※


「これは例えばの話なんだけど」
「なによ、急に」
「『また来るだろう』と思っている場所に限って二度と行けなかったり、逆に『もう二度と来ないだろう』と思っていた場所に、何度も足を運んだりすることってあるよね」
「あー、あるかも。この前カフェのご飯は美味しいから、今度来たときは違うメニューを頼んでみようと思ったのに、次見た時には閉店してて損した気分になったり」
「そうそう。抜歯で痛い思いをして、絶対に同じことは繰り返さないぞって思ったのに、半年後には別の歯を抜くことになったり」
「まあ言いたいことは分かるけど、それがどうしたのよ」
「いや……人生ってままならないよなと思って」

 古閑、と書かれた表札を眺めながら、僕は意味のないやり取りにピリオドを打った。まさか、数週間経たずして、また古賀さんの家に来ることになるとは思わなかった。

「あんたってやっぱ変だよね」
「そうかな」
「ったく……わけわかんないこと言ってないで、さっさと入ってよ。これ、結構重いんだから」

 古賀さんが持ち上げたビニール袋には、今晩の夕飯の材料をはじめ、スーパーのタイムセールで買ったものがぎっしり詰まっている。

「半分持つって言ったのに」
「いいよ、ほとんど自分の物だし。カバン持ってもらってるし」

 重さが全然違うと思うんだけど……まぁ、古賀さんがいいなら、いいか。
 僕たちは部屋に入ると、扇風機を付け、涼をとりながら買ったものを整理した。玉ねぎ、にんじん、卵、鶏肉、その他諸々。古賀さんは普段は自炊をしているらしく、お米や調味料はあるとのことだったので、購入は控えた。

「じゃぁ、台所借りるね」
「うん、全部好きに使っていいから」

 台所は、綺麗に整っていた。包丁、まな板、計量カップ、調味料の入った小ぶりなケース。料理がしやすいようにすべてが配置されていて、普段から頻繁に使われているのが良く分かった。
 まな板と包丁を取り出し、軽く水洗いしたニンジンの皮をむく。

「ピーラー使わないの?」
「あるなら使いたい」
「引き出しに入ってるよ」

 二段目の引き出しをあけると、中にピーラーが入っていたのでありがたく使わせてもらう。
 取り出すときにふと左に視線を向けると、リビングにいる古賀さんと目が合った。体育座りをして、抱えた膝にこてんと頭をのせている。

「見られてると緊張するんだけど」
「気にせず続けて」
「……はい」

 友達のやりたいことを手伝いたい、なんて言った手前、古閑さんの言うことを無下にもできない。我ながら少し、早まった提案をしたかもしれない。
 友達の手料理を食べたい。
 それが今回の、古閑さんの死ぬまでにやりたいことだった。なぜ友達の手料理を食べたいのか、その相手が僕なのかは分からないけれど。

「料理されてるとき、話しかけられても大丈夫な人?」
「どうだろう。たぶん大丈夫じゃないかな」

 普段家で料理するときは、いつも一人だ。誰かがいる横で料理をするのは、家庭科の料理実習を除けば初めての経験かもしれない。

「なに作るの?」
「オムライス。凝ったものは作れないから」

 ニンジンの皮をむき終わったので、細かく刻んでボウルに入れる。まな板の上を軽くふいて、玉ねぎを刻む準備をする。

「作り方は、誰から教わったの?」
「誰にも習ってないよ。適当に、Youtubeとかで調べて作ってるだけ。ほら、うちは家族が崩壊してるから」
「あー、分かる。レシピ本とかより、動画付きの方が分かりやすいよね」

 家庭の部分に、古閑さんは触れなかった。気を遣った、と言うわけではないと思う。
 僕たちは似ている。だからきっと、同情とか、謝罪とか、憐憫とか、そういうものが欲しいわけではないってことを、分かっているのだと思う。お互いに。

「あ、そうだ」

 ふと思いついたように、古閑さんが言う。

「あんたが言ってた哲学者の名言。調べても一個も出てこなかったんだけど」
「え。わざわざ調べたの?」
「な、なによ。悪い?」
「いや……意外だなと思って」
「いいじゃない、別に。成績が良くなかったら、哲学者の言葉も調べちゃダメなわけ?」

 そこに噛みつかれても。
 古閑さんの成績については、まったく存じ上げないわけだし。

「そういう意味じゃないよ」

 僕が言うと、古閑さんはふんと鼻を鳴らした。

「で、私が聞き間違えたかもしれないから、もう一回聞こうと思って。なんて言ってたっけ? イギリスの社会哲学者の、エドマン……なんちゃらって人の言葉」
「僕ももう、忘れちゃったよ」
「……ふーん」

