「締め切りは十月二十日だぞー。保護者に必ず記入してもらって提出するようになー。それから今日からテスト週間ってことで、職員室や教科準備室への立ち入りは禁止なるから気をつけて。どうしても用事がある場合は、近くの先生を呼んで対応してもらえよー」

 担任の橋本先生の緩い声でSHRが終わり、教室内がガヤガヤと騒がしくなる。

「菜々ちゃん、次のバスケの練習、テスト明けの月曜日からでいいかな?」

 前の席に座る美穂ちゃんが振り向いて尋ねてきた。

「うん。大丈夫」
「オッケー! みんなにも伝えるね」
「美穂ちゃんが教えてくれたおかげで、みんなかなりうまくなったよね。きっと一位狙えるよ」
「うん、やる気あるチームでよかったよね。身長高い京香ちゃんが抜けたのは痛いけど、りっちゃん足速いしね。あー、早く試合したい!」
「その前にテストだね」
「うへー、聞きたくないー」

 あれだけ球技大会に燃えているのに、テストはまるでやる気のなさそうな美穂ちゃんが可笑しい。

「じゃあ、また明日ねー」
「うん、バイバイ」

 帰る支度の済んだ美穂ちゃんに手を振ると、私はたった今配られたばかりのプリントに視線を落とし、大きくため息をついた。

【三者面談のお知らせ】

 そう書かれたB5の紙切れ一枚でここまで憂鬱な気分になっているのは、たぶん私ひとりに違いない。

 これまで学校の行事などは、すべてお父さんが仕事を休んで参加していた。運動会や親子遠足はもちろん、作品展や授業参観も他のお母さん達に混じって来てくれたのは、私にお母さんがいない寂しさを感じさせないようにというお父さんの優しさだとありがたく感じる。

 その反面、かなり無理をしていたように思う。お母さんを亡くし失意の中、男手ひとつで娘の私を育てるだけでも大変なのに、学校行事にまで気を配ってくれていた。どれだけ大変か、小学生だった頃の私よりは理解できているつもりだ。

 高校に入れば保護者が参加する行事も減るし、あまり負担をかけないだろうと思っていたけれど、その考えは甘かったらしい。

 やっと高校受験が終わったと思ったら、もうどこの大学に行きたいかと進路希望調査が行われ、二学期末にテスト結果を見ながらの三者面談が控えているなんて。

 これまでと同じように、このプリントをお父さんに渡すべきか。

 でもそれだと、専業主婦として家にいる真央さんを無視しているみたいじゃない?

 もしもお母さんが生きていれば、わざわざ仕事を休まなくてはならないお父さんじゃなくて、家にいるお母さんにプリントを渡しているはずだ。じゃあやっぱり、真央さんに渡すべき?

 でも渡されたところで、あの人だって困るんじゃないかな。血の繋がらない娘の三者面談なんて、気まずいに決まってる。

 そもそも私の進路なんて興味はないだろうし、面談で学校での態度や成績を知ったところでどうしようもないんじゃないかな。

 そこまで考えて、私はひとりよがりな被害妄想にストップをかけた。

 ……ううん、そんな風に思う人じゃない。きっとお願いすれば来てくれる。「私でいいの?」と、優しい微笑みを湛えて。

 でも真央さんと一緒に三者面談に行ったら、お母さんの立場は?

 もう死んじゃってこの世にいないんだから、現実的に来られないことくらいわかってる。

 だからって本来ならお母さんがいたはずの場所に、他の人をすげ替えるみたいな真似をしたくない。そんなの、お母さんを忘れていないと言いながら再婚したお父さんと同じみたいで、考えるだけで息が苦しい。

