楓先輩にお別れの一文を送った後、すぐにまたスマホの電源を切った。

 京ちゃんからも連絡が来ていたけれど、返信するほどの余裕がなかった。いつかもう少し落ち着いたら、話を聞いてもらおうと思う。

 まだ朝早いから、お父さんも真央さんも起きてはこないはず。そう思って一階に下りて、急いでシャワーを浴びた。うるさくしないように弱風で乾かしたから、少し髪がしっとりしているけど、構わずに洗面所を出た。

 すぐに二階の部屋に戻ろうとした時、キッチンから物音がすることに気が付いた。

 ドキッと心臓が跳ねる。こんな時間から起きているなんて想定外だ。

 私が固まったまま首だけで振り返ると、スリッパの足音を小さくパタパタと鳴らし、真央さんが顔を出した。

「おはよう、菜々ちゃん。さすがにお腹空くかなと思って、おじや作ったの。少しだけでも食べない?」

 いつも通りの、優しい微笑みだった。

「洋司さんはまだ寝てるみたいだからダイニングで食べてもいいし、ひとりがいいならお部屋に運ぶよ」

 昨日、私は彼女の声掛けをすべて無視したし、お父さんとの口論もきっと聞こえていたはずだ。

 それなのに、私のために朝早くからこうして胃に負担のかからない朝食を作っていてくれたなんて。

「……部屋で食べます」
「うん、わかった。できたら持っていくね」

 どうしてそんなに優しくいられるんだろう。どうしたら人に優しくなれるんだろう。

 昨日の自分の振る舞いを思い返すと、再び落ち込んでしまう。

 二階に上がって部屋の扉を開けたまま待っていると、真央さんが丸い木製のお盆を持ってやってきた。

「お待たせ。たくさんあるけど、食べられるだけでいいからね」

 黒い土鍋風のお茶碗には、ほかほかと湯気の立つおじやがこんもりとよそわれている。鮭と出汁のいい匂いが部屋中に漂い、私は久しぶりに空腹を覚えた。

 ラグの上にある小さなローテーブルに受け取ったお盆を置くと、手を合わせてからスプーンを口に運ぶ。

 鮭と卵とネギのシンプルなおじやが、空っぽの胃にじんわりと染み渡っていく。作った真央さん同様、とても優しい味がした。

「……おいしい」

 私が小さな声で呟くと、彼女は嬉しそうに「よかった」と笑う。

「食器は部屋の前に置いておいてくれたら取りにくるから。ゆっくり食べて」
「……あのっ」

 部屋から出ていこうとする真央さんを、咄嗟に引き止めた。

 お父さん達が再婚して、一緒に住み始めてから約八ヶ月。私は真央さんと深く関わらないようにして生活してきた。

 再婚に反対だと声を上げなかったとはいえ、納得して賛成しているわけじゃない。真央さんにどんな態度を取ったらいいのかわからず、彼女にも、自分の気持ちにも向き合わずに逃げてきた。

 けれど楓先輩を好きになり、彼に亡くなった恋人がいると発覚した今、『忘れられない人がいる人を好きになった』という同じ境遇になった。

 どうしてお父さんだったのか。私のお母さんに対してどう思っているのか。苛立ちや嫌みではなく、純粋に聞いてみたいと思った。

「真央さんはきれいだし、オシャレだし、優しくて料理上手だし、結婚は引く手あまただったはずなのに、どうして……お父さんを選んだんですか?」

 真央さんは唐突な私の質問に目を瞠り、口を引き結んで少し考える仕草をする。

「……私も、座ってもいいかな?」
「は、はい」
「菜々ちゃんのお部屋、初めて見た。可愛いし、すごくきれいにしてるね」

 テーブルを挟んだ反対側に正座しながら、真央さんはゆっくりと部屋の中を見渡す。そして机の上にある家族写真に目を止めると、眉尻を下げて困ったように微笑んだ。

「菜々ちゃんは、再婚に反対だったんだね」
「……すみません」
「謝らないで。もし嫌じゃないなら、思ってること聞かせてほしい。どんなことでも受け止めるから」

 真っ直ぐにこちらを見つめる真央さんの眼差しに促され、私はなるべく感情的にならないように、でも心の中を正直に伝えようと口を開いた。

「お父さんとお母さんはすごく仲がよかったんです。お母さんの誕生日にはお花を買ってきてたし、毎年夏休みには決まって三人で旅行してた。病気が見つかって入院してた時は、会社を休んでつきっきりで看病したし、亡くなった時は心配になるほど痩せて憔悴してました」

