」
「ねえ、四組の葉瀬さん知ってる?」
「あー……あの記憶喪失の?」
「そうそう! やっぱり何にも覚えてないみたいだよ」
"いつもの場所"に向かう途中、通り過ぎようとした空き教室から声が聞こえて、思わず立ち止まった。
なんでもない会話だったなら、なんの気にもとめずにスルーしていたはずだった。けれど聞こえてしまった。
葉瀬さん、と。ようやく耳に馴染んできた名前が。
「えー、じゃあ柴谷くんのことも覚えてないの?」
「自分のことも全部忘れてるらしいから、そうだと思ったんだけどさ」
「なーに。まさか覚えてたの?」
「わかんない。けどずっとふたりでいるらしいよ」
「あたしこの前ふたりで登校してるの見たよ」
まじー?と声が上がる。
どうやら柴谷はここでも有名人らしい。本人のいないところで話題にあがるということは、そういうことだ。
会話の内容が予想できてしまうのはなぜなのか。これはただの勘だけど、柴谷はきっと一目置かれる存在なのだと思う。
私とは違う意味で、目立ってしまう人。
そんな彼と一緒にいるのだから、わたしに刃物が向けられるのは当然だった。
ここから離れなきゃ。ここから先は、聞いてはだめ。
きっと傷ついてしまう。
それなのに、足が地面に張り付いてしまったように動かなかった。たらりとこめかみを汗が伝う。無意識のうちに唇を噛んでいた。
「柴谷くんの記憶だけは残ってるとか?」
「そんなことあるのかなぁ」
「ありそうじゃない? じゃないとどうやって仲良くなるの」
「葉瀬さんから声かけたとか」
「四組の子からきいたけど、性格がまるきり違うんだって。前とは違って空気みたいだって言ってたから、柴谷くんなんかに話しかけられるわけないよ」
「じゃあ柴谷くんからってこと?」
「わかんない」
声からして女の子。きっと彼女たちにとっては、昼食の話題の一つだったのだろう。
聞かせてやろうと仕組まれたわけではなく、たまたまわたしが通りかかってしまっただけ。意地悪してやろうとか、嫌がらせしてやろうとか、そういうつもりではなかったはずだ。
だから、なかったことにできるよね、紬。
聞かなかったことにできるよね。
噛み締めすぎたのか、唇から血の味がする。それでも、今にも溢れ出してしまいそうなものをこらえるには、こうするしかなかった。
それが頬を濡らすことがないように、必死に。
それなのに、視界がぼやけていく。最近、傷つくことが少なかったからかもしれない。
前は傷つくことが当たり前の生活だった。クラスメイトの視線に、言葉に、空気に、心を痛めつけられてばかりだった。
柴谷は。彼は、何があってもわたしを傷つけてはこなかった。多少意地悪をされたり厳しい視線を送られたこともあったけれど、それでも彼は理不尽にわたしを傷つけるようなことはしなかった。当たり前すぎて気が付かなかった事実に、今さら気づく。
だから息がしやすかったのか。
彼のとなりにいるときだけは、繕うことのない自分でいられた。それは、彼に心を預けていられるほど、信頼していたからなのかもしれない。
ぽろ、と涙が落ちる。わたしはずいぶんと弱くなってしまった。
彼の優しさに浸りすぎたせいで、自分が置かれている状況を忘れていた。
「どうせ可哀想な自分アピールでもしたんじゃない?」
「ぜったいそうだよー」
「まったく、そういうことしてるから────」
突然、声が聞こえなくなった。心だけでなく耳までやられてしまったのかと思ったけど、違った。
わたしの耳はそっと覆われていた。あたたかい何かによって。
「遅い」
魔法だ。そうか、彼は魔法が使えるんだ。
わたしの身体を素直に動かしてしまう、そんな魔法を。
くるりと振り向かされて、彼を認識した途端、涙が溢れて止まらなくなった。わたしは必死に声を殺して泣いた。
どうしてこんなに安心するんだろう。彼のまなざしは、声は、こんなにも優しいんだろう。
「聞かなくていいから。こっち来い」
いつからいたの。なんでいるの。
ねえ、柴谷。
「どうして、わかったの……っ」
いつだって強引。最初から、彼はこんな人だった。
まっさらな状態のわたしに、なんの躊躇もなく近づいて、息の仕方を教えてくれた人。毎朝わたしを待っていてくれる人。目醒めさせてくれる人。
言葉よりも行動で。行動よりも表情で。なにより、目で。すべてを伝えてくれる人。
どうしてわかったの?
