「おはよう、お父さん。お母さん」
あれから季節がめぐり、夏が来た。わたしが生まれた季節だ。
燈ちゃんとはクラスが離れてしまったけれど、今も交友は続いている。休日には一緒に出かけたり、放課後カフェに寄って帰るほどには仲良くなった。
夕映ちゃんと柴谷とはまた一年同じクラス。三年生として高校生最後の年を一緒に過ごしている。
笑う回数が増えたからか、クラスメイトともだんだん打ち解けていって、今は何不自由なく過ごすことができている。学校が息苦しいと思うこともなくなった。
夏休みだというのに、両親はどちらも早起きをしていた。食卓を囲んで、一緒に朝食をとる。
「紬は今日も学校?」
「うん。明日ついに完成予定なの」
「あら、すごいじゃない」
「見るの楽しみにしてるからな」
嬉しそうに微笑む両親を見ていると、わたしまで笑顔になる。
「卵焼き甘くて美味しい。わたし、お母さんがつくる卵焼き大好きだよ」
「あら嬉しい。でも紬もつくれるわよね、この味」
「ううん。お母さんの味がいちばんに決まってる」
そんな会話をしていると、机に置いていたスマホが着信を知らせた。
【柴谷】
相変わらず苗字だけだ。
履歴には彼とのメッセージのやり取りや着信が数多く残っている。
『今日迎えにいく』
彼のメッセージに、了解、と返信してスマホを閉じた。
わたしたちが目指しているのは、夏の終わりに開催されるコンテスト。テーマは【きみが生きる世界】だ。去年は残念ながら出品できなかったので、今年こそはと意気込んでいる。
朝食を食べ終えたあと、部屋に戻って少し高めの位置で髪を括った。夏だからいいよね、とわけのわからない言い訳をしつつ、調子にのって少しだけメイクもしてみる。
そうしていると、
『着いた』
とメールが届いたので、慌てて鞄を持った。
玄関前で一息呼吸をして、振り返る。リビングから顔を覗かせた両親が、笑顔で手を振っていた。
「いってきます」
家から少し離れた場所でわたしを待っていた柴谷は、わたしに気づくと手をあげて近づいてきた。
「わざわざありがとう」
「べつに、俺が来たかっただけ」
そんな言い草に、ふぅん、と返す。彼とこうして学校へ向かうのは何度目か。
初めてのときは緊張していたけれど、今はもうそこまで緊張しない。むしろ居心地がよく感じる。
シャツが肌に張り付く。高く縛った髪のおかげでむき出しになったうなじに風があたる。
空を見上げる。
入道雲が遠くに見えた。
「葉瀬、キャラメルいるか?」
「うん」
夕映ちゃんからきいた話だけれど、柴谷はどうやら甘いものが苦手らしい。そう知った時、驚愕した。念の為にと用意した【脳内柴谷図鑑】には甘いもの好き、と記録しておいたからだ。
『それって紬ちゃんが甘いもの好きだから、いつも持ってるんじゃないの?』
にやつきながら言ってくる夕映ちゃんに、そのときは誤魔化すように「そんなわけないよ」と言ったけれど。
案外間違いじゃないのかも、と思ってしまいたくなる。
「そういえば柴谷、わたしのこと『紬』って呼んでくれないんだね。前一回呼んでくれたことあったのに」
「あれは……気合入れないと呼べねぇか
ら無理」
「なにそれ」
そっぽを向く柴谷。どうやら呼んでくれる気はまだないらしい。まぁわたしも苗字呼びなので、無理強いはできない。
「明日でやっと完成だね」
そう言うと、うなずいた彼は少し緊張した面持ちでまっすぐに前を見据えた。
──────
───
筆を持つと、身体が勝手に描いてくれた。一緒に夢を目指そうと豪語した手前、何の力にもなれなかったらと最初は不安だったけれど。
自分の心にあるものをこの筆でうつしだす。そんな感覚で描いていたら、ずっと見ていた葉瀬紬の絵のタッチが現れたのだ。
はじめはもちろんブレたりもしたけれど、練習を積み重ねることによってもうそこまで支障はない。
写真に絵を描き込んでいくわたしを、柴谷はとなりでじっと見つめていた。
構成を練って、納得いく写真を撮るまで。これだけでもかなり苦戦した。
テーマにある【わたしたちの世界】というのは、いったいなんなのか。それを伝えるには、どんな作品なら良いのか。
どの部分を写真で表現して、どこを絵で表現するのか。たくさん話し合って、お互いに技術を高める毎日だった。夏休みも毎日のように顔を合わせて、何度も何度も納得がいくまでやり直した。
完成させてもなんだかしっくりこなくて、すべて最初からやり直したこともあった。
それも、明日で一区切りつく。
以前成し得なかったことを、明日、やっと成し遂げることができる。
