本来ならば徒歩十分くらいで着くところを、古閑さんの肩を借りながら、倍以上の時間をかけて、僕たちは近くの砂浜にたどり着いた。
足元の感触が柔らかくなり、潮の香りはますます強くなる。藻引岬からは離れたからか、耳に聞こえる漣(さざなみ)の音は、少し優しくなった。
あたりに人工的な光は一滴としてなく、月と星のささやかな明かりだけが、海を青白く灯していた。
僕たちは靴を脱いで、くるぶしの辺りまで波に浸した。波が引くたびに、足元の砂が流れていく感触がくすぐったくて、声も出さずにくすくすと笑い合った。
「気持ちいい……」
「そうだね」
物言わぬ広大な海を眺め、僕たちは肩を寄せ合いながらつぶやいた。まるで、夏の暑さも、息苦しさも、全て吹き飛ばしてくれるようだった。
「そういえばさ、こういう場所で、よく水をかけ合うシーンってあるじゃん?」
「ああ、テレビとかでよくあるやつだ。やったなあ! このぉ! みたいな」
「そうそう。あれってさ、生ぬるいと思わない?」
「どういうこと?」
「私なら」
瞬間、僕は古閑さんに押し倒された。
背中から下半身にいたるまで、じゃぼんと海にまるっと浸かる。
「こうする」
「……相変わらずめちゃくちゃだね」
「いいじゃん。こっちの方が涼しいでしょ?」
「それはそうだけど」
荷物は砂浜に置いてきているし、濡れたところで問題はない。早めに上がれば、朝までに服も乾くだろう。
僕は開き直って、海の中に足を伸ばした。隣で古閑さんも、同じ様に足を伸ばす。
しばらくして、雄大な風景に背中を押されるように、僕は言った。
「もうすぐ、誕生日だね」
古閑さんは静かに頷いた。
「うん」
「古閑さんは、どうするの?」
「分かんない。でも、このまま生きていく自信も……ないかな」
「そっか」
「あんたは?」
「まだ、決めてない」
「そっか」
いまだ答えを知らない僕たちは、互いを殺す薬を握り合っていて。
それを相手に返すタイミングは、日々刻々と迫っている。
子供から大人へと変わる境界線をまたぐ時、僕たちは大きな決断をしなくてはならない。
「でも、一つだけ考えてることがあるんだ」
「考えてること?」
僕と古閑さんは、別の人間で。
性別も違って、背丈も違って、体つきも、考えも、過去も現在も、生き方もあり方も、それぞれの悩みだって異なっていて。
ディープブルーという、たった一つの共通項でつながっている。
だから、それを手放した時、彼女と僕を繋ぐものは、何一つなくなってしまうだろう。
それが嫌だった。僕と彼女の間を結び付ける、何かが欲しかった。
「僕は君に、死んで欲しくない」
「……なんでよ」
「君が好きだから」
「――っ」
古閑さんがすくい上げた海水が、僕の顔にかかった。
「意味、わかんないし」
「そんなことないよ」
顔をぬぐいながら、僕は続ける。
「自分の命と、相手の命を天秤にかけた時、なぜか相手の方に傾くことがある。きっとそれが、好きとか、恋とか、そんな曖昧な概念を自覚する時なんだ」
「またそういう良く分かんないこと言って煙に巻こうとするし……。今度は誰の言葉よ」
「誰の言葉でもないよ」
ゆっくりと、古閑さんの顔が僕に向いた。
「僕の言葉だ」
「……あんたの?」
「うん」
「これまでのは?」
「これまでのも」
「なんで今まで、嘘ついてたの?」
「……分からない」
波が、月明りを受けて網色に揺れている。
「でもきっと、僕は弱い人間なんだと思う。誰にも興味がないなんて言いながら、そのくせ誰かに自分の考えを伝えたり、自分自身に何かを言い聞かせる時には、架空の偉人の力を借りなくちゃいけなかった。無意識に……そうしてた」
古閑さんの声がする。
「変人じゃん」
「それは今更じゃないかな」
「嬉しい」
「え?」
顔を上げる。目が合った。
「嬉しいよ」