 私はプリントを二つ折りにしてさっさとバッグにしまい込み、息を大きく吸い込んだ。

 いつもそう。お父さんの再婚のことを考え出すと、自分でも感情の制御が難しくて、心臓が引き攣るように痛んで苦しくなる。

「菜々」

 胸に手を当てて何度も深呼吸をしていると、後ろからスクールバッグを持った京ちゃんに声をかけられた。

「もう放課後になっちゃったね。私もドキドキしてるけど、菜々も深呼吸しなくちゃいけないほど緊張してるの? 約束の時間まであと一時間だもんね」

 本当は三者面談について考えていただけだけど、京ちゃんはこのあとの一大イベントのせいで緊張しているように見えたらしい。私は曖昧に微笑んで頷いた。

 実際、先輩たちとの約束まであと一時間と聞いたら、徐々に胸の鼓動がバクバクと速さを増していく。

「どうする? 先に行って席取っておくべきかな?」
「あんまり人はいないし大丈夫だとは思うけど、ここで待ってる必要もないしね。先に図書室行ってようか」
「あ、ちょっと待って! 髪変じゃない? リップ塗り直していこうかな」
「ふふ。いつも通り京ちゃんは抜群に美人だよ。気になるならトイレに寄っていこ」
「あ、じゃあ菜々の髪も私にやらせてくれる? 佐々木先輩が見惚れちゃうくらい可愛くしてあげる」
「えっ、いいの? やったー」

 先週、京ちゃんと仲直りしてすぐに楓先輩に連絡をした。

 話を聞いてもらったおかげできちんと伝えられたこと、それについてのお礼、そしてテスト週間初日の放課後から一緒に勉強したいと書き連ねたら、なかなかの長文になってしまった。

 それに対しての返事が【了解】だけだったのに少しだけ落ち込んだのもつかの間、続けて【よかったな】と追加の吹き出しがポコンと現れた。

 文字だけ見るとそっけないように感じるけど、楓先輩の優しさを知っているから、たった五文字のひらがなに温かいぬくもりを感じられる。

 今日がテスト週間の初日で、私たち一年生は六時間目までだけど、二年生は火曜日と水曜日は七時間目まであるらしい。

 今朝、楓先輩から【四時半に図書室で】とラインが届いてからというもの、私も京ちゃんもずっとそわそわしっぱなしだった。

 ふたりでトイレに寄り、京ちゃんがバッグから携帯用のコテを取り出す。いつもの高い位置で結んだポニーテールの毛先を巻き直し、後れ毛もふんわりと癖づけてスタイリング剤を馴染ませていく。

 自分の支度が終わると、次は私の髪を巻いてくれる。

「菜々の髪、サラサラで真っ直ぐだね」
「でも真っ黒だし、太いし、せっかく巻いてくれてもすぐに戻っちゃうかも。京ちゃんのゆるふわに憧れる」
「じゃあ緩く編み込んじゃうよ。ちゃんとゆるふわにしてあげるから任せて」

 全体をふんわりと巻き終わると、スタイリング剤を揉み込んでサイドの髪から手際よく編み込みゴムで止める。それを何度か繰り返し、後ろでねじり、ピンをいろんな角度から何本も刺していく。

 まるで本物の美容師のように手際よく進めていく鏡の中の京ちゃんをじっと見つめていると、照れくさそうに笑った。

「私、美容師になるのが夢なんだよね。こうやって女の子を可愛く変身させられる仕事に、子供の頃からずっと憧れてたの」
「ぴったりだと思う。京ちゃんおしゃれだし、今も本物の美容師さんみたいって思ってたの」

 顔まわりの髪の毛までくるくると巻きながら、京ちゃんが苦笑する。

「ありがと。道は険しいけどね。うちの父親、役所で働いてる公務員だからさ。本当は専門学校に行きたいけど、大学に行けって反対してきそう。今度の三者面談が憂鬱だよ」

 三者面談というワードに、思わず肩に力が入る。けれど「よし、できたよ」と京ちゃんが私の背中をたたき、会話が途切れた。

「うん、可愛い。菜々はいつも髪をおろしてるから、かなり新鮮だね」

 鏡越しに目を合わせていた京ちゃんから、正面の自分へと視線を移す。

「わぁ……! 可愛い!」

 もちろん自分が、ではなく、髪型が。ルーズな編み込みをアップにした、ふわっとした印象のヘアスタイル。前髪や顔まわりもふんわりと巻いてくれたおかげで、いつもの直毛とは違って女の子らしい柔らかい雰囲気になった。

「ありがとう、京ちゃん」
「こっちこそ、日野先輩と一緒に勉強する機会を作ってくれてありがとう」

 お互いにお礼を言い合い、勉強も恋も頑張ろうと気合いを入れた。

 昇降口で靴を履き替えて南の別館へ向かう。図書室へ入ると、テスト週間だけあっていつもより多くの生徒がいたけれど、それでも机はぽつぽつと空いていた。

 私と京ちゃんは四人がけの机に並んでバッグを置き、それぞれ苦手な科目の問題集などをして過ごす。

 何度も時計を確認するなど、どことなく集中できないまま時間が流れる。四時半を少し過ぎた頃、図書室の扉が開き、楓先輩と日野先輩が入ってきた。やはりふたり揃うと、とても目立つ。周囲の視線が一斉にそちらに向かうのがわかった。