ーーわたしが、ここにいるって。
手を引かれながらこぼした言葉に、彼は静かに振り返った。それから、懐かしい顔で笑う。
「なんとなく」
前は、そんな回答では納得なんてできないと思っていた。
けれど今は、その言葉を信じていたいと。信じさせてほしいと。
ーー…ただそれだけを、願った。
────────
────
「ずいぶん遅かったから」
「会話の内容聞いたら、離れられなくなっちゃって。ごめん」
「謝んな。別に責めてるわけじゃない」
いつもの場所についてわたしの気持ちが落ち着くまで、柴谷はずっとわたしの手を離さなかった。
ようやく落ち着いた頃に、ひとつふたつ会話を交わす。
柴谷は突然、お弁当袋の中から何かを取りだした。渡されたのは、前もらったのと同じ包み紙のキャラメル。
「……キャラメル」
「元気出るだろ。やる」
ふは、と笑みがこぼれる。元気が出るってなに、と思う。
柴谷にとって、キャラメル配りは餌付けなのか。まあ、キャラメル好きだし、べつにいいけど。
「ありがと」
「そっちのがいいよ」
「え?」
「笑ってるほうがいいよ、葉瀬は」
何言ってるの、と返しながらキャラメルを口に放り込む。やっぱり甘い。
しばらくぼうっとわたしを眺めていた柴谷は、やがて床に手をついて少しのけぞった。合わせていた視線が逸れる。
「何言われてたか知らねえけど、変に気にすんなよ」
うん。気にしなくていいよね。
「お前のことは俺がちゃんと見てるんだから」
そうだよね。噂を信じる人よりも、わたしを見てくれる人を大切にしたい。
何度も心のなかで繰り返す。
前を向かなきゃ。気にしないで、前に進んでいかないと。
そう思っているのに、胸に突き刺さった小さなトゲが、動き出そうとするわたしを止めるように痛みだす。
『まったく、そういうことしてるから──────』
この先にはどんな言葉が続くのか。
それだけがずっと気になって、柴谷の言葉に素直にうなずくことができない。
「どうしたら元気出んの」
「……元気だよ。すっごく元気」
「嘘つくな」
彼の目を誤魔化せるなんて微塵も思っていない。
彼の目はいつだって、とても澄んでいる。心まで容易に見透かしてしまえるほどに。
それでも強がっていたかった。情けない姿ばかり晒して、彼を傷つけてばかりで。
こんなだめだめな人間なのに、柴谷は文句も言わず一緒にいてくれる。
未完成の写真のことも。わたしは正直関係が途絶えてしまうと思っていた。翌日から、わたしたちの時間なんてまるでなかったことのように接されると思っていた。
『おはよ、葉瀬』
小さな希望だけを抱いて"いつもの場所"に向かった時、いつもと変わらない顔で迎えられたとき、もう彼には敵わないと思った。
彼がわたしを離さない限り、わたしも彼を離せない。
大切だと、心の底から想った。
「俺、葉瀬には嘘ついてほしくない。俺の前だけでいいから、自分の気持ちに正直でいて」
逃げようとした視線はあっという間に捕まえられる。目があったが最後、囚われてしまったように逸らすことができない。
「つらいことはつらい。嫌なことは嫌。俺はお前の素直な気持ちが知りたい。葉瀬がずっと言えなかったこと、今の俺なら受け止めてやれる」
ーー今の俺なら。
強いまなざしと言葉が、わたしに突き刺さる。
少し考えて、ゆっくりとうなずいた。
心のうちを吐露するのは、苦手だ。思っていることを口にするのは難しい。誰かを頼ったり、助けを求めるのは怖くてできない。面倒くさいやつだと思われたくないから。
だけど。彼になら。
今の柴谷になら、吐き出せるような気がした。
「……わたしね」
声が震える。
柴谷は静かに目を閉じて、わたしに呼吸を合わせた。
「自分がどうして記憶をなくしてしまったのか。それが分からなくてずっと苦しいままなの。クラスメイトの視線が痛い。前のわたしと今のわたしを重ねられるのが嫌だ」
言葉にするたび、込み上げてくる涙が止められなかった。悲しいわけでもない。悔しいわけでもない。それなのに、自分の気持ちを話そうとすると泣いてしまう。
柴谷はとなりに座ったまま、わたしの肩を引き寄せた。
「みんな、わたしが元に戻ることを望んでる。だったら今のわたしはどうなるの? みんな昔のわたしのことしか見てない。可哀想な目でわたしを見てる。それがたまらなく苦しい。ずっと、ずっと。ここにわたしの居場所はない」
