『私』は。
春海からディープブルーのシャッフルを提案された時、その抜け道に気づいた。
確かに春海の提案した方法は、死ぬか生きるかの単純な二択のように思える。
だけど誕生日までにはまだ時間があるのだ。
もし私が誕生日までにもう一度『自分のディープブルーをもらって』、それをシャッフルの時に使ったならば。
春海の薬を、自分のものと取り換えたならば。
シャッフルされるのは、私を殺すディープブルーだけになる。
春海だけを、確実に生かすことができる。
私は春海のことが好きで、彼には死んで欲しくないと願っている。
私だけが死に、彼だけが生きる。そんな結末も……悪くないと思う。
けれど、そこではたと気付く。
この条件は――
『僕』も同じなのだ。
古閑さんに死んで欲しくない。僕だって、心からそう願っている。
須々木さんに頼んで薬をもらい、古閑さんの薬と取り換えれば、簡単にその願いがかなえられる。
だけど――
その可能性を考えただけで『私』の心はひどく痛んだ。
それは嫌だ。
もしも私だけが生き残ったとして。
私は春海の死を背負って生きていく自信はない。
お母さんだけでなく、春海まで私のために死んでしまったら……そう考えるだけで、体の震えが止まらなくなる。
だから私は、薬を取り換える。
たとえ春海が薬を取り換えなかったとしても。
それでいい。それでいいはずだ。
けれど――
『僕』は予想する。
きっと彼女はこう考えるはずだ。
「春海だけには生きていて欲しい」
「春海が薬を取り換えず、自分だけが死んでも構わない」と。
だけど、よく考えてみて欲しい。
僕が薬を取り換えないという選択は、古閑さんを蔑ろにしたということだ。
それはつまり、僕が死の恐怖に負けて、自分だけの未来を選択したということだ。
そう思い至った時、彼女はきっと――
『私』はとても悲しい。
すごく、悲しい。
あれ、おかしいな……なんでかな。
こんなはずじゃ、なかったのにな。
春海が生きられるならば、私だけが死んでもいい。そう考えていたはずの私の心は、急にくるりと手のひらを返す。
藻引岬の崖際で足を滑らした時、春海の目に宿った恐怖の色を思い出した。
死に恐れを抱いた、彼の怯えた表情を思い出した。
途端に体の芯がストンと落ちて、さあっと血の気が引いていく。
春海が薬を取り換えていなければ。
春海が私のことを想ってくれていなければ。
私は死ぬ。
私だけが死ぬ。
そう、考えると。
その可能性に、気付いてしまうと。
私は。
――死ぬのが怖い。
そして『僕』たちはシャッフルを始めた。
柔らかい唇を堪能する暇もなく、唇と歯の隙間に舌を差し込んだ。
古閑さんの舌は、おずおずと、迎え入れるようにそっと包み込んだ。
互いの舌の上で、固いカプセルが入れ替わり、口内を優しくなめているうちに、どちらのカプセルが自分のものなのか、分からなくなった。
必ず自分の口内に、一つはカプセルがある状態を保ちながら。
僕は貪るように、彼女の舌に自分のものを絡めた。
温かく、淫靡だった。
なんて背徳的なキスなのだろうと思った。
扇風機が静かに回る室内に、唾液の混ざり合う音が生々しく響いていた。
時折、あえぐように息継ぎをする苦しそうな呼吸音が、どうしようもなく生を実感させた。
互いの唾液が口からあふれ、顎からしたたり、首元を伝い、床と胸元を汚すのだけれど、そんなものに気を払えないくらいに、僕たちは舌を動かしていた。
ふと、握り合っていた左手に、微かな違和感を覚えた。
彼女の手が、震えていた。
小刻みに、怯えるように、振動している。
僕は確信する。
彼女は、今。
怖い。
これが死への恐怖なのだと、『私』は実感した。
そして同時に、なんてものを求めていたのだと、恥じた。後悔した。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
