真っ白い霞の向こうで、か細い女の子の声が聞こえる。

「彼をとらないで。裏切らないで……」

 姿はぼんやりとしていて顔も見えないけれど、直感的にその声の主は原口希美さんだと感じた。

 会ったこともない彼女は肩を震わせ、顔を覆って泣いている。泣かせているのは、きっと私の存在だ。

 ごめんなさい。彼を好きになってごめんなさい。楓先輩に、忘れられない人がいるなんて知らなかったの。

 知っていたら、好きにならないように努力した。近付かないように気をつけて、決して想いを口にすることなんてなかった。亡くなった人を忘れさせるような、裏切らせるようなことはしなかった。

 ごめんなさい。ごめんなさい……。

 必死に首を横に振って謝るけれど、それが相手に届いている感覚はない。

 ずっと遠くで繰り返される声は聞いたことがないものだったのに、徐々に馴染みのある懐かしい声に変わっていく。

「彼をとらないで。裏切らないで……」

 伏せていた顔を上げ、目元から両手を離した少女。彼女は、私の母の顔をしていた。


 日野先輩から楓先輩の過去を聞いた翌日、私は寝不足の身体を引きずって登校した。

 本当は楓先輩に会うのが怖くて仕方なかったけど、今日私が休んだら京ちゃんを心配させてしまうし、日野先輩に話したことを後悔させてしまうかもしれない。

 けれどズキズキと頭は痛むし、目の奥がずっと熱い。公園で泣きすぎたせいか、きちんと冷やしたはずなのに目が腫れぼったくて、学校に着くとなんだか吐き気までしてきた。

 なんとか三時間目の途中までは耐えたけど、限界を迎えて机に突っ伏してしまった。あまりに顔色が悪かったのか、先生に保健室へ行くように言われて教室を出る。

 背中に心配そうな京ちゃんの視線が向けられていたのがわかったけれど、振り向いて大丈夫だと微笑む余裕すらない。保健委員の美穂ちゃんに付き添われて保健室へ来た私は、入り口にある利用者カードにクラスと名前を書く。

「大丈夫? ほんとにめちゃくちゃ顔色悪いよ」
「うん。実はちょっと寝不足で……」

 なるべく心配をかけないように明るい声を出したいのに、それすら難しい。

 カードに今の症状を書かなくてはいけないけど、美穂ちゃんの前で頭痛や吐き気の欄に丸をつけられず、鉛筆を持つ手を止めた。

「ねぇ美穂ちゃん。京ちゃんにもただの寝不足だから大丈夫って伝えてくれる? 心配してると思うから」
「うん。もちろん」

 私たちの会話が聞こえたのか、保健室から出てきた養護教諭の田村先生が「付き添いありがとう。あなたは授業に戻りなさいね」と美穂ちゃんに声をかけた。

「はーい。じゃあ菜々ちゃん、少しだけでもゆっくり寝てね。京香ちゃんにもちゃんと言っておくから」
「ありがとう」

 美穂ちゃんの背中を見送り、私は症状の欄に頭痛や吐き気、そして昨日の朝からほとんどなにも食べていないこと、夜眠れなかったことを書いて田村先生に渡した。

「かなり顔色悪いわね。寝不足と空腹だろうけど、一応熱も計りましょうか」

 渡された体温計で計ってみると、三十七度七分。思っていた以上の数字が表示され、自分の弱さに嫌気が差した。

「あら、少し熱もあるわね。お昼までベッドで休んで様子を見ましょう。ダメそうなら早退しましょうか。空腹でも飲める薬があるけど、飲んでおく?」
「はい、ありがとうございます」

 錠剤と紙コップに注がれた水を受け取り、喉に流し込む。上靴を脱いで一番奥のベッドに横になった。

「あと、これも。ここまで腫れたら、あとは冷やすより温めたほうがいいわ」

 目元に温かいタオルが当てられる。じんわりとしたぬくもりが気持ちいい。

「色々あるだろうけど、食事と睡眠はとらないとね。悩めるのも体力あってこそなんだから」
「……はい」
「熱もあるし、今はなにも考えずに寝なさいね。もしも誰かに話したければ、いつでもここに来ればいいから」