溢れて止まらなかった。
こんなふうに自分の気持ちを誰かにぶつけるのは初めてだった。
普段は強がっているけれど、本当は弱いのだ。昔のわたしほど強くはないし、魅力的でもない。
こんなわたしが葉瀬紬を乗っ取ってしまったのが申し訳ない。
「葉瀬」
柴谷の肩に頭を預けるかたちになる。涙が制服を濡らしてしまうから頭を離そうとすると、それすら厭わないと押さえつけられた。耳元で優しく声が落とされる。
「俺は、今の葉瀬のこと見てる。はじめからずっと、俺はお前のことを見てるよ」
大切に、一つひとつ、言葉が紡がれていく。彼はわたしが欲している言葉を、惜しむことなく渡してくれた。どうして彼はいつも、いつも。
ーーわたしのことが分かるのだろう。
「それに、昔なんてもう関係ない。お前が本物の葉瀬紬だろ? 堂々としてろよ」
「……しばたに」
「もしこの先、過去を知って苦しくなることがあったら。そのときは俺がいるから。葉瀬はひとりじゃない」
わたしはひとりじゃない。
とても響く言葉だった。
涙がまた溢れ出す。
はじめて人に自分の気持ちを打ち明けることができた。
自分の思いを話すと、こんなに心がスッキリするんだ。知らなかった。
今まですべて抱えこんで、誰にも話すことなく苦しさも痛みも悲しさも抱え込んで生きてきたから。
やっと誰かに話すことができた。
ーーその相手が君でよかった。
流れゆく雲を眺めながら、心の底からそう思った。
冬になったら日が落ちるのが早くなってしまう。だからできるだけ夕方の時間を外で感じていたかった。
まだ暗くならないうちに。天気の良い日は寄り道をすることが多くなった。
今となってはすっかり小さく感じるようになってしまった遊具。公園のベンチに座って、無邪気に遊ぶ子どもたちをぼんやり眺める。
あ、ロープの山に近づいた。わたしもあれ好きだったなぁ。
そういえば正式名称知らないな。なんていうんだろう。
わたしの脳内は活発だった。すぐにスマホで検索する。
人類の発展には何も貢献していないわたしが言うのもなんだけど、ずいぶんと便利な世界になったものだ。
SNSが発達することでのデメリットはたしかにある。けれどメリットのほうがはるかに多いし、デメリットに巻き込まれないように注意すればいいだけの話だ。そうすれば、SNSはそこまでの脅威ではない。
なんて偉そうなことを思っているうちに、検索結果が表示される。
ザイルクライミング、というらしい。
「きいたことないな……」
もう少し覚えやすい名前はなかったのか、と思う。
名付けた人には申し訳ないけれど、きっと数分後には忘れているだろう。
昔遊んでいた記憶はある。誰と一緒にいたのかは思い出せないけれど。
夕方はどこか感傷的な気分になるからわたしは好きだ。
そう言ったら柴谷も共感してくれたからますますこの時間帯が好きになった。
薄紫色と桃色を混ぜた空が広がっている。柴谷もこの空を見ているだろうか。
冷たくなった空気が鼻先をくすぐる。空から視線を落とすと、ふいに視線を感じて息を止める。
なんだろう、この感じ。
こわくなってあたりを見回すと、自販機のそばからやけにじっとこちらを見つめる一人の男性がいた。制服を着ているから、学生なのだろうと理解する。
いったい何なのだろう。知らない人に見られるのはなんだか居心地が悪い。
人はじっと見つめられると気になってしまうらしい。わたしも視線を逸らさずじっと見つめ返す。
彼は目元まで隠している髪をさらりと揺らしながらこちらに近づいてくる。
これにはわたしも驚いて、なにより恐怖を抱いて思わずベンチから立ち上がった。にもかかわらず、彼は躊躇なくわたしに近づいてくる。
「葉瀬だよね」
目が合って、何秒だったか。
確信するのにそう時間は要さなかったみたいだ。
口を噤んだままのわたしに彼はもう一度「葉瀬だよね?」と問うた。これは質問というより、確信するためだけの行為だった。
沈黙は肯定。そんな言葉を聞くたびに、黙ったりせずはやく否定すればいいのにと思っていた。けれど、実際人間は本当に焦ると声が出なくなるらしい。自分には言語があるということ自体がすっぽり頭から抜けてしまうような感じだ。
