未完成な世界で、今日も君と息をする。


「じゃあ葉瀬さんと私は休憩ってことで。まわってきますね」
「はーい。楽しんで〜」


 文化祭、当日。
 わたしは、山井さんと一緒に教室から出た。店番はシフト制なので、揃って休憩をとったのだ。一時間近くあるため、たくさん出店をまわることができる。


「どこ行きたい?」
「どこでも。山井さんの好きなところに」
「じゃあ何か食べ物が売ってるところに行こっか」



 文化祭バージョンの山井さんは、いつものひとつ結びとは違い、おさげスタイル。わたしがやると芋っぽくなってしまうのに、山井さんは驚くほど似合っていた。素朴な顔立ちでどのパーツも薄くきれいだから、似合うのだと思う。


「あの、山井さん」
「ん?」


 人気(ひとけ)のなくなったところで、前を歩く山井さんの腕を掴んだ。


「誘ってくれて本当にありがとう。わたしなんかと、まわってくれて」
「ううん! ただ、私が葉瀬さんとまわりたかっただけだから! お礼を言うのは私の方だよ」


 山井さんはペコっと小さなお辞儀をした。






『葉瀬さん。文化祭一緒にまわろう』

 それは二日前のこと。そのときまで、わたしは文化祭を休むつもりだった。
 そんなわたしを見越してなのか、単に偶然なのか。わたしにそう声をかけてきたのは、以前、グループが一緒になった山井夕映さんだった。

「あ、もし葉瀬さんがよければだけど。安心して! 二人だけだから、気楽にしててくれればいいし」


 身体の前でヒラヒラ手を振っている山井さんは、「もちろん、無理なくだけど」とまだ言葉を並べていた。


 正直、嬉しかった。一人でいるのは目に見えていたから、そんな思いをするのならと休むつもりだった。クラスの出し物は結局ワッフルになってしまったし、出店の主なメンバーは赤坂さんたちだったから。

 わたしなんて、必要ない。


 文化祭は、普段一緒にいてくれる柴谷も、他の男子と回るらしかった。だからますます自分が孤立してしまったみたいで、休まざるをえなかった。


 それなのに、だ。山井さんはどうして、わたしを誘ってくれたんだろう。

 同情か、それとも単に優しいだけなのか。文化祭という大イベントを、たいして親しくもないクラスメイトとまわるなんて、山井さんはどうかしている。


「山井さん、わたしのことは大丈夫。好きな人とまわりなよ」
「うん! だから葉瀬さんとまわろうと思って! 私は葉瀬さんとまわりたいの!」
「……本当にいいの?」
「こちらこそ、よろしく!」


 へへ、と笑った山井さん。彼女が笑っているところは、何気に初めて見たような気がする。
 たまに話しかけてくれることはあっても、ここまで親しく関わったことはなかった。


「ありがとう、山井さん」




 こうしてわたしは、二度目の文化祭を体験できることになったのだ。




 やきそば、クレープ、占い、わたあめ。各教室、できるだけ被りがないよう配慮されたから、その分たくさんの種類のお店がある。なかには恋愛相談バーというのもあって、お酒の代わりにジュースが出てくるものもあった。

 山井さんは男女逆転メイド喫茶がとても気になっているらしく、そこも一緒にまわった。


「星野先輩!」


 山井さんにはお気に入りの先輩がいるらしく。その人を見ることが目的なのだろうと悟る。

 残念ながらメイド姿はしておらず、制服姿のままだったけれど。
 とてもきれいな人だった。纏う雰囲気がどことなく柴谷に似ている。

 聞けば、バスケ部のエースらしい。山井さんはバスケ部のマネージャーをしているから関わりがあるんだとか。


「もう引退されたんだけど、たまに廊下で会うたびにドキドキしちゃうんだよね」


 じっと見つめると、山井さんは「全然恋愛感情とかじゃないんだけど!」と慌てて否定した。
 

「ぷっ……顔、真っ赤」
「やめてよつむ……、葉瀬さん」




 砕けるように笑った山井さんが、突然顔を引き締める。一瞬、「つむぎ」という名前が呼ばれる気がして身構えたけれど、すぐに訂正されてしまった。


 そうだ。わたしは今日、彼女に聞かなければならないことがある。


 そのためにも、こうして一緒に文化祭をまわっているのだから。



「美術部の成果発表見にいきたい」



 そう願い出ると、少し動きを止めた山井さんは、静かに目を伏せた。長いまつ毛が影をつくる。



「いいよ! でも、急にどうして?」
「ちょっと、気になることがあって」
「……そう」



【美術部展示】


 わいわい賑わう教室とは違う棟にある、その場所には。


「わー……たくさんある」
「レベルたかっ……」


 たくさんの絵が飾られていた。
 キャンバスの裏側に、小さく名前が描いてあるようだった。

 手に持てるくらいの大きさのキャンバスがほとんどのなか、数人でなければ運べないほど大きなものがあった。
 それは校内でよく見る、光の絵。キャンバスいっぱいに光がひろがっている、そんな絵だった。

 今日だけ壁から外されて、ここに展示してあるらしい。


「この絵、すごくお気に入りなんだ。明るくて、見ているこっちまで明るい気持ちになれるような気がして」


 近寄った山井さんは、ふっ、と目を細めた。わたしも山井さんの隣に並ぶ。


【光】


 この絵のタイトルは、それだった。
 

「葉瀬さんはどう思う?」
「え」
「この絵を見て、何を感じる?」


 山井さんはそう呟いてまぶたをおろした。わたしはじっと絵を見つめる。

 胸の奥からじわじわと感情が広がって、描き手の叫びが伝わってくるような気がした。焦がれるように、その絵に食い入る。そんなわたしを、山井さんは静かに見つめていた。


「苦しそう。光を撒き散らして周囲を明るくするたびに、自分は陰っていくの。ほら、ここ。だんだん色が暗色に近づいてる」


 この真ん中に描かれているのは、光源。男性とも女性ともとれない人物が、光を身体にまとっていた。離れたところからは、周囲に行き届くほど、光り輝いてみえる。まるで、この絵の中の主人公のようだった。

 だけど近くで見ると、それは少し誤解だってことがわかる。明るく見えるのに、繊細なタッチであかりの加減が表現されている。

 たぶん、これは。苦しいんだ。



「コンテストテーマ、知ってる?」
「……知らない」


 ざわっ、と胸騒ぎがした。



「このコンテストのテーマは『きみがずっと言えなかったこと』。それで、この人はこの絵を描いた。いったい、何を伝えたかったんだろうね」



 山井さんの目がわたしに流れる。わたしもその瞳をまっすぐに見つめ返した。

 この絵を、描いたのは。



「これ……わたしの絵、だよね」



 さらっと窓から入ってきた風が、わたしたちの髪を掬った。山井さんの、薄墨色の瞳が揺れる。その反応は、この絵がわたしのものだと確信するにはじゅうぶんすぎるものだった。



「わたし、もう知ってるの。自分が自殺しようとしたこと」


 山井さんは息を呑んでいた。お互いの小さな呼吸音だけが会話をする。




 あの日。遺書を見つけた日、絵具道具も一緒に押し入れに入っていた。だから、なんとなく予想していた。以前のわたしは、美術部にいたのではないかと。

 光り輝く絵の中に、小さく桜の花びらが描かれている。どうしてこの絵が自作のものだと思ったのかは自分でもよくわからないけれど、最初に見たとき直感的に、好きだ、と思ったのだ。きっと、昔の葉瀬紬と本質は変わっていないのだろう。



「あなたはわたしの何? どうしてそこまで優しくしてくれるの?」
「それは……」
「わたし、知りたい。なかったことにはしたくないよ」



 山井さんが、過去のわたしにとってどんな存在だったのか。わたしは知りたい。過去に向き合って、受け入れて、そして今度は「わたし」として、しっかり前に進んでいきたい。


「私は────」



 文化祭の喧騒は、いつのまにか遠くなっていた。



⸝⋆⸝⋆



 葉瀬紬は、私の憧れだった。誰とでもすぐに仲良くなって、明るいノリを求められたときにはいつも調子を合わせていた。私には永遠にできないことだ。

 そのときは愛想笑いで乗り切れたとしても後々疲労が現れるし、そもそも素の気質が暗いので明るさを偽ることすらできない。

 だからそんな偉業を何の気なしにこなしてしまう葉瀬紬という存在は、常に憧れと尊敬の的だった。

 けれど彼女のいちばんすごいところは、私のような暗い人間にも寄り添うことができるところだと思う。



『夕映ちゃんって暗いよね。もっと笑えばいいのに』


 はるか昔、心に突き刺さった言葉は今も忘れていない。言葉は違えど、こういったニュアンスのことを言われすぎたせいで、自分は根暗な人間なのだと自覚するようになった。

 だから、葉瀬紬とは違う世界を生きている。向こうが光なら、私は影。向こうが陽なら私は陰。そんなふうに、対極にいるような人物だと思っていた。



「夕映って名前、すごく綺麗だね」

 たまたま席が隣になって、よく話すようになったころ、彼女はノートの名前をみながらそう言った。



「いや、似合ってないし……」


 夕映。自分でも、素敵な名前だと思う。けれど、自分には似合っていないと思っていた。名乗るたびに、自分はその名にふさわしくないような気がして、恥ずかしかった。いつしか自分の名前を名乗ることがコンプレックスになっていた。


「ほら、私って暗いから。名前負けしちゃってるよね」


 ゆうばえ、と読むこともできる。あたりが薄暗くなって、かえって物がくっきり美しく見えるようになること。
 辞書で調べた時、いかにも美しいそれは、私には到底似合わない気がして。
 山井夕映と書くたびに、自分の胸が締め付けられているのを感じた。


「暗いんじゃなくて、まわりのことをよくみてるんだよね。だって夕映ちゃん優しいし。こうしてちゃんと話してくれるし。暗いなんてあたしは一度も思ったことないよ」
「え」
「夕映ちゃんの名前は、あたしがつけても似合わないよ。やっぱり、夕映ちゃんだからいいんだよ。唯一無二だね」


 どうして。いつも明るく振る舞っていて、住む世界が違うような人なのに、なんでこんなにも私が欲しい言葉をくれるのだろう。彼女がたくさんの人から人気な理由が、そのときはっきり分かった。