 正面に座っている真央さんは、私の話を頷きながら聞いてくれている。

「お父さんは毎日お母さんの仏壇に手を合わせてるし、命日とお盆だけじゃなくて、誕生日にもお墓に真っ白なダリアの花束を持って行ってる。それは、まだお母さんを忘れてないからだと思います」
「うん。私もそう思うよ」

 真央さんにとっては辛いであろう話を聞かされても、彼女は優しく微笑んでいる。

 それが悲しくて、切なくて、自分のことのように胸が痛い。

「どうしてそんなお父さんを選んだんですか? どうして……お母さんの話をそんなふうに穏やかに聞けるんですか? お父さんはまだ忘れていないのに、浮気とか二股だって……自分は二番目だって思わないんですか? お母さんが生きていれば、絶対に結婚できなかったんですよ?」

 取り乱さないようにって思っているのに、楓先輩を想う私と同じ境遇の真央さんの話をしていたら、まるで自分のことのように辛くなって涙が滲んでくる。

「それに……お母さんに対して、罪悪感はないですか? お母さんの大切な人を奪ったって……考えて……夢に出てきたりしないですか……?」
「菜々ちゃん……」
「私は……耐えられない……っ、忘れてしまうことも、忘れさせてしまうことも……前向きに生きるって、それは死んじゃった人への大切な気持ちを忘れることなの……っ? どうして嫌いになったわけじゃないのに、別の人を好きになるの……? 忘れられない人がいる人を好きになったら、どうしたらいいの……?」

 堰を切ったように次から次へと溢れてくる言葉は支離滅裂で、聞き取りづらいほど震えている。

 泣くな。泣くな。自分に言い聞かせながら俯いて唇を噛みしめていると、正面に座っていたはずの真央さんが私の横に膝をつき、背中をそっとさすってくれた。

「菜々ちゃん、好きな人がいるのね?」

 優しく問われて、私は抗うことなく素直にこくんと頷いた。

「その人には、亡くなった大切な人がいるの?」
「……二年前に、恋人だった女の子が事故で亡くなっているんです。一緒の高校に行くために、勉強を教えたりしてたって聞きました。命日には学校を休んでお墓に会いに行ってるし、きっととても大切な相手だったはずなのに……」
「菜々ちゃんは付き合ってるの? その彼と」

 少し迷ったけれど、楓先輩との出会いを話した。

 高校入学前、事故に遭いそうなところを助けてもらった人と、入学後に再会したこと。友達の恋を応援していたのがきっかけで仲良くなり、告白されたこと。その後、亡くなった幼なじみの女の子と付き合っていたと人伝に知ったこと。

 もちろん先輩の力については伏せたけれど、保健室での会話も覚えている限り詳しく話した。

 原口希美さんをお母さんに重ねてしまって苦しくなったり、自分はその人の代わりで二番目なんじゃないかって感じたり、楓先輩に亡くなった大切な人を蔑ろにしてほしくないと思ったり、自分勝手で矛盾だらけの感情を、拙いけれど言葉にしていく。

 そんな私の話を、真央さんは時々質問を挟みながら聞いてくれて、私の気持ちを理解しようと真剣に向き合ってくれているのがわかった。

 最後に、ほんの一時間前にお別れのメッセージを送ったと告げて話を終わらせると、彼女は目を細めて悲しそうな顔をした。

「……そっか」

 私の背中に温かい手を添えたまま、真央さんが机の上の方へ視線を向けた。そこにあるのは八年前の家族写真だ。

「思ってること、正直に打ち明けてくれてありがとう。私も、全部正直に話すね」

 穏やかな落ち着いたトーンで語ってくれたのは、これまで聞いてこなかった真央さんの本音。

 お父さんとは二年ほど前に仕事を通じて知り合い、少しずつ親しくなったらしい。

「浮気とか二股と思ったことはないよ。菜々ちゃんのお母さんが生きていたら洋司さんは私と結婚しなかったのは確かだし、私も洋司さんをそういう対象として見ることはなかったから。そこはお互い様かな。ただ罪悪感というか、引け目を感じることは……正直、少しだけあるかな」