「あなた、誰ですか」
わたしは彼を知らない。でも、彼はわたしを知っている。
葉瀬、とわたしを呼び捨てにしたってことは、少なくとも他人ではない。
「俺のこと覚えてないの?」
「……知りません」
「まじ? 中学のときの同級生なんだけど」
中学の同級生。覚えているはずがない。記憶がないのだから。
彼は、わたしの身体を頭のてっぺんから爪先までじろっと観察し、驚いたように目を開く。興味深い観察対象のように見られている気がして、気持ちが悪かった。
わたしはいったい何を言われるのだろう。わたしはどうすればいいの。
謎の彼はゆっくりと視線を上げて、わたしの目を見つめた。
ドクリと嫌な鼓動が響いた。目の前にある薄い唇が静かに動く。
「まだ生きてたんだ」
──────
───
「紬? 大丈夫なの?」
あれからどうやって帰ったのか、あまり覚えていない。
気がつけば家のリビングで食卓を囲んでいた。
「あぁ、うん。大丈夫」
何かあったことはとっくに気づいている。それでも母は敢えて多くは聞いてこなかった。
ありがたい。もしここで問い詰められていたら、わたしの脳はキャパオーバーしていたと思う。
「紬」
感想を求められてもいないのに、美味しいよ、と答えた。
まったく料理の味がしないけれど、もしかしたら不味そうに見えているのかもしれないと思ったから、すぐに感想を述べた。
母の料理は美味しい。ただ今日は、味覚が仕事をしてくれなかった。
「何かあったら言うのよ。力になれることは頑張るから」
いいんだよ頑張らなくて、と心のなかで呟いた。
色々させてもらっているから。じゅうぶん贅沢な思いさせてもらってるから。
お母さんはこれ以上頑張る必要なんてないんだよ。
『まだ生きてたんだ』
突然あの言葉がフラッシュバックする。ガリ、と箸が音を立てた。
彼の言葉がずっと頭のなかに残っている。家に帰って、自室にこもって、聞かなかったことにしようと思っても無理だった。
「ねぇお母さん」
「なぁに」
「わたしって、生きてるの?」
間違いなく生きている。生きている、はずなのに。
ーーまだ生きてたんだ。
わたしは死んでいたの?
彼の中で、わたしは死んだことになっていたの?
「どうしたの紬」
「わたしって、死んでるの?」
「何言ってるの。紬はちゃんと生きてるわよ」
ちゃんと生きてるわよ。
そうだよね。わたしはちゃんと生きている。
名前も知らない、たいして記憶もない謎の男の子の言葉に翻弄されていてはダメだ。
すると突然立ち上がった母がわたしのそばに近づいてきて、ポンッと強く肩をたたいた。
触れられるのは初めてだった。今までずっと、微妙に距離を保って生活していたから。
「紬は生きてるわよ。こうして触れるんだから!」
ね?と顔を覗き込まれて言葉に詰まった。
この人はわたしの家族だ。優しくて、あたたかくて。こんなふうになってしまったわたしを、いつも見守ってくれる。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
「わたしはどうして記憶を失ったの?」
ーー解離性健忘。
図書室で借りた本を読んだ。たくさんの症例が載っていた中で、今のわたしに一番近しいのがこれだった。
心的外傷やストレスによって、ある特定の記憶を失ってしまう。わたしの場合、「ある記憶」というのは人間関係のことと自分自身のこと。
記憶を失うきっかけは何なのか。わたしは未だそれを掴めないでいる。
「……それを知ってどうするの?」
それまで動きを止めていた母の言葉に、背筋が伸びた。
「どうしてって、気になるから」
「なんで?」
「そんなこと言われても……」
ついさっきまではよかった。柴谷の言葉で前を向けるようになって、自分の失われた記憶なんてどうでもよくなった。ずっと目の前に広がっていた靄を柴谷が晴らしてくれたから、なにも気にしていなかったんだ、本当に。
だけど。
『まだ生きてたんだ』
強烈な言葉をぶつけられてしまった。わたしはすぐには変われない。前を向こうと思っても、何か出来事があるたびにまた不安な自分へと逆戻りしてしまう。
やっぱりそう簡単には忘れることなんてできない。
しばらく黙っていたわたしは、母に謎の男の子の話をすることにした。