 彼女は、無理して明るくしているわけではなくて。ただ、対象の人に寄り添っているだけなのだと。
 そのためなら、カメレオンのように色を変えて、仮面をかぶることだっていとわない。そうやって彼女は生きているのだと。



「あたし、ずっと夕映ちゃんと仲良くなりたかったんだぁ」
「私も仲良くなりたかった。紬ちゃんと」


 その会話から、私たちの距離はどんどん縮まっていった。



 一年生のとき、文化祭を一緒にまわった。髪をおろして、少し普段とは違う紬ちゃんの姿に、男子たちが言葉を失っていたのを覚えている。

 二年生になってもクラスが同じで、とても嬉しかった。掲示板の前で思わず紬ちゃんに抱きついてしまった。





 二年生になって勉強や部活が難しくなっても、短い時間をなんとかやりくりしながら学校生活を送っていた。
 そんなある日のことだった。


「紬ちゃん。柴谷くんが探してたよ」
「わかった! ありがと」
「あ、紬ちゃん! 修正テープ、返したいんだけど」
「また明日でいいよー!」



 ばいばーい!と手を振りながら、五号館へとかけていく紬ちゃん。入学当初から仲の良い柴谷くんと会うのだ。彼女の口から「柴谷」という名前が出てきたことはないけれど、私は知っている。彼らが、二人だけの時間を過ごしていることを。

 前に何度か、渡り廊下を歩く二人の姿を見かけたことがある。もし付き合っているのだとしたら、二人は隠すのが上手だ。クラスではいっさいかかわることなく、甘い雰囲気もぜったいに出さないから。

 どんなふうに付き合って、どんなことをしているのか。私にはさっぱり分からなかった。



 明日でいいって言ってたけど、どうせ教室に戻ってくるだろうし。ロッカーの中に返しておけば、見つけてくれるはず。

【ありがとう】と添え書きをして、紬ちゃんのロッカーを何気なく開けたそのときだった。



「……え?」

 ロッカーの裏に貼られたものに、私は釘付けになる。


「あーーーっ!!」


 ドタドタと足音がして、向こうから紬ちゃんがかけてきた。私のもとへ到着した彼女は、ロッカー扉の裏の貼り紙をびりっとはがす。



「……見た?」
「紬ちゃん、これ……」
「撤去し忘れちゃった。あーあ、やっちゃった」


 へらっと笑う紬ちゃんの顔は、どこか歪んでいた。


「慌てて戻ったんだけど、どーして今日に限って忘れちゃったかなぁ」
「今日に限って、って……もしかしてこれ、毎日?」
「あー……またやっちゃった。もう黙ったほうがいいね」


 ははっとかわいた笑みを洩らす紬ちゃんが何を思っているのか。どんなに目を見つめても、何も感じ取れなかった。


「紬ちゃん」
「いいの!」


【死ね】
【柴谷くんから離れろ】
【調子乗るなブス】


 高校生にもなって、こんなことがあるのか。目を見張る言葉がそこには何枚も何枚も貼られていた。
 今どきスマホがあるこの時代に、こんな安っぽいいじめがあるのだと驚愕した。だけど、匿名で届く文字の羅列よりも、こうして視覚的にインパクトが残るやり方を敢えて使ったのだと理解したとき、腹が立って仕方がなかった。

 バレないようにこっそり、ではない。見せつけるかの如く、堂々といじめをしている。これはそういうことだ。

 こんなに堂々としているのに、紬ちゃんが隠すのがうますぎて。
 いや、私が鈍すぎたせいで、まったく気づいてあげられなかったのだ。


 毎日笑っていたはずなのに。彼女は毎日こんな仕打ちをうけていたのだろうか。
 どうして私は、何も気づかなかったんだろう。



「夕映ちゃん! あたしは全然大丈夫だから!」



 こんなに近くにいたのに。どうして。


「所詮言葉だから。暴力とかはされていないからだいじょーぶ」


 なんで。なんでそんなに笑っていられるの。おかしいよ、紬ちゃん。



「やっぱり柴谷は目立つからねぇ。でもあたしは柴谷といたいから、仕方ないことだよね。全然へーき。嫉妬なんてどんとこいだよ!」
「……ごめん」
「どうして謝るの! 本当に大丈夫だから、夕映ちゃんが思い詰めることはないんだよ。もしほんとに助けてほしい時があったら、遠慮なく頼るから! ね!」


 うそ、ばっかりだ。
 こんなにひどいいじめを受けているのに、毎日笑っていられる強さは、いったいどこから湧いてきているのだろう。彼女の明るさは、こんないじめがあった上でのものだったの?


「もし、限界が来そうになったらいつでもいってね。私、なんでも力になるから」
「……うん、ありがとう」





────結局、彼女は一度も私を頼ることなく、あっけなく生涯を終えた。自分で死を選んだ彼女は、誰にも言わず、人知れずこの世を去った。





『不自由かけますが……よろしく、お願いします』


 そして、また私の前へと現れた。

 新しい、葉瀬紬となって。







⸝⋆⸝⋆



「思い出したら、また自殺しちゃうんじゃないかと思って。完全にいなくなっちゃうんじゃないかって。そう思ったら、近づけなくなった。何にも守ってあげられなかった私が不用意に近づいて、最悪の結果になったらって」
「そう、だったんだ」
「ごめんね。ずっと、他人のふりして。本当は話したくて、一緒にいたくて、でも逃げてたの。自分の弱さから、逃げてたの」


 ぽろぽろと涙を流す山井さん────もとい、夕映ちゃんは再び「ごめん」とつぶやいた。


「紬ちゃんの記憶は、治ったの?」
「ううん、なおってない。でも、わたしはどんな過去を知っても、向き合うって決めたから。絶対に死のうとしない」


 この気持ちは、本当だった。もし、もう一回自殺をしようとしたら。その気持ちで、両親も、夕映ちゃんも、あまり距離を縮めようとはしなかった。



 けれど、今のわたしなら大丈夫。どんなにつらい過去があっても、この先生きていくのがつらくなるような事実を知っても、それでも今は柴谷のとなりで笑っていたいから。



「……前のわたしも、柴谷と一緒にいたんだね」


 やっぱり、わたしと彼は一緒にいたんだね。たとえ恋人という関係ではなかったかもしれないけれど、紛れもなく一緒にいたのだ。
 周囲から疎まれる結果になったとしても、過去のわたしは彼と一緒にいることを選んだ。それが、とても嬉しかった。



「わたし……どうして自殺したのかな。知りたい。思い出せなくてもいいから、知りたいんだ」



 いじめに耐えきれなくなって、という線がいちばん怪しいけれど、なにせ葉瀬紬だ。彼女は本当にしんどかったら、最初から何か対策をしているだろうし、夕映ちゃんに助けを求めているような気がする。自分のことなのに、まるで他人事みたいで笑えてくる。



「私も分からない。夏休み中だったし、連絡のやり取りはしていたけど紬ちゃん……ああ、昔の紬ちゃんから何か聞いてたわけじゃないから」
「そうなんだ」
「うん。突然だった、本当に」



 だとすれば、よほど大きな衝撃が彼女を襲ったのかもしれない。明るく笑えていたはずの以前の葉瀬紬を、死に至るまでに追い込んでしまう圧倒的な出来事が。



「あ、あと。文化祭の出し物ね、本当は前、紬ちゃんの絵が目立つようにしようって作戦練ってたから。だから赤坂さんの案に決まったとき、結構ショックだったんだ。顔にでてたかもしれない」
「納得した」


 時を経ての答え合わせでなんだかくすぐったい。
 あのとき夕映ちゃんが沈んでいるように見えたのは、やはり見間違いではなかったのだ。




「そういえば紬ちゃん、文化祭マジック起きた?」
「なにもないよ……っていうか、相手いないから!」
「えー? 柴谷くんじゃないの?」



 にやにやしながらわたしの肩をつつく夕映ちゃん。恋バナに発展したおかげで、いっきに可愛らしいムードが出来上がった。



 柴谷のこと。
 彼のとなりに並んでいたいと思うし、彼にならすべてを打ち明けることができる。

 彼の瞳はとても綺麗だと思うし、いつも彼と過ごす時間を楽しみに学校に通っている。




「好きってどういうことなのかな」

「誰にもとられたくないって思うことじゃない?」




 ーー誰にもとられたくない。

 そういう感情はまだ芽生えていないような気がする。



 じゃあ、やっぱりわたしは柴谷のことが好きなわけではない?




「そのための恋愛相談バーだよ! よし、いっくぞー!」


 夕映ちゃんに引っ張られるようにして廊下を歩く。


 久しぶりに高校生として、青春を謳歌できているような気がした。

 本来、わたしが求めていたのはこういう何気ない幸せだ。




 大切な誰かと、大切な思い出を積み重ねていく。その瞬間を切りとって、忘れないように閉じ込めておく。




 ねぇ、過去のわたし。
 苦しさを必死に隠しながら、常に明るく振る舞っていたはずのわたしへ。


 絵に描くことしかできなくて、苦しんでいた昔のわたしへ。





 ーーきみがずっと言えなかったこと、教えて。




『未完成だから』


 柴谷の言葉を聞いてから、一ヶ月が経った。相変わらず朝と昼食は一緒に過ごしているけれど、写真の話はいっさいしない。

 それと、わたしの過去の話も。


 放課後、わたしは学校に残ることにした。放課後も活動をするらしい柴谷についていく。どうしても知りたいことがあって、いい加減逃げてきたことに向き合おうと思ったから。

 もうすぐ桃色へと変わりそうな空のしたで、目の前で揺れる柴谷の髪を見つめていた。


 乾いた唇を舐めて、深呼吸をひとつ。大丈夫、わたしなら、だいじょうぶ。


「ねえ柴谷」


 ん、と小さな返事を寄越した柴谷は、ぼんやり空を眺めていた。最近、柴谷はカメラを持たなくなった。わたしが来た時には使っているふうな素振りを見せるけれど、構える回数が格段に減った。