 ろくに食事も取らずに寝不足な上、パンパンに目を腫らしていれば、なにかあったんだろうと察しがついたのだろう。田村先生は無理に聞き出そうとしたり長々とお説教をしたりすることなく、ただホットタオルを渡してくれた。

 押し付けがましくない優しさに、少しだけ気持ち悪さが和らいだ気がした。

「ありがとうございます。少し、寝ます」

 田村先生は頷いて、静かにカーテンを閉めた。

 昨夜見た夢のせいで、ほとんど眠れなかった。顔も声も知らない、存在さえ昨日知ったばかりの原口希美さんを、私はお母さんに重ねている。

 お父さんが真央さんと再婚したのを、お母さんへの裏切りだと思っているのだから、楓先輩が私と付き合っていることもまた、恋人だった原口さんへの裏切りになる。

 それに気付いた時、ショックで倒れそうだった。

 お母さんを忘れたくない、忘れてほしくないと願う一方で、私自身は亡くなった原口さんの居場所に座ろうとしているのだ。

 ……ダメだ。今はなにも考えずに眠ろう。

 熱を出すなんていつぶりだろう。こんな風に身体が弱っている時に考え事をすれば、ネガティブなことしか浮かばないのは仕方ない。

 私はぎゅっと目を瞑り、眠気が訪れるのを待つ。自宅とは違うベッドシーツや枕の違和感で眠れないかもしれないと考えていたのはほんの数秒で、私はあっという間に睡魔に攫われた。


 誰かの気配を感じて、意識がゆっくりと覚醒の準備をしだす。目を開けて飛び込んできたのが私の部屋の天井じゃなかったから、ここが保健室だと思い出した。

 眠る直前までまぶたに乗っていたホットタオルは耳の横でシーツを冷たく濡らしていて、ある程度の時間が経っているのだと推測できた。

「目、覚めた?」

 心配そうな声に問いかけられ、ハッとして視線を彷徨わせる。カーテンの向こうから楓先輩が顔を覗かせていた。

「入ってもいい?」

 本来ならベッドがあるカーテンの奥は養護教諭の先生しか入れない決まりだ。先輩がここまで入ってこれているのは、きっと田村先生が席を外しているからだろう。

 本当はまだ先輩に会う心の準備ができていない。どんな顔をしたらいいのかわからないけれど、断ることもできずに小さく頷いた。

「体調悪くて保健室に行ったって聞いてビックリした。具合は?」
「……大丈夫、です」

 短時間でもぐっすり眠れたのか、寝る前に飲んだ薬のおかげかはわからないけれど、先程のような頭痛や吐き気はない。

 横になったまま先輩と話すのは憚られ、上体を起こす。こちらに近寄ってきた楓先輩はベッドの端に腰を下ろすと、私の顔を覗き込んできた。

 寝起きの顔や声を知られるのも恥ずかしいけれど、それ以上に顔を合わせるのが気まずい。

 咄嗟に俯いてしまい、明らかに視線を合わせるのを避ける私に、楓先輩が怪訝な表情をした。

「昨日、何度か電話したんだけど、もしかして体調悪かった?」

 ドキッと心臓が嫌な音を立てた。

 日野先輩から楓先輩の元彼女の話を聞いた昼休みにスマホの電源を落として以降、私は一度もスマホを触っていない。きっと連絡がきているだろうと思っていたけれど、どうしても電源を入れることができなかった。

