※

 夜。
 駐車場に備え付けられた蛇口の傍で、僕は足を冷やしていた。
 幸いなことに、僕が落ちた場所には、すぐ下に少しだけスペースがあって、そこに引っ掛かる形で、僕は助かった。
 しかし、全く傷がなく万事健康というわけには当然いかず、いくつかの擦り傷を作り、右足を捻ってしまった。
 右足を捻挫してしまったので、崖の上に這い上がるのも、展望台の上から戻るのも、随分と時間がかかってしまい――結果、帰りのバスには乗り遅れてしまったのだった。
 次のバスは、明日の早朝。僕も無理には動けないので、この付近で夜を明かすしかない。
 そんなわけで僕は、未だじんじんと熱をはらむ右足首を、のんびりと水で冷やしていた。

「ほんとに……ごめん……」
「もういいって」

 古閑さんは、すっかり落ち込んでしまっていた。
 僕が崖から落ちた時も、何とか無事に這い上がった時も、彼女の取り乱しようといったらなかった。あんな古閑さんを僕は見たことがない。
 今だって、僕の腕の擦り傷を手当てしてくれている。ずいぶんと落ち込んでいるようだ。
 あの時、古閑さんが崖から落ちそうになったのはただの事故だ。
 気にすることではないと思う。

「……痛くない?」
「うん、大丈夫。ありがとう」

 しかし、彼女の方はそうは思っていないようだった。
 傷口についた砂利を取り除き、乾いたハンカチを巻きつけてくれた古閑さんに礼を言って、僕は地面に仰向けに寝転んだ。

「見て、古閑さん。すごく綺麗だよ」
「……ほんとだ」
「寝転んでみなよ」

 古閑さんの腕を軽く引くと、すんなりと僕の隣に横になった。
 一面の星空が広がっていた。
 黒塗りの空に、細かい星屑が無数に散らばっている。

「綺麗……」
「ね。空に針で、いくつも穴を空けたみたいだ」
「なにその例え」

 思わず、といった感じで、古閑さんはくすりと笑った。

「変かな?」
「変だよ」
「じゃあ古閑さんはどう見える?」
「んー。チョコレートケーキの上に、粉砂糖がかかってるみたい」
「変わった例えだね」
「変かなあ?」
「変だよ」

 僕たちは少し笑い合って、また黙って夜空を眺めた。
 数拍置いて、僕は口を開いた。

「古閑さんはさ」
「うん」
「死ぬことを恐いと、思いたいんだよね」

 僕は、半ば確信に近い形で言った。
 古閑さんが答える。顔は見えない。

「よく分かったね」
「ほら。今日は色々あったからさ」
「そっか」

 これ以上聞くのは、約束を破ることになる。
 互いの事情に深入りしない。干渉しない。
 それが、僕たちがディープブルーを交換した時に交わした約束だった。
 けれど。

「ねえ、聞いてくれるかな。私の――昔話を」

 古閑さんはそう言って。
 静かに語り始めた。

 ※

「私のお母さんが再婚したって話は、もうしたよね。
 私にとって、父親の存在は、なくて当たり前だったの。物心ついた時から、父親は家にほとんどいなかったし、すぐに離婚しちゃったからね。
 お母さんと、おばあちゃん。二人に育てられて、私は幸せだったんだ。だけど……おばあちゃんが病気で亡くなって、その後しばらくして、お母さんは職場の人と再婚したの」
「反対しなかったの?」

 古閑さんは、わら半紙みたいな笑いを落とした。

「『色々と私のことを支えてくれた、とっても優しい人だから、翠ちゃんもきっと仲良くなれると思うわ』なんて笑顔で言われたら、子供に拒否する権利なんて、ないでしょ?」
「それは……」
「まあ、再婚自体は、良かったんだよ。不幸続きで落ち込んでたお母さんが立ち直ったのは、きっとあの人のお陰なんだろうし。お母さんが悲しい顔をしてるよりも、楽しそうな顔してる方が、私はずっと嬉しかったから」