夏の終わり。
去年とはまったく違う気持ちで、わたしはここにいる。
柴谷のカッターシャツの白が、鮮やかな空によく映える。美術準備室には、わたしの作品が何枚も増えた。もちろん、柴谷が撮る写真も。
美術準備室に入って、【葉瀬紬】と書かれたコーナーからいくつか新しい作品を引き出す。
一時期、柴谷がカメラを構えなくなったときがあった。わたしの過去について彼から聞き出した頃だ。
カメラを持つだけで、決してファインダーを覗くことはなかった。
その理由を聞けたのはたしか、春のはじめ。ほんのり開花を待つ桜のにおいがするような、そんな日だった。
『写真を撮るのがこわくなった』
そんな弱音をこぼした彼。そんな彼を連れて、雨の降る街を一緒に走ったことがあった。
これはその日の夜に描きあげた絵。
傘をさしていることなど意味ないくらい、ずぶ濡れになりながらふたりで街を駆け回った。光る雨粒や、跳ねる水飛沫の煌めき。
同じ温度の世界をとなりで眺めて、こんなに綺麗なんだと再認識した。
次のキャンバスを見つめる。
今年の夏、一緒に花火大会に行った。コンテストのための勉強だと、意味のわからない言い訳を添えて。
結局、たくさんの屋台の魅力に負けて、普通に祭りを満喫してしまった。花火を見ながらイカ焼きを食べているわたしを、呆れたように見つめる柴谷。花火そっちのけでその瞳に目を奪われた。
ーーこれは、そのときの絵。
彼と時間を過ごせば過ごすほど、想いは大きくなっていく。これらの絵を見るたびに、わたしはその時のにおい、音、気持ちまで思い出すことができる。
キャンバスの前に戻って、筆を握った。この先を描けるのは、わたしだけだ。
完成は明日。
前もってスケジュールを立てた時、柴谷が完成日はこの日がいいと希望したのだ。
何か特別な意味があるのか。
それは分からないけれど、目まぐるしくすぎてゆく時間の中で理由をいちいち考えている余裕などなかったからあまり気にしていなかった。
頑張れば今日中に終えることもできるけれど、明日のために敢えて未完成な部分を残して作業を終えた。
コンテスト出品の最終締切は一週間後。だからかなり余裕を持っての完成となる。
わたしたちの"未完成"が出来上がるまで、あと一日。
*
迎えた完成予定日。
いつかの朝のように、息を潜めてすばやく準備をした。両親はまだ寝ている。
こんなに早く起きるのは久しぶりだった。夏休み中は比較的遅い時間から柴谷に会っていたから。
今日はできるだけ学校の日と同じ時間に待ち合わせる。それが柴谷との約束だった。
不規則な鼓動が鳴っている。前もって用意していた朝食をとる。
ふと目に入ったリビングのカレンダーには、今日の日付に大きな花丸がされている。きっと書いたのはお母さんだ。
不思議に思ってはいたけれど、勝手に作品完成日だからと納得していた。
家族で作品を楽しみにしてくれているのだと。
集中して玄関のドアを閉めた。本気を出すと、案外音はならないらしい。
学校に着くと、柴谷はもう"いつもの場所"にいた。
おはよ、葉瀬。
わたしはその言葉が彼から告げられるのを待っていた。久しぶりに聞くその言葉を楽しみにしながら、通学路を歩いた。
好きな人に会いたいと考えながら学校に向かうって、こんなに幸せなことなんだと噛み締めながら。
けれど、今日の柴谷から紡がれた言葉は、いつもとは違う言葉だった。
彼の透明な瞳がわたしを見つめる。
出会ったころよりも柔らかい、どこか懐かしい瞳だった。
「誕生日おめでとう、紬」
え、と声が洩れる。
予想外の言葉に一瞬、思考回路が停止する。
そうか、今日は。
わたしの。
家のカレンダーの花丸を思い出す。
そうだ、わたしの誕生日はコンテストに近い夏の終わり。
作品を仕上げなきゃということで精一杯で、すっかり忘れていた。
わたしが生まれた日を。
「ありがとう、柴谷」
微笑むと、柴谷はわたしのもとへ近寄った。距離がグッと近くなる。目線を上げたすぐそばに、彼の綺麗な目があった。
「完成させよう。俺たちの未完成を」
うん、とうなずいて筆を持つ。
鮮やかに彩っていく。色づいていく。
わたしたちの、未完成な世界が。
ゆっくりと筆がキャンバスから離れる。そっと筆をおく。
その瞬間、込み上げてきた涙が頬を伝って床に落ちた。となりにいる柴谷を見上げると、彼も同じように透明な涙を流していた。
「完成した……できた……」
柴谷は静かに泣いていた。心から、この日を待ち望んでいたように。
一瞬、指先が触れる。それからしばらくして、気づけば手を繋いでいた。
