二度あることは三度ある。という有名なことわざがある。
 物事は繰り返し起こる傾向があるものだから、失敗を重ねないようにという戒めのことわざだ。論理的と言うよりは、どちらかといえば経験則、もっと軽く言えば「あるある」みたいな事柄を小難しく言っているだけのような気がして、僕はあんまり好きではない。
 どうして急にそんな話を始めたかというと、二度あることは三度あるならば、二度したことは三度しても良いかどうかを、僕は今真剣に考えているからだ。
 目の前にはチャイムがある。チャイム、あるいはインターホン。呼び名はどちらでもよいが、その機能は部屋の中にいる人を呼び出すというもの。
 僕はこれを、二度押した。二度押して、二度無視された。
 ここで三度目を押すことは、果たして許されることなのだろうか。

「どうしたもんかな……」

 土曜の昼間。僕は古賀さんの家を訪れていた。
 古賀さんの家には二度もお邪魔していたから、ここまで来るのは簡単だった。
 問題は、その後だ。
 二度もチャイムに反応がなかったとなれば、考えられる可能性は二つ。
 一つは、古閑さんは現在留守である可能性。
 もう一つは、古閑さんが僕の存在に気付いていて、居留守を使われている可能性だ。
 前者であれば、まぁいい。古賀さんが戻って来るまで、ここで待っていればいいだけの話だ。しかし後者であれば、話は変わって来る。
 その場合は確実に、僕は古賀さんに避けられている。それは困る。ディープブルーを渡せないし、古閑さん自身のディープブルーも返すこともできなくなる。だからもし古賀さんが僕を避けているのであれば、その理由を聞かなくてはいけない。なるべく早く。
 もう一度チャイムを鳴らし、僕が古賀さんと話したいのだということを主張するべきだろうか。それともここは一度引き下がって、改めて出直すべきだろうか。
 三度目のチャイムを押すか否か。そんなことを考え始めて、すでに十数分が経過している。いい加減行動しないと、マンションの住民に見つかって通報されてしまいそうだ。
 と、その時――

「あ」
「は?」

 あまりにもあっさりと、扉が開いた。
 しっとりとした黒い髪が、気圧差を受けて扇のようになびく。

「え、っと」
「はぁ!? なんでまだいんのよ!」

 けたたましい音を立てて、再び扉が閉まる。ご丁寧にチェーンロックまでかけた音が聞こえた。うん、元気そうで何よりだ。
 なんとなく部屋の奥には行っていない気がしたので、扉越しに声をかけてみる。

「ごめん、チャイム二回も鳴らして」
「別にいいけど、二回くらい……。そんなことより、なんでまだそこにいんの? 最後にチャイム鳴らしてから、何分経ったと思ってんの? 普通帰るでしょ!」
「いや、ちょっと色々悩んでて」
「やっぱ変だよね、あんたって……」

 ずるずる、と衣擦れの音がした。
 扉に背を預けたまま、床に腰をつけたようだ。

「ディープブルー、返しに来たんだ。返しに来たっていうのが正しいのか、預けに来たっていうのが正しいのか、ちょっと分かんないけど」
「ヒナから取り返せたんだ」
「うん」

 ヒナというのは、ディープブルーを奪い取ったあの女子生徒の名前なのだろう。せめて今くらいは、頑張って名前を覚えていようと思った。

「私には、いいって言ったのに」
「え?」
「私が取り返そうとしたら、もういいって言ったじゃん」

 古賀さん、もういいよ。大丈夫だから。記憶はおぼろげだが、たしかそんな風に言って、古閑さんを止めた気がする。

「もういいって……ばっかじゃないの? いいわけないじゃん。あれは、あんたを殺す薬なんだよ? あんたの命、そのものなんだよ?」
「そうだね」
「私はそれを預かってた。お互いの誕生日が来るまで、ちゃんと保管する義務がある。守る義務がある。少なくとも私はそう思ってた。あんたは違うの?」
「僕もだよ」

 古賀さんのディープブルーを他人の手に渡すつもりなど毛頭ない。十八歳の誕生日が来るまで、互いが互いの薬を保管する。自分の薬を人質に取られているから、というわけではないけれど、その約束はしっかりと果たすつもりでいた。

「だったら――」
「違うんだ、古閑さん」

 僕は言う。

「あの時僕が、もういいよって言ったのは、あれ以上古賀さんが傷つく必要はないと思ったからなんだ」

 そもそもあれは、僕の物なのだ。古賀さんが身を挺してまで守る必要なんてない。僕が出て、名乗り出て、返してもらえばいいだけの話。そう思ったんだ。

「だからちゃんと、直接言って返してもらった。まぁ、色々不信がられてはいると思うけど」
「……なにそれ、意味わかんない」

 ヒナさんにも同じこと言われたっけ。もしかしたら僕は、自分が思っている以上に説明するのが下手なのかもしれない。

「僕があの時、古閑さんを止めたのは、僕たちの契約を――約束を、蔑ろにしてもいいって思ってるからじゃない。それだけ伝えにきたんだ。もし学校に来てない理由が、僕のせいだったら、その……誤解させて、ごめん」

