高校三年間の間、僕は真面目に過ごしてきた。
 理由は簡単だ。
 その方が生きやすいから。
 家庭が崩壊している僕にとって、堕落することは容易かった。けれど、その後のことを考えると、酷く億劫になるのだ。先生たちはきっと、僕を矯正しようと躍起になるだろう。それはひどく、面倒だった。
 真面目になるのは簡単だ。真面目を貫くことも簡単だ。
 堕落することは簡単だ。しかし堕落を貫くことは難しい。
 だからこそ僕は三年間、前者を選択し続けてきたのだけれど――どうやらそれも今日で終わりのようだ。

「あ、バス来たね」

 薄暗いバスターミナルを、ヘッドライトの灯りが満たした。
 夏休み、夏期講習期間。
 僕は生まれて初めて学校をさぼって、旅行に出かける。


 ※


 ある日の放課後のこと。
 相も変わらず強引に、僕はカフェに拉致されていた。

「ここ行くよ」

 カウンターの上に彼女が取り出した雑誌のページを見て、僕はため息をついた。

「無理だと思うよ」
「なんでよ。あんたが言ったんでしょ。私のやりたいことに付き合ってくれるって」

 確かにそう言った。
 結局僕には、死ぬまでにやりたいことが見つからなかった。やりたいこと、やってみたいこと、そういう前向きな発想が、致命的に僕には足りていない。だったらいっそのこと、たくさんのやりたいことがある古賀さんに付き合った方が、効率がいいのではないかと思ったのだ。
 とはいえ、なにがなんでも今回の提案は無理がある。彼女が行きたいと指さしたのは、電車で片道数時間、さらにそこからバスを二時間ほど乗り継いで行かなくてはならない、非常に辺鄙な場所だった。
 藻引岬(もびきみさき)。K県の外れ、藻引半島の先端にある岬だった。
 写真には、切り立った崖と、白波を運ぶ大海原が映っており、確かに雄大で美しい風景ではあった。

「ここに行くなら、一泊はしないとダメだろ」
「だったら?」

 僕は肩をすくめた。

「高校生だけじゃ、宿には泊まれない」

 悲しいかな、それは未成年の限界だった。いかなる宿も、未成年の二人組を泊めてはくれないだろう。ましてや、男女のペアとなれば尚更だ。
 しかし彼女は、

「春海って、頭いいけど、頭堅いよね」

 反応しにくいセリフだな。
 古閑さんは続ける。

「別に、一泊しなかったらいいじゃん」
「野宿でもしろってこと?」

 季節柄、できないことはなさそうだけど、そこまでして強行しようとは思えなかった。しかしこれも違ったらしく、「違う違う」と古閑さんはマドラーを小さく振った。

「ここまで、夜行バスで行けばいいんだよ」

 そう言って彼女が示したのは、藻引半島のある、K県の都心部だった。

「そしたら朝には着くじゃん? そこからバスに乗って二時間半。お昼には藻引半島に到着。観光して、帰りのバスに乗って、また夜行バスに乗って、翌朝には帰ってくる」
「零泊三日ってことか……」
「そーゆーこと」

 確かにそれなら問題ない。夜行バスは、未成年であっても問題なく使用できたはずだ。
 しかし――

「なんで、ここなんだよ」

 美しい場所ではあるけれど、わざわざ選ぶ理由が分からなかった。旅行に行きたいだけであれば、もっと簡単に日帰りで行ける、都心から近い場所だってあるはずじゃないか。
 そう、思ったのだけれど。

「だってその岬、自殺の名所なんだもん」

 彼女はあっけらかんとそう言った。

 
 それから詳しく話を聞いたところによると、何も彼女は、ディープブルーを飲む前に身投げをしようと思い立ったわけではないらしい。
 藻引岬には県民以外にも、津々浦々、様々な場所から人が集まるそうだ。
 人生を終わらせようと決意し、あるいは願い、そうして多くの人たちが、夜光灯に惹きつけられるように集まっていく。
 何がそこまで人を魅了するのか。何を思って、そんな辺鄙な場所に足を運ぶのか。実際に行ってその魅力を確かめてみたい。
 それが、古閑さんが藻引岬に行きたい理由だった。
 死ぬまでに行ってみたい場所が自殺の名所っていうのは、中々皮肉がきいてるな。