 その言葉を聞き、私はハッとして俯いていた顔を上げ、隣に座る真央さんを見た。

「嫉妬を感じる気持ちは、私にもわかるよ。洋司さんが今も菜々ちゃんのお母さんを大切に思ってるのはわかってるし、毎朝おしゃべりしてるのも見てるから。でも、過去があって今の洋司さんがいると思ってるし、結婚の話が出た時、覚悟ができたらお受けしようと決めてたから」
「覚悟?」
「うん。菜々ちゃんのお母さんの分も洋司さんを愛して、洋司さんが菜々ちゃんのお母さんを愛しているのを受け入れる覚悟。それができないなら、再婚なんてしちゃいけないって思ったの」

 静かにそう語る真央さんの横顔は、凛としてとても綺麗だと思った。

 お母さんに対する罪悪感も、お父さんがお母さんを大切にし続ける気持ちも、全部受け入れる覚悟があるからこそ、真央さんは穏やかに話しているんだ。大きな気持ちで、お父さんとお母さんを大切に思ってくれている。

 私には、とても真似できそうにないほど……。

「……ごめんなさい、ずっと、嫌な態度を取り続けて。今も、私、すごく失礼なことを、たくさん……」
「ううん、菜々ちゃんはなにも悪くないよ。受験を邪魔したくないのと、でも環境が変わるなら入学と同時がいいかもっていうので、菜々ちゃんに再婚を伝えてから同居まであっという間だったもん。気持ちの整理の時間すらあげられなくて、ごめんね」
「……真央さん、が、お父さんのことだけじゃなくて、お母さんのことも考えてくれてるのはわかりました。でも……」
「うん。すぐには納得できないし、お父さんがどう思ってるのか聞きたいよね」

 昨夜、お父さんにこれまで感じていた疑問や気持ちをぶつけたせいで、少しスッキリしている。感情的な言い方をしたのはきちんと謝らなくてはいけないけれど、あれが私の本心だ。

 本当なら、再婚の話が出た時に聞かなければいけなかった。ショックだからと逃げ回り、いい子のフリをして口を挟まずに我慢して向き合わずにきた結果、爆発してしまった。

 一方的に自分の思いばかりを押し付けてしまったから、今度はお父さんの考えを聞かなくちゃ。今こうして、真央さんの本心を受け止めたように。

 私が頷いたのと同時に、玄関のインターホンが鳴った。

「こんな朝早くに、誰かしら」

 時刻はまだ朝の七時前。真央さんが首をかしげながら下の階へ下りて行った。

 それを見送りながら、私は再びおじやを口に運ぶ。冷めてしまったけれど、やっぱり美味しくて優しい味がする。

 さすがに全部は食べ切れなくて、残りをキッチンへ下げようとお盆を持って階段を下りていく。すると……。

「こんな時間からすみません。菜々とどうしても話したくて」

 玄関から届く、低く芯のある声が私の鼓膜を震わせた。

「……楓先輩」

 私に気付いた先輩の視線が、真央さんを通り越して私に向けられる。

「菜々」
「先輩、どうして……朝練は?」
「あんなライン送られて、朝練なんてしてられるわけないだろ」

 楓先輩が苦しそうに顔を歪める。

 どう答えたらいいかわからずに呆然としていると、真央さんが楓先輩を玄関口で待たせたままこちらへ来て、私にしか聞こえないくらいの声で言った。

「話したくないなら、体調を理由にして帰ってもらうよ」
「真央さん……」
「でも、お別れを決めるのは彼の話を聞いてからでもいいのかなって、あの必死な様子を見たら思っちゃった。お節介でごめんね」