 どうして、ときければいいのだけれど、この前踏み込みすぎた前例があるのでなかなか難しい。


「わたしね、もう知ってるの。自分がどうして記憶を失ったのか」


 わたしの言葉をきいた柴谷は、何も言わないで、目を静かに見開いた。


 文化祭のあと、両親にすべてを話した。押し入れを開けたこと、自殺しようとしたと分かったこと、学校で自分の絵を見たこと、柴谷や夕映ちゃんと会っていること。それを踏まえた上で、詳しい説明をしてもらった。


 色々な専門用語が出てきて頭がパンクしそうになったけれど、簡略化すると、人間関係でたまったストレスと自殺における脳への負担によって記憶がとんでしまったのだという。


 その過程で、絵を描く特技についても忘れてしまったと。


「わたし、絵を描くことがストレスだったのかな」


 どうして記憶を失う必要があったのか。絵に関することで大きな衝撃があったのだろうか。その謎がまだ解決していない。


「教えてほしい。あの日、何があったのか。わたしが自殺した日、わたしが生まれたあの日。いったい何があったのか教えて、柴谷」



 詰め寄ると、わざとらしく視線を外した柴谷は小さく首を振った。



「知る必要ねえよ」
「未完成の理由が知りたいの。やっぱり、ずっと未完成なのは嫌だよ。柴谷の力になりたい。だから、未完成の理由を教えてほしい」




 わたしはずっと、逃げてばかりだった。周囲の視線を気にして、息苦しい世界を生きていた。
 だけど、そんな自分から変わりたい。

 過去に向き合う。それは決して簡単なことではないけれど、何も知らないまま、わたしと関わってくれた人たちの想いも記憶から消してしまったままなのは嫌だ。


 目を伏せた柴谷は、ため息を吐いた。
 それから何度か呼吸を整えて、透明な瞳に光を宿す。それは、どこか遠い場所を見つめていた。






「コンテストに出すはずだったんだ。俺と葉瀬の……合作で」



・・





 俺の第一声は、あまりにも腑抜けた声だった。


「盗作……?」


 美術部顧問は、俺と葉瀬の挑戦を心から応援してくれていた。あと少しで完成。ふたりでつくりあげた最高傑作。これなら、自信を持ってコンテストに応募できる。

 そんなふうに思っていた矢先だった。彼女から記憶が抜け落ちてしまったのは。

 あとになって俺はようやく、葉瀬が複数の女子からいじめを受けていたことを知った。


「これを見てほしい」


 美術部顧問から見せられたのは、インターネットの記事。【イラストコンテスト】とシンプルだが大規模なコンテストで、大賞をとっていたのは紛れもなく葉瀬の絵だった。俺との合作というかたちで出すはずの絵だった。色塗りはまだされていない、いわゆる下書きの状態。だが繊細なタッチが魅力的で、才能を放っていた。


 初めは、葉瀬がこっそり自分だけのコンテストに応募したのかと思った。俺と合作にするのではなく、自分の力だけで試してみたかったのだと。けれど受賞者の名前がまったくの別人だと気づいた時、身体から力が抜けていくような感覚がした。



「なんで、これ。まだどこにも出してないのに」


 どうしてこんなにそっくり描けるんだ。偶然なはずがない。


「そう思ってすぐに問い合わせてみたら、受賞した子が吐いたよ。ネットから盗作したって」
「ネットから?」
「なんの拍子か知らないが、たまたま葉瀬の絵を見つけたらしい」



 葉瀬は絵をあげていた?
 どこでどんな扱いをされるか分からないネットに?

 それは少し……いや、かなり無責任じゃないか。自分だけの作品ではないのに。



『ネットでトラブルだって。ネットは怖いからできるだけ関わらない方がいいと思うんだけどなぁ』

『この作品は誰にも見せずに眠らせておくの。わたしと柴谷だけが知る、秘密のものにしたいから』



 すぐに、そんなはずはないと思い直す。俺が知っている葉瀬紬は、決してそんなことしない。



「これが見つかったのは、コンテストに出す二日前。君との合作を本当に楽しみに、本気で取り組んでいたからこそショックが大きかったんだろうな」
「それで葉瀬は……」
「創作者にとって、盗作というのは命を奪われるのと同義だ。自分が魂を込めて生み出した一作を盗られるというのは、それくらい大きな影響を与える。他者が、たとえ軽い気持ちでやったことだとしても」


 顧問は瞑目して天を仰いだ。


「今やネット社会だ。海のように広い。一度広まれば戻ってこない。彼女はきっと、そんな世界に君との宝物が放り出されたことに責任を感じたんだろうな」
「葉瀬は何も悪くないのに」
「彼女の絵は、彼女の心だ。繊細で、傷つきやすくて、儚くて。言葉にできない彼女の想いが、すべて込められているはずだから」



 以前、『きみがずっと言えなかったこと』というテーマのコンテストで受賞した彼女の絵を見たことがある。顧問の言うとおり、本当に繊細な絵だった。その絵を見た瞬間から、俺は改めて彼女の絵の虜になった。


 絵描きなら絵で。物書きなら文字で。写真家なら写真で。

 それぞれの作品には、すべてに作者の想いが込められている。だからこそ、たくさんの人の心を打つのだ。



 望まぬ形で評価されてしまった絵。どうあがいても間に合わない事実に、彼女は絶望したのだろう。



 いじめを受けていながら常に笑っていた彼女が、唯一我慢できなかったこと。彼女を死へと追い詰めた出来事。
 それは、俺と描いた夢をかき消されることだったのだ。



 いったいどこから葉瀬の絵が漏れたのか。俺はその真相を突き止めることにした。

 記憶をなくした葉瀬と迎えた新学期。葉瀬の記憶について担任から知らされたとき、明らかに動揺していた人物がひとりいた。



 葉瀬紬が自殺をはかった。

 そんな珍しき事実は、噂として広まるのにたいした時間はかからなかった。広いようで狭い町だ。同じ高校内だけでなく、他校の高校や中学にまでも噂が流れたのだろう。

 だから表向きに言われている『記憶喪失』という言葉の裏には、『自殺未遂』という意味が隠されていることを、ほとんどの生徒は知っている。



 俺はすぐにそいつを呼び出した。放課後、空っぽになった教室に。



「……お前がやったのか」


 何をという部分がなくとも、察したようにうつむいたところで理解した。間違いない。



 赤坂燈。
 その名を持つ人物が、この泥臭い出来事のすべての黒幕だった。


「こんなに大事になるなんて思わなくて。葉瀬さん、ちょっとムカつくから恥ずかしい思いすればいいなくらいの気持ちだったの」


 赤坂は顔を真っ青にしながら必死に訴えてくる。



「そんなに大事な絵だと思わなくて。たまたまノートに描いてあるのを見つけて、少しだけ恥ずかしい思いをさせようと思って裏垢に写真をあげただけ。まさかこんなことになるなんて知らなかった」


 目に涙をいっぱいためている赤坂には、同情のかけらすら生まれなかった。
 赤坂は首を振りながら、消えそうな声で言葉を紡いだ。


「鍵垢だったし、フォロワーも少ないから本当に身内だけで共有をーー」
「黙れよ」



 赤坂は息を呑んで、ぐっと口を閉じた。


 自分ではない誰かのために怒るというのは、そこに必ず愛があると思う。その「誰か」のことを守りたい。「誰か」のために思いをぶつけたい。

 自分がどう思われたとしても構わないから、自分はこの人のために腹を立てて、怒りたい。怒鳴って、相手に嫌われてでも守ってやりたい。



 葉瀬紬は俺にとって、たったひとりのそんな存在だった。



「お前の軽率な行為で、葉瀬はあんなことになったんだ。この期に及んで許されようとしてんじゃねえよ」
「それは……」
「第一、ムカつくってなんだよ。アイツがお前に何かしたのか? 聞いたよ全部。お前が葉瀬をいじめていたことも」



 なんで言わなかった。
 なぜ、気づけなかった。



 過去の俺は、いったい彼女のとなりで何をみていたんだ。




「私、葉瀬さんがずっと嫌いだったの。憎かった」


 息を吸った赤坂は、覚悟を決めたように俺に向き直った。もう言い訳を並べることはやめたらしい。



「柴谷くん、私には何もしてくれなかったじゃない! 葉瀬さんばかり気にかけて、ちっとも私のほうを向いてくれなかった。私はずっとずっと、柴谷くんのことだけを見ていたのに」



 赤坂の目は俺をまっすぐにとらえていた。こうしてちゃんと目を合わせたのは、これがはじめてだった。



「ウザかったの。嫌な思いをして、柴谷くんから離れればいいと思った。だからいじめたの。葉瀬さんがあんなことになったのは、全部柴谷くんのせいだか────」
「わかった」



 これ以上、話し合っても何も生まれないということも。赤坂に反省の色が浮かぶことなど、この先ないということも。
 俺が、葉瀬より赤坂を選ぶことなどあり得ないということも。


 すべて、わかった。




「俺のせいでいいよ。全部なすりつけていい。そのかわり、今後アイツに近づいたときには俺、容赦しないから。全力でアイツのこと守るから」
「え……?」
「今度は絶対傷つけさせない」




 決意を固める。喉元が熱くなる。
 脳裏に、記憶を失ったあとの葉瀬の顔が浮かんだ。青白く、消えそうで、この世の終わりみたいな顔をしていた。周囲の奴らがみんな初めましての環境にひどく怯えているようだった。




「私……私ね、柴谷くんのことが」



 伝える資格すらない言葉を赤坂が発する前に、スマホを目の前に差し出した。

 黙れ、と。言葉ではなく行動で示す。





『ウザかったの。嫌な思いをして、柴谷くんから離れればいいと思った。だからいじめたの』






 再生中、と表示されている画面を見ながら、赤坂は呆然と立ちすくんでいた。視線は一点に集中している。




「これ、バラされたくなかったらもうアイツには近づくな。本当は同じようにネットにばら撒いてやりたいよ。でも、そんなことをしてもきっとアイツは喜ばないから」



 葉瀬はそんなこと望んでいないはずだから。


「お前が葉瀬にどんなことをしたのか、話せばお前の立場は間違いなく崩れる。この通り、証拠もとった」
「やめて! そんなことされたら私……」
「俺は優しいから。アイツに見えている通りの俺でいたいから。だから葉瀬にいっさい近づかないと約束するなら、これはどこにも晒さない。ただし、何かあったらいつでも晒しあげる準備はできてる」




 赤坂は悔しげに唇を噛んでうつむいた。彼女の長い髪が垂れて、その顔に影をつくる。



「赤坂。嫌われてもいいと、傷つけてもいいは違う」



 赤坂はハッと顔をあげる。その目には大きな涙が浮かんでいた。



「俺は葉瀬のことが好きだから。お前のことは好きじゃない」



 分かりきったことをわざわざ伝えようと思ったのは、自分の意思をはっきりとさせるためだった。そして、このくだらない茶番に終止符を打つためでもあった。


 赤坂は頬を濡らして教室を出ていく。生ぬるい風が髪を揺らした。





 ーー助けて。
 俺は、その言葉が聞きたかった。

 頼ってほしかった。会いにきてほしかった。すべてひとりで決めてしまう前に。



 俺はずっと、決定打を探していた。
 彼女に告白しようと、もっと距離を縮めたいと思える出来事を。

 自分に自信がついて、常に笑っていた彼女にふさわしい自分になれるように。



 ーー助けて。
 言葉をあげて、俺に悩みを打ち明けてくれる。助けを求めてくれる。
 俺のことを、信じてくれる。


 胸の内に秘めた、本当の葉瀬紬。




 俺はいつも、そんなキミを探していた。








・・



「柴谷は……わたしのことが好きだったんだね」


 気付けば頰が濡れていた。これは誰の涙なのか分からない。

 わたしのもの?
 それとも以前の葉瀬紬のもの?