 古閑さんは父親のことを、まるで赤の他人のように語り続けた。
 そしてそんな彼女の気持ちが、僕には少し分かる気がする。

「だから再婚してしばらくは、平穏な毎日を過ごしてたと思う。お母さんたちは幸せそうだったし、私も段々と、父親がいる生活に慣れ始めてたんだ。あの日……お母さんが死ぬまでは」

 交通事故だったんだ、と。
 古閑さんは淡々と語った。努めて、淡々と。

「一緒に買い物をして、家に帰るところだった。
 本当に一瞬だったんだよ。
 気が付いたら私は、お母さんの腕の中にいて、お母さんはどこから血が出てるか分からないくらいに血まみれで、私がそっと顔を触ると、ちょっとだけ笑って、私の頭を撫でて……そのまま、動かなくなった」

 ブレーキとアクセルを踏み間違えた車両が暴走。反対車線からガードレールや電柱に当たりながら、歩道に突っ込んだのだと、後から教えてもらったらしい。
 事故の詳細を知ったところで、彼女の母親が戻ってくるわけではない。だけど一つ分かったことは、古閑さんの母親は、彼女を庇う形で息を引き取ったということだった。
 暴走する車両の進行方向にいたのは古閑さんだけで、本来、母親は巻き込まれるはずではなかったのだそうだ。
 我が子のために、自分が犠牲となって死ぬ。
 きっとそれは、愛のある行動なのだろうと思う。
 だけど――

「監視カメラの映像か、ドライブレコーダーか……まあ、何かでそれが分かって、父親が警察からその話を聞いた日。あの人、自分の部屋に閉じこもって、なんて言ってたと思う?」


『なんで、あいつだけが生き残るんだよ……っ』


「ってさ」

 それはきっと。
 想像力に乏しい僕の考えが及ばないくらいに、幼い彼女の心に傷を負わせたはずだ。
 心の拠り所だった母親を失い、すでにボロボロだった古閑さんにとって、あまりにも酷な言葉だ。

「それからかな。分かんなくなっちゃったんだよね。自分の価値ってやつが」

 自分の価値。
 難しい言葉だ。

「頭が飛びぬけて良いわけでもない。スポーツができるわけでもない。見た目がいいわけでもなくて、誰かれ構わず仲良くなれるほど、明るいわけでもない。いたって普通で、いたって凡庸。そんな私に――」

 一拍。

「お母さんが命を捨てるほどの価値が、あったのかなあ?」

 何と言葉をかければいいか分からなかった。
 少なくとも僕は、彼女に価値がないとは思えない。
 だけど僕がいくら言葉を重ねて異議を唱えたところで、意味がないことも分かっていた。
 彼女が……彼女自身が、自分に価値がないと思ってしまった。
 そこが問題なんだ。

「私は、死ぬことが怖くない。怖いと思えないんだ。だって、何の価値もない私が生きてたって仕方がないでしょ?」
「だから、死を身近に置いてみることにした」

 彼女の言葉を引き継ぐと、古閑さんは小さく頷いた。

「私は……自分の命を大切にしたかった。大切なんだって、お母さんが助けてくれた命なんだから、きっと価値があるんだって。そう……思いたかった」

 自分に価値がないと思ってしまった彼女は、死に対する恐怖が薄れてしまった。
 だけど彼女は、母親に救ってもらった命を大切に思いたかった。
 相反する二つの事柄に板挟みにされ、もがき、苦しみ、悩み抜いた挙句にたどり着いたのが……ディープブルー、だったのだろう。

