彼女の家は、小綺麗なマンションの四階にあった。オートロックの扉をくぐり、しっかりとした造りのエレベーターに揺られ、四階へ。
「家の人は?」と問うと、「いない、一人暮らしだから」と返ってきた。高校生が一人で暮らすには、少々立派過ぎる気もした。
そんな僕の微妙な機微を察知したのか、
「悪い?」
と半眼でこちらを見る。
「いや、珍しいなと思って」
「それはそうかもね」
扉が開き、彼女に促されるままに、部屋に入る。
さわやかな甘い香りがした。思えば、異性の部屋に入るのは初めての経験だった。
廊下を抜けると、八畳ほどの部屋が広がっていて、ベッドとタンス、それに食事や勉強に使っているのであろう炬燵机が目に留まった。逆に言えば、それ以外には特筆すべきものがない。
真っ白で、明度の高い、モデルルームみたいな部屋だ。
「適当に座ってて」
ぽんとクッションを投げ渡され、それを受け取る。
程なくして、古閑さんが飲み物を持ってきた。
白と黒。綺麗に二層に分かれた、アイスカフェラテだった。
「暑いね」
西日が差し込んでいることもあって、部屋の温度は高めだった。六月に入り、季節は夏に向けて準備体操を始めたようで、気温はじりじりと上がり続けていた。
「扇風機でいい?」
「うん」
エアコンの人工的な風よりも、空気がかき混ぜられて生まれる風の方が好きだった。
スタンドタイプの扇風機が、首を振りながら風を送り始めた。体中に浮かんでいた汗が、風を受けて乾いていく。
「これ、すごいね」
カフェラテを指して、僕は言った。
下の層がミルク、上の層がコーヒー。こんなに綺麗に別れているのは初めて見た。
「そう? 意外と作るの簡単だよ」
「へえ。そうなんだ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「普通、作り方とか聞かない?」
なるほど、それもそうだ。
僕は用意された台本を読むように言った。
「どうやって作るの?」
まったく、と古閑さんは僕の正面に腰を下ろした。
「これって、比重が違う液体を組み合わせてるから、混じらずに二層になってるの。コーヒーは牛乳より比重が軽いんだって。だから、比重が重いミルクを注いだ後に、コーヒーをそっと注ぐと二層に分かれる」
古閑さんの細い指先が、ガラスの表面をつつっと撫でた。
「で、さらに完璧に分けるために、牛乳にガムシロップを混ぜてるの。ガムシロップはすごく比重が重いから、より分かれやすくなるってわけ」
「じゃあミルクの部分だけ飲んだら、めちゃくちゃ甘いってこと?」
飲んでみたら? とばかりに、古閑さんが人差し指を振った。
ストローで一口吸い上げる。「ん」と声が出るくらいには甘かった。
けれど、冷えたミルクと相まった味は、悪くない。
「どうだった?」
「かなり甘い。けど、美味しい」
「そ、よかった。コーヒー部分はちょっと濃いから、混ぜながら飲むといいよ」
「分かった」
「ていうかさ」
ストローに口をつけたまま、古閑さんに視線を向ける。
頬杖をついて、僕を見ていた。物珍しそうに。
「よく飲めるよね。私が出した飲み物なんて」
「どういうこと?」
からからと、古閑さんはプラスチックケースを振った。
「これ、入れてるかもしれないのに」
彼女の言わんとしていることを察した僕は、なんだそんなことかと、グラスを置いた。
「ディープブルーのカプセルは、本人の胃酸以外には反応しないって話だからね。飲み物に入れたって溶けないし、そもそもストローを通らない」
この薬の仕組みについては、ざっくりと須々木さんに教えてもらっていた。
ディープブルーの外側、つまり青色のカプセルは、本人の胃酸に触れることで溶ける仕組みになっているらしい。早い話が、お湯に入れようが、酸の中に突っ込もうが、それこそ持ち主が口の中に入れたところで溶けないのだ。
それだけ強固に、本人だけを殺す仕組みに特化し、意図せぬ服用を防ぐようになっているのだから、いわゆる「毒を盛られる」ようなことにはならないはずだ。
僕はそう思ったのだけれど、
「でも、中身だけなら溶かせるかもしれないじゃん」
「中身だけ?」
予想外の言葉に、僕は視線を上げた。
「カプセルの中身。だいたいこういうのって、粉が入ってるでしょ?」
「ああ、言われてみれば」
カプセルを割って、粉末を取り出す。その粉末をカフェラテに溶かせば、僕だけを殺すカフェラテの出来上がり。これなら確かに、古閑さんは僕を殺すことができる。
「よく思いついたね。すごいや」
「別に褒められるようなことじゃ……。ていうか、こんな変わった薬が手元にあったら、ふつういろいろ想像しちゃわない?」