 結局、今もスマホはそのまま放置している。

「ごめんなさい……」
「いや、謝んなくていいよ。昨日会えなかったから、声が聞けたらいいなと思っただけだから」

 柔らかく微笑む楓先輩の言葉に、ダメだとわかりつつもキュンとしてしまった。

 ずるい。何気ない普通の会話をしていても、楓先輩を好きだと思う気持ちは増していく。この言葉は、本来なら私に向けられるべきものではないのに。

「先輩」
「ん?」
「……昨日、お休みしてたのは風邪とかじゃないんですよね?」
「あぁ、ちょっと知り合いの墓参りに行ってた」

 ……知り合い。

 間違ってはいないけれど的確ではない表現に、胸がズキッと痛む。

 原口希美さんとの関係を隠された痛みなのか、楓先輩の中の彼女を〝知り合い〟程度の存在にしてしまった罪悪感に対する痛みなのか、自分でも判別がつかない。

「九州だから、どうしても学校休まないと行けなくて」
「実は……少しだけ聞きました。日野先輩から……」

 事情を聞いたのに知らないふりを貫くなんてできなくて、私は正直に打ち明けた。

「聞いたって、希美のこと?」

 先輩が親しげに『希美』と呼んだ。たったそれだけで、胸がざわざわと不快に騒ぎ出す。付き合っていたのだから当然なのに、胃が引き攣れるように痛んだ。

 それを押し隠し、私は俯いて小さく頷いた。

「午前中、連絡がつかなかったから心配で……。そしたら、京ちゃんが日野先輩に連絡してくれて。あの、ごめんなさい。勝手に聞き出すようなことをして。日野先輩は他人から聞くようなことじゃないって言ってくれたんですけど、私が聞きたがったから……」
「いや、別に隠すことじゃないからいいよ。ごめん、機内でスマホの電源切って、たぶんそのままにしてた」
「幼なじみ、なんですよね。九州には、ご家族で?」
「いや、俺ひとりで行った。両親は仕事があるし、俺もひとりの方が気楽だし」

 どこかスッキリした表情で先輩が話すのを、私は呆然と見つめる。

「希美に、菜々のこと話してきたんだ」
「…………私?」

 ドクン、と嫌な予感に血の気が引いていく。

 これから先輩がなにを言おうとしているのか、私の想像が自惚れでなければ、それは決して言ってはならない禁断の言葉だ。

 それなのに、どこかでその言葉を欲している自分もいる。

 最低。最低だ。

 俯いたまま、震える唇を噛みしめる。どんどん呼吸が浅くなって、息が荒くなりそうなのを必死で堪えた。

 苦しい。苦しい。

「彼女ができたって。菜々のおかげで前向きになれたし、ちゃんと青春してるって、今めちゃくちゃ幸せだって報告してきた」

 ――――あぁ、どうして…………。

 目の前が真っ暗になった。そのまま頭を抱えて崩れてしまいそうで、ぎゅっとキツく目を瞑る。

 言っちゃった。言わせてしまった。

 はるばる九州のお墓まで会いに来た楓先輩に新しい彼女ができたと告げられ、原口希美さんはなにを思っただろう。

『彼をとらないで。裏切らないで……』

 夢で何度も聞いたか細い声が脳内にこだまする。

 苦しい。悲しい。でもきっと原口希美さんやお母さんの苦しみは、こんなものじゃなかったはずだ。

 まだ生きて恋をしていたかったのに、病気や事故によって命を奪われ、さらに大好きな人まで他の人にとられてしまうの?

 そんなこと、許されていいの……?

「いつか、希美に菜々を紹介し……菜々? どうした?」

 楓先輩が驚きに目を瞠っている。

 私の頬を涙が伝う。どうしても堪えきれなかった。

 好きになってはいけなかった。楓先輩の心の中にはまだ原口希美さんがいるはずなのに、そこに私が無理やり押し入ってしまったんだ。

 もしかして、この間お母さんのお墓に行った時、お父さんも同じように報告したんだろうか。

『亜紀ちゃん。僕、再婚したよ。真央のおかげで前向きになれたし、今めちゃくちゃ幸せなんだ』

 お父さんがそう言ったわけじゃない。私が勝手に想像してるだけ。お父さんと楓先輩を重ねて、ひとりで勝手に傷ついているだけ。

 わかってるのに、涙が止まらない。

 お母さんのことを忘れたくない、お父さんにも忘れてほしくないと願いながら、私は楓先輩が原口希美さんを過去にして私を選ぼうとしていることを、嬉しいと感じている。

 それと同時に、亡くなった人には永遠に勝てないんじゃないかという不安も押し寄せてきた。

 だって忘れられないんでしょう? 学校を休んで会いに行くくらい大切な人なんでしょう?