「今の言い方は語弊があるね。正確には、昔のわたしが、好きだったんだね」


 明るくて、前向きで、彼を引っ張って光ある方へと導いてくれるような。絵が得意で、打たれ強くて、繊細な人の気持ちがわかるような。結局はみんな、以前の葉瀬紬が好きなのだ。



 過去を受け止めるつもりで、彼からの言葉を待った。それなのに、思っていたよりも衝撃が大きくて。

 どうして、こんな気持ちになるんだろう。


 彼が好きなのは昔の葉瀬紬。
 その事実を改めて認識するたびに、苦しくて無性に泣きたくなる。



 わたしは本物の葉瀬紬にはなれない。

 わたしはきみにはなれないよ、紬。



 こんなわたしじゃ、彼のとなりにふさわしくない。並べない。
 わたしはやっぱり誰からも求められていない。それが痛いほど分かって、苦しかった。



「教えてくれてありがとう、柴谷」



 これ以上彼の顔を見ていると、涙が止まらなくなってしまうような気がした。


 どうして、どうして。あんなに自分を強く持とうと決めたじゃないか。それなのに、どうして今揺らぐ必要がある。

 悔しい。
 わたしは、わたしに勝てない。

 どんなにあがいても、昔のわたしには勝てやしない。



ーー前はもっと明るかったのにね。
ーーすっかり変わってしまったね。




 変わってしまう前のわたしは、みんなの話を聞く限りとても魅力的で。どうしても今の自分と比べて、落ち込んでしまう。



「美術準備室にカメラ。ずっと不思議だったけど、昔のわたしがよく使ってた部屋だからでしょ」
「……」
「入るね」



 あれだけ頑なにダメだと言っていた柴谷は、今日は何も言わなかった。足を踏み入れると、どこか懐かしい特有のにおいが鼻をつく。

 画材がたくさん並んでいた。完成した作品も、何作か飾られていた。



【葉瀬紬】

 すみのほうにつくられたコーナー。そっと棚から引き出してみると、美術部展示でみたような繊細なタッチだった。わたしはこの絵で、いったい何を伝えたかったのだろう。


ーーわたしには、やっぱりきみの気持ちなんて分からないよ。紬。


「……葉瀬」
「わたしには分からない。ごめんね、約束を果たしてあげられなくて。こんなわたしじゃ何もできないから、柴谷のこと応援する資格すらないんだ」


 ああ、また自己嫌悪。
 彼と出会って変われたはずなのに、変われたと思っていたのに、実際は暗く深い場所を彷徨っているだけ。




「逃げるなよ、葉瀬」



 美術準備室から飛び出そうとした腕を掴まれる。
 逃げるなって、なに。透明な目で見つめられて、途端に逃げ出したくなる。自分の気持ちがぐしゃぐしゃになって、自分自身でもよく分からなくて、涙があふれだした。


 わたしはもう前のわたしとは違う。

 結局過去を知ったことで自分を苦しめて、あてもなく彷徨いながら後悔して生きていくんだ。昔の自分に謝りながら、周囲の人を跳ね除けて。



 過去の出来事を知るのはこわくない。だけど、過去の自分を知るのはこわかった。過去の自分がすぐれていればすぐれているほど、今の自分の存在価値を見失う。



「わたし……帰るね」



 柴谷はもう何も言ってこなかった。追いかけてくる足音もない。



 今のわたしが、過去のわたしより優れているところはなんだろう。どうやったら、過去の自分を越えられるんだろう。

 過去を知ったその先で、柴谷が支えてくれるだろうと勘違いしていた。彼が支えたいと思っているのは、会いたいと願っているのは、前の葉瀬紬なのだから。

 決してわたしじゃない。








 家に帰って廊下を歩いていると、急に母が現れた。対面して視線が絡んだその瞬間、母はわたしの名前を呼んだ。


「紬」
「え?」
「なにかあったね」


 問いかければ大丈夫だと答えると思ったのか。母は断定するように言葉を発した。



「お母さんね、ずっと紬に渡さなきゃいけないものがあったの」


 母は寝室に姿を消し、それからしばらくしてひとつのキャンバスを抱えて戻ってきた。大切そうに抱えられたそれは、美術部のわたしなら見飽きたほど見てきたであろうもの。


「本当は遺書と一緒にこれも見つかっていてね。最初はお母さんたちから柴谷くんに渡そうと思ったんだけど、それはやっぱり違うんじゃないかって。これは、紬から渡すべきだと思ったの」



 両親が遺書や画材を押し入れに隠していたのは、それらを捨ててしまえば昔のわたしが生きた証が完全に消えてしまうような気がしたからだと言っていた。名残惜しくて捨てられなかった、と。

 遺書、画材、それらが押し入れから見つかったとき、柴谷にあてたものが何もないことに違和感を覚えていた。
 遺書に書かれていた追伸は柴谷に宛てたものだとしても、彼へ残す想いはたった一文だけで割り切れてしまうものなのかと。



『そうだ柴谷。あたしね、来年の冬に柴谷に渡したいものがあるの。今年はちょっと間に合いそうにないんだけど、来年は絶対渡すからね』




 柴谷の記憶の中で、わたしはこんなことを言っていた。
 来年の冬渡したいもの。以前のわたしがずっと準備していたもの。


 だけど渡せなかったもの。




 じっとそのキャンバスを見つめる。

 ずっと考えていた。わたしが生き延びてしまった理由を。

 残された人生で、空っぽになってしまった人生で、わたしは何ができるのかを。





「……実はお母さんが早起きした日の前日に、柴谷くんと偶然会ってね。そのときに言われたの。朝ごはん、一緒に食べないんですかって」
「え」
「だめね、お母さん。紬はお母さんと一緒にいるのが嫌なんじゃないかって思って、距離を詰めようとしなかったの。紬の本当の気持ちを聞かないまま、勝手に決めつけて」



 とある朝の会話が思い起こされる。


『お前はどうしたいわけ?』
『一緒に朝ごはん、食べられるようになりたい。それで……いってきますって言えるようになりたい』



 たしかあのとき彼は「ふぅん」と適当な相槌を打っていた。だからてっきり、聞いていないと思っていたのに。

 母とわたしの間にある壁を取り壊すきっかけをくれたのは、彼だったんだ。

 わたしの知らないところで、彼はいつも、わたしを助けてくれていた。
 もう一度、前を向いて進み出せるように。



「ねえ、お母さん」



 毎日自分を嫌いになって、消えたいと願って、以前のわたしに申し訳ないと謝って。
 変わってしまった自分を恨みながら、生きていく意味を探していた。



 だけど彼は。

 ちゃんと今のわたしを見てくれていた。





 ーー好きだ。
 わたしは、柴谷のことが。

 だからこんなにも苦しくて、泣きそうになってしまうんだ。彼がわたしを通して過去の葉瀬紬を見るたびに、胸が締め付けられて息ができなくなる。


 彼の瞳にずっと映っていたい。
 わたしだけを映してほしい。



 この感情を恋と呼ぶのなら。


ーーわたしは君に、恋をしている。





「わたし、今から出かけてきてもいいかな」



 わたしは、以前のわたしが言えなかった気持ちを、伝えられなかった想いを彼に届けるために、この世界に生まれた。十七歳の誕生日、すべてに絶望した日にわたしの人生は始まった。



「気をつけていってらっしゃい。紬」



 過去のわたしは、柴谷のことが好きだった。柴谷も、過去のわたしのことが好きだった。

 ずっと言えなかった過去のわたしの気持ちを、今度は今のわたしが伝えにいく。




 繊細なタッチで描かれた絵の中で、柔らかく笑う柴谷を見つめた。

 突き刺すような部分はいっさいなくて、ただただ優しさが溢れている絵だった。以前の葉瀬紬には、彼がこんなふうに見えていたんだろう。



 キャンバスを持って、家を飛び出す。


 会いたい。柴谷に会いたい。
 この作品を、想いを、彼に届けたい。




 わたしが死ななかった理由。こうして生命を繋いだ理由は、きっと。









「柴谷!」


 もしかしたら、まだ学校に残っているかもしれない。そんな考えで学校に戻る。

 運動部はまだ活動をしている時間で、その可能性はじゅうぶんにあった。
 けれどもう、柴谷はいなかった。美術準備室までくまなく探したけれど、そこに柴谷の姿はなかった。