誰かに話さないと、ひとりでは抱えきれないことだったから。
「そうだったの」
話を聞き終えてから、母が発した一言目はそれだった。母はもう一度わたしに近寄って、今度は腕をのばした。そのままギュッと抱きしめられる。
あったかい。
ザザッと砂嵐をかき分けた先に、一瞬、母に抱きしめられるわたしの姿が映った。
わたしは昔からこうして抱きしめてもらっていたんだ。この人にーー母に。
「お母さんの気持ちを正直に話していいかな」
わたしの背中を撫でながら、母が小さく言葉を紡いだ。腕の中でうなずく。
「紬の記憶がなくなったのは、前の紬が苦しいなって思いすぎたせいなのかもしれないでしょう。だったら、お母さんは紬に苦しかったときのことなんて思い出してほしくない。思い出すべきじゃないと思ってる」
ゆっくりで、少し震えた声からは、慎重に言葉を選んでいるのがうかがえた。
「だからお母さんもお父さんも紬に話したくない。意地悪をしてるとか、紬に嫌がらせをしているんじゃなくて、単純に紬のことが大切なの。それだけなの」
そこで息を吸って、母は続けた。
「だからお母さんは今後なにも話さない。紬がどうしても思い出したいなら、自分の力でなんとかしてほしい。これがお母さんの気持ち」
話を聞きながら、わたしは「なるほど」と思った。てっきり「無理」の一点張りだと思っていたから、母の正直な気持ちを聞けるなんて思っていなかったのだ。
「いっぱい考えたうえで紬が知りたいのなら、お母さんは止めないよ。何があっても、どんな過去を知っても、お母さんは紬の味方だからね」
「分かった。ありがとう」
「お母さん夜勤に行ってくるから。あとはよろしくね」
「うん。いってらっしゃい」
わたしが食べ終わったのを見届けて、母はコートと鞄を持った。ちら、と時計を気にして、足早に部屋を出ていく。まもなくして、玄関の扉が閉まる音が聞こえた。
『まだ生きてたんだ』
過去の自分に何が起こったのか。
すべてが、わかってしまう。記憶の蓋を開ける勇気を、わたしはずっと持てなかった。
けれど、今は。自分の過去に何があったのか、やっぱりきちんと向き合いたい。
たとえ過去を知ってしまってどうにかなりそうになっても、その時は彼が────柴谷がいるから。
前は開けられなかった、近寄ることすらできなかった押し入れの前に立つ。空気が肺を通るのを感じる。
大丈夫、だいじょうぶ。
確証のない言葉だけを、心の中で繰り返す。冷たい金具に触れても、以前のように頭痛がすることはなかった。
キィィと心地よくない音がする。押し入れの扉が開いた、というよりは、隙間が見えた、といった感覚のほうが近い。
真っ暗な奥が、電灯によって照らし出される。
「────っ、」
弾けたようにドサドサと足元へ崩れ落ちる物には。
【葉瀬紬】
余すことなくすべてに、わたしの名が記されていた。
真っ白な封筒のすみにも、自分の名前が記されている。
「手紙……?」
ドキッと鼓動が強く鳴る。
指先が震える。
『何があっても、どんな過去を知っても、お母さんは紬の味方だからね』
『もしこの先、過去を知って苦しくなることがあったら。そのときは俺がいるから。葉瀬はひとりじゃない』
お母さん。お父さん。
山井さん。
ーー柴谷。
─────
【遺書】
お父さん、お母さん。
親不孝者でごめんなさい。
今までありがとう、幸せでした。
追伸
約束果たせなくて、ごめんね。
─────
▼
「葉瀬さん、自殺したって」
高校二年生、夏の終わり。
スマホから耳を離した母の第一声が、やけに遠く感じた。グツグツとそのままにされた夏鍋が音を立てている。俺はただ呆然と、その光景を見つめていた。
俺が誰と関わっているとか。どんな学校生活を送っているとか。
生まれてこのかた自分の交友関係なんて、母はおろか、父にも、歳の離れた姉にも話したことがなかったから、こうして家族の口から葉瀬の名前が出てくるなんて思わなかった。
「……は?」
「今、病院にいて意識不明の重体だって。発見がかなりはやかったみたいだけど、どうなるか分からないから、って」
「なに……言ってんだよ。母さん」
脳裏に浮かぶ彼女は、いつも笑っていた。だから、母の言葉のすべてが信じられなくて、夢を見ているのかとすら思う。
嘘だろ?