 そう思ってしまう醜い自分がいる。なんて矛盾した、自分勝手な考えなんだろう……。

 突然泣き出した私を前に動揺した先輩が、こちらにそっと手を伸ばした。

「菜々? もしかして、体調悪くなって――――」
「触らないで……っ!」

 甲高い悲鳴のような声が、シンと静まり返った保健室に響く。

 触れられて、最低な考えを知られたくなかった。若くして事故で亡くなっている人に対して、こんなにも醜く嫉妬している自分を知られたら、嫌われてしまうかもしれない。

 だけど、叫んですぐに後悔した。目の前の楓先輩が弾かれたように手を引き、どうすることもできずに固まっていたから。

「ごっ、ごめんなさい、違う……ごめんなさい……」

 言ってはいけないことを叫んだ。ただ自分を守るために。

 きっと楓先輩にとって一番言われたくない言葉を、大声で……。

 あぁ、もうダメだ。私は……最低だ。

「ごめ……んなさ……」
「菜々。大丈夫だから、絶対触らないから落ち着いて」
「違う、ごめんなさい、今は……ひとりにして、ください……」

 私はシーツを頭まですっぽりとかぶり、亀のように布団の中に引きこもった。

 これ以上、楓先輩にみっともないところを見せたくない。

「菜々、泣いてる理由を教えて。ちゃんと話そう」

 布団を剥いで無理矢理にでも私に触れればわかるのに、先輩は決してそうしようとはしない。

 いつだって、口下手な私の言葉を待ってくれる。

 そんな優しい先輩が好きで、だからこそ苦しい。一緒にいたら、どんどん好きになってしまう。

「菜々」
「あら、誰かいるの?」

 私を呼ぶ優しい声を遮断したくて耳を塞ごうとした時、シャッっとカーテンの開く音とともに、田村先生の声がした。

「こら。ここは体調不良の子以外入ってきちゃダメよ」
「すみません。でも」
「例外はなしよ。はい、教室に帰りなさいね」

 楓先輩が有無を言わさず保健室から追い出されるのを、申し訳なく思いつつもホッとしながら聞いていた。

「菜々。あとで連絡する。体調が戻ったらちゃんと話そう」

 そう言い置いた先輩の靴音が遠ざかり、保健室の扉が閉まる音がした。

「ごめんね、佐々木さん。少し呼ばれて外してたの。具合はどう?」

 田村先生は何事もなかったかのように問いかけてきた。

 私は布団の中で必死に目を擦り、涙の跡をできるだけ消してから顔を出した。先程までの酷い頭痛や吐き気はないと伝えたが、田村先生は眉を下げて苦笑する。

「うーん、今日は帰ったほうがよさそうね。家でゆっくりするといいわ。おうちの人に迎えを頼む?」

 そう聞かれ、私は咄嗟に大きく首を振った。

 たしかにこのままでは授業も上の空になってしまうから帰るべきなんだろうけど、仕事中の父にも、自宅にいる真央さんにも連絡してほしくない。会いたくない。今会えば、きっと心ない言葉をぶつけてしまいそうな気がする。