 真央さんが肩を竦めて告げた意味は、私にだってよくわかる。

 こんなに朝早くから、息を切らして来てくれた。それはたぶん、私が送ったあのメッセージを見て、納得できなかったから。

 それを……嬉しいと思ってしまった。本当に、私の気持ちは矛盾だらけだ。

「……着替えてきます」
「うん。洋司さんにはうまく言っておくから、こっちは気にしないでゆっくり話してきたらいいよ」


 私と楓先輩は、家の近くの親水公園に移動した。先輩がブルーのクロスバイクを押す左側を歩く。その間、私たちはひと言も口を開かなかった。

 お風呂上がりだった私は部屋着姿からシンプルなマキシ丈のパーカーワンピースに着替え、財布とスマホだけを入れた小さなバッグを持って家を出てきた。

 朝のこの時間はとても冷える。マフラーを持ってくればよかったと後悔した。

 公園に着くと、広場では数人のお年寄りがラジオ体操をしていたり、思い思いに身体を動かしている。それを見ながら空いているベンチに座った。

「体調は?」
「もう大丈夫です。心配かけてすみません」

 お互いに、どこかぎこちない雰囲気が漂っている。間にひとり座れるほど空いているふたりの距離も、その雰囲気に拍車をかけていた。

「髪、少し濡れてる?」
「あ……さっきお風呂入ったから」
「病み上がりなのに、また風邪引くぞ。ほら」

 先輩は自分がしていたグレーのマフラーを私に渡してきた。

「大丈夫です、先輩が風邪引いちゃう」
「思いっきりバイク漕いで暑いくらいだから」
「でも……」

 受け取るのを渋る私に痺れを切らし、先輩は私の首元にぐるぐるとマフラーを巻き付けた。

 距離が縮まったのにドキッとして身体を硬直させると、「そんな怖がんなくても、触んないから」と聞き取れないほど小さな声で呟いた。

「え?」

 聞き返した私に一瞥もくれず、すぐに距離が離れた。先輩がポケットからおもむろにスマホを取り出し、私に画面を向けてくる。

「これ、どういう意味?」

 そこには私が送ったメッセージが表示されていた。

【もう、ふたりきりでは会いません。今までありがとうございました。】

 無機質な文字から目を逸らし、平静を装って答える。

「そのままの意味です」
「俺と別れたいってこと?」

 胸がズキンと痛む。自分から送っておいて、楓先輩から言葉にされると、本当にお別れなんだと実感が湧いた。

 ショックを受けていないで頷かないと。もう決めたんだから。そう思っていると、先輩が続けて口を開いた。

「……俺が、怖くなった? そばにいるのが嫌になった?」

 問いかける声が絶望の色をしているのに気付き、私は慌てて顔を上げた。

 先輩は無表情でこちらを見ている。けれど瞳の奥は仄暗く、私も周囲の景色もなにも映していないようだった。

 家からずっと視線を合わさないように俯いていたから気がつかなかった。

 あの柔らかく、優しく微笑む先輩が、どこにもいない。

「違いますっ!」

 私は咄嗟に先輩との距離を詰め、膝の上で拳を握る彼の手に触れた。

 心を読めるという秘密を打ち明けるのに、どれだけの勇気が必要だったか。その力のせいで、ご両親ともあまりいい関係ではないのも聞いている。観覧車の中でも拳を握りしめていたことを思い出し、このまま誤解させてはいけないと必死に大きく首を横に振って否定した。

「保健室で、酷い態度をとってごめんなさい。でも、先輩が怖いとか、嫌になったわけじゃないんです」

 醜い感情を知られたくなかったから、先輩の手を拒否してしまった。けれどそれは先輩の力が怖いわけじゃなくて、先輩にどう思われるのか怖かっただけ。

 心の内側を全部晒して、先輩に嫌われるのが怖かっただけ。

「先輩のせいじゃないです」
「じゃあ……どうして。俺が、菜々を嫌うわけないだろ」

 先輩の手を離して、両手で自分の顔を覆った。顎がふわふわのマフラーに触れ、ふんわりと先輩の香りが漂ってくる。彼の優しさや言葉を嬉しいと思うたび、近くに感じるたび、同じだけ胸に罪悪感が降り積もる。

「お父さんの再婚にずっと納得できなくて、ずっと現実に向き合わずに逃げてきました。家に帰りたくないから図書室で時間潰したり、家族を避けるように自分の部屋に引きこもったり。昨日の夜、ついに爆発してお父さんに酷いことを言っちゃいました」

 唐突に切り出した話に虚を突かれたような顔をした先輩だけど、私が再婚についてどれだけ悩んでいたかを知っているからか、黙って聞いてくれた。

 お父さんに対する苛立ちに似た思い、お母さんを亡くした悲しみが遠ざかっていきそうな恐怖心、義理の母になった真央さんに対するやりきれない感情。

 それは以前繋いだ手から知られてしまっているけれど、先輩に言葉にして話すのは初めてだった。

「さっき真央さんと……お父さんの再婚相手の人と少しだけ話しました。聞きたいことも聞けたし、真央さんがお父さんとお母さんのことをどう思ってるのかがわかって、彼女がどれほどの覚悟を持っているとかと知って、少しだけ納得できました」