この作品を作りだしてくれたお互いの手に、ありがとう、と。感謝の思いを伝えるように。
「葉瀬。俺と、もう一度挑戦してくれてありがとう」
「柴谷こそ。わたしのことを受け入れてくれて、もう一度前を向かせてくれて、ありがとう」
一年前のわたしは、絶望していた。何をするにも周りの目が気になって、自分の運命から逃げようとしていた。
わたしの中の世界は、いつも息苦しかった。けれど、そんな息苦しい世界を、彼が変えてくれた。
「この作品が完成したら、今度こそ言おうって決めてた。だから今、伝える」
静かに息を吸った柴谷は、繋いだ手にそっと力を込めた。朝の澄んだ空気がわたしたちを取り囲んでいる。
凛とした光が、まっすぐにわたしを見ていた。
「好きだ」
たった三文字。それだけで一気に体温があがった。
「もちろん前の葉瀬のことも好きだったけど、今の葉瀬のほうがもっと好きだし、となりにいたいって思う。俺はずっと、お前のこと見てた」
「本当に、今の、わたしを……?」
「そうだよ。俺は二回、葉瀬のことを好きになった」
前のわたしとは対照的。それなのに、彼はもう一度わたしに恋をしてくれたのだろうか。
「……最初は、もしかしたら記憶が戻ってくるかもしれない。前のお前が戻ってくるかもしれないって思ってた。だけど俺はずっと葉瀬に、自分の気持ちを正直に話してほしかった。だから初めて俺に悩みを打ち明けて、涙を流してる姿を見たとき、確信したんだ。やっぱり俺はお前のことが好きだって」
柴谷は照れたように笑いながら言葉を続ける。
「記憶を失っても、泣きながら懸命に前を向こうとしてるところを見てたら、自然と守ってやりたいと思った。一緒にもう一度コンテストに挑戦しようって言ってくれたとき、前の葉瀬も今の葉瀬も、どっちも大切にしてやりたいと思った」
「じゃあ、柴谷は」
「毎日必死に生きていて、死にそうな顔をしながら頑張って前を向こうとしていて、繊細で、人のことによく気づけて、赤坂のこと許せて、俺にもう一度夢を与えてくれた、そんな今の紬が好きだ」
ーーわたしは君の心に触れられただろうか。
わたしは与えてもらってばかりなのに、君に何かしてあげられた?
「俺と付き合ってほしい」
前のわたしは聞けなかったその言葉を、今、わたしに告げられている。
止まっていたはずの涙がまたこぼれた。どうしてわたしの涙腺はこんなに脆くなってしまったんだろう。
想いを言葉にしようとすると、唇が震える。
こんなに緊張するんだ。周りの音が消えて、微かな息遣いだけに意識が持っていかれそうになる。
彼の透明な瞳には、わたしだけが、映っていた。
「わたしも……柴谷のことが好き」
嬉しいこと、楽しいこと、そういうことをいちばんに伝えたくて、共有したくなるのが好きな人だと思っていた。だけど、きっとそれは違う。
つらいこと、悲しいことがあったとき、その弱さや苦しみをまっさきに見せて、等身大の自分で助けを求められる存在こそが、わたしにとっての好きな人なのだ。
柴谷は、そのまま静かにわたしを引き寄せた。密着した身体。耳にかかる小さな吐息に鼓動がはやくなっていく。
抱きしめられたせいで真っ暗になった視界。机に伏せていたときとは全然違う。
あのときの冷たさとは真逆で、ただただあたたかい。生きてるんだ、って実感できる。
今なら、ずっと言えなかったわたしの気持ちを、素直に伝えられる気がした。
「柴谷のとなりで、ようやく息ができた気がした。本当のわたしを見つけてくれて、探してくれて────ありがとう」
ずっと、息苦しかった。きっと自ら命を絶とうとする前も、死に損なってしまってからの日々も。
それでも、柴谷はいつもわたしのとなりにいてくれた。記憶も、性格も、まるっきりすべて失ってしまったわたしのそばに。
「これを、ずっと隠してきたの」
身体を離して、腕にある傷跡を見せる。何とは明確に言わずとも、以前のわたしが生きるためにしていた行為だとわかる。
ずっと謎だった。誰にも見せたくなくて、長袖が手放せなかった。
「……わたしは、頑張ってたんだと思う。わたしはこの傷跡と一緒に、生きていく。だから、柴谷も」
「もちろん受け入れてるよ、最初から」
再び柴谷がわたしを抱きしめる。過去の傷まるごと受け止めるように。
「前の葉瀬の記憶は」
腕の中に閉じ込められているせいで、視界はまっくら。それなのに、わたしの全身を包む彼のぬくもりが、たしかな安心感までもを与えてくれる。
「今は存在してねーかもしれないけどさ」
