所々、葉が茶色くなって萎れている。木の下に落ち葉が散らばっているので、落葉が始まっているのだろう。繁っている葉はあちこち歯抜けになっていて、隙間から空の青が顔を覗かせていた。
 この暑さのせいか。それとも病気か。
 とにもかくにも、こんな姿は見たことがない。
 そして――。

「人がいるな」

 真人の声に頷いた。
 悠久の木の正面に、木を見上げている女性の後ろ姿があった。
 艶のある黒髪は腰まで届く長さ。白いシャツを着て、くるぶしまでの丈のジーンズを履いている。背が高く、やや肩幅が広い。

「SUV車の持ち主かな?」
「たぶんね」
「こんにちは」と真人が声をかけると、その女性が振り向いた。

 力強い光を放つ瞳は切れ長。鼻筋がシュっと通っていて、メリハリのある顔立ちだ。
「観光ですか?」と続けて真人が尋ねると、「うーん。まあ、そんなところ」と曖昧な笑みで彼女は応じた。
 若そうに見えるが笑うと目じりにシワが寄る。四十路間近といったところか。
「女性に歳を聞いてはダメだよ」と夏南がからかってきたので、「わかってるよ。そこまでデリカシーのない男じゃない」と憤慨してみせた。

「もしかして、夏休みですか? おねーさん、大学生っぽいですし」

 真人の声に、「お姉さん」と女性の口元が緩んだ。

「こんなおばさん捕まえて、上手だねえ、君。お世辞なんて言ってもお年玉はでないよ。いくらなんでも、そんなわけないさね。来年の春で四十(しじゅう)だよ」

 当たらずとも遠からずだな、と思っていると、「年齢はこうやって聞き出すんだよ。勉強になったかい?」と夏南が耳打ちしてくる。「余計なお世話だ」
 とはいえ、真人らしく要領のいい誘導尋問だった。覚えておこう。

「それで? 君たちも観光? ここ、地元の人そんなに来ないでしょ?」
「えーとですね」

 返す刀で質問をされると、とたんに真人が口ごもる。コイツ、受けに回ると案外アドリブが利かないんだよな。
 その間も、夏南はじっと木を見つめている。この木はある意味夏南の半身みたいなもの。こんな状態になっているのを、彼女は知っていたのだろうか?

「いえ。私たちは地元の中学生ですよ。この場所を訪れたのは、自由研究のためです。悠久の木の歴史について、調べようと思っていまして」

 これが資料です、とでも言いたげに、青い手帳を振って助け船を出したのは涼子だ。
 こういうところ、さすが彼女は頭の回転が早い。

「なるほど。でも木、枯れてるんだよね」と女性が再び木を見上げる。「いつからこうなってたか、知ってる?」
『いえ、まったく知りませんでした』と全員の声が揃って、なんだか気まずい空気になる。
「ははは。こりゃあ、ほんとに知らないみたいだね」

 夏南を一瞥したあとで、真人が木に近づいた。幹の表面に何度か手で触れ、落葉を拾って状態を確かめる。太めの枝を拾い根元を十センチほど掘り返し、土の感触を確かめる。

「深層土の状態は、もう少し掘ってみないとわかんないけど、粘土質の土でもないので根腐れしているということはなさそう。幹の状態は少し悪いが、葉の枯れ方は別段オカしくないので病気って線もないだろう」
「じゃあ、どういうことなんだ」と僕は口を挟んだ。
「ただ枯れているだけだよ。気温は高いが今年は雨も多く降っているし、どこに枯れる要素があるのかよくわからんけどな。あるいは、木の寿命?」
「そんなこと」
「ないって思いたいけど、本当に枯れている理由がわからないんだよ」

 後ろで、夏南が喉を鳴らした。

「もしかしたら俺たちは、歴史的瞬間に立ち会っているのかもしれないね」
「君、見た目によらず木のことに詳しいんだねえ」と女性が感心した顔をする。
「見た目によらず、は余計です」

 真人が苦笑いをすると、涼子が女性に補足説明をした。
 
「彼は、この島で一番大きい、造園会社の息子なんですよ」
「ああ、あの」と女性が得心した顔になる。
「あれ? 知っているんですか?」
「あ、いやね。ここに来る途中で造園会社見たなーって思って。ははは」

 煙にでも撒くように、女性が軽やかに手を振った。そんな彼女とは対照的に、強張った顔で沈黙しているのは夏南だ。

「なあ、これがお前の見せたかったものなのか?」

 問いかけるも、夏南の返事はない。複雑な表情でこっちを見たのは光莉だ。

「夏南?」

 もう一度、呼んでみる。

「これは、ボクたち神の間に伝わっている伝承です。かつてこの島に、人と契りを交わし、子をもうけた神がいました。神の半身とも呼べる二人の子とその子孫は、神の姿を知覚し、言葉を交わすことができたそうです」
「突然なんの話だ? もしかして、僕がその子の子孫だとでもいうのか?」
「それはわかりません。ボクですら知らぬ、遠い昔の話なので。ボクの口から言えるのは、人と交わったその神は、穢れをため込んだことで神の力を失ったこと。そのときから、人と神との間に、明白な線引きがされるようになったと伝えられていることのみです」

 真相は、すべて闇の中。
 それは、歌うような響きだった。

「今から三十年前のことです。たったの一度、木が枯れかけたことがありました。理由は真人の考察通り、土壌が悪いわけでも病気でもなかった。ですがある意味、心の病、と言えたのかもしれません。神たるもの、人の心を持ってはいけない。決して、誰かに肩入れしてはいけないのです」
「夏南?」

 脈絡もなく続いていく口上に、いよいよ呆気にとられる。

「そうか。真人がそう言うのであれば、やっぱり()()()()()()()()。母さんから神としての責務を引き継いだとき、そのことを、よく肝に銘じたつもりだったんだけどな」
「夏南。さっきからお前は何を言ってるんだ?」
「都くん。あの子と話をしているの?」

 夏南の姿が見える真人と、そうじゃない光莉とでは反応が対照的だ。だが、そのどちらにも夏南は応じない。

「ずっと、ボクは孤独だった。話し相手なんて一人もいなかったけれど、そんなのは当たり前のことだったし、これから先もずっとそうなんだと思っていた」

 でも、という一言とともに、夏南が僕の顔を見た。虚ろだった表情から一転、光が戻った瞳は逸らされない。

「そんなとき、君が現れた。最初はね、信じられなかったんだよ。人間たちの中には、ボクたちの姿が見える者もごくまれにいるんだ、と母さんに聞かされていたけれど、本当に現れるなんて思っていなかったから」
「夏南、やっぱりお前って……!」
「そうだよ。都が幼かった頃、この場所で出会った女の子というのが他ならぬボクだ。どうやらボクは、これ以上君と一緒にいてはいけないみたいだ」

 起きている事柄を理解できない。そんな顔でみんながただ見守るなか、夏南が空虚な笑みを浮かべた。感情の動きが殆ど見えない、能面みたいな笑みだった。

「ちょっと待てよ! 夏南!」

 嫌な予感が稲妻のように閃くと、弾かれたように右手を伸ばした。
 空を切った右手。触れないのはいつものことだ。しかし今回は勝手が違う。夏南の姿そのものが、夏の幻のごとく消えてしまった。

「夏南!」

 いつの間にか雲が出ていた。
 肌寒い風に乗った声が、丘の上を流れていった。
 これが、夏南との別れになった。