 だけど、それは『忘れられない人がいる人を好きになった』側の人の話。

 自分以外の誰かを想っている人と、一緒に生きていく選択をした人の覚悟にすぎない。

「だけど私は……他の人を好きになって再婚したお父さんを、どうしても受け入れられない。まだお母さんを想ってるっていうのなら、再婚なんてするべきじゃないのに……」

 真央さんは優しくて、とても強い人だと思う。すべてを受け入れて穏やかに微笑むまでに、どれだけ悩んで涙を流したんだろう。

 私は、あの人みたいに全部を受け止めるなんてできない。

「楓先輩も……忘れられない女の子が、いますよね?」

 静かに話を聞いてくれていた先輩が、私の急な質問に対して小さく反応する。

「……希美のこと?」

 私は頷き、涙が流れてしまわないように天を仰いだ。

 何度かまばたきを繰り返し、冬の朝の冷たい空気で瞳をしっかり乾かしてから、楓先輩に向き直る。

「私のお母さんも原口希美さんも、きっともっと生きていたかったはずです。でも病気や事故で命を奪われてしまった。彼女たちを忘れて他の人と幸せになるなんて……そんな裏切り、私は納得できない……」
「……裏切り?」

 楓先輩がぎゅっと眉をひそめた。

「裏切りって、どういうこと?」
「お母さんを想いながら真央さんとも結婚するなんて、そんなの浮気や二股と一緒じゃないですか。先輩だって」
「俺?」
「学校を休んで遠い九州にまで会いに行くくらい大切な人なんですよね? 忘れられない人がいるって言ってたって、日野先輩に聞きました」
「それは」

 肯定の言葉を聞きたくなくて、先輩に話す隙を与えず、私は続けた。

「好きだから付き合ってて、永遠を誓い合って結婚したのに。きっとお母さんも希美さんも、今でもお父さんや楓先輩を想ってる。天国からずっと見守ってる。忘れないで、ずっと一途に想い続けてほしいのに、どうして裏切るの……」

 捲し立てるように話す私に、楓先輩は悲しそうな顔をして尋ねる。

「菜々のお母さんや希美が天国から見守ってくれてるなら、俺たちはちゃんと幸せに生きていくべきだろ?」
「そうです。でも、幸せに生きるのに新しい恋は必要ですか? 想い合っていた人を裏切ってまで――――」
「それは『裏切り』なのか?」

 ヒートアップする私を遮るように、楓先輩が言葉を被せる。

「菜々がお母さんを大切に思ってるからこそ、再婚を複雑に感じるのはわかるよ。反対だと言い出せなかったのも、ショックが大きすぎたからだってわかってる。でも、俺はお父さんが裏切ったとは思わない」

 冷静な声で、私を諭すように先輩は続けた。

「菜々のお母さんは、お父さんの幸せを裏切りだって思うような人なのか?」

 一番聞きたくなかった言葉に、カッと頭に血が上った。

「お母さんがどう思うかなんて、先輩にはわからないじゃないですか……!」

 ここが静かな朝の公園だということも忘れて、大声で叫んだ。

 私だって何度も写真の中のお母さんに尋ねたけれど、答えなんて返ってこない。お父さんの幸せを祈っているのは間違いないだろうけど、新しい奥さんの存在を認めるかどうかなんて、お母さん本人にしかわからない。

 想像で『お母さんもきっと喜んでる』なんて綺麗事は聞きたくない。

 もし裏切られたと嘆いていたとしたら? 他の人を好きにならないでほしいと泣いていたら?

 そう考えたら、私はとても受け入れられない。

「だから、私は楓先輩とこれ以上……一緒にはいられません」

 肩で息をする私を前に、先輩は驚いて目を瞠った。

「ちょっと待って。『だから』ってなに? 菜々の両親の話と、俺たちと、なんの関係が」
「希美さんの想いを背負う自信も、先輩の希美さんへの想いごと受け止められる覚悟も、まだ私にはできません……!」

 私はそれだけ言い切ると、ベンチから立ち上がり、勢いよくその場から走りだす。

 言い逃げなんて卑怯だし、後ろから楓先輩が驚いた声で私の名前を呼んでいるのも聞こえたけれど、私は振り返らなかった。