「……うん」
「俺が、憶えてるから。ぜんぶ」
「───…っ、うん……っ」
「なかったことには、ならないから」
この先、記憶は戻らずにわたしの日常は続いていくかもしれない。けれどきっと、それまでの出来事や言葉、想いは誰かに届いている。それは一生消えることはない。
そっとわたしから身体を離した柴谷。
「キャンバスの裏に題名書こうぜ」
柴谷に言われて、木枠にペンを走らせる。何度も考え直して、描き出してからもなかなか決まらなかったこの絵の題。
今なら、この題にしてよかったと心から思える。
わたしたちが生きる世界。それは。
【未完成な世界で、今日も君と息をする。】
この未完成な世界で、わたしは今日も、柴谷と息をしていたい。
・*・
「しょうがねえな。作品も完成したことだし、誕生日だからこのままどっかいくか」
「え」
「……出かけたいって言ってんだよ」
繋いだ手に力を込められる。なかなか素直になれない癖は、未だに健在のようだ。
「どこ行くの?」
「お前の行きたいとこ」
「えーっ、ちょっと待ってね。考える」
考えるそぶりをしていると、急に柴谷が立ち止まった。手を繋いでいるから、わたしも同じく足を止めることになる。
「───…撮りたい」
「え?」
「今のお前、すげえ撮りたい。いい?」
確認しながらも、拒否権なんてないみたいだ。ケースからカメラを取り出して、構えようとする柴谷。
「ま、待って。急すぎてどんな顔したらいいのか……」
こうして写真を撮られるなんて滅多にないから、気恥ずかしくて、どうしていいかわからなくてアタフタする。
「いーよ。そのままで」
モデルさんみたいなキメ顔はできないけれど、できるだけ綺麗に映りたい。なんて、色々なことを考えすぎた結果。
「顔固すぎだろ」
「だ、だって」
「そんな顔撮りたかったわけじゃねえよ、俺は」
呆れたように笑ってカメラをおろす柴谷。
彼の期待に応える表情はできていなかったらしい。
ポートレートを撮るのが苦手だと言っていた柴谷。技術的にではなく、精神的に。
だけどわたしはもう、いなくなったりしない。そのことを感じ取ったのか、柴谷も安心しきった顔でわたしにカメラを向けていた。
『もし、次にポートレートを撮ることがあったら、被写体はもう決めてるから』
『だれ?』
『好きなやつ』
ふとそんな会話がよみがえってきて、途端に頰があつくなる。
「紬」
名前呼びって、ずるい。顔を真っ赤にしている自覚がある。
その瞬間、パシャッ────とシャッターが切られて、カメラから顔を上げた柴谷とまっすぐに目があった。
「今っ、いま、撮った?」
「撮った」
あんまりだ。わたしの照れ顔なんて需要のかけらもない。満足げに笑っているようすをみるかぎり、消して、って言っても聞いてくれないだろう。
「──くん」
ずっと呼べなかった、彼の名前を呼んでみる。すると今度は彼のほうが照れる番だった。
お返しというようにスマホを構える。いつしか、わたしのカメラロールは彼でいっぱいになっていた。
過去のわたし、きいていますか。
つらくて、しんどくて、逃げ出したくて仕方なかったわたし、わたしの声が聞こえますか。
わたしは今、幸せです。あなたを未来で幸せにするために、頑張っています。
正直、記憶を失ってからもつらいこと、苦しいこと、悲しいことがあったけれど、わたしはなんとか乗り越えられました。それは彼が───…柴谷がいたから。
「行くか」
「うん」
「誕生日デートとかしたことねぇけど……ま、楽しませるんで。よろしく」
彼のとなりで、はじめてちゃんと息ができたような気がした。ずっとずっと息苦しかった毎日が、彼のおかげで変わっていった。
きみがずっと言えなかった、本当の気持ち。明るく振る舞っていたらしいきみが、心の奥底に閉まっていた想い。前の自分のことなのに、わたしには全てはわかりません。
だけど今は、ちゃんと吐き出せるようになりました。
本当の気持ちを、言えるようになりました。
わたしはこれからも生きていきます。
彼のとなりで息をして、きれいなものをこの目で見ながら。
彼が映し出す世界を、一緒に。
「紬、手」
「え」
「手、出せよ」
過去のわたし、きこえますか。彼に片想いをしていたわたし、この声が聞こえますか。
「やっぱり柴谷の手はあったかいね」
「お前が冷たすぎるんだよ」
「えー? そうかなぁ」
今日、わたしね。
きみがずっと言えなかったこと、彼にちゃんと伝えられたよ。
了
わたしたちはこうやって支え合って、
与え合って、
未完成な世界を生きていく。