「別に」
「ふうん、つまんないやつ」
「僕もそう思う――って、痛い痛い。なんで蹴るのさ」
古閑さんがこたつ机の下を通して、僕の膝をがしがしと蹴っていた。
なにが気に入らなかったのだろうか。
それからさらに二、三度蹴りを入れた後、
「別にー」
と古閑さんはそっぽを向いて言った。数個前の僕のセリフと同じなのは、たまたまなのだろうか。僕にはよく分からない。
再び沈黙が訪れたので、僕は再度グラスに口をつけた。
冷たくて、甘い。
しばらくして、古閑さんが口を開いた。
「……高校生で一人暮らしって、やっぱり変かな」
とつぜん何の話だろう。
話の脈絡は分からないけれど、無視するわけにもいかず僕は答えた。
「変というよりは、珍しいかな。大体みんな、家から通ってるんじゃない?」
「うん、そうだろうね」
そう頷くと古閑さんは、
「私、小さい頃に親が離婚しててさ」
まるで会話の延長線上にあったかのように言った。
あまりにも自然な語りだしだったので、一瞬、理解が遅れた。
一拍遅れて僕が口に出せたのは「へえ」というありふれた相槌だけだった。
「お母さんに引き取られたんだけど、小学六年の時に再婚したんだよね」
いったい……この話はどこに向かっているのだろうか。
結論がまったく見えなくて、僕はただ押し黙る。
「でも、お母さん、すぐに交通事故で亡くなっちゃって」
ヘビーな話題だ。
相槌を打つかどうかすら、迷うくらいに。
「残ったお父さんとは、まあ言うなれば他人でしょ? 気まずくって、逃げてきちゃった」
「……だから、一人暮らししてるのか」
「そういうこと」
「どうしてそんな話を?」
「ただの雑談。悪い?」
「悪くはないけど」
以外ではあった。
話の内容が、ではなく。
古閑さんが僕にそんな話をしたことが。
扇風機が回る音がする。
白い部屋の空気を、ぐるぐるとかき混ぜていた。
そんな、他人行儀に首を振る扇風機を眺めていると。
「僕も」
気づけば僕は口を開いて、自分の話を始めていた。
「似たようなものかもしれない」
「どういうこと?」
「僕の家も、ちょっと普通じゃないから」
僕は、当たり障りのない範囲で、家庭の事情を話した。
古閑さんは、笑いも同情もせず、ただ黙して僕の話を聞いていた。
やがて僕が全て語り終えると、彼女は薄い唇を開いた。
「じゃあお父さんとは、ずいぶん長い間、顔を合わせてないんだ」
「そうだね。顔も思い出せないくらいには」
「うちとは逆だね」
古閑さんの家には母親がおらず、父親とはほとんど話していない。
僕の家には父親が寄り付かず、母親ともほとんど話していない。
確かに、逆だった。
逆で、似ていた。
だからどうという話では、ないのだけれど。
「……」
「……」
また少し、間が空いた。
結露した水滴が、ガラスのコップの淵を撫でるように落ちる。僕はそれを人差し指の腹ですくい取って、手のひらでもんだ。
「私たちって何なんだろうね」
古閑さんがつぶやいた。
沈黙に耐えかねて出した話題、というわけではなさそうだった。むしろ、この話をしたいがために僕を呼んだ――なんとなく、そんな気がした。
「ずいぶん哲学的な問いだね」
僕が言うと、古閑さんは「バカ」を冠詞のように言葉の頭につけて、
「そういう意味じゃない」
と言った。
「デカルト的な話をしたいわけじゃないのか」
「あんたと違って、私はそういうの知らないから」
「じゃあ何の話?」
「私たちは、いつから大人になれるのかなって」
さっきさ、と古賀さんは続ける。
「警備員の人が叫んでたの、聞いた?」
「バカなクソガキどもがちゃんとした大人になるように、みっちり説教してやる! ってやつ?」
「それ」
もちろん、覚えていた。僕は頷く。
「あれ聞いた時さ、なんか納得いかなくて」
分かる。僕も同じ気持ちだった。
あの人たちは、きっと僕たちを助けに来てくれたのだ。そんな善意ある大人に迷惑をかけて、挙句の果てに逃げ出した。僕たちに非があるのは百も承知だ。それでも――
「私たちが大人だったら、もっと違う対応されてたのかな」
きっと、少なくとも。
怒鳴られたり、説教されたり。そういうことは、なかったのだと思う。
「これもさ」
いつの間にか、古閑さんの手にはディープブルーのケースが握られていた。
「十八歳になったら飲めるわけだよね。それは私たちが大人になるから?」
「そう、須々木さんは言ってたね」
「十八歳になったら、大人になるんだ。急に。それって変じゃない?」
これは、例えばの話だ。
十八歳の誕生日を迎え、一週間が過ぎた人。
十八歳の誕生日を、一週間後に控えた人。
この二人の間に、何か明瞭な差はあるだろうか?