 私の様子でなにか察した田村先生は「わかった。じゃあ荷物をクラスの子に頼んでくるわね」と再び保健室を出ていった。

 京ちゃんと田村先生が持ってきてくれたスクールバッグを持って、私はひとりで歩いて早退すると決めた。

 京ちゃんは日野先輩から楓先輩の話を聞かせたことに罪悪感を覚えていたけれど、京ちゃんのせいじゃないときっぱりと否定した。

 だって、いずれ知ることになった事実だから。楓先輩には亡くなった恋人がいたことも、その人を忘れられないと日野先輩に話していたことも、全部。

 家に帰りたくはなかったけど、他に行くところもないし、昨日みたいに公園で時間を潰して風邪を拗らせるのも得策ではない。

 結局まっすぐに家に帰り、私は黙って玄関から直接二階の自室へ向かう。制服を脱いで部屋着に着替えると、保健室の時と同じように頭から布団を被った。

 すると、すぐにコンコンと控えめなノックの音がする。

「菜々ちゃん? おかえりなさい、どうしたの? まだ学校が終わる時間じゃないよね? 具合悪いの?」

 真央さんが扉越しに声をかけてくれたけど、ひと言も返さないまま無言を貫いた。失礼な態度をとっているのはわかっているけれど、答えられる余裕がなかった。

 楓先輩に言ってはいけない言葉をぶつけてしまったことが、自分でも許せない。

 先輩から秘密を打ち明けられた時、気味が悪いとか、嫌悪感なんて一切ないと言ったのに噓はない。

 今だって、先輩や先輩の力に対する嫌悪感なんて全くない。あるのは、ただ自分の醜い感情に対する嫌悪感と羞恥心だけ。

『触らないで』なんて、絶対言ってはいけなかったのに。

 どれだけ傷つけてしまっただろう。実の両親にさえ抱きしめられた記憶がないと話す先輩は寂しげで、これまでたくさん嫌な思いをしてきたに違いないとわかっていたのに。

 それでも先輩は、私に対して怒りを見せることなく、きちんと話してほしいと優しく声をかけてくれた。

 身勝手だけれど、今はその優しさがひどく苦しい。その優しさは、私だけのものではないと思ってしまうから。


 私は夕飯も食べず、部屋からほとんど出ないまま過ごした。その間、色んなことを考えた。

 両親のこと、真央さんのこと、原口希美さんのこと。それから、私と楓先輩のこれからのこと……。

 午後七時を過ぎた頃、玄関の開く音でお父さんが帰ってきたのだとわかった。私は布団の端をぎゅっと握りしめ、膝を抱えて目を閉じる。

 きっと、今頃真央さんから私が学校を早退したことや、話しかけても返事がないことを聞いているだろう。

 これまでも真央さんには褒められた態度はとっていないけど、ここまであからさまに避けたり無視をしたりすることはなかった。

 罪悪感もあるし、こうして引きこもってなにが解決するわけでもないことは、私だってよくわかってる。

 ただひとりで冷静になる時間がほしい。そう思っていたのに。

「菜々、ただいま」

 コンコン、とお父さんがノックしながら話しかけてくる。

 返事をしないまま布団を被ってじっとしていると、「入るよ」という声とともに扉が開き、お父さんのスリッパの音が部屋の中に入ってきた。

 まさか許可なく入ってくるとは思わず、私は布団の中でビクッと身体を震わせた。

「具合が悪いの?」

 私が起きていると気付き、お父さんが小さなため息を吐きながらベッドのそばに腰を下ろした気配がする。勝手に部屋に入ってくるのも、そのまま居座るのも、今はやめてほしい。

 そう言いたいけれど、口を開けばこれまで心の中に積もり積もった感情が流れ出してしまいそうで、私はなにも言えず、ひたすら早く出て行ってと祈るしかできない。

「真央も心配してたよ。早退するなんて、高校に入学してから初めてでしょ? 具合が悪いなら、薬を飲むなり病院に行くなりしないと」

 それにもなにも答えないでいると、お父さんが珍しく語気を強めた。

「菜々。話してるんだから、起きてるならせめて返事くらいしなさい。お父さんも真央も、どれだけ心配してると思ってるんだ」

 やめて。やめて。私は両手で顔を覆いながら心の中で訴え続ける。

「昨日も夕食を食べなかったでしょ。なにかあったのなら、お父さんたちに話して――――」
「ほっといて!」

 私は被っていた布団を勢いよく剥ぐと、上体を起こしてお父さんを睨みつけた。感情が限界を突破し、自分でも手がつけられない。

「お父さんに……お母さんを裏切って他の人を選んだお父さんに話すことなんてない!」

 私のあまりの剣幕にお父さんが絶句しているけれど、それでも止められなかった。

「お母さんの命日にも誕生日にもダリアの花束を贈るくせに、毎日仏壇に手を合わせてるくせに、それでも他の人と結婚するなんて。そんなの浮気となにが違うの? 二股じゃない!」
「菜々……」
「それとも、お母さんのことはもう好きじゃないの? 忘れちゃったの? 死んじゃった時だけ悲しんで、それで終わりで、あとは忘れて他の人と幸せになればそれでいいの? お父さんが他の人と幸せそうにしているのを見て、お母さんがどう思うのか考えたことはないの?」