海水に浸かってふやけた手が、重なり合う。
「私はあんたのその言葉に、助けられてきたから」
初めて駐輪場の脇で会った時。
彼女の家でアイスカフェラテを飲んだ時。
そして、白雪さんと喧嘩した後、彼女のマンションで喋った時。
「いつも、あんたが言ったセリフは私の心を軽くしてくれた。だから、もしそれが、誰かの借り物の言葉じゃなくて、あんた自身が、思って、感じて、口にしてくれた言葉なら」
一拍置いて。
彼女は言う。
「私はすごく、嬉しいよ」
「おおげさ、だよ」
「そんなことない」
きゅっと、僕の手の甲を握った。
そして囁く。
「……ねえ。もう一つ聞いてもいい?」
「なに?」
「あんたはいつから……わ、私のこと、好きだったの?」
「照れるくらいなら、聞かなきゃいいのに」
「う、うっさい! 気になるんだからしょうがないじゃん……」
そうだなと僕は考える。
だけど思ったよりも早く、答えは出た。
「多分、初めて会った時から」
あの時。
彼女の美しい翠髪に目を奪われた瞬間から。
きっと僕は、彼女に惹かれていたんだろう。
「古閑さんは?」
「んー……分かんない」
「ずるくない?」
「だって分かんないんだもん」
「考えてみてよ」
「そんなこと言われても……」
古閑さんはしばし、押し黙った。
僕と出会った日まで、思い出をさかのぼっているのかもしれない。
やがて、三か月ほどの月日を、彼女が脳内で旅終えた時。
「人を好きになったの初めてだから、正直良く分かんないけど……」
「うん」
「私はたぶん、ずっと……仲間、みたいなのを探してたから……。だから自分に近い人を見つけた瞬間に、自分の中で好感度がばーってあがっちゃうと思うから……」
「うん」
「まあ、自覚したのはあんたが倒れた日なんだけど……」
「うん」
「好きだったのは、たぶん私も……最初から」
「そっか」
「……何よ、その淡白な反応。もっと嬉しそうにしなさいよ」
「嬉しいよ、すごく」
「それを顔に出しなさいっての」
そう言って古閑さんは、僕の顔に両手をあてて、むにむにと動かした。
「しょうがないから、私が直々に笑い方ってのを教えてあげる。ほーら、こうやって笑うんですよー。口の端っこをー……こうっ、上げてー」
「ひはひひはひ。ほはさん、やめへ」
「何言ってるか分からないのでやめませーん」
分かってんじゃねえか。
しかしいくら抗議したところで聞いてもらえはしなさそうなので、僕は黙ってされるがままに、彼女に顔をこねくり回された。
やがて一通り遊んで満足したのか、古閑さんは手を止めて、
「……春海」
そのまま手を、僕の背中に回した。
柔らかく、抱きしめられる。
「私も、あんたに死んでほしくないよ」
「……うん」
僕も、彼女にならって、手を回す。
しっとりと、冷たい。
「私たち、どうしたらいいの……?」
僕は古閑さんに死んでほしくない。
古閑さんは、僕に死んでほしくない。
ならば、互いに薬を返さなければいい。
そうすれば、僕たちの願いは叶えられる。
分かっている。それが最も安全な策であることは、誰よりも良く分かっている。
だけど、そんな単純な話じゃないんだ。
例えば――このまま薬を返さなかったとしたら。
古閑さんの悩みはどうなるんだ?
死に恐怖を抱けないまま、自分の命に価値を見出せないまま、そうやって心の傷が治らないまま、生きていかなくてはいけないのか?
違うだろ。
そうじゃないだろ。
古閑さんの悩みは、大人への境界線をまたぐ前に、その線よりもこちら側に置いて行かなくてはならないものなんだ。
そうあって欲しいと、僕が願うんだ。
だから。
「古閑さん。提案があるんだ」
僕は言う。
「誕生日を迎える日。須々木さんとの契約が終わって、自由にディープブルーを飲めるようになったら、その時は――」
「二人で一緒に、薬を飲もう」