「……今更なんだけどさ」
「なによ」

 深夜バスの車内、隣の席でごそごそと寝支度をする古閑さんに問う。

「いろいろ建前言ってたけど、これってただの観光だよね?」
「……だったらなによ。なんか文句あんの」
「……なんでもありません」

 あまりこの話題は深堀しない方がよさそうだった。
 しばらくすると室内灯が消えて、辺りは暗闇に包まれた。
 高速を走るバスのエンジン音の合間を縫って、咳や寝息の音が聞こえてくる。
 目をつぶってしばらくすると、うつらうつらと、夢と現実の間をさ迷い始めた。
 と、

「ねえ」

 肩をぽんぽんと叩かれた。周囲に声が漏れないように顔を近づけて、古閑さんが囁いた。

「私さ、抱き枕がないとうまく寝られないんだよね」

 彼女の部屋に置いてあったクジラの抱き枕を思い出した。
 いつもはあれを抱いて寝ているのだろう。

「子供みたいだな」
「うっさい」

 足の甲を軽く踏まれ、僕は顔をしかめた。

「痛いんだけど」
「余計なこと言ったあんたが悪い」

 まあ、一理ある。

「それでさ、物は相談なんだけど」

 古閑さんは、僕たちの間を区切っていたひじ掛けを持ち上げて、シャーペンでも借りるような気軽さで、僕に持ち掛けた。

「左腕、貸してくんない?」
「え」

 間抜けな声が口からこぼれた。
 僕の左腕を貸すと言うことは、つまり、彼女が僕の左腕を抱きながら寝るということだ。
 当たり前のことを、脳内で反復する。
 それはちょっと……良くないんじゃないかな。いろいろと。

「なによ、嫌なの? いいじゃん。別に減るもんじゃないんだし」
「それはそうだけど……」
「じゃ、借りるから」

 一方的にそう言うと、僕の左腕に腕を絡ませた。
 柔らかい感触が、腕のあらゆるところから脳髄を刺激して、僕はたまらず硬直した。
 体勢から考えれば、当然彼女の頭は僕の肩に乗るわけで。車内の独特の臭いを一瞬でかき消すほどの甘い香りに、くらくらした。

「あのさ、古閑さん」
「寝る」
「……はい」

 どうやら僕に拒否権はないらしい。空いた右手で目頭をもむ。ついさっきまで近くにいた眠気は、どこか遠くへ行ってしまっていた。
 左腕はろくに動かせず、寝ることすらままならない。
 なんだこれ。新手の拷問か?
 一方の古閑さんはと言えば、仮の抱き枕を手に入れて安心したのか、静かな寝息を立てていた。彼女の寝顔をちらりと盗み見て、僕は内心首をかしげる。
 おかしいな……。
 なんでこんなに、胸の奥がざわついているんだろう。


 翌朝九時、僕たちは無事にK県に降り立った。刺すような朝日が身に染みる。古閑さんはよく眠れたようで、気持ちよさそうに伸びをしていた。
 因みに僕の左腕の感想は「抱き枕としては及第点」だそうだ。ありがたい評価に涙が出そうだった。帰りはぜひ、その辺の駅で大き目のぬいぐるみを購入して欲しい。

「行くよ、春海。なにぼーっとしてんの?」
「寝不足なんだよ……」
「なんで?」

 言わせないで欲しい。

「座ったまま寝るのが、あんまり合わなかったみたい」
「そうなんだ。帰りはちゃんと眠れるといいね」

 それはあなた次第です。
 僕の気なんて露知らず、古閑さんは元気よく次のバス停へと進んでいく。目的地に着くまでに、ちょっとでも仮眠が取れればいいのだけれど……。
 僕は小さくため息をついて、彼女の後を追った。