 日野先輩が先に私たちに気付き、そのあとについて楓先輩もこちらにやってくる。

「ごめんねー、少し遅くなった!」
「いえ、大丈夫です」

 日野先輩に答える京ちゃんの声がいつもより高くて、私は緩みそうになる頬を抑えるのに必死だった。

 日野先輩は京ちゃんの隣に座る私にも視線を向けて、律儀に挨拶してくれた。

「はじめまして、日野です」
「あっ、はじめまして。佐々木菜々です」

 学校のアイドルと名高い日野先輩のキラキラオーラは健在で、人懐っこい笑顔がとても素敵だ。

 でも楓先輩を前にした時の胸の高鳴りや、ぎゅっと苦しくなるような甘い痺れを感じることはなく、やっぱり私は初めて見た時から楓先輩に恋をしていたのだと再確認した。

 先輩たちが私たちの向かいに座り、スクールバッグから勉強道具を出す。

 楓先輩が私の手元をちらりとみて「数Aか」と呟く。もう三十分ほどやっているのに、まだ半分も終わっていなくて恥ずかしくなった。

「菜々、もしかして数学苦手?」
「う……はい、すみません」
「なんで謝るの。俺が教えられるし。どこからやる? 問三?」
「え、教えてくれるんですか?」
「なんで驚くの。そのつもりで来たけど?」
「だって……先輩もテスト勉強したいんじゃ」
「そんな切羽詰まってないから大丈夫」

 からかうようにクスッと笑われて、思わず先輩を凝視する。

 確かに、テスト勉強を一緒にしようと話が出た時、もしかしたら教えてもらっちゃったりするかな?なんて考えたけど。まさか本当に実現するなんて。

 すると、楓先輩が席を立つ。

「ごめん橘さん、席変わってもらってもいい?」
「え?」
「俺、菜々教えるから、日野は橘さんを見てあげれば?」

 そう言って京ちゃんと座る場所を交換し、日野先輩に向けてしたり顔を向けている。

 その意図を汲み取った日野先輩は、少し頬を赤くしながら隣に座った京ちゃんに話しかけた。

「じゃあ、橘さん。苦手な科目ある?」
「え、えっと、私は英語が苦手で……」
「じゃあ英語やろっか」
「いいんですか?」
「うん。俺、帰国子女だから、一応英語は得意」
「えっ! 帰国子女?」

 たどたどしく会話をしている様子を盗み見ていると、京ちゃんが驚きに大声を出して、咄嗟に自分で口を塞いでいる。

「ご、ごめんなさい。つい驚いて……」

 日野先輩や、周囲の机の人にもぺこぺこ頭を下げる京ちゃんが可愛くて、思わずふふっと笑みが溢れた。

「菜々」

 楓先輩に名前を呼ばれ、ハッと我に返る。

 そうだ、せっかく先輩が教えてくれるんだから、ちゃんと集中しないと。

「ごめんなさい。あの、じゃあこの問三の問題からいいですか? 確率が特にわからなくて……」

 プリントに視線を落として先輩の返事を待っていたけど、なかなか反応がない。不思議に思って顔を上げると、楓先輩がじっとこちらを見つめていた。

「……先輩?」
「雰囲気が違うなと思って。髪か」
「あ、はい。さっき京ちゃんがしてくれて」
「へぇ。可愛い」

 先輩のセリフを聞いた途端、バクン!と心臓が大太鼓のように重く響く音を立てた。

 そういうことをさらっと言わないでほしい。これから集中して勉強しようと思っていたのに、なにも頭に入ってきそうにない。

 それなのに私を盛大に照れさせた張本人は、素知らぬ顔でプリントを自分の方に引き寄せると、「あぁ、確率ね」と頷いてペンケースからシャーペンを取り出した。

「これ数Bでも出てくるから、基本を押さえとかないとついていけなくなるよ。まずこの場合、図にしてみるとわかりやすくて」

 そう言ってノートに図と数式をスラスラ書いていく。

 私は真っ赤に染まっているだろう顔をなんとか隠そうと、両頬を手のひらで覆いながら先輩の解説を必死に聞いていた。