 かわりに、いつもあるはずのカメラがなくなっている。ここ最近写真を撮らなくなった彼が、どこかでカメラを構えているのだろうか。




 足早に廊下を歩いていると、角からいきなり現れた人物とぶつかりそうになる。それが誰なのかを認識したとき、思わず息を呑んだ。


「赤坂さん……」



 赤坂燈。記憶を失ってからは一度も関わったことがないけれど、以前のわたしを追い詰めた張本人。事実を知ってからだと、見る目がガラッと変わってしまう。


「その反応、もしかして思い出した?」



 いぶかしげに眉を寄せた赤坂さんに「違います」と首を振った。


「記憶は戻ってないです。でも、以前のわたしが何をされたのか、それはききました」
「……そう」
「正直、怒っています」


 過去の話を聞いたとき、いちばんに浮かんできた感情は怒りだった。彼女は過去のわたしを苦しめた。その事実はこれまでも、これからも変わることはない。



「以前のわたしは、間違いなくあなたのせいで死まで追い詰められた。柴谷との夢を壊されたまま」
「……ええ」
「すごく苦しかった。結果的に生命は助かったとしても、記憶を失うことになるほどの出来事だった」


 そうして、わたしがうまれた。
 赤坂さんのせいで過去のわたしは消えてしまったけれど、赤坂さんのおかげで今のわたしは生まれたのだ。

 息を吸う。
 肺いっぱいに空気が満たされるのを感じる。


「死ぬまでのわたしは、ずっと自分の気持ちを隠したままだった。誰にも助けを求められないまま、笑顔を貼り付けて。でも今のわたしは違うから。以前のわたしが叶えられなかった夢を、今度はわたしが叶えてみせる」



 柴谷と、一緒に。




「それに赤坂さんの気持ち、今なら少しは分かるから。もちろん嫉妬でその対象を傷つけるのは許されちゃいけないことだよ。でも、柴谷は昔の葉瀬紬しか見えてないから。柴谷が好きなのはわたしじゃないから。それが悔しいし、羨ましい」


 好きな人の好きな人。いくら憧れてもまったく手の届かないその場所で笑っている姿を見るのは、当然苦しい。



「だからね、もういいの。今を生きてるのはわたしだから。今のわたしは、赤坂さんのこと許すよ」



 人間は完璧じゃない。長所も短所もそれぞれが持っているから、時にぶつかり合いが生じることだってある。

 だけどそのたびに言葉を交わして、行動で示して、一緒に前に進んでいくことができたら。そしたらぶつかり合う前よりも、お互いのことを知ることができる。

 そうやって、わたしたちは生きていくしかない。


 だってわたしたちは、未完成なのだから。




「……やっぱり、あなたには勝てないわ。何も変わっていないもの」
「え?」
「柴谷くんが好きなのは、いつまで経ってもあなたなんだと思う。悔しいけど、ほんとに何も変わってない。以前のあなたも今のあなたも、すごく強くて敵わない」



 泣きそうな顔で笑った赤坂さんは「柴谷くんなら少し前に校舎から出ていったわよ」と助言を残して去っていった。






 柴谷はどこにいるんだろう。彼の行動範囲など知らない。
 必死に記憶を手繰り寄せる。柴谷が話してくれた過去に、何か手がかりはないのか。


 焦って飛び出したからスマホは持っていない。連絡手段を断たれてしまった今、わたしにできることは勘にかけるよりほかなかった。



 カメラを持ち出した柴谷は、いったい何を撮ろうとしていたんだろう。柴谷の過去とカメラが関係する場所。


 それはーー。





 薄く広がる淡空のした。
 柴谷と葉瀬紬が出会った場所。わたしが何の気なしに訪れていた公園は、実は彼との思い出の場所だったのだ。
 ザイルクライミングが視界の端に見える。


 花びらも葉もない桜のそばでたたずんでいる柴谷に駆け寄ると、彼は驚いたようにこちらを向いた。その手にはしっかりとカメラが抱えられている。



「これを、柴谷に渡したくて。ごめんね、途中で逃げ出したりして」


 切れそうな息のまま、柴谷に絵を差し出す。その絵を静かに見つめた彼は、そっと瞳の奥を緩ませた。



「約束、ちゃんと果たしてくれたんだな」


 その言葉は、わたしへの言葉ではなかった。

 来年の冬、と交わされた約束を。守れなくてごめんね、と記された約束を。
 ちゃんと果たし抜いた、ここにはいない葉瀬紬へと贈られた言葉だった。



「ありがとう、葉瀬」
「きっとね。昔のわたしは、柴谷のことが好きだったんだよ。この絵を見たら分かると思うけど、本当に、好きだった」



 やっと、言えた。
 ーーきみが直接言えなかったこと、伝えてあげられたよ。


 ねぇ、過去のわたし。

 きみがずっと言えなかったこと。
 ちゃんと彼に届いてるよ。


 柴谷は目を細めた。彼の透明な瞳に、もっと透明なものが光っている。柴谷は空を見上げて、そっと目を閉じた。

 それから小さく息を吸って、もう一度その瞳にわたしを……否、あたし(・・・)を映す。


「俺も……好き、だった」


 気づけば頬が濡れていた。
 柴谷から紡がれる繊細な言葉と、そこに込められた想いに、心が震えて涙が止まらなかった。




 昔のわたしと柴谷の想いが通じ合った。今はそれだけでよかった。

 今のわたしの気持ちなんて、伝えるべきじゃない。




 だから、わたしが言えることは。
 今、彼に言いたいことは。



「でも、過去のわたしはもういないから。ここにいるのはまったく違うわたし」


 ぎゅっと拳を握り締める。まっすぐに柴谷の目を見つめた。
 柴谷は呼吸を合わせて、わたしの言葉を待ってくれている。




「だからもう一度、挑戦しよう。柴谷」




 その瞬間、柴谷の目が見開かれた。
 優しい風がわたしたちの髪を静かに揺らす。トンッと誰かに背中を押されたような気がした。



「以前のわたしとの作品は未完成のままかもしれない。だけど今度は、新しいわたしと一緒に頑張ってくれないかな」



 わたしたちは何度だってやり直せる。
 生きてさえいれば。


 こんなところで立ち止まってはいられない。夢を描いたその先で、わたしたちはとなりに並んでいるはずだから。


 彼と描く未完成な世界を、わたしはこれからも見ていたい。



「前みたいに素敵な絵は描けないかもしれない。筆を握っても失望させるだけかもしれない。それでもわたしは頑張るから、だからもう一回挑戦してみようよ。わたしたちならきっとできるよ」



 柴谷。


 空っぽのわたしに息の仕方を教えてくれた人。

 学校に行く理由になってくれた人。

 もう一度、前を向くきっかけをくれた人。


 わたしは何度記憶を失っても、そのたびに彼を好きになるんだろう。


 導かれるように。息をするように。
 未完成な世界に、徐々に色を付けていくように。


 ーーそんなふうに、君のことを好きになった。






「言っただろ。俺にとっては過去の葉瀬も、今の葉瀬も、どっちも本物の葉瀬なんだって」
「え?」



 キャンバスとカメラを丁寧に抱きしめて、柴谷は凛とした光をたたえたままこちらを見た。



「紬」



 名前を呼ばれた瞬間、全神経が彼に注がれる感覚がした。彼の瞳から目が離せなくなる。



「俺ともう一度、コンテスト目指してほしい」






 ふたりで挑戦すればこわくない。
 もう一度、一緒に同じところを目指そう。


 ーーわたしと君なら、きっとできるよ。




 わたしたちはこうやって支え合って、与え合って、未完成な世界を生きていく。





 私には後悔していることがある。
 自分の嫉妬を抑えきれずに、とある人物を傷つけたことだ。

 葉瀬紬。その名前を持つ人物だった。


 私は柴谷くんにずっと想いを寄せていた。中学生のころから、女子や恋愛に無頓着で常に自分の世界を生きているような彼に惹かれていた。何度も何度もアタックしたけれど、全然相手にしてもらえなかった。

 それでも、彼が夢中になるような相手がいなかったから、なんとか我慢できていた。高校に入って、葉瀬紬という存在が現れるまでは。



「赤坂さんの気持ちは赤坂さんのもの、私の気持ちは私のものでしょ。どう頑張っても変わらないし、無理して変えなくていいものだよ」



 いざ会話してみると、差は歴然としていた。悔しいと嘆く気持ちとは裏腹に、自分との差を見せつけられたみたいでどこか諦めの感情すら浮かんでいた。


ーーあまりにも差がありすぎる。


 柴谷くんが求めている人間というのが葉瀬紬であるならば、私はどう頑張っても柴谷くんのとなりに並ぶことなんてできないのだと理解した。


 写真家の彼と、絵描きの彼女。
 それだけでも特別感があったけれど、ふたりが並んでいるのをみると、ただそれだけの感情で二人が一緒にいるわけではないのだとすぐに分かった。

 お互いにとっての居場所であり、安心して息を吸える場所であり、誰にも立ち入れない雰囲気がそこにはあった。



「赤坂さんがどう思っていようと、私は赤坂さんが好きだよ。今のところはだけどね」



 どう生きていけばこんなふうになれるのだろう。だってまだ同じ年数しか生きていない。
 大人のようにも、子供のようにも見える葉瀬紬は魅力的だった。柴谷くんも、彼女のそういうところに惹かれたんだろう。

 もし葉瀬紬がとても性格の悪い人間だったなら、表立って火花を散らすことができたかもしれない。
 けれどあまりにも彼女が出来すぎた人間だったから。柴谷くんのとなりにふさわしい人物だったから。



 私は姑息な手を使って、彼女を苦しめることしかできなかった。






 その日も、少しばかりイタズラしてやろう、くらいの気持ちだった。
 教室に戻った時、ふと葉瀬さんの机に置かれた一枚の紙に目が止まった。


 周りに誰もいないことを確認して近寄る。それは絵だった。
 色も塗られていなければ、くっきりと描かれているわけでもない。イラスト好きな友達が「ラフ」と呼ぶそれに似ていた。
 もう一度周囲を見渡して、持っていたスマホで写真を撮った。一瞬の行動だったけれど、心臓がバクバクと鳴って飛び出そうだった。

 最低なことをしている自覚があったから。



 小さな小さなコミュニティ。
 私と、それからいつも一緒にいるマキとミホ。あとは信頼はできないけれど、いつも私の後ろをついてくるサキやアコ。たったそれほどの人しか知らない鍵アカウント。

 そこで共有して、反応を楽しもうとしていた。
 彼女たちはいつも私が満足できるような言葉を探して、私に話しかけてくる。だからとても気持ちがいいし、落ち込んだときにはすごく支えになっていた、はずだった。