 泣きながら叫ぶ私を見て、お父さんが悲しそうに顔を歪めた。

 息が苦しい。胸が痛くて、喉が焼けるように熱くて、瞳からはとめどなく涙が溢れている。

 お父さんから再婚の話を聞いてから、ずっと言えずに心の底に溜まっていた淀んだ黒い感情が、ようやく出口を見つけたと渦を巻いて吐き出されていく。

「私はお父さんとは違う! 大切な人をそんな風に裏切ったり……裏切らせたりしない!」

 お父さんを責めながら、自分に対する戒めの言葉だった。

 そして、私にはできない選択をして幸せそうにしているお父さんと真央さんに対する嫉妬心の裏返しでもあった。

 私は、原口希美さんを裏切れない。気にしないなんてできない。きっと楓先輩といれば、いつもどこかで彼女のことが頭の隅にあり続ける。

 この先のふたりの時間を、本当は自分のものじゃなかったかもしれないと罪悪感を持ちながら過ごすなんて、私にはとても無理だ。

「出てって」
「菜々」
「お願い、出てって!」

 まるで子供の癇癪だ。

 だけど、今はなにも聞きたくない。私は再び布団に包まって、もう話したくないという拒絶の意志を示した。

 お父さんは今はなにを言っても無駄だと判断したのか、それ以上なにも言わず、静かに部屋を出ていった。

 きっと、とても困らせた。それ以上に、とても傷つけた。

 お母さんが亡くなって、ひとりで私を育ててくれたのに。いつだって私のことを思って、大切にしてくれていると、ちゃんと感じていたのに。

 ひどい言葉を投げつけた。楓先輩にも、お父さんにも……。

 部屋に誰もいなくなると、ベッドから下りて机の上に視線を泳がせた。

 写真に収まっている三人はみんな満面の笑みで、幸せな家族そのものだ。

 私は写真立てを手に取ると、胸に抱きしめ、しゃがみ込んだ。

 昨日あれだけ公園で泣いたというのに、まだぽろぽろと大粒の涙が零れてくる。私はそれを拭うこともしないで、自己嫌悪に押し潰されながらひたすらに泣いた。


 その後、いつの間にか泣き疲れて眠り、目が覚めると、部屋の時計は朝の五時半を指していた。まだ日が出ていないため、カーテンの外は薄暗い。

 窓を開けると、秋から冬に移り変わる澄んだ空気の匂いがする。泣き腫らした目に冷たい風が心地よく、私は大きく息を吸い込んだ。

 気が変わらないうちに送らないと、と自分に喝を入れて、私は机に置きっぱなしにしていたスマホの電源を入れた。すると、未読のメッセージを知らせる通知がいくつも届く。

【無事に家についた?】
【体調はどう? 電話してもいい?】

 何度も同じようなメッセージをくれていた。私を心配する楓先輩の顔や声音が思い浮かび、決意が鈍りそうになる。

 ぎゅっと目を閉じ、心を落ち着かせながら、ゆっくりと文字を打ち込んでいった。

【もう、ふたりきりでは会いません。今までありがとうございました。】

 これが、私が出した答え。

 やっぱり私は、亡くなった恋人から楓先輩を奪うなんてできない。

 私がお父さんにお母さんを思い続けてほしいと願うのなら、自分だけ楓先輩と幸せになりたいだなんて、都合がよすぎる。そんなの、許されるはずがない。

 画面には絵文字もスタンプもない、温度が感じられない無機質な挨拶の文が並んでいる。

 初めて先輩にメッセージを送った時だって絵文字やスタンプを使ったりして、もう少し砕けた雰囲気だったのに。

 あの時はメッセージの返事に対して、すぐに電話をくれたんだ。驚いたけれど、その温かい優しさに急速に惹かれていった。

 少しずつ仲良くなって、誰よりも距離が近くなったと思った今、こんな風に他人行儀なメッセージを送るなんて。

 ごめんなさい、楓先輩……。

 でも私は、相手が亡くなったからといって他の人に想いを移すことを許せそうにありません。

 ぎゅっと目を閉じて送信マークをタップした途端、瞳に溜まっていた涙がぽたりとひと粒スマホ画面に落ちた。

 これでいいんだ。ううん、こうしなくちゃいけないんだ。

 だって裏切りたくない。裏切らせたくない。そのためには、こうするしかないんだから。

 何度も自分に言い聞かせる。

 嗚咽を我慢しているせいで喉が熱くて痛い。唇を噛みしめて、泣き叫びたい衝動を必死に堪える。

 自分で決めたんだから、もう泣かない。

 私は乱雑に目元を拭うと、ゆっくりと明るくなる冬の空に誓った。