「ディープブルーを僕と交換する案は、須々木さんからの入れ知恵?」
「うん……。ちょうどいい相手がいるから、紹介してあげるって言われて」

 ディープブルーを交換する。
 それはつまり、いつ相手に殺されるか分からない日常に身を置くということだ。
 昼食に薬が混ざっているかもしれない。
 飲み物に薬を溶かされているかもしれない。
 急に拘束されて、無理やり口に薬を入れられるかもしれない。
 そんな、常に命が狙われている、誰かに自分の命を握られているようなシチュエーション。
 だからなんだな、と僕は納得した。
 彼女が僕につき合わせた「死ぬまでにやりたいこと」。あれらはすべて、死に恐怖を感じることができるかどうか、自分自身を試していたのだ。
 屋上でフェンスの向こう側に行き。
 古閑さんのディープブルーを持った僕に料理をさせ。
 そして今日、自殺の名所まで足を運んだ。
 死ぬまでにやりたいことは、終始一貫していたんだ。
 死に恐怖を感じたい。ただその一心で、彼女は様々なことを試した。

「でも、ダメだった。ディープブルーを手にした時も、口に当てた時も、あんたと交換した時も、その後も。ちっとも恐怖なんて感じられなかった。私は、欠陥品なんだよ……」

 欠陥品と、彼女は言った。
 自分には何かが致命的に足りていなくて、欠けているのだと。

「じゃあ……僕にナイフを向けたり、首を絞めたりしたのも、そのあたりに原因があるんだね」
「……最初にナイフを向けた時」

 彼女は言う。

「春海の目が、私に似てたんだよ。死に対して無関心で、どこか他人事みたいで。死が目の前にあることを理解しているのに、まったく恐怖を抱かない。……私と同じだと思った」

 古閑さんの言うことは、正しかった。
 ナイフを向けられた時も、首を絞められた時も、僕は微塵も恐怖なんて感じなかった。
 興味がなかったからだ。
 死にも、自分の人生にも。
 あの場で死んだって、構わなかった。

「だけど今日、崖から落ちそうになるあんたを助けた時。間違いなくあんたの目は怖がってた。私とは違う目で、私を見てた。それがすごく……悲しかったんだ」

 きっと、自分が置いて行かれたように思えてしまったのだろう。一人、取り残されてしまったと焦燥感にかられ、自分だけが欠陥品のままだと、胸を痛めたのかもしれない。
 だから彼女は、崖に向かって走った。
 もう一度……もう一度だけ、自分も死に恐怖を抱けるかどうかを試すために。
 結果は――


『やっぱり私、ダメだ……』


 あの言葉が、全てなのだろうけれど。

「ねえ……今度は、私が聞いてもいいかな?」
「うん」
「春海は、どうして変われたの? どうして死ぬことが……怖くなったの?」

 そのことを説明するには、まず、僕のことを話さなければならない。
 僕はとつとつと語った。
 自分の過去。
 自分の気質。
 どうしてディープブルーを手にしたのか。
 どうして死に恐怖を感じなかったのか。
 全て話し終えると、古閑さんは言った。

「じゃあ春海は、死ぬことに興味が湧いたから、怖くなったってこと……?」
「少し、違うかな」

 上半身を起こすと、つられるように古閑さんも体を起こした。 

「僕が興味を持ったのは、古閑さんなんだ」
「……私に?」
「うん」

 古閑さんはきれいに整った眉尻を下げた。

「それがどう繋がるの?」
「崖から落ちそうになった時、スローモーションみたいに世界がゆっくりになって、案の定僕は、自分の死をあっさりと受け入れそうになったんだけど……古閑さんの顔が視界に入った時、気付いたんだ」

 僕は言う。

「このまま死んだら、もう君には会えないんだなって」
「そりゃ、そうだけど……」
「そしたら、死ぬのが怖くなった」
「え……と? どういうこと?」

 意外に鈍いんだなと、僕は苦笑する。
 言葉にするのは、恥ずかしいけれど……。
 ためらう場面では、ないかな。

「だからさ、古閑さん」
「う、うん」


「僕は、君のことが好きなんだ」


 たっぷり。
 数十秒間の沈黙があった。
 崖にぶつかる波の音と、草木が潮風にさらされる音。
 二つの環境音をじっくり堪能できるくらいの、静寂と間。
 やがて古閑さんは思い出したように動き出して。