 けれど最近になって思うようになった。あまりにも馬鹿馬鹿しいと。


 アイコンの周りが虹色に光ったのを見て、ストーリーがきちんと上がったことを確認する。
 投稿してすぐに、サキとアコの閲覧履歴がついた。ふたりとも抜かりなく、いいね!を押している。
 本当にいいね!と思っているのか、既読感覚いいね!なのか本当のところは分からないけれど、おそらく後者だろうと思う。


 はあ、とため息をついた。




『ともたん、葉瀬さんのことほっといていいの?』
『今日も柴谷くんと距離近かったよ』
『張り紙しておいたからね! まったく、暴言書くこっちの身にもなってほしいよね〜』
『はやく身を引けっつーの!』



 グループラインに次々とメッセージが書き込まれていく。私はそれに反応せず、既読をつけただけで電源を落とした。



 ああもう、みたくない。


 もちろん最初は悔しくて、少しでも嫌な思いにさせてやろうと最低なことを思っていた。けれど葉瀬さんの強さと優しさに触れるたびに、自分が情けなくて、みっともなくて、消えたくなった。



 私に絵の才能があったら。そしたら、柴谷くんのとなりに並べただろうか。
 彼女として。柴谷くんの好きな人として。


 自問して、やがて首を振った。答えが出るのは一瞬だった。
 いくら柴谷くんの目を惹くような絵が描けたとしても、きっと私ではだめだ。


 葉瀬紬でないと、だめなのだ。





 いつしか、強い私を求められるようになっていた。クラスの女王として権力をふるって、学校を偉そうに闊歩(かっぽ)しながら、青春を謳歌するような。

 取り巻きたちはみな、私が葉瀬さんを痛めつけることを望んでいる。葉瀬さんをいじめている主な人物は私になるわけであって、彼女たちは比較的安全な場所から葉瀬さんが苦しむところを見て面白がっているに過ぎない。

 自分でいじめる勇気はないから、同じように葉瀬さんに嫉妬している人で固まって、攻撃してやろうという魂胆だ。




 こんなことをすればするほど、柴谷くんに選ばれるはずなどないのだと分かっていた。けれど止められなかった。





 悪事を働こうとしたとき、彼女と鉢合わせたことがある。その内容はもう覚えていないほどくだらないことだったけれど、いじめの決定的瞬間を確実に見られた。


「あ……」
「未遂だから大丈夫だよ!」


 それなのに彼女は笑みを絶やさず私のもとへと近づいてきた。

 そのときばかりは、え、と固まった。どうしてこんなふうに笑えるのか、本当に同じ人間なのか、何もかもが信じられなかった。


「あなた……つらくないの?」


 いったい誰が訊いているんだと、笑ってしまいそうになる。彼女を苦しめている張本人。そして、私が主犯だということもきっと彼女は知っているだろう。



「嫌じゃないって言ったら嘘になるけど……でも、大丈夫! 全然、大丈夫」
「……ばっかじゃないの」
「バカなのかな、あたし。うん、バカだから平気なのかも!」


 彼女のアーモンド型の目がスッと線になる。
 笑っていた。それはもう、満面の笑みで。



「じゃああたし行くね! 赤坂さんも部活頑張って!」



 私はどうやっても脇役だ。
 彼女が主人公で、柴谷くんが主人公の相手役だとしたら、私は台詞が少しある程度の脇役。


 昔から、本が嫌いだった。
 主人公の言動で、まわりの態度がどんどん変わっていく。最初は主人公をやっかんでいた登場人物たちが、最終的には主人公のことを好きになる。
 わたしはいつも、主人公ではなく、悪役に自分を重ねていたから。


 主人公が周りの人たちを変えていくなんて、そんなわけがないと思っていた。主人公に魔法の力でもなければ、そんなこと現実世界ではありえないと。



 だけど、本当に存在していた。いじめてやろうとか、嫌な思いにさせてやろうという気持ちが、なんて浅ましくて無意味なことだったのだろうと気付かされてしまう。

 自然と、私は彼女に惹かれていた。
 一人の人間として。彼女に抱いていた邪念などとっくに消え、いつしか憧れを抱いていた。


 だからもう、こんなくだらないことはやめよう。取り巻きたちは間違いなく幻滅して、私のそばを離れていくだろう。それでも、こんなふうにかっこ悪いことを続けていくのは耐えられなかった。


 ーー私は、葉瀬紬の笑顔がみたい。







 そう思っていた矢先だった。

 急に葉瀬さんの嫌な知らせが耳に入り、両親に呼び出されたのは。




 葉瀬さんが自殺を試みたこと。命は助かったがその過程で記憶を失ったこと。私が無断であげた絵の写真が違うアプリで拡散されて、盗作されたこと。その作品がコンテスト受賞を果たしてしまい、柴谷くんと葉瀬さんの夢を台無しにしたこと。


 ーー私が、主人公の葉瀬紬を殺したこと。






 頭が真っ白になった。
 SNSの使い方は今まで何度も教え込まれてきたけれど、まさか小規模の鍵垢から写真が漏れることがあるなんて思いもしなかったから。

 繋がっている数人の友達……否、知り合いがどこかに無断転載したなどという事実は、考えたくなかった。けれど漏れてしまった以上、そう考えるより他ならない。




 私は呆然と両親の話を聞いていた。葉瀬さんの両親に会って頭を下げた時、ようやく取り返しのつかないことをしてしまったのだと深く実感した。

 あの一瞬で。私の軽率な考えで。
 浅ましい嫉妬で。


 あやうく彼女は死ぬところだった。




 始業式、胸が張り裂けそうになりながら彼女の姿を待った。すぐに謝るつもりだった。許してもらえるとは思っていないけれど、今までの心が狭くて傲慢な自分からは卒業できると信じて。


 けれど。


『不自由かけますが……よろしく、お願いします』



 常に笑顔を浮かべていた彼女とはまったく別人。うつむきがちにそんな挨拶をした葉瀬紬という人物を、私はただ見つめることしかできなかった。

 その日の放課後、柴谷くんから呼び出された。それはまったく嬉しいことではなくて、むしろこれから地獄が待っているのだと。そう直感的に悟った。



 案の定、彼からきびしい言葉をぶつけられた。そのどれもに、彼の葉瀬さんに対する愛が込められていて。

 こんなに圧倒的で、羨望することすらおこがましいような想いに私は嫉妬していたのだと分かった時、アホらしくて仕方がなくなった。

 すべて、私が悪い。彼女をいじめてきたツケがまわってきたのだ。





 私は柴谷くんの前で、過剰なまでに自分の思いを吐露した。言葉を並べれば並べるほど、自分の醜さが目立って泣きたくなった。





『私……私ね、柴谷くんのことが』



 その先を続ける前に、録音を流されて遮られた。けれど私はその先を続けるつもりは最初からなかった。


 そんな資格が私にないことは、痛いほど分かっていた。



『俺は葉瀬のことが好きだから。お前のことは好きじゃない』




 その言葉をはっきりと告げられたとき、泣きながらも心のどこかで安堵していた。

 これでやっと、終わることができる。
 汚い自分から卒業することができる。



 彼を想って苦しむことに、ようやく終わりが見えた気がした。



 柴谷くんと交わした条件は、二度と葉瀬さんに近づかないこと。
 彼女に謝れたら、と思っていたけれど、私のことを忘れているのならば彼のいう通り、最初からなかったこととして記憶から消す方が幸せなんだろうと思った。


 だから近づかないようにしていた。
 それなのに。



『だからね、もういいの。今を生きてるのはわたしだから。今のわたしは、赤坂さんのこと許すよ』


 過去のすべてを知った彼女は、それでもなおこんな言葉を私に贈ってくれた。


 葉瀬さんは自分自身のことを、前とは変わってしまったと卑下していたけれど、それはきっと間違いだ。

 本当の部分が何も変わっていないから。まっすぐ前を向いていて、強くて、周囲を引き込んでいく圧倒的な力。



 もしかすると、繕っていた部分がすべて柴谷くんによって取り除かれた今の葉瀬さんが、本物の彼女なのかもしれない。ありのままの自分をさらけ出せる存在。

 それが柴谷くんにとっての葉瀬さんで、葉瀬さんにとっての柴谷くんだ。



『柴谷くんなら少し前に校舎から出ていったわよ』



 せめてもの助言に、葉瀬さんは「ありがとう」と微笑んで走り去っていった。


 これでよかったんだ。
 彼女も彼も、幸せになるべきだ。



 ただ、ひとつ。
 まだ彼女に伝えられていない「ごめん」という言葉。


 それだけが私のなかで、引っかかっていた。






***



「謝れたのか?」


 放課後。教室でゆっくり準備していた私に声をかけてきたのは柴谷くんだった。葉瀬さんに謝りたいと思っているうちに、季節はいつのまにか冬に突入していた。


「……ううん。まだ」


 首を振りながら、はたと考える。どうして彼は、私が謝りたいと思っていると気づいたのだろう。

 彼が抱いている私の印象は最悪のはずだ。謝るなんてこと考えられないくらいに、自分勝手で自己中な人物だと捉えられているはずなのに。


「そんな気がしただけ」



 彼は、人をよく見ている。まったく興味がないふうに見えたり、冷たく突き放しているように見えても、その裏でしっかりと相手の本質の部分をとらえている。そういうところがすごい。


 もう彼にトキメキをおぼえることはないけれど、それでも。

 この人を想った瞬間があってよかったと、心から思った。




「しばたにー?」



 ふと、廊下のほうから声が聞こえる。葉瀬さんの声だ。

 先生に頼まれごとをしていて、少し席を外していたらしい。



 このあと、彼らは作品の制作に取りかかるのだ。今は純粋な気持ちで、心から応援している。




「紬。赤坂から話があるって」


 現れた葉瀬さんの肩に手を置き、そんなことを言う柴谷くんにギョッとして視線を向ける。鞄を持って戸に手をかけた彼は、振り返って私を見ると片眉をあげた。


「がんばれ」


 そうして、教室を出ていく。


 あまりにも突然舞い降りてきたチャンスにあたふたしている私を、葉瀬さんはおだやかな表情で見ていた。



「なに? 赤坂さん」
「あ、えっと……」



 手汗がにじむ。冬だというのに、身体から火が出ているかと思うくらいあつい。

 葉瀬さんは急かすことなく、私の言葉をじっと待ってくれた。深呼吸をすると、いくぶん心に余裕がうまれる。




「傷つけて、ごめんなさい」



 頭を下げる。
 ああ、言えた。浮かんだ涙で目の前が滲む。



 ずっと言えなかった。ごめんね、とその一言がずっと。



「うん。いいよ」
「……葉瀬さん」
「もう一回、やり直そうよ。今度はわたしも、嫌なことがあったらちゃんと言うから。我慢しないで、自分の気持ちに正直に生きるって決めたから」