 玉ねぎを切り終わる頃には、古閑さんの質問も途切れ途切れになって、やがて扇風機が回る音だけがリビングから聞こえてきた。ちらっと横目で見たところ、どうやら古賀さんは寝てしまったらしい。
 無防備だな、と思う。
 家に異性の同級生をあげて、調理場を貸して、その傍らで、寝顔を晒してしまうなんて。
 そこまで深く考えていないのか、自暴自棄になっているのか、それとも――僕のことを信頼しているのか。

「……最後のはないな」

 思わず自嘲する。そこまでの間柄ではないだろう。
 切り終えた野菜と鶏肉をケチャップで炒め、白米と投入する。炊く時間がなかったので、冷蔵庫にあった炊いてある白米を拝借した。しっかり炒め、甘酸っぱい香りが立ってきたところで、別のコンロで卵を焼く。薄く伸ばした卵の層に、ケチャップライスを投入し、軽く卵を巻き付けて、皿の上にドロップさせて、完成。ちょっと玉子が破れてしまったけど、これくらいは及第点だろう。
 寝ている古賀さんの前に置くと、華奢な体がぴくりと動いた。

「……できた?」
「うん。お待たせ」
「いいね、美味しそう」

 そう言うと古賀さんは、早速スプーンを取り出して実食した。
 自分が作った料理を他人に食べてもらった経験はほとんどない。少しだけ、緊張する。

「……見た目は七十点」
「厳しいね」
「味は九十五点」
「おぉ」

 思わず、ちょっと拳を握りしめてしまう。

「ちなみに、残りの五点は?」
「ごはんの炊き方がイマイチ」
「それは僕の担当範囲じゃないんだけど……」

 口を挟むと、じろりと古賀さんの黒目が僕を見据える。

「だから、そういうことでしょ」
「どういうこと?」
「あぁもう、うるさい。あんたも自分の分作りなよ。私だけ食べてたら、なんか落ち着かない」
「僕の分は、古閑さんが作ってくれるのかと」
「やだ。冷めちゃうもん」

 まぁ、一理あるか。どうせケチャップライスは余っているし、あとは玉子で包むだけだ。
 古賀さんに出したものよりも、雑に、ちょっと手早くもう一品作り、古閑さんの前で食べる。
 特に会話はなかった。カチャカチャと、スプーンと食器が擦れる音が、静かに鳴り響いている。
 やがてお互いの皿からオムライスが完全に消えた頃、

「なんかさ」

 古賀さんが口を開いた。

「すごく、優しい味だった」
「味付け、物足りなかった?」
「そういう意味じゃない、馬鹿」

 テーブルの下で一発蹴りを入れられる。ボケたつもりはないんだけどな……。
 足をさすっていると、古閑さんがスプーンの端をいじりながら、ゆっくりと口を開いた。

「私さ、お母さんが死んでから家族で食事とか、ろくに取ったことなかったから。自分のご飯は自分で作るか、コンビニのお弁当とか、外食だし。でもさぁ、外食って味付け濃いでしょ? ずっと食べ続けてると、疲れてくるっていうか。お金もそんなに、余裕ないし。そしたらやっぱり、ご飯は自分で作るしかないし。だからその、なんていうのかな……」

 話の終着点が見えなくて、とりあえず僕は、古閑さんの言葉に耳を傾けていた。けれどなんとなく、今回僕に手料理を頼んだ理由を話そうとしている。それだけは、分かった。

「うん、だからね……御馳走様」
「どう、いたしまして」

 なんと返答するのが正解か分からなくて、僕は反射的に、そう返した。
 扇風機が、ゆったりと回っている。ケチャップの残り香を、静かにかき混ぜて、部屋の中をほんのり色づけている。

「次は」

 古賀さんが言う。

「次こそは、あんたの番だから」
「死ぬまでにやりたいこと?」
「そう。今回のはノーカン。っていうか、むしろ貸しが増えただけだし……だから、ちゃんと考えといて」

 考え付くだろうか。二週間、あれほど頭を悩ませて出なかった僕に。
 けれど、

「分かった。考えておく」

 僕は気付けば、そう返していた。
 もし何も思いつかなければ――古賀さんに手料理を振る舞ってもらうというのも悪くないかもしれないと、そんなことを考えながら。

 それから、食器の片づけをして、生ごみの処理を終えて、僕はお暇することにした。古賀さんの家を出て、薄暗い帰路を歩く道すがら、僕はふと、彼女のマンションを振り返った。
 片づけている最中、古閑さんのスマホに、幾度となく通知が入っていたのが気になっていた。
 古賀さんは「いいよ、どうせ合コンの呼び出しだから」とすべて無視していたけれど……ああいうグループの誘いを無下にしてしまって、本当に大丈夫だったのだろうか。
 学校でグループに混ざって話している時の古賀さんと、僕と一緒にいる時の古賀さん。
 同じ人物のはずなのに、全く見せる顔が異なっていて。
 その歪さが、少し不安になる。