だって、ついこの前まで、一緒に。
「葉瀬さんのご両親から学校を通して連絡が入ったの。あなたには、伝えておきたいからって」
「……俺、行ってくる。病院どこ?」
この目で見て確かめたかった。
信じていたかった。
いつも笑っていた葉瀬は、
俺の好きなやつは、
ーー今日も同じように、元気で笑っていると。
「葉瀬っ……あの、葉瀬紬ってどこにいますか。俺、面会を」
気が急いで上手く呂律が回らない。
「申し訳ありませんがただいま関係者の方以外は面会謝絶となっておりまして」
「俺、柴谷っていいます。クラスメイトなんです、会わせてください」
クラスメイトという響きに胸が痛む。こんなに会いたいのに、会うことを許されない関係。所詮、ただのクラスメイト止まり。それがたまらなく悔しかった。
苦い顔をしている受付の人が、しだいに険しい顔になっていく。高校生にもなって、自分がどれほどの駄々をこねているのかは分かっていた。けれど、葉瀬に会いたい一心だった。
「無理です」
決定的な一言を告げられ、言葉を失う。そのままよろよろと外に出て、ポケットからスマホを取り出した。
【紬】
その文字を見つめる。
今までに何度かけたか分からない。ことあるごとに、俺たちはよく電話をしていた。
震える指でタップする。連絡先を持っている、唯一の女性だった。
細い息が唇の隙間から洩れていくのを、何度か繰り返す。
「っ、葉瀬────!」
「おかけになった電話は、お客様のご都合によりお繋ぎできま────」
「くそっ」
会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。
どうして。どうして。どうして。
俺に夢を与えてくれたのはキミだった。
それなのに、どうして俺から離れていくんだよ。
行くな。行かないで。
俺の前から消えないで。
*
彼女との出会いは、高校の入学式より少し前のこと。
入学式を間近に控えた、よく晴れた春の日のことだった。
入学式を迎えるまでに桜は散ってしまうから。このタイミングがベストなんだと、一眼レフを構えて公園でひとり写真を撮っていた。
写真を撮る、ということは、記憶と心の重ね合わせだと思う。写真を見返すたび、その出来事の色、音、ある時はにおいまで、鮮明に思い起こされる。それと同時に、感情までもが蘇ってくる。
だから好きだ。
青空に桜はよく映える。風に揺れる桜が、ひらひらと花びらを舞い落とした。
思わずカメラを構える。
「……あ」
突然、ファインダー越しに誰かの姿が見えた。自分のとらえる先に、彼女が乱入してきたのだと気づいた時には、もうシャッターを切っていた。
桜色をまとった彼女は、長い髪を揺らして振り返った。白い肌が、後ろにある桜と澄み渡る青空に負けないくらい美しかったのを覚えている。
「どう、よく撮れた?」
割り込まれたともいえるその行為は、不思議と腹立たしく思わなかった。
「現像したら、やる」
「いいよ、あなたが持ってて。いらなかったら現像せずに消しちゃって」
彼女は、すでに友達だったのかと錯覚するくらい距離を詰めるのが上手かった。初対面のはずなのに、ちょうどいい距離感で埋めてくる感じが、とても。
「桜、きれいだね。写真撮りたくなる気持ち分かるよ」
桜を見上げながら、ふう、と息を吐く彼女。
ーー葉瀬紬。それが、彼女の名前だった。
「あーっ! あなた、この前の!」
仕組まれたように、クラスが同じになった。入学式で再会を果たしたとき、運命というものは本当にあるんじゃないのかと思ってしまったくらいだ。
柄にもなく。
「へぇー、柴谷ね! おっけ、あたしのことは葉瀬でも紬でも何でもいいよ」
彼女は明るく、いつも目立っていた。もともと整った顔立ちをしているが、それに持ち前の愛嬌がプラスされて、正直、クラスでもダントツのモテっぷりだった。
ただ、彼女は誰に対しても同じ距離感で接していた。特別扱いという言葉は、彼女の辞書にはないようだった。
だから余計に人気だったのだと思う。特に、男子から。
それなりに意識はしていた。けれど、このときはまだ、気になるクラスメイトというくらいで。
決定的な瞬間がおとずれたのは、夏休みに入る一週間前の、とある朝のことだった。
「ここでも撮ってるの? 好きなんだね、写真」
いつも生活している棟とは違うから、まさかこんな場所に現れるなんて思わず、持っていたカメラを放り出しそうになったのを覚えている。
「コンテスト、出さないの?」
「は?」
「あたしにくれた写真、とってもきれいだったよ」
桜のやつか、と思い出す。彼女と出会った日の写真だ。
「顔がこわいよ。柴谷、口調が荒いんだからちょっとは顔優しくしたら?」
「うるせぇ」
ふいと顔を逸らす。こんな雑な返答をしても、葉瀬は怒ることなくニコニコと笑みを浮かべていた。
「どうして出さないの?」