 葉瀬さんは満面の笑みを浮かべていた。
 これまで見ていた笑顔とは明らかにどこか違った。

 心からの笑顔だった。




「燈ちゃん。よろしくね」





 謝って、許してもらって、和解する。それはとても難しいことだと思っていた。

 けれど私が勇気を出さなかっただけで、葉瀬さんはこうして私を待ってくれていた。今となってはこんなにあっさりできることなのに、どうして当時は複雑に絡まってしまったのか。変なプライドや嫉妬が邪魔をして、ずっと謝ることができなかった。


「ありがとう……紬ちゃん」


 
 名前を呼んだ瞬間、また一粒、涙がこぼれ落ちた。




「おはよう、お父さん。お母さん」


 あれから季節がめぐり、夏が来た。わたしが生まれた季節だ。

 燈ちゃんとはクラスが離れてしまったけれど、今も交友は続いている。休日には一緒に出かけたり、放課後カフェに寄って帰るほどには仲良くなった。

 夕映ちゃんと柴谷とはまた一年同じクラス。三年生として高校生最後の年を一緒に過ごしている。
 笑う回数が増えたからか、クラスメイトともだんだん打ち解けていって、今は何不自由なく過ごすことができている。学校が息苦しいと思うこともなくなった。



 夏休みだというのに、両親はどちらも早起きをしていた。食卓を囲んで、一緒に朝食をとる。


「紬は今日も学校?」
「うん。明日ついに完成予定なの」
「あら、すごいじゃない」
「見るの楽しみにしてるからな」



 嬉しそうに微笑む両親を見ていると、わたしまで笑顔になる。


「卵焼き甘くて美味しい。わたし、お母さんがつくる卵焼き大好きだよ」
「あら嬉しい。でも紬もつくれるわよね、この味」
「ううん。お母さんの味がいちばんに決まってる」



 そんな会話をしていると、机に置いていたスマホが着信を知らせた。


【柴谷】


 相変わらず苗字だけだ。
 履歴には彼とのメッセージのやり取りや着信が数多く残っている。



『今日迎えにいく』


 彼のメッセージに、了解、と返信してスマホを閉じた。




 わたしたちが目指しているのは、夏の終わりに開催されるコンテスト。テーマは【きみが生きる世界】だ。去年は残念ながら出品できなかったので、今年こそはと意気込んでいる。


 朝食を食べ終えたあと、部屋に戻って少し高めの位置で髪を括った。夏だからいいよね、とわけのわからない言い訳をしつつ、調子にのって少しだけメイクもしてみる。


 そうしていると、


『着いた』


 とメールが届いたので、慌てて鞄を持った。


 玄関前で一息呼吸をして、振り返る。リビングから顔を覗かせた両親が、笑顔で手を振っていた。



「いってきます」









 家から少し離れた場所でわたしを待っていた柴谷は、わたしに気づくと手をあげて近づいてきた。



「わざわざありがとう」
「べつに、俺が来たかっただけ」



 そんな言い草に、ふぅん、と返す。彼とこうして学校へ向かうのは何度目か。

 初めてのときは緊張していたけれど、今はもうそこまで緊張しない。むしろ居心地がよく感じる。



 シャツが肌に張り付く。高く縛った髪のおかげでむき出しになったうなじに風があたる。

 空を見上げる。
 入道雲が遠くに見えた。


「葉瀬、キャラメルいるか?」
「うん」


 夕映ちゃんからきいた話だけれど、柴谷はどうやら甘いものが苦手らしい。そう知った時、驚愕した。念の為にと用意した【脳内柴谷図鑑】には甘いもの好き、と記録しておいたからだ。


『それって紬ちゃんが甘いもの好きだから、いつも持ってるんじゃないの?』


 にやつきながら言ってくる夕映ちゃんに、そのときは誤魔化すように「そんなわけないよ」と言ったけれど。
 案外間違いじゃないのかも、と思ってしまいたくなる。



「そういえば柴谷、わたしのこと『紬』って呼んでくれないんだね。前一回呼んでくれたことあったのに」
「あれは……気合入れないと呼べねぇか
ら無理」
「なにそれ」



 そっぽを向く柴谷。どうやら呼んでくれる気はまだないらしい。まぁわたしも苗字呼びなので、無理強いはできない。



「明日でやっと完成だね」



 そう言うと、うなずいた彼は少し緊張した面持ちでまっすぐに前を見据えた。





──────

───





 筆を持つと、身体が勝手に描いてくれた。一緒に夢を目指そうと豪語した手前、何の力にもなれなかったらと最初は不安だったけれど。


 自分の心にあるものをこの筆でうつしだす。そんな感覚で描いていたら、ずっと見ていた葉瀬紬の絵のタッチが現れたのだ。


 はじめはもちろんブレたりもしたけれど、練習を積み重ねることによってもうそこまで支障はない。



 写真に絵を描き込んでいくわたしを、柴谷はとなりでじっと見つめていた。


 構成を練って、納得いく写真を撮るまで。これだけでもかなり苦戦した。
 テーマにある【わたしたちの世界】というのは、いったいなんなのか。それを伝えるには、どんな作品なら良いのか。


 どの部分を写真で表現して、どこを絵で表現するのか。たくさん話し合って、お互いに技術を高める毎日だった。夏休みも毎日のように顔を合わせて、何度も何度も納得がいくまでやり直した。

 完成させてもなんだかしっくりこなくて、すべて最初からやり直したこともあった。


 それも、明日で一区切りつく。

 以前成し得なかったことを、明日、やっと成し遂げることができる。




 夏の終わり。
 去年とはまったく違う気持ちで、わたしはここにいる。



 柴谷のカッターシャツの白が、鮮やかな空によく映える。美術準備室には、わたしの作品が何枚も増えた。もちろん、柴谷が撮る写真も。




 美術準備室に入って、【葉瀬紬】と書かれたコーナーからいくつか新しい作品を引き出す。


 一時期、柴谷がカメラを構えなくなったときがあった。わたしの過去について彼から聞き出した頃だ。
 カメラを持つだけで、決してファインダーを覗くことはなかった。



 その理由を聞けたのはたしか、春のはじめ。ほんのり開花を待つ桜のにおいがするような、そんな日だった。


『写真を撮るのがこわくなった』


 そんな弱音をこぼした彼。そんな彼を連れて、雨の降る街を一緒に走ったことがあった。


 これはその日の夜に描きあげた絵。

 傘をさしていることなど意味ないくらい、ずぶ濡れになりながらふたりで街を駆け回った。光る雨粒や、跳ねる水飛沫の煌めき。
 同じ温度の世界をとなりで眺めて、こんなに綺麗なんだと再認識した。


 次のキャンバスを見つめる。

 今年の夏、一緒に花火大会に行った。コンテストのための勉強だと、意味のわからない言い訳を添えて。

 結局、たくさんの屋台の魅力に負けて、普通に祭りを満喫してしまった。花火を見ながらイカ焼きを食べているわたしを、呆れたように見つめる柴谷。花火そっちのけでその瞳に目を奪われた。


 ーーこれは、そのときの絵。




 彼と時間を過ごせば過ごすほど、想いは大きくなっていく。これらの絵を見るたびに、わたしはその時のにおい、音、気持ちまで思い出すことができる。




 キャンバスの前に戻って、筆を握った。この先を(えが)けるのは、わたしだけだ。

 完成は明日。
 前もってスケジュールを立てた時、柴谷が完成日はこの日がいいと希望したのだ。



 何か特別な意味があるのか。
 それは分からないけれど、目まぐるしくすぎてゆく時間の中で理由をいちいち考えている余裕などなかったからあまり気にしていなかった。

 頑張れば今日中に終えることもできるけれど、明日のために敢えて未完成な部分を残して作業を終えた。
 コンテスト出品の最終締切は一週間後。だからかなり余裕を持っての完成となる。