ない。
ないと言い切れる。
たった二週間の差で、人格や人生観が変わるような、そんな体験をするはずもない。ましてや、誕生日をまたいだ程度で。
「大人って、なんなんだろうね」
しかしこれは難しい話でもあった。
今の例え話では、二人の差はたったの二週間だったけれど。
ではこれが四週間になれば、どうだろうか?
六週間では? 八週間では?
そうやって徐々に徐々に幅を広げていくと、次第に大人と子供の分かれ目が曖昧になる。
ならば、僕たちはいつ大人になるのだろうか。
どうして僕たちは今、ディープブルーを飲んではいけないのだろうか。
彼女の言い分は、こういうことだろう。
だけど――
「僕たちはさ」
それはきっと、間違っている。
古閑さんの言う通り、そこの敷居はきっと、とても曖昧だ。
「カフェラテの、この部分にいるんだよ」
僕はコップの外側から、黒と白の境目の、ほんの少し下側を指した。
「僕たちは年を取るにつれて、徐々に上に登っていく。そして」
ガムシロップのたぷりつまった、甘くて白いミルクから、ほろ苦いコーヒーへむけて、指を伝わせる。人差し指は、やがて二つが混ざり合った、斑な部分へ。
「ミルクかコーヒーか、よく分からない部分に差し掛かる」
「白か黒か分からない」
「どちらでもないのかもしれない」
僕は頷いた。
「本当は分からないんだよ。誰が大人になったのか、誰がまだ子供のままかなんて。人それぞれ、歩みの速さが違うんだから」
分からなくて、曖昧だ。
そして曖昧だからこそ、
「一本の線が敷かれているんだと思う」
法律で定められた線を飛び越えたという事実。その目に見えない直線が、大人と子供をくっきりと分ける。分けてしまう。だってそうしなければ、煩雑になってしまうから。
「ふうん」
僕が話し終えると古閑さんは、
「分かってるようなこと、言うじゃん」
そう不服気に言った。
そしてストローでカフェラテをかき混ぜる。コップの壁面に当たった氷が、がらがらと音を立てた。勢いが良すぎて、カフェラテが数滴、テーブルの上に飛び出していく。
「有名な哲学者の言葉があるんだよ。「『本当に自立している人間など一握りだ。多くの人間は、与えられた線を飛び越えただけで、自立したと思い込んでいる』って。それを分かりやすく言い換えただけだよ」
古閑さんは感心したんだか不服なんだか、良く分からない音を喉から鳴らした。
「そういうの、どこで調べてくるの?」
「教養だよ」
「嫌味?」
まさかと、僕は笑った。
そんなことあるわけない。
あるわけが、なかった。
※
気付けば日が落ちていて、部屋の中はずいぶんと暗くなっていた。電気をつけていないからか、古閑さんの顔がろくに見えないくらい、室内が仄暗い。
招かれたとはいえ、一人暮らしの女の子の家に、長々と居座るのは良くないだろう。
そろそろ帰ろうと、帰り支度を始めた。
その時だった。
「春海」
名前を呼ばれ、振り返った。
瞬間。
肩を強く掴まれ、壁に押さえつけられた。反動で、軽く後頭部を打ち付ける。
何事かと視界を正面にやると、古閑さんが何かを構えていた。
残り火のように差し込んだ西日を受けて、それは鈍く、光る。
ナイフ、だった。
次の瞬間、鈍色の軌跡を残しながら、僕の真横を素通りする。
ごすんと、壁に突き刺さる音がした。
もう少し横にずれていたら、僕の顔面に突き刺さっていたのだろうか。壁の素材と、僕の骨、どちらの方が堅いのか分からないから、なんとも言い難いところだ。
「なんのつもり?」
僕が問うと、
「蚊がいた」
彼女は素っ気なく答えた。斬新な蚊の殺し方だ。
頭を起こして振り返ると、彼女が刺したのは壁ではなく、コルクボードだった。たぶんこの部屋って賃貸だもんなと、妙なところで納得する。
これ以上ナイフが追撃してくる様子もなかったので、僕は立ち上がった。
「じゃあ僕、帰るね」
「ん。また明日。今日はありがと」
古閑さんは、何事もなかったかのようにひらひらと小さく右手を振った。
僕が白昼夢を見ていたのかと思うくらいに、何事もなかったみたいに。
だからというわけではないけれど。
「……えっと」
確認するように、僕は言う。
「さっきのさ。他の人にはあんまりやらない方がいいと思うよ」
彼女は応える。
とても軽い口調で。
「バーカ。当たり前じゃん」
部屋の中は、夕日の残り火がちらつく程度で、薄暗くて。
表情までは読み取れなかった。