「な、な、な……」

 そして面白いくらいに顔を赤くした。

「何、変なこと言ってんのよあんた! ばば、バッカじゃないの⁉」
「変なことはないだろ。筋は通ってる」

 相変わらず、僕はほとんどのことに興味はない。
 だけど唯一、古閑さんの事だけは好きになって、興味を抱いて、彼女に関することであれば、少し感情も動くようになった。
 結局僕は、恋によって考え方が変わったのだ。
 あれだけバカにしていた恋に――変えられてしまったのだ。

「別に返事が欲しくて言ったわけじゃないよ。君に聞かれたから、答えただけ」
「なんでそんなあっさりしてんのよ! 告白って言ったら……もっとこう……なんか情熱的なやつでしょ⁉」
「そういうのが好みなの?」
「う、うっさい!」

 ぺしんと、持っていたタオルではたかれた。結構いたい。

「なによなによ、なんなのよ、もう……! そんなの、全然参考にならないじゃない……!」
「どういうこと?」
「聞くな!」

 相変わらず、古閑さんの考えていることはよく分からない。
 だけど僕は彼女のそんなところが好きなんだと思う。もしかしたら僕の女性の趣味は、ちょっと変わっているのかもしれない。

「私が死ぬのが怖くないのは」

 しばらくして、古閑さんはまた口を開いた。

「私自身の問題だから……。他の人が死ぬのは……怖いよ。あんたが崖から落ちそうになった時も、怖かった」

 そうか。
 僕と彼女では、抱えている悩みが違う。
 僕はの解決策は、古閑さんには当てはまらない。
 考えてみれば当然の話だった。

「そ、それに……」

 古閑さんは続ける。

「あんたを好きになることで解決するなら、もうとっくに解決してるはずだし……」
「……え?」

 聞き間違いだろうか?
 思わず、間抜けな声をあげてしまった。
 だって言葉通りの意味なら、古閑さんは僕のことを――

「え、じゃない! そのまんまの意味でしょ? 読み取りなさいよ、汲み取りなさいよ! それとも何? もっと直接的に言われるのがいいの? そういうのが好みなの⁉」
「い、いや、別にそういう訳じゃ――」
「わ、分かったわよ! じゃあ言ってあげる! 一回しか言わないから、よく聞いてなさい!」

 どうやら彼女は、少し暴走気味のようだ。
 僕の言葉など聞かず、顔を真っ赤に火照らして。
 ベタ塗りされたみたいな夜空を背景に、美しい翠髪を浮かせて、言う。

「私も――あんたが好きよ」
「……」
「……」
「……」
「……な、なんか言ってよ」
「えっと……」

 こういう時は、なんて言えばいいんだろうな。
 経験が皆無の僕には、難しい状況だった。
 だけど、率直に言葉に表すなら――

「すごく嬉しい」
「な、なによそのつまんない反応。もっといつもみたいに、ペラペラ喋ってみなさいよ」
「いや……本当に嬉しいと、あんまり言葉って、出てこないもんなんだなって思って」

 本当に、驚くほどに言葉が出てこない。新体験だった。

「あ、あっそ。ふーん、そうなんだ。じゃあ別にいいけど」
「古閑さんは、嬉しい?」
「き、聞かないでよ恥ずかしい! 見りゃ……分かるでしょ」
「分かった、ごめん」
「ああもう、調子狂うなあ……。あっつい……。あんたのせいで変な汗かいちゃったじゃない……」

 見れば、額や首筋に、髪が絡んでいた。
 夜とはいえ、季節は真夏。
 少し動けば汗ばむほどに、気温は高い。
 僕も少しではあるけれど、汗をかいていた。シャワーを浴びたいところだが、残念ながらここには、そんな便利なものはない。足を冷やした水道はあるので、タオルを水に浸して、体をふくことくらいはできそうだけど――

「そうだ、古閑さん」

 ふと思いついて、僕は彼女に提案した。

「海、入りに行こうよ」

 波の音が聞こえる。