 わたしたちの"未完成"が出来上がるまで、あと一日。









 迎えた完成予定日。
 いつかの朝のように、息を潜めてすばやく準備をした。両親はまだ寝ている。

 こんなに早く起きるのは久しぶりだった。夏休み中は比較的遅い時間から柴谷に会っていたから。


 今日はできるだけ学校の日と同じ時間に待ち合わせる。それが柴谷との約束だった。


 不規則な鼓動が鳴っている。前もって用意していた朝食をとる。

 ふと目に入ったリビングのカレンダーには、今日の日付に大きな花丸がされている。きっと書いたのはお母さんだ。

 不思議に思ってはいたけれど、勝手に作品完成日だからと納得していた。
 家族で作品を楽しみにしてくれているのだと。



 集中して玄関のドアを閉めた。本気を出すと、案外音はならないらしい。

 学校に着くと、柴谷はもう"いつもの場所"にいた。




 おはよ、葉瀬。


 わたしはその言葉が彼から告げられるのを待っていた。久しぶりに聞くその言葉を楽しみにしながら、通学路を歩いた。


 好きな人に会いたいと考えながら学校に向かうって、こんなに幸せなことなんだと噛み締めながら。

 けれど、今日の柴谷から紡がれた言葉は、いつもとは違う言葉だった。
 彼の透明な瞳がわたしを見つめる。

 出会ったころよりも柔らかい、どこか懐かしい瞳だった。





「誕生日おめでとう、紬」




 え、と声が洩れる。
 予想外の言葉に一瞬、思考回路が停止する。



 そうか、今日は。
 わたしの。



 家のカレンダーの花丸を思い出す。
 そうだ、わたしの誕生日はコンテストに近い夏の終わり。


 作品を仕上げなきゃということで精一杯で、すっかり忘れていた。
 わたしが生まれた日を。



「ありがとう、柴谷」



 微笑むと、柴谷はわたしのもとへ近寄った。距離がグッと近くなる。目線を上げたすぐそばに、彼の綺麗な目があった。


「完成させよう。俺たちの未完成を」


 うん、とうなずいて筆を持つ。


 鮮やかに彩っていく。色づいていく。
 わたしたちの、未完成な世界が。



 ゆっくりと筆がキャンバスから離れる。そっと筆をおく。


 その瞬間、込み上げてきた涙が頬を伝って床に落ちた。となりにいる柴谷を見上げると、彼も同じように透明な涙を流していた。


「完成した……できた……」



 柴谷は静かに泣いていた。心から、この日を待ち望んでいたように。


 一瞬、指先が触れる。それからしばらくして、気づけば手を繋いでいた。
 この作品を作りだしてくれたお互いの手に、ありがとう、と。感謝の思いを伝えるように。




「葉瀬。俺と、もう一度挑戦してくれてありがとう」
「柴谷こそ。わたしのことを受け入れてくれて、もう一度前を向かせてくれて、ありがとう」




 一年前のわたしは、絶望していた。何をするにも周りの目が気になって、自分の運命から逃げようとしていた。

 わたしの中の世界は、いつも息苦しかった。けれど、そんな息苦しい世界を、彼が変えてくれた。



「この作品が完成したら、今度こそ言おうって決めてた。だから今、伝える」


 静かに息を吸った柴谷は、繋いだ手にそっと力を込めた。朝の澄んだ空気がわたしたちを取り囲んでいる。


 凛とした光が、まっすぐにわたしを見ていた。





「好きだ」



 たった三文字。それだけで一気に体温があがった。



「もちろん前の葉瀬のことも好きだったけど、今の葉瀬のほうがもっと好きだし、となりにいたいって思う。俺はずっと、お前のこと見てた」
「本当に、今の、わたしを……?」
「そうだよ。俺は二回、葉瀬のことを好きになった」



 前のわたしとは対照的。それなのに、彼はもう一度わたしに恋をしてくれたのだろうか。


「……最初は、もしかしたら記憶が戻ってくるかもしれない。前のお前が戻ってくるかもしれないって思ってた。だけど俺はずっと葉瀬に、自分の気持ちを正直に話してほしかった。だから初めて俺に悩みを打ち明けて、涙を流してる姿を見たとき、確信したんだ。やっぱり俺はお前のことが好きだって」


 柴谷は照れたように笑いながら言葉を続ける。


「記憶を失っても、泣きながら懸命に前を向こうとしてるところを見てたら、自然と守ってやりたいと思った。一緒にもう一度コンテストに挑戦しようって言ってくれたとき、前の葉瀬も今の葉瀬も、どっちも大切にしてやりたいと思った」
「じゃあ、柴谷は」
「毎日必死に生きていて、死にそうな顔をしながら頑張って前を向こうとしていて、繊細で、人のことによく気づけて、赤坂のこと許せて、俺にもう一度夢を与えてくれた、そんな今の紬が好きだ」



 ーーわたしは君の心に触れられただろうか。
 わたしは与えてもらってばかりなのに、君に何かしてあげられた?




「俺と付き合ってほしい」


 前のわたしは聞けなかったその言葉を、今、わたしに告げられている。
 止まっていたはずの涙がまたこぼれた。どうしてわたしの涙腺はこんなに脆くなってしまったんだろう。

 想いを言葉にしようとすると、唇が震える。
 こんなに緊張するんだ。周りの音が消えて、微かな息遣いだけに意識が持っていかれそうになる。

 彼の透明な瞳には、わたしだけが、映っていた。




「わたしも……柴谷のことが好き」




 嬉しいこと、楽しいこと、そういうことをいちばんに伝えたくて、共有したくなるのが好きな人だと思っていた。だけど、きっとそれは違う。
 つらいこと、悲しいことがあったとき、その弱さや苦しみをまっさきに見せて、等身大の自分で助けを求められる存在こそが、わたしにとっての好きな人なのだ。


 柴谷は、そのまま静かにわたしを引き寄せた。密着した身体。耳にかかる小さな吐息に鼓動がはやくなっていく。
 抱きしめられたせいで真っ暗になった視界。机に伏せていたときとは全然違う。
 あのときの冷たさとは真逆で、ただただあたたかい。生きてるんだ、って実感できる。


 今なら、ずっと言えなかったわたしの気持ちを、素直に伝えられる気がした。


 
「柴谷のとなりで、ようやく息ができた気がした。本当のわたしを見つけてくれて、探してくれて────ありがとう」



 ずっと、息苦しかった。きっと自ら命を絶とうとする前も、死に損なってしまってからの日々も。
 それでも、柴谷はいつもわたしのとなりにいてくれた。記憶も、性格も、まるっきりすべて失ってしまったわたしのそばに。



「これを、ずっと隠してきたの」


 身体を離して、腕にある傷跡を見せる。何とは明確に言わずとも、以前のわたしが生きるためにしていた行為だとわかる。

 ずっと謎だった。誰にも見せたくなくて、長袖が手放せなかった。


「……わたしは、頑張ってたんだと思う。わたしはこの傷跡と一緒に、生きていく。だから、柴谷も」
「もちろん受け入れてるよ、最初から」


 再び柴谷がわたしを抱きしめる。過去の傷まるごと受け止めるように。


「前の葉瀬の記憶は」



 腕の中に閉じ込められているせいで、視界はまっくら。それなのに、わたしの全身を包む彼のぬくもりが、たしかな安心感までもを与えてくれる。


「今は存在してねーかもしれないけどさ」
「……うん」
「俺が、憶えてるから。ぜんぶ」
「───…っ、うん……っ」
「なかったことには、ならないから」



 この先、記憶は戻らずにわたしの日常は続いていくかもしれない。けれどきっと、それまでの出来事や言葉、想いは誰かに届いている。それは一生消えることはない。

 そっとわたしから身体を離した柴谷。



「キャンバスの裏に題名書こうぜ」



 柴谷に言われて、木枠にペンを走らせる。何度も考え直して、描き出してからもなかなか決まらなかったこの絵の題。

 今なら、この題にしてよかったと心から思える。
 わたしたちが生きる世界。それは。



【未完成な世界で、今日も君と息をする。】





 この未完成な世界で、わたしは今日も、柴谷と息をしていたい。









・*・


「しょうがねえな。作品も完成したことだし、誕生日だからこのままどっかいくか」
「え」
「……出かけたいって言ってんだよ」



 繋いだ手に力を込められる。なかなか素直になれない癖は、未だに健在のようだ。


「どこ行くの?」
「お前の行きたいとこ」
「えーっ、ちょっと待ってね。考える」



 考えるそぶりをしていると、急に柴谷が立ち止まった。手を繋いでいるから、わたしも同じく足を止めることになる。



「───…撮りたい」
「え?」
「今のお前、すげえ撮りたい。いい?」


 確認しながらも、拒否権なんてないみたいだ。ケースからカメラを取り出して、構えようとする柴谷。


「ま、待って。急すぎてどんな顔したらいいのか……」


 こうして写真を撮られるなんて滅多にないから、気恥ずかしくて、どうしていいかわからなくてアタフタする。


「いーよ。そのままで」


 モデルさんみたいなキメ顔はできないけれど、できるだけ綺麗に映りたい。なんて、色々なことを考えすぎた結果。


「顔固すぎだろ」
「だ、だって」
「そんな顔撮りたかったわけじゃねえよ、俺は」


 呆れたように笑ってカメラをおろす柴谷。
 彼の期待に応える表情はできていなかったらしい。




 ポートレートを撮るのが苦手だと言っていた柴谷。技術的にではなく、精神的に。
 だけどわたしはもう、いなくなったりしない。そのことを感じ取ったのか、柴谷も安心しきった顔でわたしにカメラを向けていた。


『もし、次にポートレートを撮ることがあったら、被写体はもう決めてるから』
『だれ?』
『好きなやつ』



 ふとそんな会話がよみがえってきて、途端に頰があつくなる。


「紬」



 名前呼びって、ずるい。顔を真っ赤にしている自覚がある。
 その瞬間、パシャッ────とシャッターが切られて、カメラから顔を上げた柴谷とまっすぐに目があった。


「今っ、いま、撮った?」
「撮った」


 あんまりだ。わたしの照れ顔なんて需要のかけらもない。満足げに笑っているようすをみるかぎり、消して、って言っても聞いてくれないだろう。



「──くん」


 ずっと呼べなかった、彼の名前を呼んでみる。すると今度は彼のほうが照れる番だった。
 お返しというようにスマホを構える。いつしか、わたしのカメラロールは彼でいっぱいになっていた。






 過去のわたし、きいていますか。

 つらくて、しんどくて、逃げ出したくて仕方なかったわたし、わたしの声が聞こえますか。


 わたしは今、幸せです。あなたを未来で幸せにするために、頑張っています。


 正直、記憶を失ってからもつらいこと、苦しいこと、悲しいことがあったけれど、わたしはなんとか乗り越えられました。それは彼が───…柴谷がいたから。


「行くか」
「うん」
「誕生日デートとかしたことねぇけど……ま、楽しませるんで。よろしく」



 彼のとなりで、はじめてちゃんと息ができたような気がした。ずっとずっと息苦しかった毎日が、彼のおかげで変わっていった。

 きみがずっと言えなかった、本当の気持ち。明るく振る舞っていたらしいきみが、心の奥底に閉まっていた想い。前の自分のことなのに、わたしには全てはわかりません。


 だけど今は、ちゃんと吐き出せるようになりました。
 本当の気持ちを、言えるようになりました。


 わたしはこれからも生きていきます。
 彼のとなりで息をして、きれいなものをこの目で見ながら。
 彼が映し出す世界を、一緒に。


「紬、手」
「え」
「手、出せよ」


 過去のわたし、きこえますか。彼に片想いをしていたわたし、この声が聞こえますか。


「やっぱり柴谷の手はあったかいね」
「お前が冷たすぎるんだよ」
「えー? そうかなぁ」


 今日、わたしね。
 きみがずっと言えなかったこと、彼にちゃんと伝えられたよ。













わたしたちはこうやって支え合って、

与え合って、


未完成な世界を生きていく。




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