私だけが死ぬかもしれない。
春海は、私と共に生きる未来を選んでくれなかったかもしれない。
きっとそんなことは、ありはしないと思うのだけれど。
その可能性が再び脳裏を過った瞬間から、血の気がさあっと引いていく。
生きたい。
生きていきたい。
彼と一緒に、明日も、明後日も、これからもずっと、歩んでいきたい。
そう、私は願うのだけれど。
その確率は、高くてもたったの二分の一だった。
二分の一しか、私たちが互いに生きる道は開いていなかった。
嫌だ、バカげている。
こんなことは、すぐにでもやめるべきじゃないのか。
そこまで考えて私は気付く。
そうだ、もうやめてしまえばいいんだ。
互いに薬を飲まず、吐き出して、そうして互いに顔を見合わせて、怖かったねって抱き合って、恐怖に泣いて、生きていることに喜んで、明日からまた何食わぬ顔で生活を続けて行けばいいじゃないか。
そうしよう、そうするべきだ。
私は顔をひいて、春海から離れようとした。
だけど――
『僕』は古閑さんを逃がさない。
それじゃ意味がない、意味がないんだよ。
この薬を飲み込まなければ、僕たちに明日はない。
ここでやめれば、ただ、命をかけた狂ったギャンブルをして、怖かったね、恐ろしかったねって笑い合うのと同じで、ただ背徳的なだけで、ただ命を粗末に扱っているだけで、そんなことでは、なにも解決したことにならないんだよ。
僕たちは、互いの気持ちを確かめるためにも、明日からまっとうな人間として生きていくためにも、今、口の中にあるこの青い薬を飲みこまなくちゃいけないんだ。
相手の気持ちと自分の運命が同時に分かる瞬間は、きっと、どうしようもなく恐怖に満ちている。
そうあるべきなんだ。
だから僕は――
春海は、『私』の後頭部を掴んで、強く口を押し付けた。あふれかえった唾液が泡立って、ぼたぼたと流れ落ちた。
そうか。
春海は、私がこうなるって分かってたんだ。だからこのやり方を提案したんだ。
逃げられない。逃がせない。
私たちはこの恐怖を、死を運ぶ薬と一緒に飲み込まなくちゃいけないんだ。
ああ……怖いなあ。
死にたくないなあ。
気付けば私は――
古閑さんの瞳からは、幾重にも涙が零れ落ちていた。
『僕』は空いた右手で、それをそっとぬぐった。
ふいてもふいても流れてくるから、何度も何度も、彼女の頬に手を這わした。
そのうち視界が歪んできて、僕は目をしばたいた。
何だ、おかしいな。
僕は――
泣いていた。
春海が泣いていた。
ごめんねと心の中でつぶやいた。
『私』のわがままに付き合わせてごめん。
いつも振り回してばっかりでごめん。
そう伝えたいのに、声を出すことはできないから、私は空いた左手で彼の涙をぬぐった。
ごめん、ごめんね。
私がいなかったら、春海は――
古閑さんと出会わなければ、流れなかった涙だ。
それだけは分かる。
『僕』が死を恐れているのは、紛れもなく彼女のお陰だった。
僕は今、これまでの人生の中で、一番明日を求めていた。
明日を迎えたいと願っていた。
死にたくない、死にたくないと。
その思いだけが胸の内を焦がしていく。
自分の中に押しとどめておくには、あまりにも重くて、辛くて、苦しくて。
気付けば『私』は、いるかどうかも分からない神様に、必死に祈っていた。
こんな時だけ願うのは、おこがましいかもしれない。
もし『僕』が神様なら、鼻で笑ってあしらうだろう。
だけど。
今どうしようもなく、『私』は生きたいと願っているから。
『僕』は死にたくないと願っているから。
もう命を粗末にしたりしませんから。
もう人生が灰色だなんて思いませんから。
だからどうか神様。
僕を。
私を。
僕たちを。
私たちを。
――生かしてください。
そうして僕たちは、同時に薬を飲み込んだ。