昔から趣味だった。写真を撮るのが、なにより楽しかった。
「人物の写真も、撮ればいいのに」
投げやりな口調なのに、どうしてか無責任だと思うことはなかった。不思議と、彼女になら話せるんじゃないか、という気持ちが湧き上がってくる。
葉瀬は階段に腰掛けて、ぼんやり空を眺めていた。彼女の意識は空に注がれている。
そう思えたから、話すことが不思議と億劫ではなくなった。
「……俺、過去に写真撮ったことがあって」
うん、と軽い相槌が返ってきた。
「姉……なんだけど。ずいぶん前に、死んだ」
うん、と。ここでもまた、同じ相槌。
「歳が結構離れてて。俺が小学生の時に、写真を撮った。その一年後に姉は死んだ。自殺だった」
事実だけを並べていく。
俺には椿という名の姉がいた。
俺の姉は、よくできた人だった。それでいて、とてもきれいな人だった。
『お姉ちゃん、こっち向いて』
そう言うと、いつもとびきりの笑顔を見せてくれた。
学校に行けば「椿さんの弟くんだよね?」と声がかかり、それがとても誇らしかった。どこを切り取っても、優秀で、完璧な姉だった。
「まさか自殺するなんて、思わねぇじゃん」
何がきっかけだったのか。上手くいってなかったのか。
歯車が狂い出したなら、言ってくれればどうにかやりようはあったはずなのに。俺たち家族が気づいたのは、姉が完全に壊れてからだった。
「写真だけが、ずっと遺ったままだ。俺はそれを見るたびに、こわくなる。写真を撮っていたその瞬間に戻りたくなってしまうから」
だからポートレートは撮らない。
「それなのに、お前、乱入してきたから」
「あっはは、あれは────」
「偶然だろ?」
だから、何も心配することはない。目の前にいる葉瀬は、消えたりなんかしない。俺の写真に写ったからといって、死んでしまったりしないんだ。
「ううん。わざとだよ」
葉瀬はまっすぐに俺の目を見つめていた。
「気になったの、柴谷のことが。あんな公園で一人写真撮ってるんだもん。話しかけたくなった」
「だからって乱入するか普通」
「するする。あたしを誰だと思ってんの」
ドン、と胸を張る葉瀬。ぜったいに自信を持つ状況を間違えている。
「安心して、柴谷。あたしは消えない。ずっと柴谷のそばにいるから」
透き通った声が、耳を抜けていく。
「コンテスト、こわい?」
肯定のかわりにうつむく。
情けない話だ。趣味、趣味、と今までまわりに言ってきたのは、保険だった。
俺の写真には価値がないと、そう判断されるのがこわかったからだ。
顔で、態度で、声で、口調で。今まで舐められないように、強さを示してきたはずだった。
けれど本当の俺は、こうしていつも怯えて、逃げ場を探しているような人間。
「じゃあ……一緒に頑張ろうよ。コンテスト、出そう。来年のやつ」
「は?」
「よし、きまりっ。来年の夏までなら準備期間はじゅうぶんあるね。柴谷クン、あたしは何が得意かご存じ?」
躊躇なく美術準備室へと足を踏み入れた葉瀬は、しばらくして何やら細長いものを持って出てくる。
「ふふん。共同制作だね」
「おい、葉瀬。待てよ」
「こわがらないで、チャレンジしてみようよ。柴谷の写真に、あたしの絵が加わるの。これ、最強だと思わない?」
────それは筆だった。
葉瀬は空に色をのせるように、サラサラと筆を動かしてゆく。
「受かる時も、落ちる時も一緒だから。一緒に喜んだり落ち込んだりしようよ。大丈夫、二人ならきっとできるよ」
気づいたら、シャッターを切っていた。パシャっという音に、彼女は少し驚いた顔をした。
「撮った?」
「撮った。すげぇ、きれいだったから」
「……なにそれ、照れるじゃーん」
彼女はきっと、いなくならない。俺の前から、消えたりしない。
「絶対消えたりしない。約束するね」
絡めた小指は、とても細くて。力を入れたらすぐに折れてしまうんじゃないかと心配になるほど、繊細で。
きっと、生まれて初めて、恋に落ちた瞬間だった。
「おはよ、葉瀬」
「おはよう。柴谷」
彼女と過ごす日々は、目まぐるしく過ぎていった。
高校一年生、冬。
彼女と出会って半年以上が経っていた。
花が開くように、ゆっくりと笑顔をつくった彼女は、風になびく髪をおさえながら俺のもとへとやってきた。
「写真、見せて!」
ニコニコ。彼女にオノマトペをつけるとしたら、これしかない。
断られるなんてこと、1ミリも考えていないみたいだ。無論、断るはずもないけれど。
「うわぁ、これもまたきれいだねぇ。うーん、クジラにしようかな……ネコとか、あ、こっちはトナカイとか?」
俺の写真を見ながらぶつぶつ呟く彼女は、しばらく目を通してから顔をあげた。
「そうだ柴谷。あたしね、来年の冬に柴谷に渡したいものがあるの。今年はちょっと間に合いそうにないんだけど、来年は絶対渡すからね」
「……おー」