 返事はなかった。もしかしたらこの扉の向こうに、もう古賀さんはいないのかもしれない。
 そう錯覚してしまうほどの静寂。
 僕の気持ちは伝えた。どう受け取るかは古賀さん次第だろう。
 そう思って、その場を離れようとしたとき、

「……ほら」

 わずかに扉が開いて、その隙間から手が伸びてきた。ちょっと絵面が怖い。

「はやく」

 相変わらず主語が致命的に足りないけれど、今回はちゃんとくみ取れた。
 ほっそりとした手の上に、シールの貼ってあるディープブルーを置く。
 手はすぐに引っ込んで、扉も閉まった。
 なんとなく、ホッとする。きっとあるべきところに、僕のディープブルーが戻ったからだろう。

「じゃぁ、僕は帰るね」
「私が学校に行かないのは、あんたのせいじゃない」

 僕は出口に向けた足を止めて、再び扉の近くにしゃがみこんだ。
 なんとなく、長い話になりそうな気がしたから。

「ヒナさん?」
「まぁ、それもある。でも一番の原因は……自分かな。あの場でうまく立ちまわれなかった自分が、心底に嫌になった」
「でもあれは、古閑さんが悪いわけじゃない」
「そんなことないよ。みんなが楽しく喋ってる時に、私が急にキれた。空気を悪くした。最低だ」

 そうなのだろうか。僕には分からなかった。
 古閑さんだけが責任を負い、痛みを背負う、その非対称な関係性は。
 古閑さんはため息とともに、言葉を吐き出す。

「このままじゃ私、クラスで浮いちゃうかも」
「別にいいんじゃない。無理して友達付き合いしなくても」
「ダメに決まってるでしょ、そんなの。あんたじゃないんだから」

 散々な言われようだった。事実だけど。

「人付き合いって難しいね」

 共感できなかった。
 うまくこなそうと思わなければ、難しいとも簡単だとも、思わないから。

「ダメだなあ、私。やっぱりうまくできないや」
「うまく、できない」
「うん。全然ダメ。ダメダメだ」
「……」
「なによ」
「いや……」

 もうすぐ死ぬはずなのに、どうして友達を大切したいと思うのだろう。
 人付き合いをうまくこなしたいと考える理由は、なんなのだろう。
 疑問には思ったけれど、口には出さなかった。
 代わりに僕は、ポケットから遮光性のプラスチックケースを取り出して、ぼんやりと眺めた。

「いっそのこと、もう飲んじゃう?」
「……飲まない」
「どうして」
「須々木さんとの約束だから」
「別に律儀に守る必要なんてないだろ。どうせ赤の他人だし」
「ひどいこと言うね」
「死んでしまえば関係ないよ。何もかも」
「……私が死んだら、あんたはどうすんのよ」
「分からない」

 分からなかった。死ぬのかもしれないし、死なないのかもしれない。
 正直――どちらでも構わない。

「自分のことなのに、適当なんだ」
「自分のことだから、分かんないんだよ」
「そうかもね」

 少し、間が開いた。
 古賀さんの姿は、扉に阻まれて見えないけれど、けれどなんとなく、僕と同じことをしている気がした。

「……ダメ」

 しばらくして、彼女はか細い声で言った。

「飲めない」
「どうして」
「だって私は――」

 そこで区切る。
 その先の言葉は、いつまで待っても出てきそうになかった。僕は「そっか」とつぶやいて、ケースをポケットに戻した。
 理由は分からない。だけど彼女は、少なくとも今はまだ死ぬつもりはないらしい。
 クラスの女子と、表面上でも仲良くしているように取り繕うことが、大切でもあるらしい。

「有名な哲学者の言葉に、こんなのがあるんだ」
「……どんな?」
「当たり前のように服を着ているように、心にも仮面を付けるべきである。裸で道を歩く者がいないように、無防備な心で人前に出る者もまた、いないのだから」
「……もうちょっとかみ砕いて」
「人は誰だって本心を隠し生きている。だからそこに負い目を感じる必要はないってこと。オランダの思想家、デジデリック・ラッセルの言葉だよ」
「ふうん」

 違う、こんなことが言いたいわけじゃない。
 こんな、毒にも薬にもならない、ただの会話のかさましをしたいわけじゃないんだ。

「古閑さん。僕、ようやく決まった」
「急になに?」
「死ぬまでにやりたいこと、決まったんだ」

 古閑さんに、学校に来て欲しいと願っている自分がいた。
 最初はそんなことを考えている自分に驚いたけれど、よく考えれば理由は明らかだった。
 僕には、叶えたい願いがある。
 それはとてもささやかで、けれど無謀で難解で、きっと叶うはずもないと、半ば諦めかけているのだけれど。
 古閑さんがいてくれれば、もしかしたら叶うかもしれない願いだった。
 
「……聞かせて」
「僕さ」

 だから、僕がこんならしくない提案をするのは――全部自分のためなんだ。

「死ぬまでに彼女が欲しかったんだよね」