興味なさそうな相槌を打ってしまったけれど、内心ではなんだろうと期待が膨らんでいた。はやくも来年の冬が待ち遠しくて、はやく今年の冬なんか終わってしまえばいいのにと思う始末だった。
「その絵にはね、あたしの全部が込めてあるの。だからどうか、受け取ってね」
「わーったから。ほら、描き始めろよ」
「もう! あたしは真剣に話してるのに」
空気が変わる予感みたいなものが、ぞわりと背筋をなぞったから。きいてはいけないような声が、彼女の口から出てしまうような気がしたから。
話を逸らして、逃げようとした。否、俺は逃げた。
「……たとえあたしがいなくなっても」
ぼそりと呟かれた言葉を、きかないままで。
*
「柴谷くん?」
声がかかって、ふと顔を上げる。そこには、四十代半ばの男性が立っていた。
顔立ちが葉瀬によく似ている。いや、葉瀬がこの人に似ているのか。
「紬の父です。柴谷くん、かな。さっき、受付のところでちょうど見かけて」
「っ、葉瀬は今、どんな状況なんですか」
「ついさっき、目を覚ましたところだよ。発見がはやかったみたいで、助かった」
息を吐くと同時に、目頭が熱くなる。必死に押さえても、到底止められるはずがなかった。
「よかった……」
「ただ───」
助かったというのに、葉瀬の父親はなぜか泣きそうな顔をしていた。唇を噛んで、悔しそうにうつむいている。それは間違いなく、安堵からくるものではなかった。
「記憶が……」
初めは、信じられなかった。葉瀬が助かったことで、不安やら安堵やらがぐちゃぐちゃになってしまい、そんなふうに思い込んでしまっただけだと。
葉瀬の父親を疑っていたし、俺も、俺自身のことを疑っていた。
また一緒に過ごせるに決まってる。あの元気で明るくて、俺を光へと導いてくれた葉瀬に、会えるんだって。
けれど病室で対面した時、俺は、自分の考えが甘かったことを痛感した。
「誰……ですか」
大切なひとに忘れられる痛みを。
苦しさを。むなしさを、切なさを。
やるせなさを、しんどさを。
そのときになってようやく、俺は実感したのだ。
「紬には、自殺のことはいっさい話さないでほしい。思い出すのもつらいだろうし、もし思い出したとして、もう一度自殺を試みるようなことがあったら耐えられないから」
葉瀬の両親からは、そんな感じのことを言われた。ぼんやりとしていて、とても曖昧だけど。
「わかりました。でも俺はこれまでどおり、葉瀬と話します」
もちろん、彼女を苦しめない範囲で。
また、話したい。目を合わせたい。
会いたい。いつもどおりの葉瀬に。
もう一度出会いからやり直そう。明るい彼女なら、きっと俺を受け入れてくれるはず。
それなのに、いざ学校に来た彼女は、常に下を向いて、表情を隠すようになっていた。
友達の名前はおろか、自分の名前も、絵を描くのが得意だったことも、何もかも覚えていない。もちろん、コンテストのことなんて覚えているはずがなかった。
ほとんど別人。昔の、好きだった頃の葉瀬紬は、この世に存在していなかった。
ぐしゃっ、と持っていたプリントに力がこもった。
夢を描いたその先で、俺たちは一緒に並んでいるはずだった。
けれどその夢は未完成のまま、バラバラと崩れ落ちていったのだ。
昔の葉瀬はもういない。
俺を救ってくれたころの葉瀬は、俺の前から消えてしまった。
だから今度は俺が、今の葉瀬を救ってやる。葉瀬が俺にとっての光だったように、次は俺が、葉瀬にとっての光になる。
昔の葉瀬に、俺がずっと言えなかったこと。
常にそばにいることに安心しきって、伝えることができなかった想いを。
今度は、絶対に無駄にしない。
そう心に誓った夜は、いつもよりも空気が澄み、月がひどくきれいだった。
*
「柴谷は優しいね。あたしのこと絶対傷つけたりしないから」
「それって普通だろ。なんのために傷つける必要があるんだよ」
「んーん。普通じゃないよ。相手のことを思うって、誰にでもできることじゃない。柴谷がいてくれるから、あたしは毎日生きていけるんだよ」
「大袈裟だな」
「葉瀬って相槌適当だよな。ほんとにきいてんのかいつも不安になる」
「内容が重たければ重たいほど、相槌は軽い方がいいじゃん。構えられると話せるものも話せないでしょ?」
「……たしかに」
「それに、適当だけど雑ってわけじゃないよ。ちゃんと話はきいてるし、感情も共有してる。ただ、重く受け止められすぎない方が相談しやすいかなと思ってね」
「……ふぅん」
「ねえこの記事見て。ネットでトラブルだって。ネットは怖いからできるだけ関わらない方がいいと思うんだけどなぁ」
「今の社会的に難しくね?」
「そうなんだけど。ネットの扱い方を学んだ方がいいよって話」
「葉瀬は自信あるの? ネット」
「ううん、まったく。だから触らないことにしてるの」
「ねえ、柴谷」
「ん?」
「この作品は誰にも見せずに眠らせておくの。わたしと柴谷だけが知る、秘密のものにしたいから」